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皇室は南北朝時代に途絶えたと聞きますが、系図を見ると北も南も後嵯峨天皇の血筋ですよね?
途絶えたとは言うのは間違いですか?

A 回答 (3件)

断絶の意味の理解次第だね



断絶という言葉の意味を精査しないと厳格な回答は出来ない


基本的には、”断絶していない”と断言するのは厳しい

してないという人は、南北朝の政治構造を理解できていない人であって、歴史的には支持されない


後円融天皇 と 後小松天皇 の間が断絶という見解がそれなりに有名。

後小松天皇は、後円融天皇の第1皇子等ではなく、足利義満の子


ちなみに、後小松天皇による断絶論は、南北朝統一によって指摘できる話なので、断絶という考えも

もっと先の話をすれば、この後に発足する「後南朝」が後小松天皇の系譜ではなかったりw

なお、「後南朝」の話はタブーらしいののだが・・・・



ちなみに、両統迭立の原初である「後嵯峨天皇の血筋」だが、
血筋だけで”断絶ではない”という考えもある
いわゆる男系継承という話ね

断絶とかはどうでも良い立場としては、虚像に虚像を塗り重ねるのは醜態としか思えないわけだが

まぁ、後南朝も神器もタブーらしいのでなんとも

この話は思想的でアフォらしいが、有識者会議として、何故か憲法学者が登場するのが意味不明だったり
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この回答へのお礼

天皇の皇子では無かったんですね。驚きました。

お礼日時:2012/09/10 22:40

「皇室は南北朝時代に途絶えたと聞きますが」は間違いですが、「皇室は南北朝時代に途絶えるという話・説」はありました。


それは、百王説と言って、天皇は百代にして終わるとする当時流布していた話です。この話は古くからあったのですが、野馬台詩に関連し、南北朝期に天皇の歴代が百になるので、終わるとの説です。当時天皇の歴代には弘文天皇・仲恭天皇・南朝の天皇は入れられず、神功皇后や北朝の天皇が入るなど、現在の皇統譜とは異同がありますが、ちょうど南北朝の頃に天皇が百代に達すること、南北朝期の動乱状況、称光天皇が病弱で後継ぎがなかった(又従兄弟の伏見宮彦仁王が後花園天皇として即位)ことと相まって、強く意識されたのではないでしょうか。一種の終末論ですから、社会不安が強い時期には流布しやすい性質があります。
また、歴史学者の今谷明氏は、『室町の王権―足利義満の王権簒奪計画』には、百王説・野馬台詩を利用して王権を簒奪しようとしたとし、百王説・野馬台詩にも当然記述していますので、興味を惹かれたらお読みになるとよいと思います。
また、後醍醐天皇の行動も百王説の影響だとの考え方もあります。

百王説(終末論の中に記述)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E7%8E%8B% …
野馬台詩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E9%A6%AC% …

以上、参考まで。
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途絶えたという話は聞いたことがありません。

間違いでしょう。
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