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明治時代都会などには西洋の文化が入ってきて江戸時代と比べて生活が急変したと思いますが田舎などでは江戸時代と比べてどれぐらい生活状況が変化したのですか?

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A 回答 (4件)

 明治時代は変化の激しい時代なので、大まかにひとくくりすることは難しいと思います。



 しかし、農村生活に関する限り、基本的には江戸時代の延長だといえそうです。たとえば、明治初期と末期における全就業人口に占める農業の割合は72%から65%に、GDPの割合は44%から37%へと低下しましたが、急激な変化というほどのことでもなさそうです。

 なによりも、農家戸数が550万戸のままほとんど動いていないことが、安定した農村生活の何よりの証拠だと思われます。変わらなかった第一の理由は、日本固有の「家」制度にあると考えられます。近代的な均等相続制度では、農地の細分化、流動化は避けられず、小農経営の持続性は失われがちです。

 日本の場合、経営耕地面積は小規模ですが、長男が農地を相続する制度のため、土地だけでなく、親世代まで蓄積された資本や技術、あるいは経営知識までそっくりそのまま次世代に継承されることになります。その代り、二三男はそれなりの教育を受け、都市に産業労働者として流出する仕組みです。

 これに対し東アジア、さらにヨーロッパでは一般に分割相続が普通で、世代交代ごとに土地財産は分割され、経営ノウハウも分散、断絶することになります。

 第2に、名望家や在地地主を頂点とするムラ共同体の役割があります。農家の間に強い信頼と互助の関係が結ばれ、生産や生活の基盤を形成していました。この関係は、良好な地主小作関係の維持発展にも役立ったようです。小作人というと、強欲な地主のもとで搾取されるというイメージがありますが、実は自作農と小作農のあいだに平均耕地面積や収穫量の違いはなく、小作だから貧しい、収奪されているというイメージは統計的には裏付けがありません。

 しかし、明治後期(日露戦争以後)になると、事態は大きく変わります。まず』産業革命が進行して、都市農村格差が拡大します。さらに巨額の軍事費を賄うために大増税が行われました。このため、農村の窮乏化が顕著になり、小作争議も頻発するおうになります。

 明治45年に刊行された長塚節の長編小説『土』の序文で、夏目漱石は「土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同様に憐れな百姓の生活」の「最も獣類に接近した部分を精細に直叙したもの」を一度は胸の底の抱きしめるよう勧めています。しかし、これが明治時代の農民生活のすべてだと受け取ることは間違いではないでしょうか。
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農村部には西洋の文化は入ってきません。

地租改正によって年貢が地租に変わり、納税が厳しくなっただけです。江戸時代は村単位に年貢が課されていたので村の成員が農作業を助け合っていました。脱落者を出すと他の村民の年貢が重くなってしまうからです。自分だけが米が収穫できても、他の村民がそうでなければ年貢を納められない。それが地租改正で納税が個人単位になると誰もが自分だけが収穫できれば良いと考えるようになってしまった。弱肉強食の争いになりました。また米の価格変動リスクも農民が負ったので豊作で米の価格が下がると、より多くの収穫量を納税に充てる必要が生まれました。個人の能力の違いによって貧富の格差が増大することになったのです。自立能力の足りない農民は、納税資金に不足し土地を担保に高利貸しから借金するようになり、果ては土地を借金の方に奪われ小作人に転落してしまいました。明治時代は都市部と農村部の格差が広がり、個人の格差が拡大した時代でもありました。一握りの地主が土地を増やして、何千人もの小作人を使う大地主になり、土地を失った農民は小作人になった。都市部でも個人の格差が広がり、成功者は鉄道成金、政商、銀行家、高級官僚にのし上がったが、下は帝都三大貧民窟で蠢く細民となった。文明開化・殖産興業・富国強兵というのは一部だけの話です。教科書が教えているのは大嘘です。農村部は実際には「おしん」だったのです。

一つ例を挙げましょう。都市部では明治の初めから街灯がともり、電線が引かれた。東京電力の前身が東京電燈であったように当時の電力はもっぱら電燈に使われた。しかし電化したのは都市部だけです。人口密度の小さい農村部では電力会社が進出しなくて何も江戸時代と変わらなかったのです。農村部が電化したのは昭和になってからです。電力会社が電線を引いてくれないなら自分たちで引こうと村人たちが組合を作って電柱を建てたのです。

明治になって都会では道路が拡張されて、舗装されることになった。しかし農村ではせいぜい砂利道になっただけ。

公共インフラではなはだしい地域格差があったのです。
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ほとんど変わってません 西洋文化の影響はほぼ都市部のみでした

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田舎の百姓のせがれです。


現代の人から見たら、ほとんど暮らしぶりは変わっていないでしょう。
大きく変わったのは、戦後の高度成長時代に入って、兼業農家が増えたころからです。
それ以前は、茅葺き屋根の大きな家で玄関の土間で馬を飼っていましたし、居間に囲炉裏があって、そこで煮炊きもしていました。
祖父、祖母、父、母、子供達に小姑という大家族が普通ですし、明治20年代生まれの祖父、祖母は江戸時代のころと変わらない和服で通していました。
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Q江戸時代の農村は貧しかったのか?

 昔から疑問に思っていたのですが、江戸の時代の農村が貧しかったと言うのは明治政府の洗脳教育ではないかと思います。
 地方に行けば何百年も続いている農家がありますが今の私の家よりも遙かに広い家です。敷地も何百坪なんて家もたくさんあります。
 しかし、武家屋敷に行ってみるとそれに比べると慎ましい家です。
 下っ端の武士の家なんて2DK以下の住まいしかありません。
 また、どこの農村でも酒醸造の技術も伝えられていると言うことは米を食料でなく酒にまわすだけの余裕があったということではないでしょうか?
 飢饉や高い年貢率に苦しんでいるのであれば祭りなどする余裕はないはずですがどこの農村にも江戸時代からの祭りは残っています。
 確かに一部の農村では飢饉に苦しんだり高い年貢に耐えきれず一揆を起こした地方も記録には残っていると思いますが、それを明治政府が拡大解釈して教育したのでは無いかと思います。
 皆さんの周りの農村で江戸時代の暮らしが分かるような記録はありませんか?

Aベストアンサー

幕末に日本は開国し、多くの外国人が日本を訪れましたが、彼らの多くが目にして驚いたのは、日本の農民が本当に幸せそうに暮らしている姿でした。


参考:『J-Net21』-『悠久散歩』-『労働者なら日本!と言わしめた江戸期の農村』
 http://j-net21.smrj.go.jp/watch/sanpo/entry/20080929.html

「1850年の時点で住む場所を選ばなくてはならないとすれば、私が裕福ならイギリスに、労働者階級なら日本に住みたいと思う」(アメリカの学者スーザン・B・ハンレー)

「彼ら(日本の農民)は皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。これがおそらく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であろうかどうか、疑わしくなる」(アメリカ駐日総領事ハリス)

「この封建制によって日本人は、われわれの考えている意味では自由でないにしても、多くの幸せを享受することができた。西洋諸国の誇るいっさいの自由と文明をもってしても、同じくらい長い年月にわたってこの幸せを確保することはできなかった。国家の繁栄・独立・戦争からの自由・生活の技術における物質的な進歩――これらはすべて、日本人が国民として所有し、そして何世代にもわたって受け継いできたものだ」(イギリス駐日公使オールコック)


戦後に育った私たちが戦前の日本のことを悪いイメージで教えられたように、明治政府は江戸幕府のことを事実以上に悪いイメージで国民に伝えたのは、おそらく事実だと思います。

幕末に日本は開国し、多くの外国人が日本を訪れましたが、彼らの多くが目にして驚いたのは、日本の農民が本当に幸せそうに暮らしている姿でした。


参考:『J-Net21』-『悠久散歩』-『労働者なら日本!と言わしめた江戸期の農村』
 http://j-net21.smrj.go.jp/watch/sanpo/entry/20080929.html

「1850年の時点で住む場所を選ばなくてはならないとすれば、私が裕福ならイギリスに、労働者階級なら日本に住みたいと思う」(アメリカの学者スーザン・B・ハンレー)

「彼ら(日本の農民)は皆よ...続きを読む

Q明治時代の服装について

明治時代の服装についてなのですが、私のイメージでは江戸時代までは男性も女性も和服(男性=袴、女性=着物)なのですが、明治時代に入ると西洋化も進んで、男性はズボン、女性は袴?みたいな感じでして。
このイメージは合っているのでしょうか?
この場合、男性で袴を穿いていたり、女性で着物を着ているというものはなかったのでしょうか。
あと、男女の学生の服装も教えていただけると嬉しいです。
お願いします。

Aベストアンサー

今の「着物」のイメージは、明治から昭和初期にかけての物です。
女性は、江戸時代には、今の着物で一般的な太鼓結びもしていませんし、帯締めもしていません。訪問着と呼ばれるものができたのが明治時代、つけ下げや名古屋帯など、現在主流の着物のほとんどは、もっと後です。
男性も「着流し」と言って袴をつけない着方がほとんどです。本当のフォーマル、大名が江戸城にご機嫌伺いなどの場合は、裾を引きずる長い袴ですしね。

明治時代には、庶民は着物。
軍人や華族の一部エリートが洋服。しかし、この時代の洋服はいわばフォーマルであって、日常の衣服は着物だったようです。
女性の袴姿というのは、明治30年頃に、女学校から始まったそうです。着物でいすに座ると、どうしても裾が乱れます。裾を乱さないために袴を使う。つまり、この時代には女学校に行くような特権階級のお嬢様でも、日常は着物だったわけです。この時代の女性の洋服というのは、すなわちドレスのことだったんですね。

大正になって、庶民にも洋服を着る人が出てきます。モボとかモガとか言われる人たちですね。大正末期から昭和初期です。
もっとも、この時代でもまだまだ着物が主流です。特に女性は。今「アンティーク着物」と呼ばれている物は、大正から昭和の物ですから。
男性は、外では背広、家では着物、になっていたようです。
大正12年に関東大震災が起こり、東京では、これをきっかけに洋装化が進みます。というのも、この後、建てられたアパート類に、洋室が取り入れられはじめたためです。明治の女学生同様、着物で椅子は、裾さばきが面倒ですから、必然的に洋装化が進みます。
と言っても、まだまだ着物も残っていますけれど。

昭和初期も、まだまだ着物が主流ですが、戦争が度重なり、絹や木綿を確保することが難しくなっていきます。必然的に布が少なくて済む洋服へシフトしていきます。
もちろん、動きやすいというのもあったでしょう。

明治から昭和初期の服装を、イメージしたければ、マンガがお勧めです。もちろん、本当に研究されるなら、その元になった専門書にあたるべきですが。
「着物」とか「洋服」と言っても、その時代のスタイルが今の物とはかなり違います。あまり、ご存じでない方が具体的なイメージを持つには、文章だけでは難しいでしょう。
一番よく言われるのは、「サザエさん」昭和初期の庶民の服装です。20台前半のサザエさんや子どもたちは洋服、お母さんのフネさんは家でも外出でも着物、お父さんは家では着物で外出は洋服。
私がお勧めなのは、市川ジュン氏の「陽の末裔」「天の黒 地の紅 海の青」「新編懐古的洋食事情」ですね。特に最後の作品はイメージがしやすいです。

今の「着物」のイメージは、明治から昭和初期にかけての物です。
女性は、江戸時代には、今の着物で一般的な太鼓結びもしていませんし、帯締めもしていません。訪問着と呼ばれるものができたのが明治時代、つけ下げや名古屋帯など、現在主流の着物のほとんどは、もっと後です。
男性も「着流し」と言って袴をつけない着方がほとんどです。本当のフォーマル、大名が江戸城にご機嫌伺いなどの場合は、裾を引きずる長い袴ですしね。

明治時代には、庶民は着物。
軍人や華族の一部エリートが洋服。しかし、この時代の...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q江戸時代と明治維新時代

すみませんですけど、昨日の質問がいい加減です。
江戸時代と明治維新時代の区別が、例えば、江戸時代の将軍さまが社会の最高権力者、明治維新時代社会の最高権力者が天皇さまです。それから、まだ何か重要な区別ありますか?
どうも

Aベストアンサー

根本的に違います
身分制度、士農工商/四民平等
和魂洋才
富国強兵
廃藩置県
納税方法

明治もどこまでを指すかによって違います。

小学校6年生や中学校の歴史の教科書にいろいろ書いていると思います。

Q女性の地位(江戸から明治維新)についての質問です。

江戸時代から明治時代にかけて、明治維新の中で女性の地位の変化があったと思いますが、実際、女性の地位は明治維新により向上したのでしょうか?それともさらに低くなったのでしょうか??

Aベストアンサー

 基本的に江戸時代は武士では朱子学が主流的な倫理ですから、男尊女卑的な傾向が強いと考えるべきでしょう。
 しかし、公家・庶民の倫理感では朱子学が支配的とは言えず、女性の地位が低かったという論証の証拠はありません。
 これは封建社会における一般的傾向ですが、支配階級では独特の倫理感から男尊女卑が見られますが、庶民は性差を確認することができません。 それは、封建主義は女性労働力への依存度が以前として高いことにあり、同時に生産力として頭数(人口)が重要な経済因子として考えられることが指摘できます。つまり、女性は子供を産む存在であり、育てる存在である限りは、生産力の逓増のためには、女性を無視することができないという部分があります。
 世界史的に指摘すれば、近世の政治革命であるフランス革命では、制限的ながらも女性人権が確認されますし、男性上位の制度にしても、女性が顕著に劣位とされたとは言えないでしょう。
 
 さて、質問の回答ですが、残念ながら女性の相対的地位は下がったというべきでしょう。
 それは、明治維新が既存の朱子学的倫理による支配を目指したことからも明白でしょう。
 教育勅語は朱子学的見地が強く、男尊女卑的見地が多々見られます。そして、家長制度の普及によって女性の地位は下がります。
同時に皇権でも、明治22年皇位を男系男子に限定し、女性皇族の即位を否定した旧皇室典範が制定されるなど明治維新は男尊女卑を加速化させる傾向にあります。
 ただし、革命期を除けば世界的に近代通史は男尊女卑の傾向にあります。
 男女同権という倫理感が支配的になったのは、第二次世界大戦後の話と言えます。

 ちなみに、歴史で食べている人間として言うならば、女性の影響力は非常に大きいことは言うまでもありません。
 その根本は女性だけが子供を残せるという特異性につきます。女性が多産である家は家名を残し、繁栄させる重要な要件です。
 むしろ、女性権力が局所的に強い歴史ほど、影響力が強いと言えるでしょう。
 ハプスブルグなどは女性なしには到底語れない歴史です。ナポレオンも女性なしには語れませんし、伊藤博文も同じことです。

 ちなみに、庶民と武士・公家と分けて考えることをお薦めします。

 基本的に江戸時代は武士では朱子学が主流的な倫理ですから、男尊女卑的な傾向が強いと考えるべきでしょう。
 しかし、公家・庶民の倫理感では朱子学が支配的とは言えず、女性の地位が低かったという論証の証拠はありません。
 これは封建社会における一般的傾向ですが、支配階級では独特の倫理感から男尊女卑が見られますが、庶民は性差を確認することができません。 それは、封建主義は女性労働力への依存度が以前として高いことにあり、同時に生産力として頭数(人口)が重要な経済因子として考えられる...続きを読む

Q明治時代の婚姻について

先日75歳の女性の方に伺った話ですが、
彼女の祖母は13歳で結婚したのだそうです。

彼女は「明治だから」といっていましたが、
いくらなんでも早すぎると思い、帰ってインターネットで調べたところ、
明治の民法上結婚できる年齢は15歳でした。

「田舎だから」とも言っていましたが、
田舎では13歳で結婚するのは普通だったのでしょうか?

江戸時代の時代劇で見かける「奉公」みたいなものかなぁと想像してみてますが、
明治でもそういうのあったりしますか?

また、明治時代では読み書きできないのが普通なのですか?
明治でも義務教育はあったようですが、それでも学校に行かないものだったでしょうか?

Aベストアンサー

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性(父親ないし、それに準ずる立場の年長男子)の考えのみで決定されるのが普通だったので。やはり当人の正確な年齢とかどうでも良かったのです。

確か明治30年頃に富国強兵(=徴兵制)と言う事で、特に平民男子の正確な肉体的年齢を国家として管理する必要が初めて出て来たので。慌てて日本でも全国的に「子供が生まれたら正確な誕生日を役所に届けるべし」とのお達しが出され、それ以降から日本人に「誕生日」という考え方が一般的になったのです。

昔から日本人がむしろ記録に残して拘ったのは、生まれた日ではなくて、むしろ「死んだ日」です。お墓とかにも誕生日では無く、何年何月に死んだと書く習慣が昔からありました。昔は乳幼児死亡率が以上に高かったので、いちいち子供の誕生日を記録しても無駄になる事が多かったからかもしれません?一応、身分の高い貴族や皇室の方々、大名クラスの武家だと誕生日を記録に残し現代風に祝う習慣がある地域もあった様です。

また非常に重要な事ですが。江戸時代までは仮に本人が正確な誕生日を記憶していたとしても、今の現代人が言う年齢とは違います。何故なら昔の日本では「歳が増えるのは誕生日の時では無く、生まれて何回目の正月かで計算した」からです。さらにややこしい事に、昔は“生まれた瞬間が1歳”と計算するのが通例なので。冬場、例えば12月31日に生まれた赤ん坊は、翌日の元旦には2歳になる計算でした。

…と言う訳なので、そのご婦人の御祖母様が13歳と言うのなら、それ以上の意味はありません。まあ明治20年代以前に生まれたのなら十中八九、実際の年齢よりは1つ~2つは若い可能性があります(つまり小学6年生で嫁に行った!?)。


>読み書き
江戸時代は「読み書きソロバン」と言うくらいに子弟教育に熱心だったのですが。明治時代になって重工業化は進んだのですが、それまではその地域自治体に当たる藩主大名たちが行っていた子弟教育システムが維新によって崩壊してしまったので。東京などの一部を除けば、逆に教育はほぼ壊滅状態でした。

また個人家庭で勉強させていた場合でも、それまでの学問の筆頭であった朱子学などの儒教の教典を暗記する勉強が。明治になって一転、時代遅れのアジア学問という扱いになったため。富裕層でも子弟教育のあり方に混乱が生じていました。

で、教育に関するお触れは割と早い時期に出されるのですが。それは国民皆教育ではなく、あくまでも国家エリートを養成するための教育令だったので。長らく「義務教育」に関して放って置かれました。その後、やはり前述の徴兵制に関連して、戦場で使い捨てる兵卒候補としての幼年学校が必要と考えられ。え~っと確か明治22年?に「小学校令」というのが発布されます。ここから日本に於ける近代義務教育が始まる訳です。

一応、発足当時から男女共学だったのですが。特に農村部では女子に教育は必要無いという考え方が支配的だったので、例文の御祖母様の様に学校に通わせて貰えなかった女子児童も当時は多く居ました。またいわゆる戦後になるまでは、日本の近代女子教育には高等教育が無かったため(大学とかは男子校だった)。将来性が無い女子教育に金を掛けるのは無駄という考え方も一般的でした(そんな暇があったら針仕事の一つでも覚えさせろ!~的な)。

後、これも非常に重要な点ですが。明治33年(1900年)までは日本では、義務教育と言いつつ“有料サービス”だったので、授業料を払えないorケチな親だった場合は当然ながら男女を問わず学校には通わせて貰えませんでした。当時は毎月25銭~50銭を徴収すべしと法令にありました。昔の貨幣価値を現代に換算するのは非常に難しいですが。大体、月々5000円~1万円程度って感覚でしょうか?

逆に1900年以降は小学校が全国無料になったので、当時の資料でも就学率が90%に達した喜ばしい~と書かれています。

あともう1つ、これまた現代人には理解し難い点がありまして。当時の義務教育制度では修学年齢というモノが決めてなかった!つまり今みたいに満6歳になったら小学校へ~的な制度では無くて。あくまでもそれぞれの御家庭の事情に合わせて、好きな年齢の時に入学すれば良かったのです(一応、6歳~14歳の範囲で)。

なのでピカピカの1年生でも、同じクラスの同級生には6歳の子もいれば、妙にガタイの良い10歳の子も居るのが普通でした。後、今と違って義務教育中でも“落第”がありましたので。もう今年で3回目の1年生だよ!~みたいな落ちこぼれも居ました。

で、落第があると言う事はその逆、つまり“飛び級”もある訳でして。優秀な生徒は小学校を最短で4年で卒業する事が可能で(つまり10歳で中学へ進学可能)。逆に落第ばかりの劣等生だと、単位を取れなくても14歳になった時点で強制的に義務教育は終了させられました。

P.S.
いわゆる「ゆとり教育」という言葉が囁かれて久しいですが。明治時代にも言葉こそ無けれど、同じ様に教育の中身に関しては現代以上に行ったり来たりの試行錯誤だった様で。日露戦争当時には「最近の兵士はちゃんとした教育を内地で受けていないのか!?簡単な足し算引き算さえ出来ない馬鹿が多くて困っている!」と言う様な主旨の報告書が、現場の指揮官から送られています(笑)。

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性...続きを読む

Q江戸時代の交通手段

江戸時代の交通手段についてしらべています。
どんなものでもいいので、教えて下さい。
できたら、何故馬車が明治時代まで日本になかったのかも教えて下さい。
お願いします!

Aベストアンサー

牛車があるのに,なぜ馬に曳かせなかったのでしょうか.まず牛のようにゆっくりでないと,車の輪が持たなかったのかもしれませんね.馬のように走るのは乗り心地が悪かったことも一因でしょうか.大八車があったと思いますが,それを応用することもなかったデすね.それと人力車の発明は日本ですが、馬に曳かせなかったことも不思議です.日本は山や川の凹凸の多い国で、山では上がりはいいけれど,下がりの調節とか、戦略で橋をつけさせることをしなかったこと.また道が曲折したり、狭いことで、馬車が発達しなかったことではないでしょう.むしろ北前船や,菱垣船,千石船などが、利用が多かったのではないでしょうか.か..それと農家の民には,旅行できる余裕--農地に縛り付けられて-ができなかった.生かす殺さずという武士の考えで,江戸の末期には,それが緩んで.伊勢校参りとか盛んになったが,金がかかること,追いはぎに遭うとか,合ったそうです.

Q在日韓国人などの人はなぜ祖国へ帰らないのですか?

よく在日韓国人の人は日本人と交わりたがらないくせに権利ばかり主張しているように思います、そんな彼らをみて「そんなにいやだったらさっさと国へ帰れよ!!文句いいながら日本にいすわるな!!ただ日本の経済力目当てだけにいるだけではないのか??」と正直思ってしまいます、帰化などもするようなきもないようですし。 戦後すぐには朝鮮半島が荒れていてかえれなかったという話なら十分わかるんですが最近は韓国も成長してきていっぱい職などもみつかりそうな気がするんですが・・・・。

ちなみに私は韓国や中国に対する戦前の行いはいくら建前を日本がつくろうが侵略だったことにはかわりないと思っています、が、戦後50年日本は謝り続けたにもかかわらず今現在も謝罪謝罪謝罪、日本は鬼だといいつづける彼らが正直好きではないです(中国の勝手な軍事行動や韓国の竹島の占拠などの態度もかんがみて)

荒れそうな質問ですがなるべく荒れないような真摯なご解答があると嬉しいです。

Aベストアンサー

質問:在日韓国・朝鮮人はなぜ帰化したくないの?
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=996194

質問:在日朝鮮人を帰国させるように政府の方針を変えることは出来ないのでしょうか?
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=397244

Q明治の偉人たちと妾(めかけ)

明治時代の小説や、明治時代を背景にした映画の中で、政治家や金持ちが妾をかこっている話がよく出て来ます。

これは当時としては一般的な風潮で、政治家や名士として特に恥ずべきことではなかったのでしょうか?それとも一応は恥ずべきことだったんでしょうか?

森鴎外や漱石は妾を持ってなかったように思いますが・・・
清廉潔白のイメージの強い乃木希典などはどうですか?
金や権力を持った人たちの何割くらいが妾をかこったんですか?

その他の偉人たちについても知りたいです。

この質問に女性の人権を傷つける意図はありません。
そうではなく、我々の先達が余りにも女性の人権を踏みにじっている事実を知りたいのです。

Aベストアンサー

妾を持つというのは、
「政治家・高級官僚(戦前は、高級官僚がそのまま政治家に横滑りする例が多く、選挙を経ない政治家が普通にいました)」
「財界人と言われるようなクラスの経済人」
「大地主」
のような、庶民からはかけ離れた所得や資産を持つ人たちなら、「まあ、許される」行為だったように思います。

当時、「妾を持つこと」が、社会からどのように見られていたかというと、明治時代に、黒岩涙香というジャーナリストが「万朝報」という、今の普通の新聞と週刊誌と夕刊紙を合わせたような新聞を発行しており、その新聞の目玉連載が「名士の妾について報道する」というものでした。

この記事を喜んで読む人がいて新聞の部数が伸び、自分の妾について報道された名士からは反発があったようです。「まあ、許される」行為だった、と書いたのは、明治時代でも、
「**氏は妾A子、B子、C子の三人がいる」
などと報道されると、それなりにダメージがあったらしいからです。

明治時代の前半くらい、藩閥全盛の時代は、高級官僚や高級軍人(明治維新の功績でその地位に就いたような人)は、堂々と妾を持っていました。

例えば、明治初期に熊本市で起きた「神風連の乱」で、政府軍司令官の少将は、妾と寝ている所を襲われて死にましたが、妾は負傷しましたが命に別状なく、東京に「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」という電報を打ったことで歴史に知られています。他にも、妾がいたことが明らかな高級官僚を知っています。

官僚と言うより政治家である伊藤博文や山県有朋は、当たり前のように妾を持っていました。

こういう風潮は、「大学を卒業して、高等文官試験に受かって官僚になる」「陸軍士官学校や海軍兵学校を卒業して将校になる」というルートを辿った人が官庁や軍の幹部になる大正くらいには薄れたようで、そういった官僚や軍人で、「妾を持っていたことが現代まで知られている」という例はちょっと知りません。

その代わり、「お金を持っている人」や「偉い人」は、結婚していても、今よりずっと軽い気持ちで妻でない人とセックスしていました。

現在では、芸者というのは「伝統芸能の継承者」のような感じになっておりますが、戦前は、貧しい親が娘を「芸妓・酌婦・娼妓」に売る(正確には、前借り金と引き替えに、芸妓・酌婦・娼妓の仕事を雇い主が指せることを了解する)ことは合法でした。

「芸妓・酌婦・娼妓」という3つの仕事は、実体としては大きく違うものではなく、芸者であっても、借金を返すためには売春をしなければならず、契約書には「借金返済のため、雇い主からの指示があれば、醜業(売春のこと)を嫌がらずにします」という条項がありました。

戦前の芸者という職業の実体については、実際に芸者として辛酸をなめた女性が戦後に書いた本

芸者―苦闘の半生涯 (平凡社ライブラリー)
増田 小夜 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4582761224/

本を読むと、戦前の社会的地位のある人について「馴染みの芸者がいる」という記述をよく見ます。これは「馴染みの芸者と、定期的にセックスをしていた」ことを指します。

この「馴染みの芸者」の借金を肩代わりしてやって(身請けする、落籍する、と言いました)、どこかに住まわせて生活費を与えたり、小料理屋を開かせたりして「自分専用の芸者」にすることが「妾を持つ」ということになりました。

「銀座のクラブのホステスを、マンションに住まわせる」とか「馴染みのホステスがクラブを辞めて自分の店を持つ時にパトロンになる」ということは現在でも存在すると思いますが、同じことです

===

今で言うと、ソフトバンクの孫社長、ユニクロの柳井社長、逮捕される前の堀江貴文氏のような人は、戦前の常識であれば「妾を持っても、まあ、許される」でしょう。

「ヒルズ族」などと呼ばれる人が、著名な芸能人と結婚したり、真偽は知りませんが「モデルのタマゴとしょっちゅう合コンをしている」などと伝えられるのは、同じような話です。それほど批判的に報道されることはないと思います。

一方、戦前は、日本経済の規模が今より小さかったのと、「創業者=経営者=社長」である場合が今より多かったので、「一流大学を出て一流企業に入り、出世競争を勝ち抜いて60くらいで社長に上り詰める」という事例は今より少なかったと思いますが、上場企業の社長で、「銀座のクラブのホステスを愛人にしている」ような事例はそれなりに存在すると思いますよ。

ですが、「ヒルズ族」のような富豪の女性関係には寛容な(報道価値を見出さない)マスコミも、

「有名企業の経営者」
「高級官僚」
「国会議員、知事、市長」
のような人の女性関係についてなら、報道価値を見出すでしょう。

昭和が平成に変わる頃ですが、首相だった宇野宗佑氏は、「月30万円で愛人を囲っている」と報道されたのがきっかけで辞職に追い込まれました。

妾を持つというのは、
「政治家・高級官僚(戦前は、高級官僚がそのまま政治家に横滑りする例が多く、選挙を経ない政治家が普通にいました)」
「財界人と言われるようなクラスの経済人」
「大地主」
のような、庶民からはかけ離れた所得や資産を持つ人たちなら、「まあ、許される」行為だったように思います。

当時、「妾を持つこと」が、社会からどのように見られていたかというと、明治時代に、黒岩涙香というジャーナリストが「万朝報」という、今の普通の新聞と週刊誌と夕刊紙を合わせたような新聞を発行し...続きを読む

Qオランダが鎖国中にも貿易ができた理由

鎖国中には清とオランダが出島に限って貿易を許されましたが(他に朝鮮通信使や琉球慶賀使などはありましたが…)オランダ船来航が禁止されなかったのはキリスト教布教に熱心ではなかったということを聞いたことがありますがこの理解で正しいでしょうか?

Aベストアンサー

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこんなにオイシイ話はないので、表から裏からアレコレと頑張っていたようです。
(以前NHKで見た歴史番組によれば、そもそも、ポルトガルとスペインは布教目的で来日するから追い出したほうがいい、と進言したのもオランダだった、という話です)

幕府としては、キリスト教に関係の無い国となら貿易しても構わなかったのですが、それぞれいろんな事情があって、「皆そろって長崎で交易」というわけではありませんでした。
逆に言えば、長崎を通して交易していなかったからと言って、日本と交流が全く無かったわけではない、ということです。
以下、知っている限りで並べておきます。

●朝鮮王国●琉球王国●アイヌ諸族●
>>>>>それぞれ対馬藩、薩摩藩、松前藩が専門に担当。
これらの藩は、江戸時代以前からの交易相手であり、財政も交易の上りで成り立っていました。
他藩に横入りされると死活問題なので、江戸幕府成立前後は硬軟様々な手段を講じ、「対XX交易のエキスパート」という地位を獲得しました。

これら3つについては、幕府直轄の長崎を通していなかった、というだけで、日本全体で見た場合は“交易があった”と言えます。
(通信使や慶賀使は国家同士の公式の使節のやりとり。
 商売はまた別に、各藩の港でやってます)

●明→清帝国●
正式の国交は無し。民間の貿易商のみ往来。

●東南アジア諸国●
実は江戸前期には数回来た記録が残っています。
しかし、遠い上に、対日交易を独占したいオランダが妨害工作することもあって、いつの間にか来なくなってしまいました。

東南アジア諸国の物産はオランダや清の民間商人が持ってきてくれるので、日本人は別に困ることもなく放っておいたと思われます。

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこん...続きを読む


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