はじめての親子ハイキングに挑戦!! >>

信長はよく「で あるか」と「是非に及ばず」と言っている印象がありますが口癖だったのでしょうか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

美濃の斎藤道三との会見の時、道三を紹介された信長は立ったまま柱に寄り掛かって「…であるか」と答えた~と。

後の信長家臣であった太田牛一が残した『信長公記』の一節に記されています。

マムシ道三と信長の会見は一つの歴史の有名事件ですので。今のところ唯一と言って良い信長に関する歴史書である『信長公記』の記述を頼りに、後の歴史作家たちが書き表した会見場面を、さらに映画やドラマ化する際に一つのキャラ付けとして誇張して使ってるのだと思います。

その後の『信長公記』記述や、他の書簡(手紙)などに、特に信長が「であるか」と言う口癖があった様にはことさら記述が無いので。たまに言う事はあったけど、口癖というほどでは無かったと思われます。

またポルトガル人宣教師のルイス・フロイスの書簡に由れば。信長は日頃から言葉を良く省略して短く言う癖があったと記されています。「であるか」は正式には「そうであるか(分った)」という事になります。

もう一つの「是非に及ばず」若しくは「是非も無し」は、やはり『信長公記』によれば、信長が本能寺で明智光秀の謀反を聞かされた時に言ったとされる言葉です。現代語訳で「仕方が無い」というニュアンスになります。諦めというよりは、じたばたしても仕方が無いのでやるだけやってやれ~的な、どちらかと言うと前向きな意味合いが強いと思われます。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

道三との会見のときたしかに言ってたぽいですよね
それが印象として残ってたのかも

お礼日時:2012/09/28 13:23

ドラマや小説の影響でしょうか。

どちらも『信長公記』の記述に見えますね。
実際のところ、すでに回答にあがっていますが、斎藤道三との会見の時に「こちらが山城殿(斎藤道三)です」と紹介され「であるか」と言ったという記事のみです。それが名シーンとして小説・ドラマで何度も取り上げられたので、大河ドラマ「利家とまつ」の信長のように口癖だと思われるようになったのでしょう。
「是非に及ばず」は、本能寺の変の誰の謀叛か確認したところ、明智勢と聞かされて「是非に及ばず」と言ったものがよく知られていて、これまた小説・ドラマで取り上げられてますので印象が強いものですね。もっとも「是非に及ばず」という言葉は、信長に限らず東西南北いろいろな武将が、当時の史料で使っている事例が山のようにあります。全国的によく使われていた言葉ですから、信長の口癖というわけではないでしょう。

余談ですが、「是非に及ばず」という言葉はいろいろな意味を持っていて、その事例やそれまでの信長の行動から最近は本能寺の「是非に及ばず」も「光秀なら仕方ない」という諦めを表わしたものではなく、「事態は把握した。とりあえず防戦する」という前向きな意味であったと評価が見直されています。藤本正行『本能寺の変』(洋泉社 歴史新書y 2010年)に詳しく書かれていますので、興味があれば一読をお勧めします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます

その本は読んだことあります

お礼日時:2012/09/29 09:42

こんにちは。



そのセリフは反町隆史さんが演じた織田信長ですね。
本来の信長は名古屋弁丸出しでした。
羽柴秀吉も名古屋弁丸出しでした。
しかし明智光秀は美濃の生まれですが、京弁を使っていました。
京弁の美しさに信長は大層明智光秀の事を可愛がっていたそうです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2012/09/28 13:22

こんにちは


昔の言葉ですから
いまでいう ~ですか ~大丈夫っという感じでしょうね
    • good
    • 0
この回答へのお礼

しかし秀吉や家康が言ってるという印象は無いので
やっぱり口癖?

お礼日時:2012/09/28 09:43

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q本能寺の変 信長の「是非も無し・・・」とはどんな意味?

本能寺の変で、謀反が明智だと知らされた信長は
是非もなし
と言ったと伝えられていますよね。
これって、どういう意味でしょうか?
・しかたない
という意味なのでしょうか?

Aベストアンサー

 「是非もなし」でも「是非に及ばず」でも同じなのですが、日本語としては「良し悪しを論じても意味が無い(実力行使しかない)」という意味です。

 ちなみに、「直江状」でも家康の言いがかりに対して「是非に及ばず候」と言っていますね。「やるなら受けて立つ」と言っているわけです。

Qどうして家康は内府と呼ばれていたのですか?

豊臣政権末期で、徳川家康が「内府」と呼ばれています。どうして内府と呼ばれていたのでしょうか? 国内の政府の代表だからですか? 家康以前にこの様に呼ばれていた人はいたのでしょうか?

呼び方(読み方)も「ないふ」と「だいふ」とあるようですが、どちらが正しいのでしょうか?

「内府」があるならば、「外府」「小府?」等と呼ばれたりした人がいたのでしょうか?

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「内府」とは朝廷の官名「内大臣」の漢名です。
徳川家康は「内大臣」の命を受けていたので、「内府」と呼ばれました。
豊臣秀吉のことを「太閤」と呼ぶのも、
「太政大臣」の官名が「太閤」だから。
ということだったかと。
中納言のことを「黄門」と呼ぶとか。
(水戸黄門ですね)

尊称として呼ぶときに、中国由来の呼び方をしたと思われます。
たしか、総理大臣のことを「首相」とよぶのもそういう意味合いですね。

外大臣はいないから、外府と呼ばれた人は、いないと思います。

Q「ゾッとする」のに「ゾッとしない」って? どういう意味ですか?

酷いものや、不気味なものをみたとき、あまりに異質なものを感じたときに
「ゾッとする」と言いますよね?

これと全く同じ状況で
「ゾッとしない」と言うこと(書くこと)があるみたいなのですが、
いまいち、ピンときません。

例えば、少し前にあった小学校での児童殺傷事件を
伝えたニュース・キャスターが
「聞いているだけでも、あまりゾッとしない事件ですね」
と言っている場合などです。

これはどういうことなのでしょうか? 何かしらの国語的な決まりが
あるのでしょうか?
詳しい方、ぜひ教えてください。

Aベストアンサー

 
「気が置けない」という本来の表現に対し、「気が置ける」という、元の表現からすると誤用に当たる表現がかなり一般化しています。「気が置ける」の場合は、元々は誤用だったのです。

他方、「ぞっとする」と「ぞっとしない」は、「ぞっとする」の否定文が、「ぞっとしない」ではないのです。「ぞっとする」と「ぞっとしない」で慣用表現で、それぞれ別の意味を持っています。

「ぞっとする」は、寒さや恐怖で、身体が、鳥肌立ったり、心のなかで強い情動が起こることです。怖い小説を読んでぞっとしたり、寒い冬に、おふろに入って、お湯だと思って冷水のシャワーを浴びると、「ぞっとする」ということになります。

他方、「ぞっとしない」は、「ぞっとする」の否定ではなく、「感心できる・関心がない」という意味です。「怖くない・寒くない」という意味ではないのです。

>「聞いているだけでも、あまりゾッとしない事件ですね」

これは、聞いて、なるほどと思ったり、いかにもこれでよい、という風に感心できる事件ではない、という意味で述べています。「あまり感心できない事件ですね」と言っているのです。

A「最近の女子中学生は、電車の床などで、あぐらをかいて座っているらしい」
B「それは、何というか、ぞっとしない話だな」
C「それは本当か。だとすると、ぞっとするなあ」

Bは、「感心できない話だ」と答えていて、
Cは、「そこまでしているのか。怖い話だ」と答えているのです。

Cは、「感心できない」を通り越して、怖い風俗状況だ、と述べています。

以前に、似たような質問がありました(そこで、引用されているURLを、以下に引用します):

>No.246490 質問:かしらん?
>http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=246490

>なぜ「ぞっとしないな」と表現するの?
>http://homepage2.nifty.com/osiete/s466.htm

subways to understand 《z》
>http://www.linkclub.or.jp/~cdl-tska/subway/z-s.html

>ぞっとしないなあ
>http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/gengo/petit/petit2000feb14.html
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=246490,http://homepage2.nifty.com/osiete/s466.htm

 
「気が置けない」という本来の表現に対し、「気が置ける」という、元の表現からすると誤用に当たる表現がかなり一般化しています。「気が置ける」の場合は、元々は誤用だったのです。

他方、「ぞっとする」と「ぞっとしない」は、「ぞっとする」の否定文が、「ぞっとしない」ではないのです。「ぞっとする」と「ぞっとしない」で慣用表現で、それぞれ別の意味を持っています。

「ぞっとする」は、寒さや恐怖で、身体が、鳥肌立ったり、心のなかで強い情動が起こることです。怖い小説を読んでぞっとした...続きを読む

Q織田「上総介」信長について

「上総介」は正式に得たものですか、それとも自称ですか。
また、いつ頃から使い出したのでしょうか。
また、上野や常陸ではなく上総としたのには理由があるのでしょうか。

どの点でも結構ですからご存知のところを教えてください。

Aベストアンサー

 永禄十一年の従五位下弾正少忠、元亀元年の正四位下弾正大弼、天正二年の従三位参議は、系図纂要に記事があり、位がきちんとついているので正式の叙官です。また天正三年の権大納言以降は公卿補任で確認できますので、これも同様。
 それ以前に信長は上総介(天文十八年)、尾張守(永禄九年) を名乗っていましたがこれは両者とも自称であろうといわれています。なぜ上総なのかはよくわからない。特に近親や先祖で上総介を用いた人もいず(織田家ではだいたい当主になってからは弾正忠、ついで備後守を称する)、根拠は不明です。弾正忠、備後守までの中継ぎということ、本家筋の織田家(守護代)は大和守、伊勢守を通称していること、などから、(1)受領系統の名前が穏当(当時の風潮としても受領名のほうが人気が高かった)、(2)備後、大和、伊勢クラスの国とつりあいをとった(上総、大和、伊勢は上国で守が従五位上、介が正六位下――ただし信長は最初知らずに守を名乗っていたので宗家並みのつもりだったのかもしれない――、備後は大国で守が従五位上)、などの理由によるものではないでしょうか。ちなみに上野、常陸も上国です。

 永禄十一年の従五位下弾正少忠、元亀元年の正四位下弾正大弼、天正二年の従三位参議は、系図纂要に記事があり、位がきちんとついているので正式の叙官です。また天正三年の権大納言以降は公卿補任で確認できますので、これも同様。
 それ以前に信長は上総介(天文十八年)、尾張守(永禄九年) を名乗っていましたがこれは両者とも自称であろうといわれています。なぜ上総なのかはよくわからない。特に近親や先祖で上総介を用いた人もいず(織田家ではだいたい当主になってからは弾正忠、ついで備後守を称する...続きを読む

Q上様、殿様、お屋形(?)さま

戦国時代を中心とした時代(あるいはその前後)、領主である人や
大名である人を呼ぶ時の呼称が色々あるように思います。

実際はどうだったのかは知りませんが、大河ドラマなど、織田信長は
相手によって「殿」とか「上様」など時期にもよりますが、色々な呼ばれ方をしています。

こういう呼称について、深い意味分けはあるのでしょうか?
お詳しい方がいらっしゃいましたら、どうか教えてください。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

お屋形さま
室町時代幕府に貢献あった守護大名に「屋形号」を与えました。  管領の細川氏などです。  お相伴衆と呼ばれ名誉職でした。  白傘袋(宮中に参内の時使用)などがNo.2さんの通り許されました。  本来は一代限りでしたが、実際は相続されました。
応仁の乱以降戦国時代になると、お相伴衆はふえました。  朝倉、今川、大友、武田、北条、毛利氏などありました。  謙信も生まれの長尾家は守護代でしたが、将軍より守護を許されました。  50金を献上すれば屋形号を許されたと言われています。  
信長の織田氏は尾張の守護代のはしくれでしたので、お屋形さまとは呼ばれませんでした。  信長は尾張を掌握しても、権威など無視して申請もしません。  天下人になり、上様と呼ばれるのを望んだわけです。
殿様
武士の世界では大名のような、領地の支配者が殿様でした。  しかし尊称、敬称は時代が進むにつれ、同様価値が下がります。  小領主でも殿様になり、江戸時代徳川の家来では、旗本以上が殿様と呼ばれ、御家人以下はそう呼べないしきたりでした。  旗本と御家人の境はそう明確ではないが、稲垣史生氏によると禄200石以上が旗本の目安であるという。  このほか知行取り(一応領地持ち)か、蔵米取り(米で給与を貰う)で分けるとか、お目見え以上、以下で分けるとかあるが、奉行所の与力(200石)は殿様と呼ばれるので、この辺が妥当でしょう。
上様は普通は天下を掌握した人の称号です。  織田信長は完全ではありませんが、中央で天下に号令する前ですから天下人でしょう。  

お屋形さま
室町時代幕府に貢献あった守護大名に「屋形号」を与えました。  管領の細川氏などです。  お相伴衆と呼ばれ名誉職でした。  白傘袋(宮中に参内の時使用)などがNo.2さんの通り許されました。  本来は一代限りでしたが、実際は相続されました。
応仁の乱以降戦国時代になると、お相伴衆はふえました。  朝倉、今川、大友、武田、北条、毛利氏などありました。  謙信も生まれの長尾家は守護代でしたが、将軍より守護を許されました。  50金を献上すれば屋形号を許されたと言われて...続きを読む

Q戦国時代における戦での遺体の取り扱いって?

近年の戦争の映画で戦死者の遺体を棺に収め、国旗などでくるんで本国に移送するという場面を見たことがあるのですが、日本の戦国時代はどうしていたのでしょうか?
大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?
また、海外(中世の欧州など)でどうだったのかも分かれば教えてほしいです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、通行するクルマ以外に邪魔者はいません。効率よく死体処理(カラス等の食事)が進むでしょう。

ご質問ですが、戦国時代の戦いでの戦死者の遺体は、下記の経過を辿ったと思われます。

1. 戦死者は、首を取られた状態で戦場に残されている。
よほど大きな合戦、例えば武田信玄が徳川家康を完敗させた三方ヶ原の合戦でも、徳川軍の戦死者は1000人行かない計算のようですから、そんなに大きな数ではありません。普通の合戦なら「戦死者10人」とかの単位です。

2. 戦闘が終わって両軍が引き上げると、既に回答されているように農民たちが「戦場狩り」を行います。これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれていたようです。
この際は、我々の眼から見て価値がある鎧、刀、槍などはもちろん、着ているものもフンドシに至るまで全て剥ぎ取られます。戦国時代の日本は、今の北朝鮮のような「使えるものは全て使う」社会ですから、例えば「戦死者がつけていた、血に染まったフンドシ」でも洗えば価値があるので剥ぎ取られました。地位のある武士が着ていた服は、農民から見れば「超豪華な織物」ですから、血や泥を落として分解すれば高値で売れました。(和服は、縫った部分をほどけば長い反物に戻ります)

3. 農民が徹底的に戦場狩りを行った後、戦死体は、全て丸裸になったでしょう。即ち、冒頭で説明した「クルマに轢かれたタヌキ」と同じ状態です。この状態であれば、後は野生動物が死体を処理してくれたと想像できます。実際、合戦の後の戦場をカラスが徘徊している様子が、当時の手紙か何かで描写されている例があったと思います。

4. 現在も痕跡が残るように、地元の僧侶が穴を掘って死体を埋め、供養したと言う例もあったでしょう。これは、「戦場狩りで大儲けした農民たちが、罪滅ぼしの気持ちで供養を依頼」ということが多かったのではと思われます。

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、...続きを読む

Q第二次大戦中に現代の自衛隊を投入したら

くだらない質問ですが、気になったので書いてみます。

第二次世界大戦末期の1945年1月1日時点に、現在の最新鋭の自衛隊(航空・海上・陸上)の全戦力を日本本土に投入したら、日本軍は勝てるのでしょうか?兵器の生産設備などは投入しないものとします。

いくら最新鋭の戦力を持っていても核と資源がないのでアメリカが多大な犠牲を出しながらも勝つだろうという見方もできるし、当時の日本はインドネシアを占領していたので資源不足を克服し日本の勝利という考え方もあると思います。

Aベストアンサー

戦争に「絶対」は無いですから必ず勝てるとは言いませんが、面白い勝負にはなるでしょう。

近代軍では補給が重要な要素を占めるので、どれだけの弾薬や燃料、整備、補給品を保持しているかで、戦い方も変わってきます。自衛隊のそうした物資の正確な保有量が不明なので、推測するのは困難なのですが、とりあえず・・・

1945年1月の時点なら、できるかどうかは分かりませんが、まずは自衛隊の戦力を秘匿します。
2月の米軍による硫黄島攻略あたりで航空自衛隊の全力出撃です。
この次期、米艦隊は正規空母12隻、護衛空母17隻を含む大艦隊を出撃させてきており、このうちの正規空母12隻、護衛空母4隻が日本近海に現れ本土空襲を行っています。これを狙います。ちなみに、この当時の米艦隊の正規空母の数は14隻ですから全部撃沈できれば、後がかなり楽になります。
F2攻撃機、約80機を中心とする対艦ミサイル攻撃で、空母を撃破します。現代の対艦ミサイルを当時の米軍艦艇がそれほど迎撃できるとは思えないので、うまくいけばかなりの空母を撃破できるのではないかと・・・
また、B29への迎撃にもF15を出撃させます。最大で4発のミサイルを別々の目標に連続発射できるF15の戦闘力に、B29の部隊は大打撃を受けるのではないかと・・・
さらに海上自衛隊の潜水艦部隊によるハワイの真珠湾攻撃を行います。ハープーン対艦ミサイルは対地攻撃にも転用可能とという事なので、ハープーンで真珠湾の燃料施設や艦艇補修設備などに攻撃を行い、打撃を加えます。
要は自衛隊の進んでいる兵器を一挙に出して大打撃を加えるとともに、米軍にショックを与えます。
これでうまくいけば、アメリカは空母艦隊とB29の部隊とハワイの後方施設に大打撃を受け、直ぐには大きな作戦をできなくなるのではないかと思います。

その後は、まずシーレーンの確保です。九州から中国沿岸、そして台湾海峡を通ってシンガポールへの海上交通路の守備に海上自衛隊のP3C対潜哨戒機の部隊や、一部航空自衛隊の戦闘機部隊を派遣します。輸送船団には海上自衛隊の護衛艦隊も付けます。航空部隊の根拠地の設営は大変でしょうが、部隊が稼動すれば米潜水艦隊の脅威へ大きな力になると思います。日本の輸送船の撃沈された半数は、米潜水艦隊の通商破壊戦によるものだそうですが、当時の旧式な潜水艦なら現代の対潜哨戒機と護衛艦でかなりの確率で防ぎ、逆に戦果をあげられるのではないかと思います。
日本本土の防空は航空自衛隊の戦闘機とPAC3ミサイル部隊と、陸上自衛隊の高射特科団(改良ホーク地対空ミサイル部隊)が守ります。
攻撃には海上自衛隊の16隻の潜水艦部隊を使います。潜水艦隊で通商破壊戦を行います。第二次大戦末期のドイツで建造されたUボート21型は連合軍の対戦哨戒部隊にも察知されにくかったそうです。それよりさらに技術の発展している現代の潜水艦なら数は少なくとも大きな戦果を期待できると思います。
未だフィリピンの日本軍の抵抗は続いており、米陸軍20万人が投入されている時点で、米空母艦隊が大打撃を受け、さらに通商破壊戦を仕掛けられたら・・・米軍は楽勝とはいかなくなるでしょう。

米軍としてはこうした進んだ技術の兵器対策に苦慮する筈です。簡単には有効な対抗策は出てこないのではないかと思います。まずは打撃を受けた艦隊の再編と、戦略爆撃部隊の戦術の見直し、フィリピンへの海上補給路の守備を固め、真珠湾の設備の再建をしなければなりません。
建造中のエセックス級空母の建造を急いでも、半年以内に戦闘に参加させる事ができるのは5隻です。
大西洋から部隊を回す必要も出てくるかもしれません。

一方、自衛隊を除く日本の連合艦隊の状態はよくありません。
戦闘可能な空母は小型の鳳翔1隻ですし、戦艦は2隻、巡洋艦も数隻、駆逐艦も二十数隻というありさまです。
南方から資源が入ってきたら、まずは艦隊の増強が急務でしょう。まずは空母で建造途中の伊吹、天城や損傷状態の龍鳳、準鷹、葛城を戦闘可能な状態にしなければなりません。
他にも損傷を受けている戦闘艦艇があるので、大至急修理が必要です。
また、輸送艦の建造も急務です。1945年1月から終戦時までに約180隻の輸送船が建造されています。
しかし、同じ期間に実に700隻が沈められているのです。
まあ、自衛隊の参戦で、その数は減るでしょうが、しかし、1944年だけでも約970隻の輸送船が撃沈されています。
日本の造船所はとにかくフル稼働しなくてはならないでしょう。
また、航空機パイロットの育成や、戦闘機などの生産も必要でしょう。
時間は幾らあっても足りないくらいです。

こうした中で、日本の潜水艦隊がどれだけアメリカに打撃を加えられるかが重要だと思います。
そしてフィリピンの米軍を孤立させ、ハワイを孤立させる事ができれば、新たな展望が開けるかもしれません。
時間が立てば、連合艦隊の戦力もある程度は回復してきます。そうなれば、新たな作戦を立てる事も可能となるでしょう。

なお、そのうち満州にソ連軍が侵攻してくるでしょうが、これについては航空自衛隊の支援を受け、東満山地で持久戦を行えば、かなりの機間、持ち堪える事ができるのではないかと思います。

戦争に「絶対」は無いですから必ず勝てるとは言いませんが、面白い勝負にはなるでしょう。

近代軍では補給が重要な要素を占めるので、どれだけの弾薬や燃料、整備、補給品を保持しているかで、戦い方も変わってきます。自衛隊のそうした物資の正確な保有量が不明なので、推測するのは困難なのですが、とりあえず・・・

1945年1月の時点なら、できるかどうかは分かりませんが、まずは自衛隊の戦力を秘匿します。
2月の米軍による硫黄島攻略あたりで航空自衛隊の全力出撃です。
この次期、米艦隊は正規空母12隻、...続きを読む

Q住民税は、およそでいいのでいくらなのか教えて下さい

閲覧ありがとうございます。

住民税について質問があります。

私は今まで住民税払ったことがないです。30代後半まで。

今まで親の扶養に入っていたから?だと思うのですが、
世帯分離して国民健康保険に加入したのですが

住民税は発生するのでしょうか?

最近、国保に加入して、どれくらい出費があるのか、考えていたら

年金と健康保険とあと住民税かな?と思いまして
ですが住民税っていくらなのかパッとしないので、
ネットであちらこちらと閲覧してみたところ、
個人差があり年間10万払ってる人と30万払ってる人がいるようです。

国民年金が全国一律15240円だったと思います、年間約18万円
国民健康保険が私の市だと、月16000円くらいで、年間約19万円

この2つだけで年間37万円も払わなければならないです。

住民税というのが、いくらかかるのか全くわからず
ネット上では年間10万以上は払うように書かれているのですが

ということは、年金、健康保険、住民税を合計すると年間50万以上
必要のように思えてしまうのですが、これは本当なのでしょうか?

私は年収200~230万位で 
年金は銀行引き落とし、健康保険は払い込み用紙で毎月払う形
住民税は毎月払うのでしょうか?

毎月払えれは、楽なのかと思いきや、年収200万くらいで
年間10万~30万 高い人は50万くらいだそうなんですけど

自由になるお金減りすぎますよね。

あと40歳になると、介護保険料 というのが発生するみたいなんですが・・

年収からこれらを全部引いてしまうと、手取り150万くらいになってしまうのですが
こんなんで、ひとり暮らしは可能なのでしょうか?

月の収入で見ると

月給 180,000円
年金  -15,000円くらい
健康保険-16,000円くらい
所得税 -7000円くらい
住民税 -???円(仮に10,000円として)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄手取り 132,000円 

醜い数値が出ました。

ひとり暮らしをしたら

知人の話では家賃4万円で光熱費いれるとトータル6万円くらいだそうです。
食費が、節約を常に考えても、1日1000円でも月3万円
この時点ですでに9万円です。 
残りは42000円、これで生活できるのでしょうか・・

閲覧ありがとうございます。

住民税について質問があります。

私は今まで住民税払ったことがないです。30代後半まで。

今まで親の扶養に入っていたから?だと思うのですが、
世帯分離して国民健康保険に加入したのですが

住民税は発生するのでしょうか?

最近、国保に加入して、どれくらい出費があるのか、考えていたら

年金と健康保険とあと住民税かな?と思いまして
ですが住民税っていくらなのかパッとしないので、
ネットであちらこちらと閲覧してみたところ、
個人差があり年間10万払ってる人と30万払...続きを読む

Aベストアンサー

年収210万円とした場合の住民税
住民税は「所得割」と「均等割」の2つの課税があります。
所得割
1360000円(所得)-370000円(社会保険料控除)-330000円(基礎控除)=660000円(課税所得)
660000円(課税所得)×10%(税率)=66000円
これに、均等割5000円がプラスされ71000円が税額です。
なお、給与所得の場合、「収入」から「給与所得控除(年収によってきまります)」を引いた額を「所得」といいます。

71000円÷12=5900円/月
が、毎月の給料から天引きされます。

なお、所得税は7000円も引かれません。
4000円くらいですし、最終的には引かれた所得税の一部が年末調整で還付されます。
年末調整のとき、1年間に払った年金と国保の保険料申告することを忘れないですることです。

Q徳川家康はそれほど脅威だったのか?

昨日、仇討ちについて質問させて頂いた者です。皆さんの豊富な知識を是非お借りしたく、新たな質問(長年の疑問でした)をさせて下さい。

戦国の世を最終的に征した徳川家康ですが、どうして三河の小領主、徳川があの時代を生き抜き、最終勝者となったのでしょうか?
まず駿府人質時代はさておき、信長の同盟者となった後、あの信長がこれほど厚遇したのは何故でしょうか?(息子は死を賜りましたが)甲斐武田の存在だけなら、武田滅亡後か弱体後にでも家康は用済みなのでは?(すぐに本能寺ですが)

更には秀吉です。小牧・長久手で争いながら、何故に妹、母までだして妥協したのでしょうか?仮にそのあの場はそうしても、北条滅亡、伊達の恭順後には滅ぼせたのでは無いでしょうか?結局、我が子を死なす結果となるような強敵を放置しておいたのか、理解出来ません。

信長にしろ秀吉にしろ、そんなに家康が脅威だったのでしょうか?あるいは脅威として、どうして排除しなかったのでしょうか?
どなたか、ご意見をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

信長が家康と同盟を結んだのは、京都への進出をするために当方の守りを
固めたかったからです。

武田氏が滅亡しても、上杉や北条といった有力な戦国大名が残っており、
東方への押さえの要として期待していたのでしょう。

また、実際に家康率いる徳川軍は強かったんですね。戦力として大いに期待し
ていたのでしょう。
兵農分離を断行した結果、織田の軍隊は1年中稼動できるようになりましたが、
素性の悪い人を雇うことが多かったようで、粘りが全然なく、大規模な白兵戦
になると脆さを出すことがたびたびありました。

そのことがよく現れたのが、姉川の戦いです。
浅井・朝倉vs織田・徳川の連合軍が姉川で戦いますが、織田軍は白兵戦に弱く
浅井軍に攻め立てられ、信長の本陣までせまる勢いでした。
それに引き換え、三河のビンボー田舎侍であったけれども、主従の結束が強かっ
た徳川軍は兵数を上回る朝倉軍を追い散らした後、苦戦している織田軍を助け、
浅井軍を敗退させることに成功しました。

しかし疑い深い信長は、機会あらば徳川を潰そうとしていたかもしれません。
天下統一の途上で役に立つ間は生かしておくでしょうが、有力な敵がいなく
なった時点で、家康を潰しにいく可能性は大いに考えられます。
実際、家康の正妻と長男が自害に追い込まれたのは、信長の猜疑心ゆえの結果です。
幸いにして、信長が天下統一を果たす前に本能寺の変で倒れたために、徳川家は
潰されずにすみました。


一方の秀吉ですが、信長と違い敵対する大名を滅ぼすようなことは積極的にせず、
むしろ相手を降参させて自分の陣営に取り込む方法で天下統一を成し遂げました。
これは天下を統一するまでの秀吉の美点だと思いますが、人を殺すことを好まな
い性格によるものと思います。

小牧・長久手の戦いで破れた秀吉は外交で家康を取り込みますが、自分の方が
勢力が大きいにも関わらず人質を出すことまでします。
これは家康の猜疑心を解くためでもありますが、むしろ今後天下統一を進める
上で、自分の方針(味方になれば領国は安堵し、命をとるようなことはしない)
を他の戦国大名にアピールするためでもあったかと思います。

それまでの戦国大名の戦いは、信長のように相手を攻め滅ぼし一族全てを抹殺
する方が主流でしたから、秀吉が自分の考えを天下に示すよい前例になったよう
に思います。

一方の家康も、秀吉が「生きている」間は彼によく仕え、相手に猜疑心を抱かせ
るような素振りは見せませんでしたので、豊臣政権下での実力No.1の位置を保つ
ことができたのではないでしょうか。

信長が家康と同盟を結んだのは、京都への進出をするために当方の守りを
固めたかったからです。

武田氏が滅亡しても、上杉や北条といった有力な戦国大名が残っており、
東方への押さえの要として期待していたのでしょう。

また、実際に家康率いる徳川軍は強かったんですね。戦力として大いに期待し
ていたのでしょう。
兵農分離を断行した結果、織田の軍隊は1年中稼動できるようになりましたが、
素性の悪い人を雇うことが多かったようで、粘りが全然なく、大規模な白兵戦
になると脆さを出すことが...続きを読む

Q「昏い」の意味

恩田陸さんの「禁じられた楽園」をよんでいたら
「昏い」という言葉がでてきました。読みは「くらい」でいいのでしょうか?
意味を調べましたが よく分かりません。
「暗い」との違いを教えてください。
また調べる事が可能なサイトあれば教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

はじめまして。
何で読んだかは忘れてしまったのですが、
「暗い(くらい)」→主に明暗明るさを現す。
「昏い(くらい)」→日が暮れて暗いさま。転じて、心理状態を現すときに使う。
まるで日が暮れてあたりが真っ暗になったときのように気持がふさぎこんだ状態。先が見えずどうすればいいか戸惑っている様子……。
だったような……。
記憶なのでちょっとあいまいですみません。
     


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング