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関ヶ原で攻めまくってすみません…反省してます

関ヶ原の戦いで最も勲功をあげたのって誰ですか?
やはり17の首級すべてに笹を立てて目印として「笹の才蔵」の異名がある可児長吉でしょうかね?

宮本武蔵も関ヶ原に参戦してたのはびっくりしました☆

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A 回答 (10件)

石田三成でしょう。


戦前の状況では彼我の戦力差など、どうみても豊臣方有利だったのに、小早川、朽木、脇坂、島津、吉川ら裏切者~傍観者を多数だしたのは石田三成の統率力のなさによるものです。さらに豊臣恩顧の黒田、福島、池田、加藤、蜂須賀らは三成憎しの一念から東軍についたわけですから、家康から見れば三成さまさまです。
かりに豊臣方総大将が三成でなく直江兼続や立花宗茂だったら東軍のボロ負けだし、そもそも三成さえいなければ加藤清正あたりが大阪方の大将になった可能性もあるので、そもそも関ヶ原の戦いが成立しません。
よって東軍勝利の最功労者は石田三成。
あと無能なのに西軍総大将をうけた毛利輝元や、秀頼の出陣を拒否した淀君あたりが第二の功労者ですかね。いずれにせよ西軍側の敗因の大もとを探るならこの辺になりそうです。
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この回答へのお礼

そうです そうです
真田親子が参戦してても戦況は変わったかもしれませんね
3万5000を釘付けにした戦術ですから
関ヶ原に来てたらあっという戦術を使って家康の首ぐらいとったかもしれませんよ

毛利輝元はなぜ大阪城に居たのかも疑問
秀頼の守役と言われればそれまでだが
輝元が参陣してれば吉川広家は動かざるおえなくなり戦況も変わったはず

お礼日時:2012/09/20 16:52

#8です



ご指摘のように、豊臣恩顧の大名を統制するための大盤振る舞いだったのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2012/09/21 19:17

福島正則


豊臣家が清州に蓄え福島正則に管理させていた兵糧米があったからこそ徳川軍は関ヶ原に軍を展開できたのです。
福島正則が徳川につかなければ、徳川家はとても遠方を遠征することができませんでした。
せいぜい駿河遠江を制圧する程度でしょう。
関ヶ原の一番のキーマンは福島正則です。
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この回答へのお礼

あのころ福島はピークでしたかね…
そのあと広島城無断改築で改易…
死後4男が葬儀を届け出ず 川中島3000石に改易…

結局りようされるだけされて捨てられました

お礼日時:2012/09/21 19:17

首級という面では、質問者様があげられる可児才蔵なんでしょうね。

それ以上の首級の話をきかないので、たぶん最多なんでしょう。勉強になりました。流石です。

その他を考えたら、論功行賞で、ずばぬけて飛躍した加藤清正の働きも見逃せませんね。
開戦時点での西軍諸将の煮え切らない態度は、やはり加藤清正の遠地での働きぶりを伝聞し、関ヶ原で西軍が勝っても、家康を打ち漏らしたのであれば、無傷の徳川本隊に加え、小西らの所領を蹂躙した加藤清正などが参戦。これでは長期的に見れば負け戦は必至。

そんな恐怖心を与えたからこそ、西軍の動きは鈍化したのでしょうし、隣国が小西行長という面も多々あったでしょうが、それにしても、関ヶ原で槍を交えずにあれだけ論功行賞で評価されたのであれば、東軍として旗色を鮮明にしながら、なお遠隔地で脅威を感じさせた加藤清正は恐るべし。といった所だと思いました。
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この回答へのお礼

家康は加藤の本心を知っていた 加藤は福島と違い本心は三成憎しで東軍加担ではなかった…だからこそ戦後肥後55万石という莫大な所領を与えている
現に加藤は 家康と秀頼が会見したとき万一家康が秀頼を暗殺しようとしたら刺し違えてでも家康を斬る覚悟でふすまの裏に控えていたぐらい豊臣家への忠誠は強かった
だからこそ多量の知行で厚遇する必要性を家康は感じたのだと思う

お礼日時:2012/09/21 07:00

名もなき雑兵説



これは勝手な私の想像です。

私は、関が原の戦いが、たった1日で終わり、天下の趨勢が決まったことに天運というものを感じます。

東北の直江兼続や、九州の黒田官兵衛といった軍略家さえも読めなかったと思います。

秀忠の遅れが、慎重な家康に届いていたなら、いくら戦の経験豊かな家康も決戦とせずに、持久戦としてにらみ合い、時間を稼ぎたかったのではと思います。

そこを、血気にはやった東軍か西軍の雑兵が勝手に動いて、決戦の火蓋が切られてしまった。

しかし、その名もなき雑兵が歴史の「時」を作った。

戦国時代の下克上の時代の主従関係というのは、どのくらい規律があったのか疑問です。

歴史カテゴリは、質問がカルト化しても答えうるかなりのつわものぞろいなので、みそぎを受けます。

時はいま、天のしたしる、長月か

歴史探偵 明智小五郎光秀

おそらく3時間天下(笑)
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この回答へのお礼

真実はその日その場所にいた人にしかわかりませんね

お礼日時:2012/09/21 06:56

勲功一番は福島正則でしょう。

彼が東軍に真っ先に味方したことが何より大きいかと。戦後の加増にも如実に表れています。
福島他への調略を行ったとされる黒田長政が二番手でしょうか。苦戦しながらも機転を利かせて島左近を負傷させ、石田勢の動揺を誘った戦術面でも評価できます。
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この回答へのお礼

福島は単純でしたね 三成憎しで家康の口車に乗せられ…
大将が三成じゃなかったら 加藤も福島も黒田も豊臣についたはずです

黒田が左近を負傷させた戦術は評価できますね

お礼日時:2012/09/20 20:59

 むしろ石田三成に関しては


  たかだか4万石の大名が 
  反徳川連合を糾合して
 五分の対峙に持ち込んだこと自体が

   こいつはすごい!と思います。
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この回答へのお礼

正式には近江佐和山18万石…
まぁ半分を島左近にあげてたので実質9万石

お礼日時:2012/09/20 19:32

#2ですが


小早川、朽木、脇坂、吉川らの裏切りは、事前の根回し工作があったから実現した。
合戦中に突発的な裏切り等ありませんから。
彼らの情緒不安定にしたのは、誰なのでしょう?
事前工作をしていたのは、黒田長政ですよ。
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この回答へのお礼

まぁそうでしょうね 小早川と吉川はそうですが
脇坂 朽木 赤座 小川は小早川の麓に布陣して小早川が寝返ったので便乗しました この4将に関しては根回しはありません

黒田は始め加藤善明の援護をしていた…しかし前線の福島隊が島に崩され
松平隊も壊滅 黒田隊も死者700余り 負傷者500も出してます 島左近の軍勢相手にですよ
事前工作してたならこんな回りくどい戦い方するかな?
曲がりなりにも黒田官兵衛の息子ですよ

お礼日時:2012/09/20 17:22

勲功と言うかは、定かでないが、勝利に一番貢献したのは、黒田長政でしょう。


彼の軍略と作戦が合って勝利したのですから。
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この回答へのお礼

黒田長政は最初 島左近に壊滅寸前まで叩きのめされました…
で残った数百の兵で鉄砲隊を組織し左近を狙い撃ち…
多分左近を殺さなければ黒田長政は討ち死にしていましたね

お礼日時:2012/09/20 13:57

こんにちは。



西軍を裏切った小早川秀秋です。
明治時代、関ヶ原の戦いの布陣を外国人将校に見せたところ、
「西軍の勝ち」と言ったそうです。
東軍は徳川秀忠が遅れている事もあって、開戦の布陣では
圧倒的に西軍が優勢だったのです。
なのに小早川秀秋が裏切る事によって半日で決着がつき
東軍が勝利を修めたのですから…。
しかし裏切った小早川秀秋は狂い死にしたそうですが…。
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この回答へのお礼

小早川は確かに1万5000の軍勢ですが
まぁ寝返りを功績とするなら確かにそうかもしれませんね

お礼日時:2012/09/20 13:56

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大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?
また、海外(中世の欧州など)でどうだったのかも分かれば教えてほしいです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、通行するクルマ以外に邪魔者はいません。効率よく死体処理(カラス等の食事)が進むでしょう。

ご質問ですが、戦国時代の戦いでの戦死者の遺体は、下記の経過を辿ったと思われます。

1. 戦死者は、首を取られた状態で戦場に残されている。
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2. 戦闘が終わって両軍が引き上げると、既に回答されているように農民たちが「戦場狩り」を行います。これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれていたようです。
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現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
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関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

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皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
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ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
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江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
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関ヶ原の合戦などの後の死者の片付けはどうしていたのでしょうか?

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 死体の処理法としての葬送の儀は古来から、
 (1)風葬 (2)水葬 (3)土葬 (4)火葬
の4つに大別される。
 日本では仏教伝来以前は、カメや石棺などに納める(3)の土葬の1種が行われたいた。
 仏教は(4)の火葬が本義である。釈尊自らがこの方法で葬られた。以来、日本の仏教徒は「火葬」なのです・・・
 ただし、火葬には、経費がかかり、場所の制約があるので、土葬が一般的でありました。(昭和40~50年ぐらいまで)
 例えば、平安時代、疫病などで多数の死者が出たとき鳥辺山などへ放り出した(風葬・鳥葬)のです。
 戦国時代は、やはり火葬が本来なのですが、「首実検」のため、武将の生首が必要で、土葬が行われることも多かったのです。
 ご質問の関ヶ原の戦いでは、ほとんどが放置されていましたが、しばらく後に埋葬(土葬)されました。これが現在の「首塚」として残っています。西首塚、東首塚があります。

参考URL:http://www.ginet.or.jp/sekigahara/kankou/kosen1.htm

Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が...続きを読む

Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む

Q関が原の戦い後、なぜ、長宗我部は領地没収で、毛利・島津は領地減となったのでしょうか?

関が原の戦い後、なぜ、長宗我部は領地没収で、毛利・島津は領地減となったのでしょうか?

Aベストアンサー

その話はかなり有名ですよ。

基本的には西軍に属した大名は領地没収・改易になるところが、
毛利に関しては、吉川広家に対して
毛利家の所領安堵の約束をしていたのに、
それを反故にして領地削減させたわけです。
この経緯は、直接、家康が言質を与えずに
井伊直政を介して調略を行ったために、
正確には約束したわけではないというトリックがあったのですが、
吉川は最初の約束と違うと猛抗議します。
それで吉川家の所領を減らす代わりに
なんとか毛利家の存続だけは勘弁してもらった格好になりますが
毛利家ではこの一件の恨みをずっと持っていて
年始だったいつだったか忘れましたが、
毎年、徳川家に恨みを晴らす、討ち入るという儀式を
幕末までやっていて、それが倒幕の原動力となったのは
かなり知られてますよね。

島津家の場合は、大幅削減のはずだったのが
隠居していた島津義久などが内外で粘り強く抵抗をして
領地返上に抵抗して、外交交渉の結果、
薩摩・大隈という言葉も違う辺境ということもあって
島津だけは所領安堵・お咎めなしどころか、
琉球貿易の窓口という立場も容認されます。
これは無能な毛利家と違って、島津家の有能かつ交渉上手が
活きた格好です。
ただ関ヶ原前後で島津家内部では多少、内紛なるのですが
なんとか詰め腹でまとまるのがまさに島津式です。

この二国が幕末の主勢力になるのはあながち偶然ではないでしょう。

あとちなみにですが、
関ヶ原で西軍についたものでは、立花宗茂は唯一、改易後に
所領を新たに与えられてます。大名に復活したのは彼だけです。
理由は、武人の鑑として、徳川秀忠に気に入られたからです。

その話はかなり有名ですよ。

基本的には西軍に属した大名は領地没収・改易になるところが、
毛利に関しては、吉川広家に対して
毛利家の所領安堵の約束をしていたのに、
それを反故にして領地削減させたわけです。
この経緯は、直接、家康が言質を与えずに
井伊直政を介して調略を行ったために、
正確には約束したわけではないというトリックがあったのですが、
吉川は最初の約束と違うと猛抗議します。
それで吉川家の所領を減らす代わりに
なんとか毛利家の存続だけは勘弁してもらった格好になりま...続きを読む

Q家康はなぜ島津を処分出来なかったのか?

関ヶ原で西軍に味方し唯一と言って良いほどお咎め無しの大名家が島津家です。
宇喜多秀家も島津を頼り死罪を免れ、佐竹も島津の口ぞえで出羽秋田への改易で済みました

しかし家康は関ヶ原で勝った立場です
島津を処分しようとすれば出来たはずですが何故しなかったのでしょう?
確かに元々は東軍加担でしたが伏見城攻略を巡って家康と対立し西軍に付き
戦場で取り残された時起死回生の中央突破で反転し退却しました。
もしや家康はビビったのでしょうか?


関ヶ原後に島津家を処分しなかったばっかりに約260年後
幕府は島津に倒されてしまうんですね(笑)

Aベストアンサー

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の要請で伏見城の守備に就こうとして妨害されたので、やむなく西軍に付いたということを述べたのです。そのあと2年間も交渉は続いたのですが、結局、慶長7年(1602)家康が折れる形で起請文を書き、本領が安堵されました。義弘の息子の忠恒(家久)が上洛して謝罪し、これで島津家は徳川幕府の統制下に入るのです。

結局、この交渉が長引いたために家康は征夷大将軍宣下が遅れたのです。


詳細は下記のURLを参照してください。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の...続きを読む

Q最強の戦国武将は?

最強の戦国武将は誰だと思いますか?皆さんのご意見を聞かせてください。戦略的にではなく戦術的に強い武将でお願いします。ちなみに私は上杉謙信だと思います。

Aベストアンサー

織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
信長が世に出たきっかけは桶狭間の戦いですが、人間若いうちに成功するとなかなかそのやり方を否定することが出来ません。
彼の場合、これ以降は余程でなければ相手より少ない兵力で戦をすることは無く、やる場合も損害が少ないように上手に逃げます。
信長の大失敗で知られる越前攻めですが、部下を全て見捨てて自分だけ逃げ帰るような事はなかなか出来ることではありません。
途中で名も無き土民に首を獲られれば末代までの恥ですし、リーダーが逃げ出せば軍団は壊滅し、裏切り者が出て岐阜に反転し、自分の妻子すらどうなるか判らない。
私なら落城した金ケ崎城に兵を入れて浅井軍を牽制し、全力で木の芽峠を越えて朝倉を攻撃します。
運がよければ朝倉を壊滅させて浅井と対峙できますし、運悪く命を落としても武士の名誉は守れ、悲運の名将という名が残ります。
それがあんなにも大胆に逃げたのは、将に天才的な名将と言えるかと思います。
途中の朽木も、それを見越したからこそ恩を売るつもりで朽木谷を通したのではないでしょうか。

上杉謙信は結局人間の心理が読めない武将と思います。
この時代の武士はドライなもので、恩とか義理とかは余り考えていません。
実質の無い関東管領を名乗り、見入りの無い信州に介入し、部下の心は離れ、関東の諸将は冷ややかに彼を見つめ、同盟していた北条もメリットが無いとして同盟を破棄します。
戦に出ても勝ちを拾えず、砂上の楼閣のような物を得て引上げる、しかも田植えが済んでごく短期間だけちょろっと戦をして引上げる。
上杉謙信、武田信玄などは所詮はアマチュア武将であり、嘗て清原・桑田を擁したPL学園が阪神タイガースより強いのではないかと幻想を抱かせましたが、実際にはプロとアマとの間には大きな差があるように考えます。
短期の戦ではアマチュアがプロを抑える事は出来ても、決定的に破ることは出来ませんし、やがて破れていく。

上杉は運良く謙信が死んだので幕末まで残りましたが、生きていれば、北陸道を進む柴田軍と信州から進入する信忠軍、伊那から徳川軍などが進軍し、じりじり春日山に迫られ自刃したかと思います。

歴史的にも徳川家には武田の生き残りが多く仕え、彼らにとって武田信玄は神のような武将で、それに5分に渡り合った謙信は神に準じる武将と祭り上げられ、逆に家康が臣従した今川家と織田家は低い評価が付きますので、そこは割り引いて考えてもよいのでは。

最強というからには、やはり兼業武士(アマチュア)ではなく専業の武士(プロ)で競うべきで、信長を除けば、蒲生氏郷、結城秀康、柴田勝家、加藤清正などかと思います。

私の独断と偏見で。

織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
信長が世に出たきっかけは桶狭間の戦いですが、人間若いうちに成功するとなかなかそのやり方を否定することが出来ません。
彼の場合、これ以降は余程でなければ相手より少ない兵力で戦をすることは無く、やる場合...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。


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