
恐怖を無くすにはと言うとちょっとニュアンスが違うのですが。
人間、いつかは死ぬのは当たり前です。
そうは言っても私は死ぬのが嫌で嫌で仕方ありません。
恐怖とか怖いとか言うのもありますが
この世に居なくなってしまうと考えると、いてもたってもいられないと言うか
片想いの相手を想ってどうしようもなく胸が苦しくなるような
状況が違いますが、そんな感じになってしまいます。
もともと諦めが悪く往生際が悪い性格です。
やり残した事だらけの後悔だらけなので
今死んだら、あれも出来ないこれも出来ないのオンパレードです。
絶対成仏できないような気もします。
自殺の事件や話題は昔からありますが
生まれてからこの何十年も一度も死にたいと思った事がありません。
それどころか、映画やドラマを観ていて殺されたりしてしまうシーンなどでは
自分だったらどんな卑怯な手を使ってでも生き延びるのに!と常に思ってしまいます。
そうこうしているうちに自分も人生の折り返し地点。
でも一向に人間はいつかは死ぬと言う事に腹をくくれません。
それは今の自分に満足してないとか充実してないからなのでしょうか?
臆病者だからでしょうか?
開き直ると言う言い方はちょっと違いますが
どうしたら人間はいつか死ぬんだと開き直れるのでしょうか?
生まれ変われるとか言い聞かせても
今の環境と永遠にお別れと思うとどうしょうもなくなってしまいます。
80歳90歳位になれば悟りを開けるのでしょうか?
A 回答 (29件中1~10件)
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No.29
- 回答日時:
死とは何でしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。
そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。
赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。
では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。
この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。
私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。
例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。
テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。
もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。
同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。
この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。
ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。
科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。
私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。
死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
「不生不滅不垢不浄不増不減」です。死んだとしても、気が付くと貴方は、母の胸に抱かれているでしょう。
貴方は、何度でも生まれ変わります。そう考えれば、死ぬことを恐れず今の生を行ききることが出来ます。
この回答への補足
ふと逆の立場から見た場合を考えたのですが
親や知人が亡くなった時などは
そういう考えで納得いくのですが
もし自分の子供とかが死んでしまったら
とてもそんな考えにはなれずに
悲しみにくれると思います。
それはどうなんでしょうか?
奥が深いと言うか、何となくわかるような、、、難しいですね!
単純にもっとドライに考えればいいと言う事でしょうか。。。
人それぞれですが、よくいわれる事で
失恋した時に女はすぐに立ち直るけど、
男はいつまでも引きずるみたいな。
ちょっとそれに似てませんか??
理屈ではわかっているけどいつまでも吹っ切れないタイプ。
私は特にそんなタイプですから。
またじっくり読ませていただきます。
ありがとうございました!
No.27
- 回答日時:
No.17, 22, 24,26です
「生まれてからこの何十年も一度も死にたいと思った事がありません」
と明記されておられるのに、No.26では、失礼しました。
No.26は、タイトルと一部回答をみて短絡的に捉える方を想定して、どうしても書いておきたかったことになります。
ただ、まったく無関係かといえば、そういうわけではありません。
いや、大いに関連していると思っています。
書いていることを一言で言えば
「この私の命は、孤立しているわけではなく、生まれる前も、また、死んだ後も、全体の内部にあって、全体と共に変化していくもの」
ということを述べており、「死後の有無に関らず」そういった死生観の正当性を書き綴っております。
したがって、下記のような「死後の虚無」に対する恐怖すら、あるいみ軽減ないし消失するであろうと思っております。
>>> No.23 お礼欄
そうそう!それなんですよ。
それと言うかそれもなんです。
何ですかね、それは。
もしかしたら私の質問の恐怖と言うのも
そういう意味合いなのかもしれません。
今まで色々言ってましたが、その説明しようがない事なんです。
<<<
おっしゃっておられるのは
「死」によって、「このわたし」が消失することで、永遠にもたらされる「空虚」・「無」という感覚
のことだと思います。
そうして、その感覚すら永遠に実感することのない「空虚」・「無」。。。
「何かを行うことができる」という世界から、完全に沈黙の「虚無」の世界へ。。。
そういった感覚なのでしょう。。。
しかしながら、
「この私の命は、孤立しているわけではなく、生まれる前も、また、死んだ後も、全体の内部にあって、全体と共に変化していくもの」
として捉えることができるならば、完全に意識主体というものが消失して「空虚・無」になったように思われるとしても、それは消失ではなく「全体へと帰っていく変化」として捉えるべきものであり、万物の中に溶け込んでいくという捉え方も可能になるでしょう。
生き残った人々が、死んでしまった人が「お墓」や「位牌」におられると思ったり、「吹き渡る風」や「たなびく雲」や「降り積もる雪の結晶」の中におられると思ったりするとき、(たとえ一つの人格的存在として存続していなかったとしても、)「その思い」と繋がり合っている「全体」の中には、確実に含まれているのです。
そうして、あなたが発した言葉や、あなたが行った行動のうち、「継承していくべきもの」を人々が見出したならば、あなたの思いの一部は、その継承の内部で生き残っていくことでしょう。。。
リチャード・ドーキンスの「ミーム」といった遺伝子類似概念を想定するまでも無く、あなた自身の人生が、「死」という乗り越えることのできない境界を越えて、人々の心の中に行き続けることのできるような人生を歩むべきなのではないでしょうか?
No.26
- 回答日時:
No.17, 22, 24です。
ひとつ、大事なことを言い忘れていました。
死というものについて、恐怖心があるのは当然のことです。
もし仮に、そういった感覚を消失させることができたなら、自殺可能だと思う方がおられるかもしれませんので、一つだけ、言い忘れていたことを書いておききます。質問者様への直接の回答になっていないかもしれませんが、このQ&Aを見られる方を想定して書いておきます。
以下、長文失礼。。。
1.自殺というのは、衝動的な情動で生じることも稀にはあるだろうが、結果的には、自分自身の知的な思考が、そういった思考を含む自分自身を否定する行為である。
はたして、「わたし・こころ・魂」の、ほんの一時の、ほんの一部である「知的思索」が、時間の流れとともに存在する「わたし・こころ・魂」を全面的に否定することが可能なのであろうか?
2.「自身のおかれている環境から、自身を切り離したい(逃げたい)」という場合には、周囲(全体)から自身を切り離そうとすることで、自殺を考えるかもしれない。
はたして、「死」は、「わたし・こころ・魂」を、周囲(全体)から切り離すことが可能なのであろうか?
過去に私自身が書いたブログから引用し、私の考えを最後にまとめておきます。
>>> 脳を知りたいという欲望と不老不死の欲望と。。。 http://jinen.exblog.jp/6226762
もし、仮に、「このわたし」を移植し続けることで、永遠に存続させることができるとする。「このわたし」の体は、脳を含めてすべて失われ、まったく別の体・脳に移植されたとする。そのときに、「このわたし」は、それまでの「このわたし」と同じなのだろうか?
もし、仮に、「このわたし」に終止符を打つことができたとする。「このわたし」は、体・脳を残して、永遠によみがえることができなくなったとする。そのときに、「このわたし」を存続させてきた体・脳は、「このわたし」には、もはや何のかかわりもなくなったものなのだろうか?
両者ともに、同じことを述べ立てている。
脳や体は、「このわたし」を成り立たせるための手段にしか過ぎず、使い捨てが可能であり、取替え可能な物質に過ぎない。「このわたし」が最終的に絶対優位なのであって、脳や体は、「このわたし」の欲望のためには、どのように扱われても、文句は言わないし、言えないのだ。
と。。。
それが、如何に「非道徳的」で「非倫理的」かという議論以前に、考えるべきことがある。
本当に、「このわたし」は、他から切り離すことが可能なのだろうか?
<<<
>>> 総体と知的切断面と私と。。。http://jinen.exblog.jp/2996859
「この」わたしを突き詰めようとするときに、私と総体との境界問題が発生することは以前の記述にて示した。
では、「この」わたしとして「認識」している「もの」は一体何なのであろうか。。。?
私が私を私として認識するとき、時間の流れと記憶との問題が取りざたされうる。すなわち、「自己同一性」である。
この問題は、過去にも記述しているが、知的限界問題(知的切断面問題)として捉えた場合のゼノンのパラドックス問題に直結していると考える。
「この」わたしが、それを考えているこの一瞬にあると思ってしまうのは、まさに総体から私を切り離しうるという知的切断面そのものであり、切り出された断面に張り付いた私を眺めているに過ぎない。
では、眺めているのは誰か?
それこそが「総体から切り離し不可能な私」であろう。。。
すなわち、逆説的に言えば、「総体」とは、空間的にも時間的にも切断されうるものであるがゆえ、時空間を含み、相互関連しうる、ありとあらゆる「全て」である。
なおかつ、眺めている主体は、知的切断面(境界)にて周囲から区分可能な存在でもあるわけである。
<<<
「わたし・こころ・魂」という概念を考えるとき、その境界はどこにあるのだろうか?
そのことを考える、一瞬の凍りついた時間においての、皮膚表面内部にあると考えるべきなのだろうか?
時間軸に対して「一瞬」として切り離すことのできる切断面は存在しうるのだろうか?
空間的・時間的に切り離す(切断する)ことが可能だと思うのは、実のところ、脳内での知的な幻想・想像の産物でしかない。
最低限でも「この・わたし・こころ・魂」が「この・わたし・こころ・魂」足りうるのは、そういった思索を成立せしめている時間の流れと、思索を成立させるだけの神経回路の空間的な繋がりが必要である。
もっと言えば、生きとし生けるもの全体、いや、生命体・非生命体に関らず、「全て」とのかかわりの中に生きているのであり、永遠の過去から永遠の未来への「時間の流れ」の中に生きているのである。
「この・わたし・こころ・魂」の空間的な境界概念は、体を人工臓器に置き換えていくことを想像すると分かるように、交換可能な部品として物質を捉えた場合、どんどん縮小して消え去りかねない。
しかしながら、「この・わたし・こころ・魂」は、まさに「いま・ここ」に「全体・時間の流れ」と切り離されない「全体の一部」として「生きている」。このことは、他のどんなものとも「交換不可能」である。「あなた」と「このわたし」とは交換不可能なのである。
そういった「交換不可能性」に立脚して考えるなら、体を「この人工臓器」に置き換えたとたん、その人工臓器を含めて「交換不可能な、このわたし」という概念として捉えることができる。
「この」めがねや「この」入れ歯、「この」杖や「この」靴、「この」服や「この」家、「この」家族や「この」社会。。。一見、交換可能な物事に思えるだろうけれど、「この」私との関連性を「完全に」切り離さない限り、交換不可能な「この」私の一部として捉えることも可能だろう。そう考えるなら、「この・わたし・こころ・魂」の境界概念は、宇宙全体へと、どんどん拡大していくことも可能なわけである。
「死」がそういった「全て」とか「時間の流れ」から「この・わたし・こころ・魂」を切り離すと考えたとしても、切り離されたと思い込んでいる「この・わたし・こころ・魂」は、「全体」の一部として姿・形を変えて変化しているにすぎない。(知的・幻想的に)切り離された(と思い込んでいる)世界に飛んでいくのなら、その世界すら「全体」の一部でしかないであろう。
死後があろうとなかろうと、自身の思索は人々の思索に影響を与え、自身の体は、全体の中で組みかえられて変化していく。。。
「いつかは死んでしまう」のであれば、死に急ぐ必要など、どこにあるのであろうか?
絶望的に思えることも、運命・宿命に思えることも、それは、その時・その場所での自身の知的・幻想的な一時的な思考が自身の脳裏に映し出した囚われにしか過ぎない。
時が流れ続ける限り、絶望的に思えることにもわずかな希望の光があるかもしれないし、運命・宿命だと思い込んだとしても、見方によっては偶然・奇跡なのかもしれない。
どうせ死ぬのであれば、命の尽きるまで、自身が最善だと思えるような生き様で生き抜くことこそが、本当の意味での死へと向き合う姿勢なのではないだろうか?
No.25
- 回答日時:
>末期がんのように全身激痛で
死んでしまいたいぐらいの時が来ない事を祈ります。
これは、死以上に良く分からないことです。
死んだ人に「死ぬとき激痛がありましたか」という質問をして
答えを得られた人はいないはずです。
No.24
- 回答日時:
No.17 & 22です
失礼しました。
お子様達のことを随分と深く思っておられるようでしたので、少し勘違いをしたようです。
No.22でのリンク先は、不親切だと思われますので、下記に部分的に引用しつつ、私の思うところをまとめておきます。
>>> No.22 お礼欄
急に出てきたわけではなく
子供の頃からずっと思っていたのですが
それにしてもこの歳になっても
いまだにそんな事思ってるのかと
いつまでたっても未熟な自分を思って質問しました。
<<<
いいえ、日本という国は、自分自身の力で、他者や社会という構造と両立しながら哲学的・宗教的な思索を行うことは、非常に困難なところだといえるでしょう。
どうして「新興宗教」というものが勃興し、「オウム真理教事件」なるものが発生したのか?
本質的な問いかけに対しては、表面的な答えしか帰ってこないという現状があります。
そもそも、「自身の死」ないし「死後」というものについては、「生きている」内には想像するしか手だてがないというところに問題があります。
ひとつだけ知りうることが可能であり、確実なことと言えば、「他者の死後のこの世の変化」です。
それだけでは不安・不満だという方々が、既存の宗教へと自身を型に押し込めようとするのかも知れません。
巷には、様々な宗教があふれかえっていますが、本質的には自身で考えて自身で答えを見つけるべきものであって、決して「ありがたく教えていただく」ようなものではないということです。
もし、それらから得るものがあったとするなら、それは、「死」や「死後」というものを自分自身で考えるためのきっかけや、ヒントになることでしょう。
ここでのご質問と寄せられた回答とがまさにそういった関係になったことと思います。
私自身にとってのそれは、聖書や岩波文庫「ブッダの言葉(スッタニパータ)」中村 元訳です。
中でも「八つの詩句の章」は、「どのように考えるべきか?」といった思索について語られていて、まさに宗教ではなく哲学の部分になります。(以下、抜粋になります)
>>>岩波文庫「ブッダの言葉(スッタニパータ)」中村 元訳
779 思いを熟知して、流れを渡れ。聖者は所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。
(中略)
799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
(中略)
802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
(中略)
885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか? かれは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか? あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?
886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
(中略)
891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。
892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。
893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
<<<
この言葉をどのように捉えるかは、それぞれでしょう。
一つの捉え方を下記に記しておきます。
>>>柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版
仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。それはカースト社会とそれに対応する思想に対して、ラディカルに対決する実践的な思想であった。仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。しかし、それ(仏教)が何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてきた。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によって支持されたのは、当然である。
<<<
ブッダが「死後」について黙したという話は有名です。
それをどう捉えるかは諸説あるでしょうが、私自身の経験からすれば「どうすれば死や死後に囚われずに、積極的に生きていけるのか」といった視点で読み取るなら、「ブッダの言葉」がすんなりと読み取れたということです。
お役に立てたなら、幸いです。
お礼が大変遅くなりました!
質問後急に忙しくなり、読んでる時間が無くなっていました。
いつもはそんな忙しい時に限って、もしここで事故って死んでしまったらとか
いろいろ頭をよぎるのですが
お陰様で仕事に集中でき、余計な心配をしないですみました。
ありがとうございました。
No.23
- 回答日時:
私は自分の死自体は案外簡単に受け入れることができるんです(押し付けるつもりは全くないのですが、私には信仰があるので)
自分が死ぬこと自体ではなく
自分が死んだ後も、地球がなくなった後も時間がずっと続くのだと思うと
本当にどうにもならない恐怖を感じてしまいます。
このことはまだまだ、克服出来ていません。
それともまた違う感覚ですか?
そうそう!それなんですよ。
それと言うかそれもなんです。
何ですかね、それは。
もしかしたら私の質問の恐怖と言うのも
そういう意味合いなのかもしれません。
今まで色々言ってましたが、その説明しようがない事なんです。
わかっていただきありがとうございます。
No.22
- 回答日時:
No.17です。
追記しておきます。
>>>No.17 お礼欄
でも無理やりあらためて考えると
うまく説明できませんが
死後の世界の恐怖感と言うのではなく
例えば明日の朝突然死で、
もし死んでしまったらと、、、
やはり一番思うのは、息子や娘にもっと接していれば良かったとか。
と言っていつ死ぬかわからない事を思って
のべつ幕なしに接することなどおかしい話で
とか色々考えます。
<<<
一期一会ですね。。。
「いま・ここ」という時空の瞬間瞬間を生きている。。。
おそらく、まだ幼い子供さん達なのでしょうね。
子供達の年齢にもよりますが、子供達はどんどん変わっていきます。
接しようとすればするほど、反発して離れていく時期もあるでしょう。。。
ある一定の年齢に成長した後(自我が芽生えた後、第一次反抗期ぐらい)、子供達自身の主体性は、子供達の幸せにも関わってきます。
ある程度、距離を置きつつ、見守っていく必要性も生じてくるでしょう。
もし、不治の病に冒されて、余命1年とか言われたりしたら、思い残すことの無いように子供達にべったりとくっついていたいと思われますか?
それとも、自身が死んだ後、一人でも生きていけるように、突然豹変して、子供達を「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」がごとくに扱いますか?
どちらも両極端だと思いませんか?
日々、懸命に生き、ある程度の距離を置きつつ、時間のある限り子供達に接しているかぎり、それ以上のことはできないということです。
一日一日、一瞬一瞬を大切に生きて行くことの方が、死を考えるよりも大切なはずです。
「明日、死ぬかもしれない」ということを、幾度思われましたか?
その度に、「あぁ、今日も生きていた」とか、「あぁ、今日も生きている」とか
幾度思われましたか?
死んでしまったら「生きていて良かった」と思うこともできなくなります。
常に死のことを思って子供達に接していると、子供達にも悪い影響がでるかもしれません。
「死ぬかもしれない」ということを考えるより、「今日も生きていてよかった」と日々、感謝して生きていく方がいいとは思いませんか?
以下のリンクは、もし、どうしても死後のことが気になってしまった場合に、参考にしてください。
そうでなければ、見る必要はありません。
「いま・ここ」に生きているということに感謝し、家族の絆を深めつつ、日々を過ごして下さい。
http://okwave.jp/qa/q6031948_2.html
http://jinen.exblog.jp/6263712/
ほんとお恥ずかしい話ですが
子供たちはとっくに成人していて
私ももう50過ぎです。
とてもこの年齢の人間が思うような悩みではないことで
友人などに聞ける事ではありません。
「何バカな事いってんだ」
で終わりそうです。
子供達とはもう一緒に暮しておらず
私も含めてそれぞれみんな多忙に日々をおくっています。
そんな中、今回の質問のような悩みが
急に出てきたわけではなく
子供の頃からずっと思っていたのですが
それにしてもこの歳になっても
いまだにそんな事思ってるのかと
いつまでたっても未熟な自分を思って質問しました。
でもたったこんな一つの質問で
すごく精神的に解決できたというか
解決できそうです。
いい歳してわからない事だらけですが
この質問コーナーでは、皆さんが親身になって教えてくれるので
ほんとありがたいです。
ありがとうございました。
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