グッドデザイン賞を受賞したウォーターサーバー >>

マートンが提唱した考えの1つにアノミー論というのがあります。「アノミー」とは無規範を意味する言葉であり、要するに社会が混乱している状態を指します。こいつが発生する理由としてマートンが考えた理論です。
マートンが着目したのは「文化的目標」と「制度的手段」のズレ、つまり「文化的目標」を達成するための「制度的手段」の不均等でした。
そしてそのマートンは同調、革新、儀礼主義など5種類に分類しましたが、これらに当てはめることができる最近の例(ドラッグやアルコール中毒者のように)でアノミー論とマートンの定義したセオリーにどう関連するのか詳しく教えてほしいです。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

> これらに当てはめることができる最近の例(ドラッグやアルコール中毒者のように)



マートンの理論に当てはめて考えようとするなら、それらの〈逸脱行動〉の背後に、どのような〈文化的目標〉があるかを考察することが不可欠です。

その社会がいったいどのような〈目標〉を掲げているか。
マートンが着目したのは「アメリカン・ドリーム」でした。

一方で、「成功せよ」という強固な〈文化的目標〉が共同体の成員の上にのしかかる。人びとは、何とかして成功したい、成功しなければ生きていく意味がない、と思ってしまう。

にもかかわらず、成功するための合法的手段である〈制度的手段〉は限られている。いくら勤勉に働こうが、人種や生まれ落ちた社会的階級によって、合法的手段によって成功を手にすることができるのは、限られた人びとなんです。
その他の多数の人びとは、〈文化的目標〉と、自分の手には入らない〈制度的手段〉との板挟みにあって、緊張にさらされることになる。
そこで、なんとか適応しようとした行動類型が質問者氏も上げておられる5つの類型です。
アノミーというのは、単に「無規範」を意味するのではなく、そうした板挟みのなかで、〈制度的手段〉ではない方法によって目標を達成しようとする人(適応様式の類型の中ではII型に属するような人)を統制できないような、社会規範の弱体化した状態のことです。

質問者氏が考察しようとしているのは、現代の日本のことですよね?
だとしたら、マートンが準拠枠とした「アメリカン・ドリーム」を、単純に援用することができるでしょうか? たとえば、60年代のカウンター・カルチャーの中でのドラッグの常用は、「成功せよ」という〈文化的目標〉に対し、マートンのいう「V 反抗」というかたちで、既存の〈文化的目標〉をひっくり返してみせたわけです。現代のドラッグの中に、「V.」の意味はどこまで相当するでしょうか。

単純にそれを置き換えるのではなく、薬物やアルコールの嗜癖を〈逸脱行動〉としてとらえるなら、いったいどのような「文化的目標」が背景にあるのかを見極めなければなりませんし、それをしようと思ったら、まずそうした〈逸脱行動〉を取る人びとが属する〈準拠集団〉を措定しなければならないだろうと思います。

たとえば、痩せたい、という思いが高じて、ドラッグに手を出してしまう人がいたとします。なぜそんなことをするのか。その人が所属する準拠集団(自分が一体化し、そうありたいという思いを作り上げている共同体)には、「美しくあること=細身であることが、みんなから受け入れられ、愛される条件である」という〈文化的目標〉があるのかもしれません。

もともとスタイルが良く、適度な運動と適度な食事の節制という〈制度的手段〉でそのスタイルを維持できている人は、「I 同調」という類型に属するでしょう。
けれども、「細身であること」を〈文化的目標〉として受け入れつつも、「受け入れられ、愛される」という目的が達せられないために、〈制度的手段〉を逸脱して健康を損なうほどの過剰なダイエット、さらには薬物にまで手を出すような人は、「II 革新」に当てはまる。
もはや美しくありたい、とも、受け入れられ愛されたいとも思ってはいないけれど、何となく習慣的に過度の飲食を控え、決まり決まった粗食を続けているような人は「III 儀礼主義」に、
となると、「IV 逃避主義」の人は、受け入れられたい、愛されたい、という思いを遮断し、放埒な飲食を繰り返す人の像が浮かんできます。
「どうして美しさ=体重の少なさなんだ、どうして外見の美しさに磨きをかけることが、受け入れられたり愛されたりすることの条件でなくてはならないんだ」と疑問を持ち、新しい価値観や目標、そのための手段を考える人は「V 反抗」の類型に属するといえるでしょう。

このように類型化することで、「美しくあること=細身であることが、みんなから受け入れられ、愛される条件である」という〈文化的目標〉が、過度のダイエットや極端には薬物にまで手を出してしまう〈逸脱行動〉を生み出していることが見えてくるわけです。
    • good
    • 39

社会学の中でアノミー論と言えばまずドュルケムでは?

    • good
    • 6

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q生活保護における申請保護の原則について 500文字くらいでレポート作成しなくてはならないのですが…

生活保護における申請保護の原則について

500文字くらいでレポート作成しなくてはならないのですが…

何方か教えてください

Aベストアンサー

基準及び程度の原則
必要即応の原則
申請保護の原則
世帯単位の原則
ですね。
下記サイトが簡潔でわかりやすいと思います。
後半部を読めば500字にまとまるんじゃないですか。
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re3_index/3S/se_socialsecurity_principle.html

Q予言の自己成就

予言の自己成就はなぜそのような現象が見られるのだと思いますか?

また予言の自己成就の具体的な事例を教えてください

Aベストアンサー

心に思ったことを実現するためにイメージしたり口に出したりして行うアサーションというものもありますがこれと同じような現象ということと理解してよろしいでしょうか?(もし違っていたらごめんなさいm(__)m)認知心理学では目に見える世界、つまり人間が5感を使って認知する世界は目に見えない心にある思いの反映だということが分かっています。心にある思いが現実の世界に形として現れているということですね。それがポジティブなことでしたら成就するといいますが、それがネガティブな思いの場合には具現化された現実を目の当たりにした時にそれが自分の思いからだと認知することができずに私達は苦しんだりして悩んだりします。

自己成就するとき人間はその思いを100%信じてるときに起こるようです。その思いが疑いのないものであればあるほどそれははっきりと映画館のスクリーンとなって映し出され(成就する)ます。不安や迷いを少しでも持つと成就せずに不安を煽る出来事が逆に起こります。心の思いをネガフィルムに例えると、認知というプロジェクターによって現象がスクリーン(外の世界)に現れるという原理になります。成就することに対して自己の心に迷いがなく勇んでる状態でイメージできたり、また絶対の思いがありながらなかなか思うようにいかなくてあきらめかけた時に新しい道が開けたり閃いたりする事があるのですが、このとき迷いや不安が払しょくされて思いが再び絶対に変わり成就されることが多いようです。

一般的な事例としては次のようなものが挙げられます。

  ・受験や就職の面談などで自分が無知でなく得意であったり自信のある科目や仕事だった場合には自   分自身をその場面にイメージして融け入らせることができるため思い通りになることが多い。

  ・欲しいもの(恋人や車など)を自分が楽しく乗りまわしたり、恋人と一緒に居る姿をふとはっきり   思い描くことができるとき(無理にではなく楽にイメージできるとき)。

  ・青森の奇跡のリンゴの木村さんも長い年月をかけてようやく試行錯誤を繰り返しながら閃きやふと   心に入ってきたイメージに助けられて不可能を可能にされたお一人です。

心に思ったことを実現するためにイメージしたり口に出したりして行うアサーションというものもありますがこれと同じような現象ということと理解してよろしいでしょうか?(もし違っていたらごめんなさいm(__)m)認知心理学では目に見える世界、つまり人間が5感を使って認知する世界は目に見えない心にある思いの反映だということが分かっています。心にある思いが現実の世界に形として現れているということですね。それがポジティブなことでしたら成就するといいますが、それがネガティブな思いの場合には具現化...続きを読む

Qジェネラリスト・ソーシャルワークとジェネラル・ソーシャルワークの違い

こんにちは。
「ジェネリック・ソーシャルワーク」
「ジェネラリスト・ソーシャルワーク」
「ジェネラル・ソーシャルワーク」
これらにはどのような違いがあるのでしょうか?
「ジェネリック・ソーシャルワーク」が、どの分野でも共通の技術や原理、活動のことを指していて他とは全く違うというのは解るのですが、
「ジェネラリスト・ソーシャルワーク」と「ジェネラル・ソーシャルワーク」の違いがわかりません。この2つは同じ援助技術論なのですか?すみません、教えてください。

Aベストアンサー

こんにちは。
それぞれの単語は、非常に紛らわしいですよね(^^;)。
各概念は、以下のとおりです。


■ ジェネリック・ソーシャルワーク
1922年のミルフォード会議(調べてみて下さいね!)による概念。
社会福祉の各分野に共通する概念・知識・方法論・技法・社会資源体系を用いた個別援助技術。

<関連>スペシフィック・ソーシャルワーク
ジェネリックな要素(共通部分)を、『「広範囲に及ぶさまざまな場面」の中の特定の脈絡』に応じて、“特定的”に適用すること。


■ ジェネラリスト・ソーシャルワーク
『「人と環境の相互作用」に関わる広範な領域を構造的に理解して、多様な役割を担う』という立場の下に行なわれる個別援助技術。
社会福祉士による諸支援がこれにあたる。
クライアント(社会福祉の対象者)を単なる「個人」としてとらえるのみではなく、地域社会を構成する要素の1つとして再評価した上で地域社会による影響も考えてゆくとともに、地域社会に対しても働きかけてゆく。


■ ジェネラル・ソーシャルワーク
「統合された社会福祉援助方法論」による、コンサルタント的な立場で行なわれる個別援助技術。
具体的には、国・地方自治体の地域福祉政策と臨床実践とを総合的・統合的に結びつけるもの。
介護保険で新設された介護予防事業等がその典型例。

こんにちは。
それぞれの単語は、非常に紛らわしいですよね(^^;)。
各概念は、以下のとおりです。


■ ジェネリック・ソーシャルワーク
1922年のミルフォード会議(調べてみて下さいね!)による概念。
社会福祉の各分野に共通する概念・知識・方法論・技法・社会資源体系を用いた個別援助技術。

<関連>スペシフィック・ソーシャルワーク
ジェネリックな要素(共通部分)を、『「広範囲に及ぶさまざまな場面」の中の特定の脈絡』に応じて、“特定的”に適用すること。


■ ジェネラリスト・ソー...続きを読む

Q保険医療サービスと福祉サービスの意味について

保険医療サービスと福祉サービスの意味について
質問です。この用語の意味は各々どういう意味でしょうか。
これらについて詳しく説明できる方がいらっしゃいましたらご投稿お願いします。

Aベストアンサー

保「険」医療サービスではなく、保「健」医療サービスです。
以下のとおり、介護保険法第1条でも出てきますよね。

『この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり、入浴、排せつ、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する者等について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行うため、国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け、その行う保険給付等に関して必要な事項を定め、もって国民の保健医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする。』

ちなみに、介護保険法以外にも、実にさまざまな法令でこれらの単語(保健医療サービス、福祉サービス)が使われています。
たとえば、障害者自立支援法であったり、医療法であったり健康保険法であったり。
そこで、それぞれの法令で共通する概念を考える必要があります(法令でいちいち定めていないので)。

保健医療サービスは、治療・看護など、直接的に身体的に何かを施すサービスを言います。
また、疾病の予防のためのサービスも含みます。
たとえば、健康保険や国民健康保険で行なわれる公的医療保険による給付(治療・看護など)は、まさに保健医療サービスですよね。
また、生活習慣病を予防するために、いわゆるメタボリックシンドローム健診が行なわれていることはご存じかと思いますが、これも保健医療サービスの1つです。

これに対して、福祉サービスというのは、保健医療サービスを補うために行なわれるサービスです。
たとえば、移送(介護タクシーなど)や家事援助などのサービス(ホームヘルパーなど)がそうですし、治療や看護を必要とはしない施設サービス(たとえば、軽費老人ホームや障害者支援施設)もそうです。
生活支援、と言い替えても良いかもしれません。

いずれにしても、あまりむずかしく考え過ぎず、字であらわされたそのままを素直に受け取ってみたほうが良いかもしれません。

介護保険法では、上で書いたような概念をもとにして、それぞれ細かく給付の範囲が定められています。
たとえば、指定居宅サービスとか介護老人保健施設とか、指定介護予防サービスとか、そういう言葉が使われています。
ここで、それぞれのサービスを見ていって、そのサービスの中に医療行為(治療・看護など)が含まれていれば、そういうサービスを「保健医療サービス」だと解釈すればOKで、それ以外のものは「福祉サービス」として解釈できます。
 

保「険」医療サービスではなく、保「健」医療サービスです。
以下のとおり、介護保険法第1条でも出てきますよね。

『この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり、入浴、排せつ、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する者等について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行うため、国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設...続きを読む

Q社会福祉士に必要な能力、資質は?

現在社会福祉士の資格を取るために行動を起こすかどうか悩んでいます。社会福祉士のことを調べるにつれ、社会福祉士って?と悩んでしまいます。社会福祉士の意義、必要な能力、資質とは何でしょうか?教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

社会福祉士はあくまでも、「資格名」なので、社会福祉士の資格を基礎資格として、何の仕事をするか?ではないでしょうか?
ソーシャルワーカーになるための資質、などであれば、わかるのですが、社会福祉士の能力といってもただの資格ですと言う感じです。
教員免許に必要な能力って何ですか?と同じ感じになってしまいます・・・。
ソーシャルワーカーをするのであれば、社会福祉士は基礎資格として持っておく方が良いかとは思います。
ただ、社会福祉士を取得したからといってソーシャルワーカーになれるかどうかは、確率が低い問題だったり、介護士をしている人も多いので、何のために取得するのか?何をしたいのか?をよく考えてから取得に挑まれた方が良いかと思います・・・。
本当に、現実あまり重宝されているとは言いがたい資格なので・・・。
でも、社会福祉相談援助業務を行う上で基礎資格としては必要な資格だとは思います・・・。
現場は、資格より経験を優先するのが現状です・・・。

Qデュルケム『自殺論』について:その現代的意義と批判

日本における自殺者数は、4年連続で3万人を記録しました。この現象は、デュルケムの『自殺論』的な観点からどのように読み解けるでしょうか。また、それに対して、どのような処方箋をもたらしてくれるでしょうか。

デュルケムは、近代以降の社会における[個人]と[社会]の関係が危機的状態に陥っているために、"アノミー的自殺"が急増していると主張しています。つまり資本主義社会の急激な進展的変動が、かつて人々の欲求や生活指針を規制していた社会的な諸規範を根底から動揺させ、また人々に社会的諸規範を見失わせている。その結果、人々は止めどなく乾きがたい無規制な欲望に駆られ、自由と孤立、欲求の解放と挫折という不安定な状態の中におかれる。デュルケムの言う"アノミー的自殺"(および自己本位的自殺)は、現代の日本の自殺にも少なからず当てはまると思います。

そこで疑問です。だから個人を包摂するような新たな社会集団環境が必要だとし、デュルケムは結論として、[同業組合]を挙げています。しかし私は、社会的規範としての[道徳]の重要性をもっと前面に出してもよかったのではないかと感じました。じっさい、デュルケムの思想は道徳的色彩が強く、『自殺論』もそうでした。「道徳は自殺を抑止する」、くらいに明確に論じられてもよかったのではないか?自殺と道徳の明確な接点は何だったのか?

質問をまとめます。

(1)現代病としての日本の自殺は、『自殺論』的な観点からどのように読み解けるか。どのような処方箋をもたらしてくれるか。解釈や、ご意見をお聞かせください。

(2)『自殺論』における、道徳と自殺の関係について、明確な接点は何か(あるのか)。例えば「道徳が自殺を抑止する」という観点は可能か。

(3)最後にくっつけたようで申し訳ありませんが、デュルケム批判論者、および関連の著作(特に『自殺論』についての批判)をご存知でしたら、ご案内いただけませんか。

日本における自殺者数は、4年連続で3万人を記録しました。この現象は、デュルケムの『自殺論』的な観点からどのように読み解けるでしょうか。また、それに対して、どのような処方箋をもたらしてくれるでしょうか。

デュルケムは、近代以降の社会における[個人]と[社会]の関係が危機的状態に陥っているために、"アノミー的自殺"が急増していると主張しています。つまり資本主義社会の急激な進展的変動が、かつて人々の欲求や生活指針を規制していた社会的な諸規範を根底から動揺させ、また人々に社会的諸規範を...続きを読む

Aベストアンサー

1)について。
現代の日本の自殺は、デュルケームの類型でいうと「自己本位型」が多いのではないかという印象を持っています。自己本位型の自殺は、要は献身や信頼対象の喪失に動機づけられるわけですが、これは現代社会に顕著な特徴だからです。

社会の凝集性は極めて低下していますが、同時に個人の価値観が多様を極め、またそれを是とすべきというリベラルな観念も強くあって、社会の凝集力はどこに求めたら良いのか見当もつかない時代です。
本来人間はある共同幻想の中でしか生きられないものですから、共同体による意識・無意識の紐帯が失われると、それは結果的に自己像の輪郭さえ不明確にしてしまいます。デュルケームは『社会分業論』の中で「人は社会的存在となることでその自由が実現される」という意味のことを書いていますが、現在の社会は全くその逆に、個人の自由を唱導するあまりに個人の真の自由の獲得を困難にしてしまっています。

ここから生まれる「存在の軽さ」の意識は、色々な現象や制度によって強化されていきます。それは例えば、社会の高度化や制度化の反面として感じられる「何をやっても変わらない」というどんよりとした閉塞感であったり、医療が高度化するなど死が身近でなくなった社会ゆえの「生命感の希薄化」だったり、相対思考の行く果ての「本当のものなど何もありはしない」という虚無的な感覚であったりします。私には色々な諸条件が、デュルケームの言う自己本位型の自殺を後押しする方向に働いているように思えます。

同じ背景があっても、自殺に向かう「意味への渇き」のようなエネルギーがうまく解消されるようなシステムが社会に準備されていればいいのでしょうが、清潔志向と暴力排除が行き着くところまで行ったように思える現代社会ではそれも難しいのでしょう。

もう1点、アノミーと関連づけて現代社会について感じることがあります。
自殺は、それを全うする場合であれ回避する場合であれ、往々にして「責任」というものと関連を持ちます。この「責任」に関する社会の考え方が、近年寛容性を失っているように私には思えます。これが自殺を後押ししていはしないかと感じるのです。

何かが行われる背後には必ず「責任」が伴っているもので、事故や不測の事態には必ずこれが表面化するのですが、そこに暗黙に前提されているのは「制御」という観念です。本来、制御不可能なものに対しては責任の発生しようがないわけで、例えば雨が降ろうと雪が降ろうとそれは自然の営為であって「仕方がない」こととして社会的に許容されることです。

しかし現代社会は最終的に「責任」が出てこないと物事が収束しないという、一種の硬直性を見せています。これは、社会の中に暗黙のうちに「全てが制御可能であるべき」という感覚が共有されていることを意味するでしょう。この世の多くの事柄は本質的に制御できないことであって、もともと責任が発生しないはずであるにも関わらず、です。

この不寛容性を人間の支配欲の裏返しと見れば、これも欲望を煽る一種のアノミーと論じることができるのではないでしょうか。「誰かが責任を取るべきだ」という一見正論として語られる言説は、実は社会に蔓延する制御願望や支配欲そのものが「規範」の装いをまとうことで無節操な悪循環をもたらします。あたかも「規範」の如く語られるものが、実は根本的に欲望を昂進させてしまっているのです。

実際のところ、正確に言えばアノミーとは単に規範が後退した状態ではなくて「欲望の神格化」ですから、欲望を抑えることがむしろ良くないことである、という「規範」が蔓延した状態と言うことができます。だからこそ諦めることが難しいわけです。このように欲望が言わば覆面をして内面化された状態こそがデュルケームの言うアノミーの本来の意味に近いのでしょう。

「なるようになるものだ」「自然に任せよう」といった類の、この世の硬直性に対するアンチテーゼも散発的に説かれるのですが、個人の内面宗教としての処世術の域を出ず、無意識下の二重道徳は温存されています。

アノミーは普通「無限性の病」で豊かさの中でもたらされる焦燥感です。これを拡大して、逃げ場のない閉じられたシステムとしてペシミスティックに分析するとボードリヤールの消費社会論になりますが、実は「この世の制御可能性」についての幻想が増長されていく一種のアノミー状態はなかなか息苦しいものです。この生きづらさが蔓延し自殺は増加せざるを得ない状況にあると見ることができはしないか、という気がします。

2)について。
確かに『自殺論』でも道徳が重視されているのはご指摘の通りだと思いますし、やはりその重要性はあると言えると思います。実際、デュルケームが同業組合とか職業集団を重視するのは、それが個人に対して優位に立つ存在であって、そこから「それに従わなければならない」という道徳力が生まれるからに他なりません。同じ物への愛着を共有している、という社会性が各々の個人において発揮される時、自然にそれは集団の規範や道徳となって表れるのだ、という理解です。

自殺は、従って、この集合的な力が欠如してアノミーが生み出されたところにもたらされる、というのがデュルケームの主張でしょう。

ただ、100年後の現代から言えば、そのままで道徳を持ち込むことは無理なはなしだと思えます。解体されてしまったのは道徳そのものの規範的価値ではなくて、道徳を規範として成立させる場の存在だからです。それを権力といっても慣習といっても良いのですが、単に道徳が廃れたのではなくて、道徳を社会に位置づける基盤が既に解体されてしまっているのです。

『自殺論』では自己本位:集団本位という対概念が提示され、両者のバランスが意識されていたのに対して、アノミーの対概念ははっきりとしていません。
私見になりますが、宿命主義、つまり煽りたてるアノミーに対して現状を肯定し受け入れる方向に働く言説が分析されていれば、デュルケームの分析は今日的な意義が一層増していたように思えます。言わば「鎮め」の働きは、道徳のように集団に依存することなく機能するものではないか、と感じるからです。
(しかし強制される諦めとしての宿命主義は、やはり進歩主義的なデュルケームには許せなかったのかも知れません)

※以上、私見です。長さの割に内容がなければ…どうぞご容赦ください

1)について。
現代の日本の自殺は、デュルケームの類型でいうと「自己本位型」が多いのではないかという印象を持っています。自己本位型の自殺は、要は献身や信頼対象の喪失に動機づけられるわけですが、これは現代社会に顕著な特徴だからです。

社会の凝集性は極めて低下していますが、同時に個人の価値観が多様を極め、またそれを是とすべきというリベラルな観念も強くあって、社会の凝集力はどこに求めたら良いのか見当もつかない時代です。
本来人間はある共同幻想の中でしか生きられないものですから...続きを読む

Qデュルケームの「社会分業論」って何?

明日、デュルケームの「社会分業論」についての試験があります。語句説明や、カッコに用語をいえれないといけなかったりするそうで、試験時間は20分ほどです。さて、ポイントはなんなのか、さっぱりわかりません。どこを重点的に理解していけばいいでしょうか?

Aベストアンサー

有斐閣の『社会学小辞典』から。

社会的分業
技術的分業や経済的分業に対置される概念。これについて説いた学者は多いが、とくにデュルケムは分業が能率や経済効率を増進させるという側面よりも、複数の個人のあいだに道徳的連帯を生み出す事実に注目して、社会的分業を体系的に明らかにした。そして、この分業の発達が社会を機械的連帯から有機的連帯へと、連帯の性質そのものの変化を伴って進むものと見た。また、とくに有機的連帯が正常な道徳的連帯を生まない場合の分業を無規制的分業、拘束的分業などの異常形態と見て、現代社会を批判した(以下略)。

キーワード:機械的連帯、有機的連帯

大学のテストはすくなくとも講義に出席していたことを前提として行なわれますので、マルクスと対置させる場合、スミスと対置させる場合もあります。その場合はご愁傷様です。
社会学史のテストなのでしょうが、講義に出ていなければ当然点数は低くて然るべきと考えましょう。点数が低くても、すべてはbinbouさんの自己責任です。

関連概念:マッキーヴァーの「コミュニティ」と「アソシエーション」など。
『社会学の基礎知識』(有斐閣)で復習しましょう。

訳書は田原音和(たわら・おとより)訳『社会分業論』(青木書店)。
井伊玄太郎訳(講談社学術文庫)はお勧めできません。

有斐閣の『社会学小辞典』から。

社会的分業
技術的分業や経済的分業に対置される概念。これについて説いた学者は多いが、とくにデュルケムは分業が能率や経済効率を増進させるという側面よりも、複数の個人のあいだに道徳的連帯を生み出す事実に注目して、社会的分業を体系的に明らかにした。そして、この分業の発達が社会を機械的連帯から有機的連帯へと、連帯の性質そのものの変化を伴って進むものと見た。また、とくに有機的連帯が正常な道徳的連帯を生まない場合の分業を無規制的分業、拘束的分業などの...続きを読む

Q心理学の用語なのか、社会学の用語なのか分かりません…

「退行副次文化」について教えてください!!
緊急なんで、よろしくお願いします!

Aベストアンサー

まったくの門外漢なのですが、調べてみました。

まず「副次文化」とは「サブカルチャー」のことを指します。
社会の一部の人々を担い手とする独特な文化のことです。
若者を中心とする副次文化、都市の副次文化、暴力団の副次文化、上流の文化、専門職内の副次文化などがあります。

また犯罪社会学でよく用いられるのに「非行副次文化」という語があります。
社会の決まりに背く行為を行う、あるいはその潜在的可能性をもつ、「反社会的」青少年たちの独自の文化を指します。

「退行副次文化」という語を私は目にしたことがないので「自信なし」なのですが、
「退行」とは心理学でいう、困難な状況に遭遇したときの、精神発達上より未熟で幼稚な段階の行動を示す状態を指すのだと思います。
たとえば不登校や引きこもり、強迫観念やリストカットなど、
先に申し上げた「反社会的(社会に反抗する)」ではなく、
「非社会的(社会的生活から逃避する)」な青少年の独自の文化を
「退行副次文化」というのではないかしら。

Qバージェスの同心円モデルについて

バージェスの同心円モデルによると、都市の内側にいくほど低級住宅が立地し外側ほど高級住宅が立地する、ということですが、これは何故でしょうか?

普通に考えると都心の方が地価が高くて郊外の方が安いのかと思うのですが・・・。

Aベストアンサー

 #4の補足です。欧米の都市では、土地と建物は一体で取引されるので、地価だけ取り出して、都心に近いから高いとは言い切れません。
 土地・建物を合わせた不動産価格は、立地するコミュニティのブランドで決まります。質問者の言う普通の考えは、すぐに更地になる日本の都市に当てはまるでしょうが、欧米都市に妥当するかどうか疑問です。
 バージェスは、市街地が拡大しつつあるシカゴで観察された現象のモデル化を試みたので、地価は原因ではなく結果です。つまり、遷移地帯では不良住宅が増え、そのため地価が下落するのです。これは、現在でもインナーシティ問題として深刻な課題になっています。

参考URL:http://www.weblio.jp/content/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング