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(1)古代ローマ帝国のコンスタンティヌス1世が、313年に首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)へ遷したのは、どのような理由からですか?
自分は西方の側にいるのに、何故、首都をローマにしておかなかったのですか?

(2)コンスタンティヌス帝はキリスト教を優遇し、帝国内の統一に利用するべくキリスト教内の混乱にけりをつけさせるためニカイアに公会議を招集しました。後に彼は異端側の司教から洗礼を受けたとのことですが、開催地のニカイアはローマ帝国の中でも東方に位置します。だからということなのか知りませんが、この会議に参加した主教の多くは東方の側だったといいます。

A.ところで西方はラテン語を、東方はギリシャ語を用いていたそうですが、同じ帝国内でも東西では言語が違うのに交流に支障はなかったのでしょうか?

B.コンスタンティヌス帝自身は、西方、東方、いずれの側の人ですか?西方ならギリシャ語はわからなかったんじゃないでしょうか?それで東方をも収められたのでしょうか?
ミラノの勅令を連名で発した相手のリキニウスという人物と東西を分け合い、コンスタンティヌス自身は西方を支配したそうですが、後にリキニウスを破って帝国全土を支配したとあります。

A 回答 (3件)

http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/kirisitokyou …

おまけ
地図が見つかったので見てください
※ 文章はよく見ていないが、4世紀におけるキリスト教の浸透ぐあいがわかります
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この回答へのお礼

おまけで貼り付けて下さった資料で大体のことがわかりました。
コンスタンティヌス帝による独裁政治のための帝国再編とキリスト教の利用ですね。
教会組織が帝国の組織と似たものとなったというところが象徴的ですね。
東方にキリスト教徒が集中していたのと、ローマは異教の影響が強かった、
だからコンスタンティノポリスに遷都したのですね。必要性がわかりました。
トルコはパウロが伝道した地域なのでキリスト教徒が多いのは当たり前ですね。
この地域が後に全部、イスラム教に塗り替えられたというのだから、
同じ一神教とは言え、けっこういい加減なものですね。

お礼日時:2012/09/25 08:44

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC% …
こんなところに一覧が・・・

軍人皇帝の時代から、出生地が明確な皇帝はほとんどが元のユーゴスラビアあたりの出身。
その軍人皇帝の群雄割拠を制したのがディオクレティアヌス(彼自体も軍人皇帝だったわけで)

ディクレティアヌスが東の正帝として首都としたのがニコメディア、コンスタンティノープルの対岸になります。西の正帝自体がディオクレティアヌスの部下でしかありませんので、この段階で一番偉い皇帝はコンスタンティノープルあたりにいたと言えます。

ニカイア公会議
ローマ教会自体が、5つある大主教座の一つでしかなく、250人の参加者のなかで西からの出席者は5人とか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E3%83%8B …

ローマ帝国で当時 東方はキリスト教徒が多く、西はキリスト教徒が少ない。
コンスタンティス皇帝のキリスト教公認の具体的内容として、「キリスト教徒は国でなく教会に納税OK」というのがあり、キリスト教徒の少ない西方(コンスタンティヌスの地盤)では痛くも痒くもないが、リキニウス(東方地盤)にとっては、「痛い」政策だったから取ったのではないか。

機会主義によるキリスト公認なので、コンスタンティヌス本人がどれほどキリスト教を信じたかは不明らしい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。東方の方がキリスト教徒が多かったのですか。ローマ帝国のキリスト教世界はおもに東側だった、だから主たる公会議もニカイア、カルケドン、コンスタンティノポリスで開催されたのですね。塩野七生さんの『ローマ人の物語XIV キリストの勝利』(新潮社)でいきなりラテン教父のアンブロシウスが出て来て、彼が後半では主役みたいになってますが、彼は西方の人ではあったが(この本には書かれていませんが)ギリシャ語が出来たようですね。だから東方での教理論争にも敏感に反応出来たのでしょう。彼は信仰はなく、司教は肩書きだけで実態は政治家だったようですね。彼がアリウス派を排除する側についたのもその説を理解して反対したからではなく、ローマ帝国のキリスト教国化による教会の強大化のために一本化しなければならないからであり、多数派がアリウス派だったらどうなっていたことか・・・結局、司教としての権力の拡大でしか無かったのですね(前掲書p267参照)。

お礼日時:2012/09/21 18:52

コンスタンティヌス自体は現在のセルビア つまりギリシャ語の文化圏の生まれです。


リキニウスも現在のセルビアからブルガリアの出身

ディオクレティアヌス自体が元のユーゴスラビア北方の生まれ。
彼が、東西の皇帝に分けるシステムを作ったわけですが、東西の皇帝の出身地はだいたい同じあたり。
なぜか?
皇帝とは軍事指揮官であり、軍事指揮官が迅速に現地にいけるように、東西に指揮官を分けたというのが東西皇帝制度。
そして、ローマ帝国にとっての主敵は、東のパルティアや北のゲルマン人。
なので、最強部隊が元のユーゴスラビアに駐屯しておりました。
その最強部隊の出身者が ディオクレティアヌスであり、その後継者たちということになります。


喩え話
関東出身の武士が天下取りで京都に上り、天下人となった。

そのうち、「んじゃ 本拠地に幕府を開いちゃえ」というので、関東に江戸幕府が開かれた。

というような感じ
※ ローマ皇帝の場合、血縁というより、軍団の支持があるかどうかが皇帝になれるかどうかの鍵だったので、現皇帝は、軍団長時代の有力な部下を婿養子とかにして次の皇帝にする傾向がありました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。コンスタンティヌスは東方の出身だったのですね。それじゃ、使用言語はギリシャ語だったのでしょう。

お礼日時:2012/09/21 18:39

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