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僕の記憶が曖昧なのですが、ウイキによれば以下

「霧の中で両軍は2時間ほど対峙し続けていた。やがて、霧も薄くなってきた頃、福島隊の横を井伊直政と松平忠吉の小隊が通り抜けようとしていた。家康から先鋒を任されたはずの福島正則の家臣可児吉長が呼び止めて詰問するが、「物見」と称して福島隊の前方へ張り出した。直政の小隊は、西軍の主力である宇喜多隊に向けて発砲、対する宇喜多隊も直ちに応射。そこに、井伊隊の抜け駆けに激怒した福島隊が宇喜多隊に突撃。ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。」

ということですが、本来は秀忠が務めるべき先陣が、秀忠の遅参により、松平忠吉に先陣のお鉢がまわってきた。といった話を聞いたことがありますが、はたしてどんな感じだったのでしょうか?

A 回答 (7件)

>はたしてどんな感じだったのでしょうか?



ウイキの情報は、色んな情報が混ざっていますよね。
誰もが納得する情報があれば、おや?と思う情報もあります。
まぁ、歴史というものは「勝者・時の権力者の歴史」に過ぎません。

元関が原町長だった、藤井治冴左衛門さんが集めた資料集によれば若干異なりますね。
1.会津征伐に向かっていた家康軍が、清洲城に引き返す時の軍「東海道軍」先鋒は福島正則。
2.関が原での陣形。
2-1.左翼縦隊。第一陣福島正則。第二陣藤堂高虎・京極高知。第三陣・・・。
2-2.右翼縦隊。第一陣黒田長政・竹中重門。第二陣細川忠興・加藤嘉明・田中吉政。
2-3.中堅。松平忠吉・井伊直正。
2-4.後続部隊。筒井定次・生駒一正・金森長近・織田有楽・・・。
2-5.家康本隊。軍監本田忠勝。
実は、福島正則が関が原でも先陣との記述はありません。
左右両縦隊は、全て豊臣恩顧の武将ですよね。中堅と本隊が、徳川軍の親衛隊です。

関が原の戦いが始まったのは、午前8時頃。
本田忠勝は、使者を中堅の忠吉・直正の陣に馳せて「すみやかに開戦すべし」と命令を伝えています。
つまり、先陣です。
直正は、忠吉に「前進を進言」して正面に陣取る宇喜田陣営攻撃に向かいます。
決して、福島隊を出し抜いた訳ではありません。家康の命令に従っただけです。
家康としては、忠吉の戦果を期待したのでしようかね?
が、享年27歳で死亡。2ヵ月後には、兄の秀康も死去。漁夫の利を得たのは、秀忠?との説もあります。
この説では、忠吉・秀康は「秀忠に暗殺された」という事になりますね。^^;
秀忠としては、合戦に遅れた事が大きなマイナスになっていますから・・・。

では、何故「可児吉長が、忠吉・直正軍の宇喜田攻撃をやめさせたのか?」が疑問ですよね。
昔聞いた事があるのですが「豊臣恩顧の武将同士で戦わせる計画」があった様です。
宇喜田・福島双方が共倒れになれば、家康にとって一石ニ鳥です。
この説が正しいなら、(事前に家康の戦法を知っていた)直正も宇喜田攻撃を福島隊に譲った事で理解できますね。
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この回答へのお礼

歴史を扱うということは、ただちに史実を扱うということにはなりえませんからね。そういった意味ではウィキさんも大変なのでしょうが、特に今回の質問のような微妙な判断が要求される場合は、わかりやすさの追求からか、出典明示もなく不自然な説明文も散見されます。

ただ…楽ですよね…
つまるところお、手軽で便利「早い・安い・味はそこそこ」といった具合でしょうか?

いずれにせよ、当初僕が持ちえた知識の根拠は、藤井治冴左衛門さんに依るところの解釈に近かったんでしょうね。

他の回答者様たちのご教授に対しても、比較的に整合性を持った内容をお示しいただきましたこと、厚く御礼申し上げます。

お礼日時:2012/09/20 01:19

家康は先陣の約束などしていませんよ?


自分は総大将なので当然動かず 秀忠が遅参することは開戦前には家康に知らされてて当然
家康はこちらから仕掛けるのではなく石田方から来るのを待った
前線の黒田長政には鉄砲隊があるので西軍の宇喜田秀家に懐に突っ込ませれば鉄砲で狙い撃ちできると考えていたから

ところが功をあせった福島正則が先駆けしあわてて松平忠吉が追いかける
福島はかつての先陣のように一番槍の手柄がほしかったんだろうな…
結果は先の回答で述べたとおり 島左近に返り討ちにされてしまう…

それから前の回答者が忠吉と忠輝は松平家に養子にと書いてるが これは間違い
家康の息子は結城家に養子に行った秀康以外は全員松平姓を名乗らせている
後の秀忠でさえ 公式にはこのころ松平姓を名乗っている(のちに将軍になることから一般的に徳川で表記しているが このころは後継者ではなかったので松平秀忠と名乗ってた)

徳川を名乗る息子は切腹した長男信康とのちに御三家となる義直 頼宣 頼房

まぁ御三家の時代には秀忠も将軍で徳川姓ですが 笑
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この回答へのお礼

なるほど。わかりやすい回答ありがとうございました。

関ヶ原は戦国の最末期の頃の出来事ですし、そのような戦国が終わりを告げる雰囲気って同時代にあったのかもしれませんね。
そのような中、腕に覚えのある猛者は、自慢の辣腕をふるえる数少ないチャンスである関ヶ原にかける思いもあったのかもしれません。
そして豊臣政権内での武断派・文治派の対立に加えて、徐々に猛者を必要としなくなってきた時代に対する焦りなども、福島正則の中にはあったのかもしれませんね。

また松平姓についてのご教授ありがとうございました。
確かに秀忠は大事な合戦に遅刻するわ、後世に生きる僕にもちょっと武将らしい働きがすぐに想像できないので、当初から内政向きの人物だったのでしょうね。
だからこそ、家康は迷うことなく後継に秀忠を据えたのかもしれませんね。

いつもありがとうございます。文面から「歴史が本当に好きなんだな…」と想像でき、読んでいるだけで楽しくなりますし、勉強にもなります<m(__)m>

お礼日時:2012/09/20 18:20

「近い奴が先陣」OR「新参が先陣」



新参と初陣は違います。

最近家来になった奴というのが新参です。

家督競争とかいう珍説が出ていますが、
忠吉も忠輝も家来である松平家に養子に出されています。秀忠は養子に出てもいなければ、別家も立てていない=後継者であるということは、関ヶ原の前から決まっています。

秀康の正妻 結城晴朝養女
秀忠の正妻 豊臣秀吉養女 その前に 織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言
忠吉の正妻 井伊直政の娘
忠輝の正妻 伊達政宗の娘 1606年秀忠が二代将軍になった後

正妻の格が違うのです。

その他にも官位も格段の違いがありますし。
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この回答へのお礼

「近い奴が先陣」OR「新参が先陣」については納得いたしました。逆に徳川家康が今川義元と行動を共にした時代あたりの「泥をかぶる」的な先鋒の在り方にも似ているのでしょうか。あれはどちらかというと外様あつかいに、より近いでしょうが…

家督競争についても了解いたしました。やはり秀忠は後継者の最右翼だったのでしょうし、実際に後継者になりますしね。後継者でもめて家勢を低下さえた戦国大名はかなりいますから、そういった事案を間近に見聞した家康ならではの、老獪な世代交代に対する布石なんでしょうね。

懇切丁寧なご指摘、感謝いたします<m(__)m>

お礼日時:2012/09/20 01:07

 状況から考えても、徳川家康が松平忠吉が先陣切るのを黙認していたとは考えられません。



 なぜなら、今回の戦いを始めるにあたって、家康自身が「抜け駆けをした者はたとえ戦功をあげても成敗する」諸将に厳命しています。
 福島正則が先陣争いの件でごねたら、家康はわが子を成敗しなければなりません。
 (それを避けるために、大幅な譲歩を福島正則にしなければ成らなくなる。)

 それに、関ヶ原の直後の日岡の関での事件では、家康家臣で上杉景勝のもとへ問罪使をも勤めた伊奈昭綱が監督責任で切腹するまで一切の妥協をせず強情を張った事を考えると、関ヶ原での先陣争いで苦情を言わなかった事との整合性が着きません。
 (岐阜城の戦いでは家康の娘婿の池田輝政と激しく先陣争いをしましたし。)

 また、史実で可児吉長が呼び止めて詰問しましたが、この時に可児吉長が家康が発した軍法に照らし合わせて、物見の実行を拒否されたら、諦めて帰る他有りません。
 (「物見の実施は先手の許可を得なければ実施しては成らない」と厳命している。)

 たとえ、許可が出たとしても、可児吉長が「私もお供します」何て言ったらどう対処するつもりだったのでしょうか?←抜け駆けするには切るしかないのですが…。

 関ヶ原の開戦時の配置図を見れば、明らかに関ヶ原の戦いは豊臣家臣同士で潰しあい、徳川の家臣は温存しようという意図が丸分りです。
 (徳川旗本衆は家康に従い戦場の後方に居ますし、松平忠吉も本多忠勝の隊も第二・三線に位置して緒戦に参加できない位置に居ます。まして、徳川主力は秀忠の従っていたので関ヶ原には居ない。)

 そもそも、我々は関ヶ原がたった一日で終了した事を知っていますから、関ヶ原を天下分け目の決戦と言えますが、これは結果論でしかなく、黒田如水が長期戦に成ると睨んだように、当時の一般的な考えは争いが直ぐには終わらないです。
 最悪、大阪などでの篭城決戦(西軍の総大将は大阪に居る毛利輝元)をやらなくては成らない事を考えると、家康が東軍内での和を乱し、部隊の消耗を避けられない先陣に自らの子飼いの部隊を任せる意図が有ったとは思えません。

 また、松平忠吉と井伊直政が敵中突破する島津隊を、自ら遮二無二追撃(両者ともその時の負傷で早死にしたのと伝もある)したのは、先陣争い時の暴挙を糾弾されて、功を焦ったと考えれば納得がいきます。

 つまり、松平忠吉の若さ故(今回が初陣)の暴挙が抜け駆けとなったのだと思います。
 (まあ、霧で迷子に成って敵陣に迷い込んだとか、小荷駄部隊を敵と誤認して発砲したとかのみっとも無い伝も有ったりしますが…。抗議が無かった事を考えると意外とこの辺が真実かも知れませんが…。)

この回答への補足

とすると、やはり福島正則は先陣を任されていたのでしょうか?

補足日時:2012/09/19 23:58
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この回答へのお礼

ごめんなさい!!お礼遅れました<m(__)m>
しかしBA出した後でもお礼ができるって素晴らしい。ボンヤリしている僕には嬉しいシステムです。

戦国末期を飾る一大対決ですからね。忠吉もはやる気持ちを抑えきれなかったのかもしれません。
史実はどうあれ、この回答のように歴史の中で活躍する武将たちの駆け引きなども、生き生きと想像できたら楽しいでしょうね。
そして息の詰まるような心理戦を回答していただいたがため、僕もお礼を忘れて補足質問するのに夢中になりました。ごめんなさい。

僕は歴史ファンでありながら、戦国時代にあまり詳しくないんです。てか、この時代は層が厚いので、僕程度の力では太刀打ちできません(T_T)
いずれにせよ新しい知見が増えました。またの機会もご高説を賜りたいなと切に願います<m(__)m>

お礼日時:2012/09/22 23:36

戦国時代の基本は、



「近い奴が先陣」OR「新参が先陣」

美濃で戦闘が行われるのであれば、尾張・清須の城主である福島正則が先陣というのが基本です。

秀吉の時代で言えば
○ 文禄の役 九州の大名が先陣:加藤清正と小西行長(両方とも肥後)

○ 小田原攻め 東海道:徳川勢 北陸道:上杉勢

○ 九州攻め 中国口:毛利勢 四国口:四国勢

忠吉を女婿にしている井伊直政が徳川家としての意地で、先陣を狙ったということらしい。

この回答への補足

この時、忠吉は初陣ではなかったでしょうか?
すると「近い奴が先陣」OR「新参が先陣」
については、かの地を領有する福島か?初陣を飾る忠吉か?という具合で、どちらに優先権があるんでしょうかね?
というか忠吉が初陣というのも曖昧な記憶なんですが<m(__)m>

補足日時:2012/09/20 00:02
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松平忠吉は秀忠の実の弟 秀忠が遅参していたので父家康は忠吉に先陣を任せた


徳川一門なので当然といえば当然
しかし三成憎しの福島正則は先陣を切って三成にしかけ手柄を立てたかったのです
そして抜け駆けし見事先陣を切りますが 島左近に返り討ちにあい一時退却

福島は勇猛果敢ではあるが単純で頭が悪いので戦略では三成に劣った


仮に秀忠が遅参していなくても先陣は忠吉では?
このころ秀忠は家康の後継者ではなかったです

家康は残った兄弟(秀忠 忠吉 忠輝)から後継者を選ぶつもりでいた
だから関ヶ原で忠吉を試したわけ
まぁ守役の榊原康政が優秀でしたので

この回答への補足

僕の記憶も似た感じなんです。でも…いつ?どこで?仕入れたネタなのかも曖昧でして<m(__)m>

そして新しい知見が増えたのですが、確かに後継者レースと考えてみれば、以降の忠吉の尾張転封も合点がいく気がします。
ウィキの記述に従えば、忠吉は完全なる軍法違反でしょうから、息子とは言え、家康をもってしてもかばいきれない大失態な気がします。

もはや家康は、先陣なんて誰とも約束していなかったんですかね?

ご意見がありましたらよろしくお願いいたします。

補足日時:2012/09/19 23:12
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その場に居合わせたものでないので真相はわかりませんが...



徳川方が福島正則を味方に引き入れるときの条件に「先鋒を任せる」という
のがあったのではないでしょうか?
ほとんどの武将が「領地の約束」といいう現実的な利益で寝返る中で、
利益を重視しない交渉が難しい人物であり、そのような彼が最も重視したのは
石田三成と闘えるというところと先鋒を任されるということではないでしょうか?

そう考えれば、秀忠が刻限通りに参陣していても先鋒は無かったと思います。

この回答への補足

そうなんですよね…僕がウィキの記述で一番引っかかるのが「家康から先鋒を任されたはずの福島正則の家臣可児吉長が呼び止めて詰問するが…」の部分なんです。小山評定時点の約束だったんですかね?であれば福島正則に約束したって考えるのが自然ですよね。理由はやはり豊臣恩顧の重鎮に先鋒を任せることによる、石田方の切り崩しになるでしょうから…

御意見でも結構です。何かありましたらご教授ください。

補足日時:2012/09/19 23:02
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