【猫好き必見】ゆるゆる、ふにふに猫映画6選

 霊のお話です。
 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊と。

 1. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン
   我:アートマン

 2. ゴータマ・ブッダ:無無一如
   無:空・シューナター・ゼロ
   無:無我・アン‐アートマン;ニルワーナ

 3. ブディズム:仏仏一如
   仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
   仏:如来蔵・仏性

 4. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

 5. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

 6. シントウイズム:もののあはれを知る
   =きよらかなおそれ
   =聖なる甘え
   =わび・さび




 ご教授ください。

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A 回答 (30件中1~10件)

色々とバタバタとしていたもので、ご無沙汰しておりました。

こんばんはです。


☆☆☆
◇ 霊のお話です。
 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊と。
◆真言宗では、よく、仏(法身仏)を宇宙生命と言い換えますね。で、小宇宙(わたし)と対比する。華厳もそうかな。
なので、
真言は、ずばり、
 ☆1. ブラフマニズム:梵我一如
です。真言系の密教学者なども、一般向けの書物では、平気で《梵我一如》という言葉を使ったりします。
《梵》や《我》という言葉が(大乗)仏教的にまずいのならば、《仏衆生一如》や《仏凡夫一如》とでも言い換えればいいだけの話。所詮、言葉の違いにすぎないでしょう。でも、密教では、《聖俗一如》という言葉を使うのかな。密教はヒンドゥーイズムの影響を受けているんで。。。。
生きとし生けるもの、つまり、《衆生》に《仏性》や《如来蔵》なるものがあるのならば、それを《アートマン》と呼んでも構わないんじゃないでしょうか。《勝鬘経》では、《如来蔵》を《真なるアートマン》と言っていますので。法身仏を《真なるブラフマン》と呼べば、《梵我一如》!!

さらに、真言宗の僧侶系の仏教学者などは、「宇宙を見よ。常に我々に語りかけているではないか。法身仏は我々に教えを説いているのである」などと言って、《法身説法》の根拠の一つにしたりもしますね。真言宗の根本経典(純密と呼ばれる経典群)は、釈迦牟尼仏陀ではなく、法身仏である大日如来(マハーヴァイローチャナ・華厳経の毘廬舎那仏と同じ仏さまです)が直接説いたとされるお経なので、その法身仏が説法をする根拠の一つにしています。何しろ、大乗では、法身仏はけっして教えを説かないとされているもので(笑い)。
以前、報身の《自受用身》は、仏の悟りの一歩手前の段階にある十地の菩薩でも、その姿は見えないなんて書いたでしょう。《自受用身》はまさに《唯仏与仏》の世界なんです。菩薩に見えるのは、報身の《他受用身》だけだと。まして、法身は……。大乗仏教の教義では。法身が直接教えを説くなんて論外なんです(笑い)。法相の徳一は、空海に「《法身説法》はおかしいじゃないか」と噛みついています。

いけない、いけない、また脇道にそれてしまった。僕の悪い癖が出てしまった。


☆☆☆
◇3. ブディズム:仏仏(性)一如
   仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来・毘廬舎那仏)
   仏:如来蔵・仏性
◆ですね。
《如来蔵》はそのものずばり《法界》《法身》の遍満性から導き出された思想ですので、まったく同じものです。《如来蔵》=《仏性》とされていますので、おっしゃる通りです。

余談ですが、
真言宗のお坊さんたちの中には、
密教の教主である大日如来と華厳経の教主(?)である毘廬舎那仏を区別し、大日如来を大毘廬舎那仏などと呼び、毘廬舎那仏よりも高度な存在と考える人もいますが、それは自宗を他宗よりすぐれたものとするための狭小な宗派根性のなせる業(わざ)でしょう。両者は全く同じ仏さまです。
ちなみに、日本の華厳宗では、報身の《自受用身》を廬舎那とよび、法身仏である毘廬舎那仏と区別したりする考え方もあるみたいですね。で、報身の《他受用身》を阿弥陀仏とする。
僕に言わせれば、くだらん議論だと思うんですが、どうでげしょ?



☆☆☆
◇ 2. ゴータマ・ブッダ:無無一如
   無:空・シューナター・ゼロ
   無:無我・アン‐アートマン;ニルワーナ
◆これはどうでしょう。ちょっと違うような気が。。。。
ゴータマ仏教、《空》を直接的には説きませんし、《空》が前面に出てくるのは大乗仏教ですので。。。。
《無無一如》の前、あるいは後ろの《無》を《無為》(作られたものではない)ととらえれば、
まぁ、《無無一如》と言えないこともないのでしょうが。。。。
bragelonneさんは誤解しないと思いますけれども、
ここでの《無為》は老荘や浄土真宗の《無為》、つまり《人の為すわざではない》《人のはからいではない》とは違う概念で、《縁起》や《業(の結果)》として作られたものではないという仏教オリジナルの意味です。たぶんにアビダルマ的ですが。。。。
アビダルマ教学(説一切有部などの教学)では、涅槃(ニルヴァーナ)は《無為》の一つとされているんで。。。。
また、《無我》なればこそ《涅槃》があるので。

《眠り猫》的には、《無》という言葉は、中国の老荘ティックな意味合いが非常に強いので、使いたくないですね。中国仏教のような、誤解の上に誤解を重ねる《空》の形而上学の構築の危険性をはらんでいるので。。。。



☆☆☆
◇ 4. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》
◆言葉の違いこそあれ、(大乗)仏教でも同じでしょう。徹底的に普遍化された《神》ならば、それを《仏》と呼ぼうが構わない、と、《眠り猫》は個人的に、そう考えます。
でも、多くのブディストは反対するんだろうな、きっと。
仏教は《神をたてない宗教》というのが建前なので。



☆☆☆
◇5. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》
◆プラトンというよりも、新プラトン学派的な考え方なのかな、これは。
たぶん、そのままんじゃ駄目なのでしょうが、新プラトン学派は、《神性の流出》とか何とか言いますよね。個人的には、新プラトン学派の《流出》説は、華厳教学の《法界縁起》に似ていると思うんですよ。《縁》に触れて《真如》が法界からこっちの世界にやって来て現象化するって考え方に。
新プラトン学派の《流出》説については、グノーシスの勉強で少しかじった程度なので、パスですね。これ以上危ない橋は渡りたくないもので。もう既にブディストを刺激することを結構、書いているもので(笑い)。


☆☆☆
◇ 6. シントウイズム:もののあはれを知る
   =きよらかなおそれ
   =聖なる甘え
   =わび・さび
◆その内に、bragelonneさんがこの考え方を披露するのだろうと予想していました。
日本人の仏教の《無常観(感)》は、平家物語の有名な冒頭部分
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
でしょう。
論理的というよりも感性的で、《もののあわれ》から仏教の《無常観》をとらえる。
たぶん、インドの無常観とは全然違うんでしょう、きっと。
暑くて湿気の多いインドでは、ものはすぐに腐ってしまう。たぶん、古代インド人、インドの仏教の無常観はこちらをベースにしているのではないかと。言ってみれば、日本の梅雨の季節のイメージですよ。食べ物はすぐに腐ってしまう。カビてしまう。草を刈っても、すぐに新たな草が芽吹いてしまう。このvividな部分にインド人は無常を見る。輪廻も然り。圧倒的な生命力の強さに、《再生》の恐怖をいだいたんじゃないなと。。。。
ほら、日本人、梅雨の季節のカビを見て、絶対に《物の哀れ》を感じないでしょう。古今集とかに、《カビ》の歌なんかないでしょう。むしろ日本人は《カビ》の姿に生命の強さ・逞しさを見る。。。。

《わび・さび》ねぇ~、お茶の世界などでは、ここから《一期一会》なんて考え方が出て来ますよねぇ~。禅宗的といえば禅宗的なので、まぁ仏教なのかもしれませんが、どうでしょう。
《わび》や《さび》に重点を置くと、無常なるものに価値観を置くことになって、仏教ではなくなってしまうと思うのですよ。

もっとも、《物の哀れ》を源泉として《無常》をとらえるという日本人の仏教の無常観は、それはそれで構わないと思います。
大切なのは、《色・rupa》が《壊れる存在》であり、そのことを体感するとことなので。古代インドの仏教学者たちが理詰めで《空》を感じようとしたところをを、日本人は《論理》を越えてその《理・ことわり》を体感してしまえるので。

でも、日本人は、《壊れるもの》にすぐに価値を置いちゃう傾向があるからなぁ~。
それでは、仏教にならないし、どうでげしょ?
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんばんは。しばらくです。ご回答をありがとうございます。

 ◆ 真言系の密教学者なども、一般向けの書物では、平気で《梵我一如》という言葉を使ったりします。
 ◇ ですか。そうなりゃあ 話が早いと思います。

 ◆ 《勝鬘経》では、《如来蔵》を《真なるアートマン》と言っていますので。
 ◇ そこまででしたか。

 ◆ ~~~~~~
 真言宗では、よく、仏(法身仏)を宇宙生命と言い換えますね。で、小宇宙(わたし)と対比する。華厳もそうかな。
 なので、
 真言は、ずばり、
  ◇ 1. ブラフマニズム:梵我一如
 です。
 
 ・・・《仏衆生一如》や《仏凡夫一如》・・・。密教では、《聖俗一如》・・・。
 ~~~~~~~~

 ◆ 法身仏を《真なるブラフマン》と呼べば、《梵我一如》!!
 ◇ 《法身仏》というところが ブディズムの特徴になりましょうか? と言っても 《三身常住》であるなら これまた《三位一体》なる神すなわち 特には《ことばが肉となった》というイエスの話に からんで行くと思われます。応身ですね。こまかくは おまかせになりますが。
 そこは アートマンだけのブラフマニズムとは違うところでしょうか?



 最後の点は さらに次のお話とからみます。 
 ◆ 真言宗の根本経典(純密と呼ばれる経典群)は、釈迦牟尼仏陀ではなく、法身仏である大日如来(マハーヴァイローチャナ・華厳経の毘廬舎那仏と同じ仏さまです)が直接説いたとされるお経
 ◇ つまり 小学生としての質問ですが 報身も応身も 法身と一体ではないのでしょうか? です。

 なぜ次のように区分するのか? です。
 ◆ ~~~~
 以前、報身の《自受用身》は、仏の悟りの一歩手前の段階にある十地の菩薩でも、その姿は見えないなんて書いたでしょう。《自受用身》はまさに《唯仏与仏》の世界なんです。菩薩に見えるのは、報身の《他受用身》だけだと。まして、法身は……。大乗仏教の教義では。法身が直接教えを説くなんて論外なんです(笑い)。法相の徳一は、空海に「《法身説法》はおかしいじゃないか」と噛みついています。
 ~~~~~~~~
 ◇ 自受用身と他受用身とに分けることじたいが 分かりません。内向的で自閉症でなければ 他受用身であるか または つねに両者が互いに溶け合っているはずではないかと。





 ◆ ~~~~~
 余談ですが、
 真言宗のお坊さんたちの中には、
 密教の教主である大日如来と華厳経の教主(?)である毘廬舎那仏を区別し、大日如来を大毘廬舎那仏などと呼び、・・・
 ~~~~~~
 ◇ マハー・ワイローチャナ(大毘廬舎那)を 大日と訳しているのでしょ?



 ◇ 2. ゴータマ・ブッダ:無無一如
 ◆ゴータマ仏教、《空》を直接的には説きませんし、《空》が前面に出てくるのは大乗仏教ですので。。。。
 ◇ ヰキぺでも そのように書いてあります。ただ《縁起》をゴータマは説いており この縁起説は空観と同じだという理解があるのですが 成り立ちませんか?

 それと 無我=アン‐アートマンなる説は けっきょく神学一般にあてはめれば 《無神論》となると考えられます。その意味でも 無無一如に傾きました。

 ◆ 《縁起》や《業(の結果)》として作られたものではないという仏教オリジナルの意味です。
 ◇ としての《無為》 からの《無》なら考えられると。

 ◆ ~~~~~
 アビダルマ教学(説一切有部などの教学)では、涅槃(ニルヴァーナ)は《無為》の一つとされているんで。。。。
 また、《無我》なればこそ《涅槃》があるので。
 ~~~~~~~~~~~
 ◇ でも もっとピッタリの表現があるようですか?

 ◆ 《眠り猫》的には、《無》という言葉は、中国の老荘ティックな意味合いが非常に強いので、使いたくないですね。中国仏教のような、誤解の上に誤解を重ねる《空》の形而上学の構築の危険性をはらんでいるので。。。。
 ◇ ゴータマにとって《ブラフマン》と同じ位置に何かを置くとしたら 何になりましょうか?




 ◇ 4. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》
 ◆ ~~~~~~~~
 言葉の違いこそあれ、(大乗)仏教でも同じでしょう。徹底的に普遍化された《神》ならば、それを《仏》と呼ぼうが構わない、と、《眠り猫》は個人的に、そう考えます。
 でも、多くのブディストは反対するんだろうな、きっと。
 仏教は《神をたてない宗教》というのが建前なので。
 ~~~~~~~~
 ◇ この主題では ひとえにブティストの方々に心を開いていただきたい。こうのぞみます。



 ◇5. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》
 ◆ プラトンというよりも、新プラトン学派的な考え方なのかな、これは。・・・
 ◇ 精確を期す必要があるでしょうが この主題は それほど異論が出るとも思えないところがあります。その構図を確認するだけでもよいかと。



 ◇ 6. シントウイズム:もののあはれを知る
   =きよらかなおそれ
   =聖なる甘え
   =わび・さび
 ◆ むしろ日本人は《カビ》の姿に生命の強さ・逞しさを見る。。。。
 ◇ そう言えば 葦かびの萌え? ちょっと違うかな。
  
 ▼ うましあしかびひこぢ‐の‐みこと【可美葦牙彦舅尊】 ~~~
  http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/20282/m0u/

 日本神話で、国土が油のように漂っていたとき、アシがもえ出るように生じた神。生命力の神格化。
 ~~~~~~~~~~~~~


 ◆ 《わび》や《さび》に重点を置くと、無常なるものに価値観を置くことになって、仏教ではなくなってしまうと思うのですよ。
 ◇ いえ。質問者としましては ここは 構図だけを共通のものとした上で 日本人にとってはブディズムかどうかにかかわりなく 考え捉えてみたいと思います。構図も同じではないかも分かりません。


 ◆ 大切なのは、《色・rupa》が《壊れる存在》であり、そのことを体感するとことなので。
 ◆ でも、日本人は、《壊れるもの》にすぐに価値を置いちゃう傾向があるからなぁ~。
 ◇ ええ。ただし ただしですね わび・さびは その物も心も錆びついてしまったその状態から意外と生命力を発揮して立ち上がるといった積極的な一面もあるかと思うのです。開き直りだとしてもです。
 《あはれ》は 哀れだけではなく あっぱれ(天晴れ)にもつながるというもうひとつの見方があるとか。
 《きよらかなおそれ》は わびしさ・さびしさを突き抜けて行くちからをもそなえているかもという意味ですが どうでしょう?


 盛りだくさんですね。
 それに 次の回答No.15は 実質的にねむりねこさんに尋ねていると言ってもよいようですし。

お礼日時:2012/10/12 21:51

bragelonneさん、かざみどりさん、こんばんはです。



No28の質問って僕宛ですよね。実家の宗教である真言宗についてもよく知らないのに、ましてインドで花開いた後期密教についてはまったく知らない。弱ったなぁ~。
ですが、知る範囲でお答えします。


☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
空海のもたらした密教はまだ道徳などを
保っていると思うのですが
それでも理趣経を扱っていたりする。
~~~~~~
理趣経、結構、際どいことを書いてありますよね。特に第一段の清浄十七の句。あれはもろにSEXですものね。しかも、第三段には
「金剛手(密教行者:眠り猫註)よ、もしそなたが、この『悪は自性悪ならず』という理趣【みち】を聞き、これを身に保ち、読み唱えるならば、たとえ三界の一切の有情を害【ころ】すとしても、けっして悪の報いをうけて下界に墜ちることはない。それどころか悪しきものを調伏することのよきむくいをうけ、疾【すみ】やかに、無上の正等菩提を証すであろう。」 (中村元編 大乗仏教 筑摩書房 理趣経 金岡秀友訳)
と、かつて世を騒がした宗教団体の教義を肯定化する内容まで記されている。
仏教や世の中の道徳などどこ吹く風の感がある。

この矛盾を読み解く答えは理趣経の正式名称《大楽金剛不空真実三摩耶経》の《大楽》にあるんでげす。
《大楽》、大いなる楽とは、相対を超えた絶対の楽の意味。絶対に揺るがない楽なんでげす。《大楽金剛不空》とは「大いなる楽はダイアモンドのように堅固で、虚しくない》って意味なんです。SEXのごとき一時的な快楽を意味しないんでげす。

じゃぁ、何で、十七清浄の句があるんだ?
それは、理趣経が密教経典であるのと同時に般若経だからです。清浄というのは空の意味。人間のSEXという営みは空だ。でも、空だから本来清浄だ。
SEXという最も卑近な例を取り上げ、人間の営みは空だけれど本来的に清浄だと、生命の尊厳を大胆に、肯定的にうたっているんでげす。生命の絶対視なんです。
ちょっと大乗的・ロゴス的な答に過ぎるかな、ポリポリ。

《一切の有情をホニャララ》。これをどう読み解くのか、多くの密教家を悩ませた。まぁ、これを文字通りに解釈する人はいないと思いますけれども、字義と通りに受け取って、理趣経受持の功徳の偉大さを説いたものと考えるか、この中に宗教的な意味を読みとろうとするか。金岡秀友訳では両論併記の形で註が施されています。参考までに、空海の解釈を紹介します。
  この世の三毒・貪(むさぼり)瞋(いかり)癡(おろかさ)をうちほろぼし。。。。
ちょっと理性的、道徳的にすぎやせんか、空海さん。ここは字義通りに読むべきじゃありませんか(カオス眠り猫の声)。

密教経典は、こうした危うさを持つのは事実。後期密教は、それはそれは。。。。とても口にできません。どんなことが書いてあるか、岩本裕の仏教入門に少しだけ書いてあるので、参考になさっては。
チベット仏教で最も重要とされている聖句《オムマニペメフム》の意味なども詳しく解説してあります。その意味はとてもここには書けません。女性器を讃えているなど、口が避けても申し上げられません。

ちなみに、真言宗では、お葬式の時にお坊さんはかならず理趣経を読誦します。そして、どんなことがあっても、十七清浄の句の部分は絶対に省略しません。真言の密教経典は、ふだん聞きなれた呉音じゃなく漢音で読むから、どーせ、聞いても、聞いている人には何を言っているか分からない(笑い)。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
密教と戒律はどうやって両立するんだろう。
~~~~~~
密教に限らず、仏教は戒律を重視します。三学って戒定慧。三蔵は律経論の三蔵。戒律を重んじない仏教はありえない。
なのですが、実際は密教に限らず、多くの日本の仏教者が妻帯をしていたみたいですね。平安時代の末期にはかなり乱れていたようです。
で、おもしろいことですが、戒律復興の大きな動きは真言宗から起こる。日蓮が罵詈雑言を絶えず浴びせかけていた忍性ですよ、忍性。そして、そのお師匠さんの叡尊。仏教本来の姿に戻ろうですよ。江戸時代では、慈雲尊者飲光。しかも、叡尊・忍性らは癩病者や非人救済などの救済事業も大々的に行なった。
後期密教については、今のチベット仏教の様子を見れば分かるんじゃないですか。チベットの出家者や密教者は、戒律を非常に重視していますよ。
叡尊・忍性を祖とする真言律宗は以下のサイトで。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80% …

義浄だったかな、彼の本の中に、
ナーランダ寺院(仏教の大学だね)に行ったら、そこの学僧たちは、昼間は中観や唯識の哲学に励み、夜は密教の修行に励んでいた
みたいなことを書いているらしいですよ。

もっとも、インドの左道密教の中には、SEXを修行に取り込んだ一派があったのも事実なんだけれども。人を殺せとか、○○を犯せとか。
この辺のことは、不勉強で、よう分かりません。




☆☆☆☆☆☆
日本の左道密教・真言立川流はどうなんだ?
理趣経の記載をそのまま修行の中に取り入れ、それを弘法大師の真説だと言い、セックス教を作ったといわれますわね~。
でも、これは高野山側の主張だから、どこまで信用していいのやら。インド後期の左道密教の血を引くチベット仏教もあるんで、こればっかりは。
歌川大雅という人の立川流についての記事を以前読んだことがありますが、おどろおどろしいものがありますね。でもまぁ~、ひと様に迷惑をかけるわけじゃなし、人を殺したり、他人に危害を加えたりするわけじゃなし、それはそれでありなんではないかなとも思ったりもします。これを仏教と呼ぶかどうかは、人によって意見がわかれると思いますけれども。



☆☆☆☆☆☆
合わせて、bragelonneさんの
~~~~~~
 ★★ ~~~~~~~
 《一念三千》が成立しないことは、おっかなくて口にはできない。
 天台の空中仮の三諦ホニャララは、中論の誤解の産物で、まったくのデタラメであることなど、チキンの僕には、恐くて口にできない。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ これが気になっています。一念三千は 人間論のひとつの基本であるようにも思われます。どうなってるんでしょう?
 あらたに質問を立てたほうがよいでしょうか?
~~~~~~
これは勘弁してください。
十界互具 10×10 = 100
十如是 100×10 = 1000
三世間 3×1000 = 3000
この三千という数字に意味があるんですよ。三千世界ってあるでしょう。これは宇宙そのものを意味するんですよ。(実は~、三千=1000×1000×1000)
たとえば、十如是が七如是じゃ、一念二千百になって意味をなさない。羅什訳の法華経でなかったら、生まれなかった。。。。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ たとえば、十如是が七如是じゃ、一念二千百になって意味をなさない。羅什訳の法華経でなかったら、生まれなかった。。。。
 ☆ 如是のところですか。

 そう言えば 読んだんだった。

 ▼(渡辺照宏:法華信仰) ~~~~
 ・・・
 たとえば『法華経方便品』の一節をサンスクリット原典(チベット語訳も同文)から訳すと次のようになる。

  「シャーリプトラよ ただ如来のみが如来に対して 如来が知るところの諸法を説くであろう。シャーリプトラよ 一切諸法を如来のみが説く。一切諸法を如来のみが知る。〔すなわち〕どの諸法かということ どういう諸法かということ どのような諸法かということ どういう相(特色)を持った諸法かということ どういう自性を持った諸法かということ 〔つまり〕どの どういう どのような どういう相を持ち どういう自性を持った諸法かということ その諸法について 如来のみが目のあたりに見 あらわに見るのである〔直訳すれば あらわに見ないのではない〕」

 この個処は後魏のボーディルチたちの訳した『妙法蓮華経憂波提舎』(元魏のラトナマティたちの別訳も同文)によると

   「舎利弗 唯仏与仏説法 諸仏如来能知彼法究竟実相。舎利弗 唯仏如来知一切法。舎利弗 唯仏如来能説一切法 何等法 云何法 何似法 何相法 何体法 何等 云何 何似 何相 何体 如是等一切法如来現見 非不現見」

 これを上に紹介したサンスクリット本 チベット語訳本と比較すると 「究竟実相」が欠けていることと 「知」「能説」の順序が入れ換わった点が違うだけで あとはまったく一致する。したがって六世紀のはじめにインドから伝えられた『法華経』の梵本は現在のサンスクリット本と大差がないと言える。ところがクマラジーヴァの漢訳によるとこの個所は

   「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相 所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等」

 とあって ひとりかけ離れている。クマラジーヴァの父はインド人であるが クッチャ人を母として生まれ 彼の仏教についての知識や資料は主として中央アジアに由来しているし 漢訳も分かり易く読み易いことを第一の目標としているので 彼の翻訳は厳密な意味では必ずしも信頼できない。

  (『日本の仏教』 1958 III さまざまな流れ / 法華信仰)
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 


 ★ ~~~~
 この矛盾を読み解く答えは理趣経の正式名称《大楽金剛不空真実三摩耶経》の《大楽》にあるんでげす。
《大楽》、大いなる楽とは、相対を超えた絶対の楽の意味。絶対に揺るがない楽なんでげす。《大楽金剛不空》とは「大いなる楽はダイアモンドのように堅固で、虚しくない》って意味なんです。SEXのごとき一時的な快楽を意味しないんでげす。
 ~~~~~~
 ☆ それとして分かったというべきところですが それなら そのことだけ記せばよいように思うと まだ分からないような感じは残ります。いちおう 次の質問での問い求めを添えるかたちで応答します。
 ○ 【Q:なぜ情欲を劣情とするのか?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5922822.html

 


 ありがとうございました。

お礼日時:2012/10/18 22:55

こんばんはです。





☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 ☆ だとすれば ゴータマ・ブッダのチョンボではないのですか? マハーヤーナ思想は そのチョンボをやっとおぎなったと。
 それは 名も無い大衆の心の声が どこからともなく 湧き上がった。そのようなウゴキをこそ 密教は採り入れようとした。
~~~~~~
チョンボ、う~ん。。。。
大乗起信論の言葉を借りれば、ゴータマ仏教(大乗ではない)は、迷いの世界から仏教を構成する、始覚門ですよね。この枠を超えなかった。悟りの世界については説くのを避けた。自性清浄心、これを本当にゴータマ・ブッダは説いたのだろうか?説一切有部は認めていないし、大衆部から起こった思想的動き?
大乗、般若経も始覚門的色彩が強い。
本覚的な色彩が強まるのは、華厳→勝鬘経。毘廬舎那仏が必要だった。釈迦牟尼世尊だけでは不十分だった。
チョンボしたってことになるか。
でも、大乗の人は、そのことを口にはできないでしょう。大乗経典は、釈尊が説いたことになっているんで。

その点、大乗的一面の他に、密教的一面も合わせ持ってますんで、眠り猫。
眠り猫の密教的・カオス的部分が、僕の大乗的・ロゴス的部分に対して絶えず
  ゴータマ~。あの人は、真理の一部分しか見てねえだろうが
と絶えず囁きかける。
  宇宙と小宇宙である人間の秘密は、仏・菩薩であろうが、解明できるもんか!!
  それほど、宇宙(コスモスではない)と人間の秘密は深いんだ
と絶えず嘯いている。。。。
チョンボしたんでしょう、ゴータマ・ブッダ。
釈迦牟尼、あんなもの、秘密真言の教主大日如来はおろか、金剛手菩薩の足下にも及びませんよ。ハハハ。(カオス部分の主張)

心の奥底にある密教的・カオス的衝動が絶えず蠢いているんでげす。《非経験の場》を認めて、大乗的・ロゴス的部分を破壊しろと囁きかけているんですよ。でも、これがなかなか(笑い)。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~~
 (5) ★ ~~~~
    ☆ それとも そのつどつねに一つひとつのおこないに応じてこの《加‐持》という事態が 起きていると見ることになりましょうか?

 もなにも、《仏凡一如》ですから。
 ~~~~~~~~~
 ☆ であるのなら 空海は なぜ《韜晦》したのか? 《隣人となりなさい》とひと言言えばよかった。なぜ もったいぶったのか?
~~~~~~~
仏教には《隣人》という発想がないですから。それは《無茶》ですよ。

☆☆☆
あたうかぎりひとに義利【よきもの】をさずけ(、世の生活に不如意なものをなからしめ)る行いがある。かくて、世の一切のものの意願【ねがい】は満ち足らされることであろう。
つぎに、ほとけの法【教え】をひとに施すことにより、一切のものが法性(真理)を獲得する。
さいごに、いのちの資【かて】となるさまざまなものを施す行ないである。この行いによって、(世のすべてのものは畜生に及ぶまでその苦しみから救われ、)身体も口も意【おもい】も安らかで美しいものとなるであろう。
(中村元 大乗仏典 筑摩書房 理趣経 金岡秀友)
☆☆☆
ほとけを神に置き換えれば、キリスト教の《隣人愛》そのものでしょう。
神・イエスはパン(命の粮)を人々に分け隔てすることなく常に与えているという譬喩なのかも分かりませんが、キリストもパンを人々に与えている。
お腹がすいて死にそうな人に魂の救済である有難い教えを説く前に、まず食べものであるパンを与えなきゃ始まらない。与えるパンがなければ、「ごめんなさい」と一緒に泣けばいい。心から一緒に泣けばいい。教えはそれから。逆では生きた人間のための宗教にならない。
真言宗の大切なお経・理趣経は、密教者にこれをやれという。
これは、《隣人愛》でしょう。《隣人》でしょう。

空海は、一般人向けの無料で完全給付性の学校を作ったり、池を作ったりした。《高野聖》と呼ばれる人たちも、名もなき民衆の生活に役立つ色々なことをした。そして、日本全国各地に「○○は弘法大師が作った」という《弘法大師伝説》が生まれた。
ってことで、空海は、言葉ではなく具体的活動を通して、「隣人になりなさい」ということを訴えていたんじゃないですかね。そして、それは今でも《弘法大師伝説》として民間で大切に語り継がれている。空海の思いは生きている。
密教は顕教ではないから、教えを説くだけでは駄目。ことば(口密)だけでは駄目。からだ(身密)やおもい(意密)も具体的な形にしなければ。三密加持を現実生活に反映させなければ。でなければ、三密加持なんてな~んの意味もない。
と少し哲学し、偉そうなことをほざいてみました。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
(4) 空観そのもの・または空観を持ち得るということが 仏性のハタラキによると捉えたなら どうなりましょうか?
~~~~~~
これは、始覚門に立つか、本覚門に立つかですよね。
始覚門的な立場なら、「空観そのもの・または空間を持ちうるということは(自己の)仏性のハタラキである」は、制限付きでYES。
本覚なら全面的にYES。
でも、本覚は基本的に哲学にならんのですわ。仏教で哲学しようと思ったら、始覚門じゃないと!!
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん おもしろいですね。いつもときどき佳境に入りますね。
 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 心の奥底にある密教的・カオス的衝動が絶えず蠢いているんでげす。《非経験の場》を認めて、大乗的・ロゴス的部分を破壊しろと囁きかけているんですよ。でも、これがなかなか(笑い)。
 ☆ おもしろいですね。


 ううーむ。だとすると ゴータマブッダは その思想と実践において 生煮えだったでしょうか。
 梵天――これは いったい誰だろう?――が おだてすぎたのでしょうか。






 ★ ってことで、空海は、言葉ではなく具体的活動を通して、「隣人になりなさい」ということを訴えていたんじゃないですかね。そして、それは今でも《弘法大師伝説》として民間で大切に語り継がれている。空海の思いは生きている。
 ☆ うむ。あの《即身成仏義》の詩句は 詩句としてある。それは それ。ですか。なのですね。


 ☆☆(No.26お礼欄) ~~~~
 (6)
 ・・・
 《隣人となる》 これを ただ話し合いを持つ・保つ・続けるというかたちにおいて実行する。この民主的なカカワリないしマジワリの中で 《加持体験》のことが それとなく語られ合って行く。この道を模索し求めていくのがよいと考えます。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ちょっと話し合いのほうに〔だけ〕片向きましたかね。
 ★ 密教は顕教ではないから、教えを説くだけでは駄目。ことば(口密)だけでは駄目。からだ(身密)やおもい(意密)も具体的な形にしなければ。三密加持を現実生活に反映させなければ。でなければ、三密加持なんてな~んの意味もない。





 ☆☆ (4) 空観そのもの・または空観を持ち得るということが 仏性のハタラキによると捉えたなら どうなりましょうか?
 ★ 本覚なら全面的にYES。
 ★ でも、本覚は基本的に哲学にならんのですわ。仏教で哲学しようと思ったら、始覚門じゃないと!!
 ☆ でも
 ★★(回答No.27) 中観なら、たぶん、戯論と一蹴するんじゃないかな(笑い)
 ☆ に一矢を報いましたか。中観は目の敵ではありませんが。



 

 そろそろ店じまいにかかりましょうか。

 ★★ ~~~~~~~
 《一念三千》が成立しないことは、おっかなくて口にはできない。
 天台の空中仮の三諦ホニャララは、中論の誤解の産物で、まったくのデタラメであることなど、チキンの僕には、恐くて口にできない。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ これが気になっています。一念三千は 人間論のひとつの基本であるようにも思われます。どうなってるんでしょう?
 あらたに質問を立てたほうがよいでしょうか?




 ○ 中観派は ヰキぺによると 否定神学に近似するとあります。

 否定神学が いま流行っているのですかね。

お礼日時:2012/10/18 20:54

私も凄く初歩的な疑問を書き込んでみます。



後期密教のひいてしまうくらいの
なんでもありっぷりとか、道徳的退廃さ
に比べて
空海のもたらした密教はまだ道徳などを
保っていると思うのですが
それでも理趣経を扱っていたりする。

その一方でたぶんわからないけど、
空海は修行したり、禁欲的な生活を送ったんだと思います。

密教と戒律はどうやって両立するんだろう。

梵我一如系の思想の欠点は
自我がより強大なものに溶け込むことで
自我が肥大化かするか消失してしまい、
コントロールできなくなることだと思います。
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この回答へのお礼

 かざみどり365さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 二点ですね。
 
 ★ 密教と戒律はどうやって両立するんだろう。 
 ☆ これは 次の論点を先に見てみたほうがよいでしょうか。

 ★ ~~~~
 梵我一如系の思想の欠点は
 自我がより強大なものに溶け込むことで
 自我が肥大化するか消失してしまい、
 コントロールできなくなることだと思います。
 ~~~~~~
 ☆ たぶん修行がすすみ ブラフマンとの一体化が――ともかく主観において――深まるとすれば ややもすると おのれが大きくなったという・一面では実質もありましょうし その反面で錯覚もあるのでしょうね。出て来るのでしょうね。
 たぶん 《わたし》が 《消失してしまう》ことはないでしょう。アートマンが有りを前提にしているなら。
 《コントロールできなくなる》まで行ってしまうか 分かりませんが たぶんそのように主観の肥大化は 時にはともなうでしょうね。
 というのも ブラフマンよりもアートマンのほうが 偉いと言いますか 優位な位置に立つといった場合もあると聞きますから。


 そこで 密教はどうなのか? となりますか。
 たぶんその・ともかくの信仰心が深まるとなると
 ★ なんでもありっぷり
 ☆ が現われがちではないかと推測されます。世界観がひろがり深まって来るゆえ ついそうなるといった事例ではないかと。

 ★ ~~~~
 空海のもたらした密教はまだ道徳などを
 保っていると思うのですが
 それでも理趣経を扱っていたりする。
 ~~~~~~
 ☆ これは じっさいにどうなのか。わたしも分かりません。知りません。

 ★ 密教と戒律はどうやって両立するんだろう。
 ☆ わたしから見れば――現代から見れば―― おそらくその修行者の実存の問題だと思われます。実存としての自己表現 これがどう成って行くか? ではないかと。
 逃げましたが。

お礼日時:2012/10/18 20:25

こんばんはです。




No24のお礼欄にある質問の回答です。

~~~~~~~
 ( b ) 第二の死であろうと有為有漏であろうと そしてその状態がいかに究極にまで到ったとしても 世界および自己との和解が成し得て 人間としての自己の回復が出来るというのであれば 何も《悪人》だという自覚があろうとなかろうと それは 仏性の発現にとって関係ない。風は気ままに吹く。

 ☆ いぢわる質問です。

 (あ) 補助因である縁について 《気ままに吹く風》の顔色をうかがうことになるか?

 (い) けれども その《縁》をめぐる風の吹くのは おのれの直接因としての仏性のハタラキではないか?
~~~~~~~
《気ままに吹く風》が何を意味するかで、答えが変わってくるのではと。

まず、風を自然の風として解釈すると、顔色をうかがうのではなく、風は縁、その物。四縁、すなわち、因縁、等無間縁、所縁縁、増上縁の増上縁に分類されると思います。
で、唯識なら、《気ままに吹く風》は迷いの心・阿頼耶識の中にある《外境を作る種子》が作ったとする。そしてそれはそのまま阿頼耶識にフィードバック。さらに、現象として現われた風は、風を作った種子以外の阿頼耶識内にある種子に影響を与えます。唯識、アビダルマと同じ煩瑣教学なんで、メンドいんですよ。阿頼耶識縁起説はおとぎ話なんでね、この辺は真面目にやってもしょうがない(笑い)。

問題は(い)の場合ですね。
唯識なら、前述の通り、仏性ではなく、迷いの心のハタラキとなります。阿頼耶識が作った。
華厳的な見方なら、《仏性》=《法界》=《真如》のハタラキと見ると思います。この世の森羅万象は法界から流失したものなので。
中観なら、たぶん、戯論と一蹴するんじゃないかな(笑い)

風が、真理の風という意味ならば、
唯識は、「そんなものはない。少なくとも迷いの世界、現実世界にはそのようなものは存在しない。そんなものを作る種子はない」かな。
華厳の人は、法界にその風を見る。
そして、中観は、戯論とバッサリでしょう。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

 ★ 問題は(い)の場合ですね。
 ☆ はい。

  (い) けれども その《縁》をめぐる風の吹くのは おのれの直接因としての仏性のハタラキではないか?

 ★ ~~~~
 唯識なら、前述の通り、仏性ではなく、迷いの心のハタラキとなります。阿頼耶識が作った。
 華厳的な見方なら、《仏性》=《法界》=《真如》のハタラキと見ると思います。この世の森羅万象は法界から流失したものなので。
 中観なら、たぶん、戯論と一蹴するんじゃないかな(笑い)

 風が、真理の風という意味ならば、
 唯識は、「そんなものはない。少なくとも迷いの世界、現実世界にはそのようなものは存在しない。そんなものを作る種子はない」かな。
 華厳の人は、法界にその風を見る。
 そして、中観は、戯論とバッサリでしょう。
 ~~~~~~

 ☆ (1) 因・縁とも 《仏性》にありと見る見方もありうる。華厳ですか。こうなのですね。

 (2) 《外境を作る種子》が作った仏性のようなものを想い描くことが マチガイ。ですか。

 (3) 戯論であるという見方もある。

 (4) 空観そのもの・または空観を持ち得るということが 仏性のハタラキによると捉えたなら どうなりましょうか?

 くどいようですが。

お礼日時:2012/10/17 22:30

こんばんはです。





まずは、No23のお礼欄の質問に答えます。
☆☆☆☆☆☆
~~~~~~~
 ★ なので、大乗と小乗の違いは《さとり》へ到る道筋の違いで、修行の最終的成果は同じ。
 ☆ なのですか? どうも――感じとしてですが―― ヒナヤーナーないしテラワーダでは――アルボムッレ・スマナサーラの言うところをちらっと見た限りでは―― 世間の知恵やその意味での常識を述べているだけのようなのですが?
~~~~~~~
テラワーダのことは何も知らないので、テラワーダについてはなんとも。。。。
説一切有部系の世親の《倶舎論》によると
声聞乗は、早いもので三生の間に涅槃を得て、遅い者は六十刧の長い間を修行して仏果を得る。。。。
縁覚は早く悟る者は四生、遅い者は百刧。。。。
菩薩は縁覚に比べてさらに長く、三大阿僧祇という長い間、六度を修行し、その後、百刧の間、三十二相八十種好を仏の円満なる姿を備える修行をし、この世に現じて。。。。やがて無余涅槃に至って空寂に帰する。。。。
(鎌田茂雄 八宗綱要 講談社学術文庫)
なので、最終的には、三乗ともに同じ仏果を得る。悟りを得るという修行法と、その道のりの長さの違いにしかすぎない。

こう言うとあれですけれど、大乗の菩薩と実在したゴータマ・ブッダを現実の活動体として見た場合、どっちがエラい、すごいか、そして、民衆にとってありがたいか、助かるか、と言えば、断然、大乗の菩薩でしょう。大乗の菩薩は、スーパー・ゴータマブッダ!!
実在したブッダは、必ずしも、自身の教えの布教に熱心ではなかったし、寄ってくれば教えを授けるというスタイル。また、大乗の重視する利他行には、単に教えを授けるだけではなく、橋を作ったり、お薬をあたえて人を病気からな直すということをも含まれます。維摩経の維摩は、更にパワーアップし、貧しい人には食べ物やお金を与えたりもする。娼館に売り飛ばされた女性を買い戻したりもする。実在したゴータマ・ブッダはこうした大乗の利他的行為を一切していない。全然、勝負にならない。
ですので、
輪廻からの解脱、つまり無為に帰する点では同じだけれども、
  大乗は、現実相としてスーパー・ゴータマブッダをめざすのだ!!
では駄目ですか。
こんなことを言うと、ブディストから「何を言っているんだ、お前は」とお叱りを受けるんでしょうけれども。


☆☆☆☆☆☆
~~~~~~~
 密教においては、

   仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」、
   衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」
~~~~~~~
しょーじきなところ、眠り猫は、密教をよくわかりません。
ということを前置きして、

加持・アディスターナ(adhistana)には、本来、《力を与える》《ささえる》くらいの意味しかございません。
で、
空海の《即身成仏義》によると
 仏日の影が私たちの心に映るの → 加
 その影をよく感じる → 持
これは、空海オリジナルの《加持》観でございます。空海が密眼をもって達した解釈でございます。
加持に仏と人間とのインタラクティブ性を見出したというのが空海の独創といったところでしょうか。
漢訳経典の盲点をついた。「どーせ、俺しかは分からないし」と独りほくそ笑んでいたに違いない。。。。
ところで、
ご紹介の加持の説明は、空海のオリジナルとは、かなり変質しているのではないでしょうか。《即身成仏義》を全文読んだことがないので、なんとも言えないのですが。。。。

 六大無礙にして常に瑜伽なり
 四種曼荼各々離れず
 三密加持すれば速疾に顕る
 重々帝網なるを即身と名づく

 法然に薩般若を具足して
 心数心王刹塵に過ぎたり
 各々五智無際智を具す
 円鏡力の故に実覚智なり

これが《即身成仏》を説明した詩なんですが、難しい、余りに難しい。何を書いているのか、さっぱり分からない。
ですが、ヒントは《成仏》という言葉なんでしょう。《即身成仏》は、「この身のままで仏となる」という意味ではないという見方もあります。
たとえば、
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/miyasaka/ …
によりますと、
~~~
チベット語訳に残るサンスクリット原題を見る限り、「成仏」のサンスクリット語は「アビサンボーディ」であって、これは「現等覚」を意味する。驚くべきことに、「成仏」には「凡夫が仏に成る」という意味は本来ないのである。もっぱら、「仏であること」、ただこれだけを意味する。
~~~~
これに従うと、「三密加持すれば速疾に顕る」の意味がなんとなく分かる気が。。。。
空海が言いたかったのは、「三密加持をすれば仏と自分が一体であることを体感できる」ってことだったのでは。《即身成仏》の真の意味は《仏凡一如》、《聖俗一如》。この密教の真理を、一つの《加持》という言葉から解き明かそうとした論文が《即身成仏義》だったのではないかと。。。。
とにかく、難しいんですよ、空海の著作。
たった八行の詩なのに、誰にもこの詩の真の意味を解き明かせない。
だから、眠り猫は、空海から逃げて、唯識に向かった(笑い)。


~~~~~~
 それとも そのつどつねに一つひとつのおこないに応じてこの《加‐持》という事態が 起きていると見ることになりましょうか?
~~~~~~
もなにも、《仏凡一如》ですから。



~~~~~~
 ☆ 小学生質問です。《真言を唱えたり 印契を結んだりする》ことをもし別にしておくことが出来たらですが 心は人びと一般にとってふつうの状態だと仮定すれば そのときブッダの《加》と衆生の《持》という対応関係は あたりまえのことではないのですか? 仏性の問題としてあるかぎりで。
~~~~~~
です。当たり前のことです。でも、その当たり前のことが、真の意味で、理解できない。血と肉になっていない。だから、現実生活の中では、すぐに忘れちゃうんです、人間って奴は。


~~~~~~
 (6) と言うよりも――露骨に言うならば 幼稚園児質問ですが―― すでにもし《信仰》が成っているのならば このようなそのつどの《加‐持》は 面倒なだけであって 要らない。のではないでしょうか?
~~~~~~
これは信仰の問題ではなく、実践の問題です。真理を血と骨にできるまで、繰り返さないといけないんじゃないでしょうか。


~~~~~~
 信仰の実は やはり《ひらめき》にある。こう捉えるべきではないでしょうか?
~~~~~~
三密加持というのは、論理を越えて《仏と自分が一体である》ことを直観するためのものでしょう。《非思考の庭》ですよ。断じて《非経験》ではない!!


現時点の眠り猫の能力では、空海はまったく手におえません。ですので、眉に唾をつけて、今回の回答を読んでください。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 (1) ★ ~~~~
 こう言うとあれですけれど、大乗の菩薩と実在したゴータマ・ブッダを現実の活動体として見た場合、どっちがエラい、すごいか、そして、民衆にとってありがたいか、助かるか、と言えば、断然、大乗の菩薩でしょう。大乗の菩薩は、スーパー・ゴータマブッダ!!
 ~~~~~~~~~
 ☆ そうお聞きしますと そうですね けっきょく《〈さとり〉へ到る道筋の違い》も 苦にならないですね。どれだけ時間がかかったとしても お茶の子さいさい。つまりは さとりなんかどうでもよい。人びととの共生 チカラの及ぶ限りで利他行 これらにはげむこと。ほかに何もなし。と。

 ☆☆ 世間の知恵やその意味での常識を述べているだけ
 ☆ のことも とうといわざ であるかも知れないと反省。・・・


 (2) ★ ~~~~
 加持・アディスターナ(adhistana)には、本来、《力を与える》《ささえる》くらいの意味しかございません。
 で、
 空海の《即身成仏義》によると
  仏日の影が私たちの心に映るの → 加
  その影をよく感じる → 持
 これは、空海オリジナルの《加持》観でございます。空海が密眼をもって達した解釈でございます。
 加持に仏と人間とのインタラクティブ性を見出したというのが空海の独創といったところでしょうか。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ そうですか。そうなんですね。
 別の質問への回答に対する応答で 《或る日或る時 ナゾの何ものかが わが心をノックする》と書いたところですが。そのノックは 《まぼろし》であると。マボロシを それでも受け留め 受け容れるなら そこに《非思考の庭》が成るのだと。・・・・


 (3) ★ 《即身成仏》の真の意味は《仏凡一如》、《聖俗一如》。この密教の真理を、一つの《加持》という言葉から解き明かそうとした論文が《即身成仏義》だったのではないかと。。。。

 ▼ (宮坂宥洪:「即身成仏」-「成仏」と「万人の救済」の両立) ~~~~
 驚くべきことに、「成仏」には「凡夫が仏に成る」という意味は本来ないのである。
 ~~~~~~~~~~

 ☆ だとすれば ゴータマ・ブッダのチョンボではないのですか? マハーヤーナ思想は そのチョンボをやっとおぎなったと。
 それは 名も無い大衆の心の声が どこからともなく 湧き上がった。そのようなウゴキをこそ 密教は採り入れようとした。

 (4) ということは そのゴータマのチョンボを 《加持》という重複の思想でおぎなうよりは やはり《一切衆生 悉有仏性》なる命題で《凡夫》およびその無明煩悩を突き破る。

 なぜなら 《身と言葉と心の三密》は 隠れているというような密ですらなく われらが生活日常である。はずですから。
 そのように日常性を自覚することが《加持》だとも言えましょうし 言えましょうが それを《知恵と慈悲》とすら言う前にすでに 人びとがまいあさ毎晩声をかけあって時にはたすけあう日常の生活世界である。と言いつべし。
 ゴータマ・ブッダ いまいちなり。の感 ふかし。

 (5) ★ ~~~~
    ☆ それとも そのつどつねに一つひとつのおこないに応じてこの《加‐持》という事態が 起きていると見ることになりましょうか?

 もなにも、《仏凡一如》ですから。
 ~~~~~~~~~
 ☆ であるのなら 空海は なぜ《韜晦》したのか? 《隣人となりなさい》とひと言言えばよかった。なぜ もったいぶったのか?

 (6) ★ 三密加持というのは、論理を越えて《仏と自分が一体である》ことを直観するためのものでしょう。《非思考の庭》ですよ。断じて《非経験》ではない!!
 ☆ これはですね 微妙な問題です。
 一人の《わたし》としての主観の内面の問題として 
 ★ 断じて《非経験》ではない!!
 ☆ です。そしてそのことの共同化 あるいは人びとのあいだでのその体験の共有 という問題にかんしては まづひとつに組織立っておこなうことは 避けたほうがよい。いや 避けるべきだ。先達に権威が 正当にもであったとしても 付与されてしまうと 後輩は その権威の下で 不当な教えに遭う場合の危険のほうが大きい。
 《隣人となる》 これを ただ話し合いを持つ・保つ・続けるというかたちにおいて実行する。この民主的なカカワリないしマジワリの中で 《加持体験》のことが それとなく語られ合って行く。この道を模索し求めていくのがよいと考えます。


 (7) 空海よ ぶらじゅろんぬの問いに答えたまえ!!

お礼日時:2012/10/17 22:14

涅槃・空・無は、充満の過ちだとつくづく感じます


一如が、唯一絶対の真理の事なら、これも同じ

天界の厄介な自由性、、それは多重の多重、
その繰り返しの集合体の集合体の果ての果て、、
その1つをまたは幾つかを人は観察し、確信・断定
の罠・テスト・踏み絵・振り分けに陥り、信じず疑わず、
というどこまでも油断出来ない柔軟性、その重要性に
気付けず知る事が出来ず、また気付き知る意識体を
本々与えられていないという、これも不条理

ただし、この不条理の克服の許しは、人には与えられて
はいるようです、、創造の協力として、、

厄介な自由性の上では、霊的真理・真実、霊的背景の
多様性、、そしてそれ以外の様々な霊的事象をも
探求者は、現実的に、選択としての・妄信的に、
共有・追体験も可能であるという厄介さ、、

もう1つ分かり易くいうと、私達が映像であるように、、
歴史という史実さえも、多様に創造され、、それも探求者は、
共有・追体験が可能で、、史実と同じ価値を本質的に有するという、、

半実体の神仏達の言葉でも、信じず疑わず、、
決して確信・断定してはけない、という事が体験出来たとしたら、
それは幸運な事かと

気付き・脱却する事が非常に困難・不可能である現実
そして、それらの困難な不条理が何の為にあるのか、
という意味なども
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この回答へのお礼

 えむあいよんえぬよんえぬさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

  
 そうですね。
 ★ 充満
 ☆ というところで 

  プレーローマ

 を思い浮かべました。例のグノーシス主義です。
 ★ ~~~
 涅槃・空・無は、充満の過ちだとつくづく感じます
 一如が、唯一絶対の真理の事なら、これも同じ
 ~~~~~~

 
 なにごともグノーシス――知解・認識――が大事であると。
 ★ ~~~~~
 半実体の神仏達の言葉でも、信じず疑わず、、
 決して確信・断定してはいけない、という事が体験出来たとしたら、
 それは幸運な事かと
 ~~~~~~
 ☆ 合理的な精神において把握して行くのだと。


 この《知ること》がかなわない場合がある:
 ★ ~~~~
 信じず疑わず、
 というどこまでも油断出来ない柔軟性、その重要性に
 気付けず知る事が出来ず、また気付き知る意識体を
 本々与えられていないという、これも不条理
 ~~~~~~
 ☆ しかもこの《不条理》は:
 ★ ~~~
 ただし、この不条理の克服の許しは、人には与えられて
 はいるようです、、創造の協力として、、
 ~~~~~~
 ☆ であると。



 ★ ~~~~
 厄介な自由性の上では、霊的真理・真実、霊的背景の
 多様性、、そしてそれ以外の様々な霊的事象をも
 探求者は、現実的に、選択としての・妄信的に、
 共有・追体験も可能であるという厄介さ、、
 ~~~~~~
 ☆ 読み取りにくいところですが どうも《知解=グノーシス》なる行為能力は 《霊的事象》や《霊的体験》をも 《追体験》しつつ認識として得ることができるのだと言っていましょうか?


 

 そうですね。
 質問者の立ち場は じつは《神なる霊》については 分からない です。《分かるか分からないかが 分からない》です。
 そしてただし 主観の問題としては いわゆる《神を見た》体験もがありうるとする見方を持ちます。

 《知解・認識》は どうなんでしょう? それが出来たなら ひとりの人の主観の内にとどまらず ほかの人びととも《神体験》をたしかに合理的に共有しうる。こうなりますが どうなんでしょう?
 というように捉えました。

お礼日時:2012/10/17 21:09

No.23の続きです。






☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 ( a ) もし《第二の死》ないし《究極の無姓有情》なる状態にあることが 自分の自由意志による選択であったならば 果たして自己の回復が出来るか? と問わねばならなくなります。
~~~~~~
仏性や如来蔵があるから回復は可能。たまたま縁が欠如しているだから、その回復作用が機能しないだけ。

~~~~~~
 ( b ) 第二の死であろうと有為有漏であろうと そしてその状態がいかに究極にまで到ったとしても 世界および自己との和解が成し得て 人間としての自己の回復が出来るというのであれば 何も《悪人》だという自覚があろうとなかろうと それは 仏性の発現にとって関係ない。風は気ままに吹く。
~~~~~~
実体的な言い方になりますけれども、
仏性という直接因だけでは、仏性の力・機能は発現しません。補助因である縁がないと駄目。いい人にであって、いいお話を聞く。これを無著・アサンガは《正聞薫習種子》と呼んだ。
風は気ままに吹きますよ~。特に地獄へと誘う風は実に甘美で、気持ちがいい。で、地獄の風で全身真黒に日(火?)焼けできます(笑い)。



☆☆☆☆☆
~~~~~~
 ☆ けれども 考えるにですが こういうことが どうして分かるのでしょうか?
 つまりもし《皆無性有情》の人間なら その無性有情の人間が 自分は無性有情だということが どうして分かりましょうか?
~~~~~~
分からないでしょう。分からないから《無姓有情》。


~~~~~~
 分かったということは 無漏(の心)=清浄心=仏性のことが けっきょく分かったということを意味しませんか?
~~~~~~
理解の程度によりますが、分かった、少なくとも字面の上では分かった、そのことを受け入れたということになるのでしょう。
底意地の悪い眠り猫の目には、《皆無姓有情》なんてことをいう人は、「お前らはそうかも知れないが、俺はそうじゃない。仏性を持っている」と言っているように映ってしょうがない。
増上慢の一種。
増上慢という概念は、自分や相手を実際以上に高く見るのと同時に、実際以下に低く見るのも含んでいます。

実は、菩薩の中には、衆生救済のためにみずから自身の成仏可能性を断ち。。。。それを《大悲の(一)闡提》といって。。。。それを《無姓有情》と分類する分類法もあるらしく。。。。
お地蔵さまと観音様が。。。。
与太話、与太話。そして、おとぎ話。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5% …



☆☆☆☆☆☆
直接には関係しないのですが、
阿羅漢は「自分がはたして悟ったのか、どうか」が分かるのか、という問題に関して、
《大天》の《五事の非法・妄言》を紹介します。

~~~~~~
すなわち大天の唱えた五事とは、夢精したことに端を発したもので、それをまとめると次の通りとなる。

1. 天魔に誘われた時は阿羅漢も不浄の漏失を免れない
2. 阿羅漢には不染汚無知というものがある
3. 阿羅漢にも世間的な疑惑はある
4. 阿羅漢にも聖慧眼を持たぬ者がいる
5. 真実、苦しいと叫ぶことから聖道が生じる
~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%A9

4の「阿羅漢にも聖慧眼をもたない」とは、「阿羅漢は自分が悟ったかどうか、そのことは分からない。お師匠さん(orゴータマ・ブッダ)から言われて、はじめて、自分が悟ったかどうかが理解できる」ということです。

ちなみに、染汚とは「煩悩で汚染されている」くらいの意味です。
で、不染汚無知とは、煩悩を原因とする無知はないけれど、世の中のことをすべて知っているわけではない、くらいの意味です。要するに、阿羅漢は、煩悩はないけれど、世の中のことを何から何まで知っている全知者ではない、ってことです。

説一切有部などの上座部系は、大天のことをボロクソに言っていますけれど、わたしは好きですね、大天。

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 (15)のアウグスティヌスの話は 笑い話としてのお話です。

補足日時:2012/10/17 08:16
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この回答へのお礼

 No.23よりつづきます。

 (12) ★ ~~~~
 仏性や如来蔵があるから回復は可能。たまたま縁が欠如しているだから、その回復作用が機能しないだけ。

 ・・・
 実体的な言い方になりますけれども、
 仏性という直接因だけでは、仏性の力・機能は発現しません。補助因である縁がないと駄目。いい人にであって、いいお話を聞く。これを無著・アサンガは《正聞薫習種子》と呼んだ。
 ~~~~~~~~~
 ☆ いぢわる質問です。

 (あ) 補助因である縁について 《気ままに吹く風》の顔色をうかがうことになるか?

 (い) けれども その《縁》をめぐる風の吹くのは おのれの直接因としての仏性のハタラキではないか?

 (13) ★ ~~~~~~~
     ☆ つまりもし《皆無性有情》の人間なら その無性有情の人間が 自分は無性有情だということが どうして分かりましょうか?

 分からないでしょう。分からないから《無姓有情》。

 ★ ~~~~~~~~~~~~
 実は、菩薩の中には、衆生救済のためにみずから自身の成仏可能性を断ち。。。。それを《大悲の(一)闡提》といって。。。。それを《無姓有情》と分類する分類法もあるらしく。。。。
 お地蔵さまと観音様が。。。。
 与太話、与太話。そして、おとぎ話。
 ~~~~~~~~~~

 (14) そこで:
 
 ▼ (ヰキぺ:地蔵菩薩) ~~~~ 
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5% …

 § 概要

 忉利天に在って釈迦仏の付属を受け、毎朝禅定に入りて衆生の機根(性格や教えを聞ける器)を感じ、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされる。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 (15) そうして 《与太話》にちなみまして:

 ▼ (コリント前書4:7-13) ~~~~~
 7: ・・・いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。

 8: あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。

 9: 考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。

 10: わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。

 11: 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、
 12: 苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、
 13: ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 (15) ★ ~~~
 阿羅漢は「自分がはたして悟ったのか、どうか」が分かるのか、という問題に関して、
 《大天(* マハーデーワ という人)》の《五事の非法・妄言》を紹介します。
 ・・・・

 〔4の〕「阿羅漢にも聖慧眼をもたない」とは、「阿羅漢は自分が悟ったかどうか、そのことは分からない。お師匠さん(orゴータマ・ブッダ)から言われて、はじめて、自分が悟ったかどうかが理解できる」ということです。

 ちなみに、

  2. 阿羅漢には不染汚無知というものがある

 染汚とは「煩悩で汚染されている」くらいの意味です。
 で、不染汚無知とは、煩悩を原因とする無知はないけれど、世の中のことをすべて知っているわけではない、くらいの意味です。要するに、阿羅漢は、煩悩はないけれど、世の中のことを何から何まで知っている全知者ではない、ってことです。
 ~~~~~~~~
 ☆ アウグスティヌスは 友人への書簡でしたかに 朝起きてみると 布団が汚れているのに気づくと ああなんと情けないと思うというようなことまで書き記していたそうです。

お礼日時:2012/10/16 18:17

こんにちはです。





☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
《三乗》って けっきょく《仏界の一乗》のもとにおさまるのではないのでしょうか?
~~~~~~
これは、色々な意味で微妙。いわゆる《三一権実》問題。

法華経は、三乗は方便で、一乗が真実という。
唯識・瑜伽行派や法相宗は、三乗どれでも《さとり》の境地に達することはできるが、悟りの境地が異なる。《さとり》を涅槃と菩提をわけて考える。
有余依涅槃と無余依涅槃の区分は、《さとり》を得た瞬間を涅槃と呼ぶか、寿命が尽きて死んだときもってを涅槃と呼ぶかの違いですから、これはよしとして。。。。

歴史上実在したゴータマ・ブッダの行動に答えが出ているのではないかと。
「有余依涅槃の後、ゴータマ・ブッダはそのまま死んじゃうこともできた。でも、実際は違う。とするならば、有余依涅槃の瞬間に大乗的慈悲心が自然に湧いてきたと考えるべき。なので、大乗と小乗の違いは《さとり》へ到る道筋の違いで、修行の最終的成果は同じ。その意味で、三乗は一乗となり、一乗は三乗となる」
かな。
ただ、大乗の人は、小乗の道を選ばず、血反吐を吐きながら、この俗世でもがきまぐりながら《さとり》を得る道を選んだ、でいいんじゃないですか。
大乗仏教のめざす人格は、仏陀ではなく、菩薩でげす。菩提は、おまけで構わない。極端な話、なくてもいいんじゃないですか、菩提。




☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 ☆ ですけれども 法身が語るのがナゾである前に 考えてみれば 密教においてどうして言葉が表わされるのか? という問いも起こります。それなら 顕教ではないのかと。小学生の疑問です。
~~~~~~
(真言)密経は一種のシンボル主義。言葉、記号、そのもので究極的な真理が表されるとは考えない。たとえ密教経典であろうが、それは同じ事で、書かれたものという観点からは、密教経典と顕教経典の区別はない。と同時に、区別がないのだから、顕教の経典も見方を変えれば密教の経典になり得る。密教と顕教との関係は、不一不二、互いに溶け合っている。区別するのは、戯論、分別的な見方。そして、経典はブッダの言葉、真実の言葉・真言。真理の全面的な開示はないにしろ、そこには無限の価値と意味がある。概念的思惟ではなく、経典を手掛かりとして、真理を感じとれ。体得せよ。その修行法が三密加持行である。。。。
みたいなことを言うんじゃないですか、空海なら。

最澄からの理趣経釈を貸してくれという手紙に対して、空海は
「あなた、こんなものに真理が書かれていると思っているんですか。こんなものはカスカス、ウンコみたいなもんですよ。(密教or仏教をまったく分かっていませんよ、あなたは)」
みたいなことを書いた手紙を送りつける。と~ぜん、最澄、激怒!!



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 私たちは、無限の存在になることはできないが、有限の存在の真中で、永遠・清浄の真理に触れることはできる。
 〈無為無漏〉にはなり得ないが、〈有為無漏〉にはなりうる。
 〈有為有漏〉の私たちが〈有為無漏〉にならねばならぬのである。」
 ~~~~~~~~~~
《有為無漏》って、結構、危ない概念を持ち出して、説明しているな~。
世親の《倶舎論》によれば、
  因果関係の上にあるのが、煩悩ある(ダルマ)
  ただし、(涅槃に至るべき)道は除く。  (1・4bc)
つ・ま・り、
  涅槃に至るべき道以外の《有為》は《有漏》
これを言い換えれば
  《無漏》は、(涅槃に至るべき)道または《無為》
《有為無漏》はありえない!!
とかの細かい詮索はやめにして、

~~~~~~
  ☆ とありますね。無姓有情が成仏せねばならないのであると。
~~~~~~
は違うんじゃないでしょうか。
  〈無為無漏〉にはなり得ないが、〈有為無漏〉にはなりうる。
  〈有為有漏〉の私たちが〈有為無漏〉にならねばならぬのである。
は、今は《有為無漏》の状態にあるが、本来的に《有為無漏》《無為無漏》の能力・可能性を持つ者は、有限性をもつ今の生の中においては、《有為無漏》を目指さなければならない、という表明ではないでしょうか。
「ところが最後の〈無性有情〉は、仏の教えが、全くわからぬのである」と明言していますし。
これは、ブディスト、つまり、本来的な《無姓有情》以外の人について述べたものだと思います。『無一不成仏』を『無(姓有情)の一(姓)は不成仏』とみる法相的考えの表明だと思います。


~~~~~~
  ○ 《(3)煩悩のとりこになっている凡夫を〈有為有漏〉》=無姓有情について 誰々はそれであると 人間に分かるのですか? また ブッダには分かるのですか?
~~~~~~
伝統教学にしたがうのならば、ブッダは分かります。ブッダには
  宿命通:過去世のことを知る力
  天眼(てんげん)通:未来のことまで見通す力
があるとされていますので。というか、これはブッダの徳性なので、こうした超能力を有していないとブッダではない。
なのですが、僕はこうした超能力に対しては、かなり懐疑的です。まぁ、それでも、宿命通はよしとして、天眼通を認めると、固い決定論や運命論になってしまう。自由意志とうまく共存できないので。

「法華経の譬喩品や授記品などで、○○は未来で成仏をできると言っているではないか?」
という反論に対しては、
これは誰もが仏性・成仏可能性を持っていることの表明、そして、釈迦牟尼のリップサービス。維摩経で、維摩は、次のブッダであると予言されている弥勒菩薩に対して「もしあなたがそう予言されているのならば、みんなもそのように予言されている」と言っています。菩薩という存在の意味を考えれば、当然の帰結。
そして、
この世にもあの世にも、阿弥陀仏なんていな~い。どこにもいな~い。法蔵菩薩は成仏なんかしていない。出きるはずがない。だ・か・ら、阿弥陀仏がいるんですよ。阿弥陀仏の活動性がある、救済の道が開けるんです。阿弥陀仏(法蔵菩薩)の本願が光るんですよ。法蔵菩薩が成仏するときは、みんな一緒に成仏するんだ。その時、はじめて阿弥陀仏が出現する。
と、眠り猫のオツムは熱く語っています。

大乗の人は、苦に満ちた《娑婆世界》で永遠にのたうちゃいいんです。仏になっちゃいけないんですよ。もし、仏になれるとすりゃ~、その時はみんな手をつないで仲良くなんです。
そして、自分が《無姓有情》であるかどうかなんて、どうでもいいこと、些細なこと。
ゴータマブッダも阿弥陀仏も、大日如来だって、み~んな一緒にこの世でのたうってくれますって。


理性と冷静を取り戻して、
~~~~~~
  (あ) やはり根本的に・無条件に《悉有仏性》である。
~~~~~~
たぶん、《悉有仏性》。僕は《悉有仏性》であると信じて疑いませんけれど。法界の遍満を考えれば、そうでなくては、おかしい。


~~~~~
 (い) 中にはこの《仏性》にさからって思惟し行動する場合がある。それは すべて その人の自由意志による。
~~~~~
《如来蔵》や《仏性》を実体的にとらえれば、そうです。
逆らう自由を持っています。


~~~~~
 (う) 無姓ないし《有為有漏》であるという状態は 負の仏性なる状態 あるいは 仏性の損傷行為を言う。
~~~~~
負の仏性や仏性の損傷という言葉に引っかかりますが、
行為の結果として《自性清浄心》に塵を付けるという意味でならば、それは《仏性》の損傷行為です。ただ、それは行為者がおバカ、無明、無知であるから。そして、その行為の習慣性・《習気》は残る。そして、その習慣性みたいなものがもとで、因果は巡る。


~~~~~
  (お) (お‐1) 《有漏》(≒無明?)は 部分的であっても 不死ではありえず やがて死に到る。煩悩の結果の死である。
~~~~~
《有漏(法)》《煩悩あるダルマ》は縁起で作られたもので、有為法・諸行は無常。「有為法は不死…」の《死》という文学的表現がすこし気にかかりますけれども。ちなみに、「有漏=煩悩で汚れている」です。


~~~~~~
  (お‐4) 世の中には この《第二の死》へとみづからすすんで入ろうとする人がいるであろうか? どうか?
~~~~~~
無知の結果として《第二の死》にみずから好んで進んでいったように見えるだけです。無知の状態を打破するチャンスはあった。そうならないようにする自由もあった。



あっ、スペースが足りない。余計なことを書きすぎた。
残りの質問に関しては、後ほど。
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 (1) ★ 大乗仏教のめざす人格は、仏陀ではなく、菩薩でげす。菩提は、おまけで構わない。極端な話、なくてもいいんじゃないですか、菩提。
 ☆ ひょっとして 《無住処涅槃》ですか?
 ★ 有余依涅槃の後、ゴータマ・ブッダはそのまま死んじゃうこともできた。でも、実際は違う。とするならば、有余依涅槃の瞬間に大乗的慈悲心が自然に湧いてきたと考えるべき。・・・

 (2) ただし
 ★ なので、大乗と小乗の違いは《さとり》へ到る道筋の違いで、修行の最終的成果は同じ。
 ☆ なのですか? どうも――感じとしてですが―― ヒナヤーナーないしテラワーダでは――アルボムッレ・スマナサーラの言うところをちらっと見た限りでは―― 世間の知恵やその意味での常識を述べているだけのようなのですが?

 (3) ★ ~~~
 書かれたものという観点からは、密教経典と顕教経典の区別はない。と同時に、区別がないのだから、顕教の経典も見方を変えれば密教の経典になり得る。密教と顕教との関係は、不一不二、互いに溶け合っている。
 ~~~~~~~~~
 ☆ これは失礼しました。エソテリズムと言うと ただちに神秘思想を思い浮かべます。つまり 表現はしているのだけれど 容易にはその意味が分からないといった形態の境地および思想である。こう思い込んでいました。

 (4) あれーっ。ちょっと待って。
 ★ 概念的思惟ではなく、経典を手掛かりとして、真理を感じとれ。体得せよ。その修行法が三密加持行である。。。。
 ☆ これはあくまで密教ですよね? これを顕教とは言わないし 見ることは出来ない。ですよね?
 あっ。でも密教にも 密教経典があるというわけですか。その場合には 不一不二だと。ううーむ。

 (5) ▼ (ヰキぺ:加持) ~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81

 密教においては、

   仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」、
   衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」

 と解釈し、双方が相応一致することで仏と衆生の持つそれぞれの三密が入り混じて他を己におさめ持ち、死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させることから、これを「三密加持」と称する。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 小学生質問です。《真言を唱えたり 印契を結んだりする》ことをもし別にしておくことが出来たらですが 心は人びと一般にとってふつうの状態だと仮定すれば そのときブッダの《加》と衆生の《持》という対応関係は あたりまえのことではないのですか? 仏性の問題としてあるかぎりで。
 それとも そのつどつねに一つひとつのおこないに応じてこの《加‐持》という事態が 起きていると見ることになりましょうか?

 (6) と言うよりも――露骨に言うならば 幼稚園児質問ですが―― すでにもし《信仰》が成っているのならば このようなそのつどの《加‐持》は 面倒なだけであって 要らない。のではないでしょうか?
 信仰の実は やはり《ひらめき》にある。こう捉えるべきではないでしょうか?

 (7) ★ 『無一不成仏』を『無(姓有情)の一(姓)は不成仏』とみる法相的考えの表明だと思います。
 ☆ あな おそろしや おそろしや。

 (8) ★ ~~~~
 大乗の人は、苦に満ちた《娑婆世界》で永遠にのたうちゃいいんです。仏になっちゃいけないんですよ。もし、仏になれるとすりゃ~、その時はみんな手をつないで仲良くなんです。
 そして、自分が《無姓有情》であるかどうかなんて、どうでもいいこと、些細なこと。
 ゴータマブッダも阿弥陀仏も、大日如来だって、み~んな一緒にこの世でのたうってくれますって。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 分かりました。《無住処涅槃》のオンパレード。《隣人を知恵をつくし知識をつくし心をつくして愛す》。《関係の絶対性》。

 (9) ★ ~~~~
 負の仏性や仏性の損傷という言葉に引っかかりますが、
 行為の結果として《自性清浄心》に塵を付けるという意味でならば、それは《仏性》の損傷行為です。ただ、それは行為者がおバカ、無明、無知であるから。そして、その行為の習慣性・《習気》は残る。そして、その習慣性みたいなものがもとで、因果は巡る。
 ~~~~~~~~
 ☆ これも 分かりました。
 そして 思いめぐらすなら 仏性がほんとうの意味で損傷を受けるということも おかしい。《よごれる》または《道草を食う時間》。

 (10) ★ ちなみに、「有漏=煩悩で汚れている」です。
 ☆ 了解しました。


 (11) ★ ~~~~
   (お‐4) 世の中には この《第二の死》へとみづからすすんで入ろうとする人がいるであろうか? どうか?

 無知の結果として《第二の死》にみずから好んで進んでいったように見えるだけです。無知の状態を打破するチャンスはあった。そうならないようにする自由もあった。
 ~~~~~~~~~
 ☆ これは あえて保留します。また 議論の問題ではないようにも思われます。

お礼日時:2012/10/16 17:26

こんばんはです。




まずNo.19の訂正から
  【誤】最重要の根本経典である《解深密経》にそう書いてあるのだから。。。
  【正】《楞伽経》に。。。。
オリジナルの《解深密経》では、《無姓有情》についてどう書いてあるのだろうか、と《解深密経》をざっと眺めてみたのですが、ない。《無姓有情》についての記述がまったくない。
僕の記憶違いでした。
で、調べてみたところ、出典は《楞伽経》。
だとしたら、僕にとって、《無姓有情》なんかどうでもいいかも。。。。
  (1)楞伽経は、唯識の非正統の人々によって製作されたと考えられているので
  (2)楞伽経は、唯識思想の大成者である世親以後に作成された可能性が高いから
  (3)《無姓有情》つまり《五姓格別》説は、インド唯識学派においては支配的な思想ではなかったから
  (4)窺基が《如来蔵思想》に対抗し、ことさら《五姓格別》説を主張した可能性が高いから
インドでは、声聞・縁覚・菩薩(or仏)乗の三乗。インド唯識の重要な論師たちはほとんどこの立場をとっているようです。
中国唯識、つまり法相教学を極力排除しようとしていたのですが、どうやら知らず知らずのうちに強い影響を受けていた。。。。
グスン。

あと、唯識の《識》のサンスクリット語のアルファベット表記、日本語のサイトなどを見ると《viJapti》となっていますが、英語系では《vijnapti》。これは単なる表記上の違いなのだろうか。。。。何だ、この大文字の《J》は。。。。。
たぶん、表音上のものなのだろうけれども、わかんね~や。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 ☆ えっ? 空海が チョンボしている のですか?
 あとは 変化法身も等流法身も その区分においてしか検索では出て来ないようです。
~~~~~~
チョンボ、もしくは、確信犯的に経典や論書の内容を読みかえて、自身の哲学を展開しています。
たとえば、
http://www18.ocn.ne.jp/~seoka/essays/nakamura3-1 …

真言はいいんです、読みかえは許されるんです。
キーワードは《密眼》《密教的視点・観点》。「密眼をもって見れば」もしくは「密眼で読めば」で、そこになかった新しい価値や真理を見出せる。
で、《般若心経秘鍵》のごとく、自分でツッコミ、
  如来の説法は一字に五乗の義を含み、一念に三蔵の法を説く
とか言って、開き直る。《密眼》で見なければ、自説が間違っていることを知っていますからね、強い。
さらに、自分でツッコミ、
 さぁね。昔の学者たちがこの価値や真理を知らなかったのか、知っていて言わなかったのか、分からないや、ポリポリ
としらばっくれる。
そして、最後は
 どうだ
と胸を張る(笑い)



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 (6-3) 《無姓(性)有情》については どうでしょう? 
 ★ ~~~~
 中国の法相宗の開祖・慈恩大師窺基は《理仏性・理念としてすべての人に仏性はある》と《行仏性・修行の立場からはすべて人が悟れるとは限らない》という考えを提出し、《一切衆生 悉有仏性》との折り合いをつけようとした。。。。
 ~~~~~~
 ☆ という理論も まだ理論の段階であるように思われます。つまり 特定の誰々は無姓有情であるということが人間に分かるか? という問題に収斂して これが分からないとなれば 《悉有仏性》でかつ《万人は必ず成仏する》という心構えで生きるしかない。なーんて どうでしょう?
~~~~~~
《行仏性》と《無姓有情》の関係について書いてある記述を見つけたので、紹介。
○○○
五姓とは、
 1,菩薩定姓
 2,独覚定姓
 3,声聞定姓
 4,三乗不定定姓(眠り猫の註:1と2と3のどちらにもなれる人。○○定姓と決まっていないから《不定》定姓と呼ぶ)
 5,無性有情
であり、〈有為法〉としての人間の五つの素質的は違いの分類である。
一切衆生悉有仏性という見方は、人間の共通性や普遍性を重視したものと考えるのに対して、五姓各別説は、人間の機根や器量の違いに着眼したものということができよう。

さて、この四種の人たち(眠り猫の註:無姓有情以外の人たち)は、機根・器量・到達点の違いはあるとしても、仏を崇拝し、仏の行を修していくという点で、みな同じように〈行仏性〉をもっている。ところが最後の〈無性有情〉は、仏の教えが、全くわからぬのである。」
(中略、前掲しました無性有情の解説となります。
 前掲しましたので省きます。)
「五姓をまとめると、五姓はすべて有限な〈有為法〉であり、絶対に永遠無限の真理そのものではないという点で共通である。
その中、菩薩・独覚・声聞・不定の四種の人は〈行仏性〉を持っているが、無性有情は〈行仏性〉を持たない、すなわち無仏性であるということになる(眠り猫の疑問:《理仏性》は持つ?)。人間の多様性の現実の把握が五姓各別説である。

〈行仏性〉は、このように、人間の機根や器量によってそれぞれ違い、また〈有為法〉であるところから〈無漏種子〉と呼ばれることが多い。〈漏〉とは煩悩のことであるから、〈無漏〉とは煩悩がないということであり、〈種子〉は「生果の功能」で、過去の経験の痕跡であり、現在と未来の自分を作り出す力ということになる。そしてここで、仏性と阿頼耶識とが出会うのである。

阿頼耶識の中に、無漏種子を持つか持たぬかということである。
持っているのが、菩薩・独覚・声聞・不定の人たちであり、持たないのが無性有情である。

ややこしい言葉が並んで、煩わしく思われるかもしれないが、〈有為〉〈無為〉、〈有漏〉〈無漏〉お語を組み合わせて次のようにいう。

(1)真理・真如は、永遠不滅で清らかであるから〈無為無漏〉
(2)仏道を志す清らかな生き方を〈有為無漏〉
(3)煩悩のとりこになっている凡夫を〈有為有漏〉

http://www5a.biglobe.ne.jp/~obaccha/wforum/wforu …
を一部省略・加筆編集して引用

たぶん、上述のアドレスだとエラーメッセージが表示されると思いますので、
検索ワード 太田久紀先生解説:五姓格別
でアドレスを検索し、それからリンクしてください。

○○○ 

《理仏性》を有しているのなら、《摂大乗論》の所説にしたがって、
  理仏性→無漏の種子・出世間心(悟りをめざす心)の直接因《因》
  行仏性→正聞薫習種子・出世間心の補助因《縁》
とする。
そうすれば、仏性を持ち出す必要はない。そもそも、仏性に理仏性、行仏性の二つの区分があろうはずがない。
で、
「正しい教え・仏の教えを聞く、読む、つまり、正聞薫習種子、これと無漏の種子が相俟って悟りをめざす心が発生するのである。
そして、正聞薫習種子という補助因が本来的にないのではなく、たまたま欠けている者が《無姓有情》。
四姓の区別は、正聞薫習種子の質によって発生するのである。
幸いなことに、輪廻は無始、始まりが無い。始まりのない過去から輪廻は続いている。ならば、輪廻には法爾種子・本有種子などの先天的種子の存在を必要としない。そもそも無始と法爾は両立しえない。輪廻には始点がないのだから。そして、法爾種子・本有種子や新薫種子の区別を立てることから論理的な矛盾が生じるのである。あるのは、ただ種子だけである。
そうであるならば、《無姓有情》は自らの自由意志で《無姓有情》の道を選んだことになり、予定論や運命論にはならない。すべては、自らの自由意志の選択の結果であるからである」
なんて、どうでげしょ?
眠り猫は、もう結構、ヤバい橋を渡っています。。。。


☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 (6-4) ★ 親鸞は《無性有情》という言葉に接して、「救われる思いがした」と言ったという記述をどこかで見た記憶が。。。。
 ☆ このことの事実性についてわたしは分かりませんが たぶんひとつ思えることは こうではないでしょうか? つまり 特定の誰かを念頭において その人は《無性有情》だ そうだとすると《救われる思いになる》と思ってはいけないのでしょうね。
 つまり 理論としてのみ思ったり考えたりするだけということになりませんか?
~~~~~~
親鸞は、自分こそがまさしく《無姓有情》であると思って、安心したんでじゃないですか。
で、《悪人正機説》に至った。

悪人正機:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E4%BA%BA% …

親鸞は《無姓有情》という言葉に。。。。
という記事は、半年くらい前に、誰かのブログで見たのです。
「世親の《浄土論》は浄土思想にとって必須の論書。ならば、世親の《唯識三十頌》の注釈である《成唯識論》も読んでいたはず。江戸時代に真宗や浄土宗から唯識研究の学僧が多数出ているし」と思ったので、その裏づけはしませんでした。
で、そのブログのアドレスを探したのですが見つからなかりませんでした。
参考までに、
太田久紀先生解説:五姓格別
の関連一連ツリーに、これと関係する内容が書かれています。

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 (8) 悪人正機説
 これは 要らないという考えを述べたことになります。
 【Q:悪人正機】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3725947.html
 ☆☆(その回答No.7: noname#80116=ぶらじゅろんぬです) ~~~~
  いろんな見方が自由に出来るということのために つづります。

 悪人正機説は 現代においては もう 意義がありません。
 《悪人》がもういないからです。
 
 悪をおこなっているというなら ほとんとすべての人があてはまると思いますが 今では 根っからの悪人は 見えなくなりました。その意味は 人としての存在が 確立されたからです。そうでなければ 人一人ひとりに主権がある(民主主義)とか そのおこないに対して個人として責任を負う(自由意志の問題)とか このような思想も まだ 時期尚早であると反対されてもよいからです。
 人は 部分的に 悪をおこなっている。自分の責任でおこない 答責性を免れることはない。

 そうしますと 悪人こそが正機であるという考え方は それほど意味を持たなくなったのです。それとして おおきな思想だと考えますが 現代人にとっては 悪人(またそのような自己認識)も善人もその区別が 成仏あるいは救いにとって それほどの意味を持たない こう言えるのではないでしょうか。

 もしその意を汲んで この思想をさらに発展させようと思えば 

   死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
   死よ、お前のとげはどこにあるのか。
    (イザヤ書25:8(意訳))

   死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
   (コリント前書15:55-56)

 というように 《律法》つまり規範が 問題だという見方も出てくるのではないでしょうか。悪なら悪 善なら善という規定によって それが罪の力となる場合があるのではないかというものです。
 どうせ死ぬ身なのだからという解釈が 悪人を言うにしろ悪人の自覚を言うにしろそのような倫理規範を凌駕して 現代市民というふつうのホモ・サピエンスの立ち場を ゆるがせるに至るかも知れない。
 罪にしろ悪にしろ 死のとげについての自己省察の結果として なおまだ 人間としてのはからいが 後を絶たないという別種の問題もあるのではないでしょうか。

 まだ熟さないと言わなければならないかも知れません。

 投稿日時 - 2008-01-30 13:22:33
 ~~~~~~~~~~

 ☆ 今に到ってもなおまだ熟しませんが こうは言えると思うのです。すなわち

 ★ ~~~
 親鸞は、自分こそがまさしく《無姓有情》であると思って、安心したんでじゃないですか。
 で、《悪人正機説》に至った。
 ~~~~~~
 ☆ この命題は その説を持つに到ったと言うだけだとすれば 何の問題もないと考えますが もしその悪人正機説が 信仰ないし救いの方程式だというとすれば ちとまづい。
 なぜなら それは そのように思考によって救いを得るに到ったと明言しているからです。これは 聖道門の自力の思想です。それはそれでよいのかも知れませんが 親鸞にとっては つごうがわるいはずです。
 (恩恵主義にとっても つごうがわるいです)。


 すなわち 悪人ないし無姓有情であることの自覚は 自覚だけの問題にとどめておくしかない。こう考えます。
 言いかえますと

  死のとげは罪であり、罪の力は律法です。(コリント前書15:55-56)

 と言うように 問題は 思考の成果や想像の産物としての観念のイデア化 あるいは その内容の規範化――つまりその意味での《律法》のことですが――のほうにこそある。
 なるほど 親鸞その人は みづからが無姓有情であり悪人であることを知りこれをいやというほど思い知ったし まじめに自覚した。ということであったとしても この《悪人正機》の自覚を 規範化しそれをみづからに当てはめるといった《救いの方程式》を押し戴くというのは あまりおもしろくありません。
 かんばしいこととは思えません。

 ▲ (歎異抄) 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
 ☆ ですから 悪人正機は 親鸞の主観の内に起きたこととして 真実で有効であったとしても これを抽象概念において持ち普遍方程式にすることは あまりよろしくない。こういう考えでいます。

補足日時:2012/10/16 08:32
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 (1)★ ~~~~
 で、調べてみたところ、出典は《楞伽経》。
 だとしたら、僕にとって、《無姓有情》なんかどうでもいいかも。。。。
  (1)楞伽経は、唯識の非正統の人々によって製作されたと考えられているので
  (2)楞伽経は、唯識思想の大成者である世親以後に作成された可能性が高いから
  (3)《無姓有情》つまり《五姓格別》説は、インド唯識学派においては支配的な思想ではなかったから
  (4)窺基が《如来蔵思想》に対抗し、ことさら《五姓格別》説を主張した可能性が高いから
 インドでは、声聞・縁覚・菩薩(or仏)乗の三乗。インド唯識の重要な論師たちはほとんどこの立場をとっているようです。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 了解しました。それほど強いものでもなく 正統でもないようだと。
 《三乗》って けっきょく《仏界の一乗》のもとにおさまるのではないのでしょうか?

 (2) ありました。《サンスクリット表記法》。

 ▼ ~~~
  ñ = J

  prajñā → prajJA (般若)
 ~~~~~
 ☆ J では 知っていないと 分かりづらい。誤記ではなかった。

 (3) ★ 確信犯的に経典や論書の内容を読みかえて、自身の哲学を展開しています。
 ☆ ですけれども 法身が語るのがナゾである前に 考えてみれば 密教においてどうして言葉が表わされるのか? という問いも起こります。それなら 顕教ではないのかと。小学生の疑問です。

 (4) ★ 《密眼》で見なければ
 ☆ 《異言》を思い出させます。

 ▲(ヰキぺ:異言) ~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E8%A8%80

(いげん)は、

  グロソラリア(英: glossolalia < 希: γλωσσολαλιά = γλῶσσα(glõssa 「舌、言語」)+ λαλιά(laliá 「声;言語、言葉、発話、説明、意見」)=「舌から発せられる声」)
  あるいは
  ゼノグロッシア/ゼノグロッシー(英: xenoglossia/xenoglossy < ギリシア語で「異国の言語(聞き慣れない言葉)を話すこと」)
  の訳語で、いずれも、学んだことのない外国語もしくは意味不明の複雑な言語を操ることができる超自然的な言語知識、およびその現象を指す。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ ここから もう少し意味をともなった表現になるということでしょうが。
 ▼(コリント前書12:10) ~~~~~
  ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 (5) ● (太田久紀先生解説:五姓格別) ~~~~~
 私たちは、無限の存在になることはできないが、有限の存在の真中で、永遠・清浄の真理に触れることはできる。
 〈無為無漏〉にはなり得ないが、〈有為無漏〉にはなりうる。
 〈有為有漏〉の私たちが〈有為無漏〉にならねばならぬのである。」
 ~~~~~~~~~~
 ☆ とありますね。無姓有情が成仏せねばならないのであると。

 (6) でしたら わたしの質問は こうです。
  ○ 《(3)煩悩のとりこになっている凡夫を〈有為有漏〉》=無姓有情について 誰々はそれであると 人間に分かるのですか? また ブッダには分かるのですか?

 さらにつまりは 

 ○ もしブッダには分かったとした場合 そのブッダが《ぶらじゅろんぬは 無姓有情である》と言ったとき ほかの人びとにその真実であることが分かるのか? 
 
 ○ たぶん分からないであろうとき それでもブッダの言葉に従うのか? ブッダである人が そんなことを口外するのだろうか?

 (7) ★ ~~~~
 《無姓有情》は自らの自由意志で《無姓有情》の道を選んだことになり、予定論や運命論にはならない。すべては、自らの自由意志の選択の結果であるからである。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり こういうことでしょうか? つまり: 

  (あ) やはり根本的に・無条件に《悉有仏性》である。

  (い) 中にはこの《仏性》にさからって思惟し行動する場合がある。それは すべて その人の自由意志による。

  (う) 無姓ないし《有為有漏》であるという状態は 負の仏性なる状態 あるいは 仏性の損傷行為を言う。

  (え) 完全なる《無性有情・有為有漏》なる状態は ありうるか? これは いわゆる《第二の死》なる状態を言うようである。
  【Q:《第二の死》とは?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6530755.html

  (お) (お‐1) 《有漏》(≒無明?)は 部分的であっても 不死ではありえず やがて死に到る。煩悩の結果の死である。
   (お‐2) ただし 《無漏》なる状態に転換しうれば やがて到るであろう死――つまり第一の死――が死ぬ。明知に到る。
   (お‐3) ところが 完全なる《無性有情・有為有漏》なる状態というのは この《第一の死》が死ななくなることである。これを 《第二の死》と言う。
   (お‐4) 世の中には この《第二の死》へとみづからすすんで入ろうとする人がいるであろうか? どうか?


 (8) ★ ~~~
 親鸞は、自分こそがまさしく《無姓有情》であると思って、安心したんじゃないですか。
 で、《悪人正機説》に至った。
 ~~~~~~~~
 ☆ ここは 感覚で反応しますが ふたつに分かれます。

 ( a ) もし《第二の死》ないし《究極の無姓有情》なる状態にあることが 自分の自由意志による選択であったならば 果たして自己の回復が出来るか? と問わねばならなくなります。

 ( b ) 第二の死であろうと有為有漏であろうと そしてその状態がいかに究極にまで到ったとしても 世界および自己との和解が成し得て 人間としての自己の回復が出来るというのであれば 何も《悪人》だという自覚があろうとなかろうと それは 仏性の発現にとって関係ない。風は気ままに吹く。

 (9) ● (太田久紀先生解説:五姓格別の関連一連ツリー) 私も、あなたも皆無性有情なのです。
 ☆ けれども 考えるにですが こういうことが どうして分かるのでしょうか?
 つまりもし《皆無性有情》の人間なら その無性有情の人間が 自分は無性有情だということが どうして分かりましょうか?
 分かったということは 無漏=清浄心=仏性のことが けっきょく分かったということを意味しませんか?

お礼日時:2012/10/15 23:08

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Q【梵我一如という言葉を高校の倫理の授業で習いますか?】日本では国民がみな梵我一如という言葉の意味を高

【梵我一如という言葉を高校の倫理の授業で習いますか?】日本では国民がみな梵我一如という言葉の意味を高校で習って知っているんですか?

梵我一如の意味を高校の倫理の授業でどのように習うのか教えてください。

梵我一如ってどういう意味ですか?

Aベストアンサー

ウパニシャッド哲学(インド哲学)の、バラモン教(教典ヴェーダ)の中で学習すると思います。
梵(ブラフマン)と我(アートマン)が同一だと言う事を自覚する境地を「梵我一如」と言う言葉で表現します。(バラモン教の場合は、これにより輪廻から解脱できると考えます)
梵は、宇宙の根本原理を意味します、我は不変の自己(輪廻する自己そのもの)を意味します。
仏教(原始仏教)の場合は、正覚、正道により、一切の執着を捨て、悟りの境地に至る事により解脱出来るとしているのが、違いです。

Q《霊能者》と《偽物》・・・

●よく『私には、霊が見えます』という人がいますが、その人が本当に霊が見えるのか、それとも嘘なのかどうやって判断したらよろしいのでしょうか?ちなみに江○啓○は、偽物です。

Aベストアンサー

見えます・・という人と
見えちゃった・・という人では
かなり開きがあると思います。

霊感がある人は、かなりいると思いますが
ほとんどの人は後者の方でしょう。

見えます・・
というのは、自由に思うように見える、或いは、常に見える、という事なんだと思います。
まあ
そういう方でしたら・・
他の事に関してもインスピレーションを自由に発揮できるんじゃないかと思いますが
話す言葉を聞いていると、どうもそんな感じがしない
そんな時は要注意だと思います。

また
フィクション、作り話には・・どこかおかしなところがあると思います。
話を聞いていて、確かな現実味がない、と感じたら偽物と思って間違いないと思います。

見えちゃった・・ ていう話の方が確かで本当だ・・と思う時があります。
その場合でも
(まあ・・)
見間違い、錯覚が多いんではないかと思いますが
中には、否定しがたいものもあります。
そういう貴重な例?は、だいたい話したがらない事が多い・・
気味が悪いし、人にいい印象を与えない
人格を疑われる場合もありますからね・・

見えます・・
なんていうのは、ほとんどというか全部、偽物だと思った方がいいと思います。
本当に見える人がいたら
見えます・・
よく見えます・・
なんて、やたら言わないでしょう。

見えます・・という人と
見えちゃった・・という人では
かなり開きがあると思います。

霊感がある人は、かなりいると思いますが
ほとんどの人は後者の方でしょう。

見えます・・
というのは、自由に思うように見える、或いは、常に見える、という事なんだと思います。
まあ
そういう方でしたら・・
他の事に関してもインスピレーションを自由に発揮できるんじゃないかと思いますが
話す言葉を聞いていると、どうもそんな感じがしない
そんな時は要注意だと思います。

また
フィクション、作り話には・・どこか...続きを読む

Q連立一次方程式の解全体にはどんな種類があるのでしょうか?

連立一次方程式の解全体にはどんな種類があるのでしょうか?


画像に問題が添付してあります。


一つ目の
{x =C1 より (x) (C1)
{ y =C2 (y) = (C2)
{ z =C3 (z) (C3) 」

それと後3つあるみたいです。 わかる方いましたらご教授お願いします!

Aベストアンサー

3元の連立方程式に関する問いが難しければ,まず2元で考えてみましょう。

2つの平面の共通部分は
A.平面(2つの平面が一致しているとき)
B.空集合(2つの平面が平行なとき)
C.直線(それ以外のとき)
ですね。

それでは3つの平面の共通部分はどうなるかと言えば,2つの平面の共通部分ともう一つの平面の共通部分です。
A.2つの平面の共通部分が平面のときからは,
A1.平面
A2.空集合
A3.直線
が出てきて
B.2つの平面の共通部分が空集合のときからは
B1.空集合
だけですね。
C.2つの平面の共通部分が直線のときからは
C1.空集合(直線と平面が平行なとき)
C2.点(それ以外のとき)

結局,
1.平面
2.空集合
3.直線
4.点
になることが分かりました。

Qみんなが仲直りする秘密のナゾ:信仰としての《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカ
ラである。《非経験の場》とよび そのように想定する。

2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

   経験事象
     可知
       既知
       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

   非経験の場
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)

3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け
容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る
自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。

   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心
   -------------------------
   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 
   【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス

4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)
との一体性として示される。類型として梵我一如という呼び方を借りるとよい。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=これは 無神論である)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然およびその分身としての自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ




 ☆ 以上が 標題についての仮説であり 仲直りの妙薬です。
むろん仮説であり 問い求めのためのたたき台です。
吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をお俟ちします。

1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカ
ラである。《非経験の場》とよび そのように想定する。

2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

   経験事象
     可知
       既知
       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)

   非経験の場
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画...続きを読む

Aベストアンサー

「唯物論」も、おそらく、「非思考の庭」 「受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性」にはいりますね、、、。

自分:物質の複雑な構造のうち、五感の感覚と動きで統合されたもの
物質:対象すべて

Q中学数学 方程式について教えてください

一般常識の問題で、一次方程式、連立方程式、不等式で一章分で説明、二次方程式で別の一章分で説明と分けられています。

一次方程式、連立方程式、二次方程式の違いがいまいちよくわかりません。

●一次方程式の【一次】、連立方程式の【連立】、二次方程式の【二次】はどういう意味があるのか、教えてほしいです。


●連立方程式が「未知数が2つ以上の方程式」と説明があったのですが・・・それなら二次方程式も連立方程式の1つ、ということですか。

●一次方程式、連立方程式、二次方程式の違いは式を効率よく見分ける基準はあるのでしょうか。

Aベストアンサー

一次方程式は
ax+b=0
の形で表すことが出来る方程式のことです。xに指数部分がありませんよね。
xの1乗ということなのですがx^1=xなのでx^1とは記述しません。xの1乗の1が一次方程式の一と考えてください。
a、bは実数(有理数と無理数)です。
またy=ax+bの任意のxに対してyが決まるものを一次関数といいます。

二次方程式はax^2+bx+c=0
の形で表すことが出来る方程式のことです。ax^2とxの2乗の部分がありますよね。この2乗の部分が二次方程式二になります。
a、b、cは実数(有理数と無理数)です。
またy=ax^2+bx+cの任意のxに対してyが決まるものを二次関数といいます。

連立方程式とは「2つ以上の未知数を含む2つ以上の方程式」が与えられて、
未知の数が2つ以上の方程式を満足する値が求まるものなのです。
例えばy=x+1、y=-2x-2の連立方程式があったとします、
二つの式を満足するxとyは-1と0となります。
問題の中で判らない数が2つなら連立方程式の式は2つ
判らない数が3つなら連立方程式の数は3つ必要になってきます。

これは突き詰めると、かなり難しい概念なのでこんなものだと覚えておくしかないと思います。

一次方程式は
ax+b=0
の形で表すことが出来る方程式のことです。xに指数部分がありませんよね。
xの1乗ということなのですがx^1=xなのでx^1とは記述しません。xの1乗の1が一次方程式の一と考えてください。
a、bは実数(有理数と無理数)です。
またy=ax+bの任意のxに対してyが決まるものを一次関数といいます。

二次方程式はax^2+bx+c=0
の形で表すことが出来る方程式のことです。ax^2とxの2乗の部分がありますよね。この2乗の部分が二次方程式二になります。
a、b、cは実数(有理数と無理数)です。
またy=ax^2+bx+...続きを読む

Q《霊あるいは神》は 《非知》だと言っているのに まだ納得しないのだろうか

人間の認識の対象となるのは あくまでこの経験世界における経験事象である。

有る無しや因果関係において認識する。つまり 経験合理性という物指しである。

認識の対象は 認識しうるか認識し得ないかで分かれる。

認識し得るものは 可知であり これはさらに 既知と未知とに分かれる。

認識し得ないもの――すなわち 概念や推論の対象として存在すると捉えている
けれど そのものについては認識し得ないと証明し得た場合――これは 不可知
である。

ところが これら可知および不可知のいづれでもないものが 想定される。
言いかえると 認識し得るかし得ないかが 認識し得ないものである。

これは とうぜん 経験世界を超えている。と想定される。
つまり 《非経験の場》である。
《特異点》が それに近い。ただし まったくの別である。後者は 経験事象だ。

そして 認識し得るかし得ないかが認識し得ないというのは 《非知》である。

これが 神であり霊である。



そんな想定などは要らないのではないか? 
と言っても すでに人間は・そしてどの民族も人類は 《かみ》という言葉を持
ってしまっている。これについて哲学は 何であるかを定義するつとめがある。
非知だと定義したまでである。

人間の認識の対象となるのは あくまでこの経験世界における経験事象である。

有る無しや因果関係において認識する。つまり 経験合理性という物指しである。

認識の対象は 認識しうるか認識し得ないかで分かれる。

認識し得るものは 可知であり これはさらに 既知と未知とに分かれる。

認識し得ないもの――すなわち 概念や推論の対象として存在すると捉えている
けれど そのものについては認識し得ないと証明し得た場合――これは 不可知
である。

ところが これら可知および不可知のいづ...続きを読む

Aベストアンサー

>宗教関連によるテロは無用になりましょう

すごいですね!
言ってることはよく理解できないですけどいくつかの使われている言葉から推測するに
世の中には色々な宗教があるけれど、神は神なのだから
神を宗教ごとに区別することないって考え方なのだと見受けました

そしてその考え方の根拠としていずれの宗教の神も非知であるということを挙げていますね
私にはここが論理的におかしいと感じるのですが
というのも例えばバルタン星人もプレデターも宇宙から来たのだから宇宙人だと言うことはできても
だからバルタン星人もプレデターも等しいとは言えないじゃないですか
同様に神は非知だからといってキリスト教の神と仏教の神が同じとは言えないんじゃないですか?

Q√1+√2+√3+…+√nの漸近展開

http://en.wikipedia.org/wiki/Euler-Mascheroni_constant
によると
1+1/2+1/3+…+1/n
=γ+log(n)+(1/2n)-Σ[k=2,∞](k-1)!C(k)/n(n+1)…(n+k-1)
という漸近展開があるそうです。漸近展開とは、簡単に言うと、nが十分に大きい場合の近似式です。

http://en.wikipedia.org/wiki/Stirling%27s_approximation
によると
n!
=√(2πn)*(n/e)^n*e^λ(n)
という漸近展開があるそうです。

ところで、
√1+√2+√3+…+√n
などの漸近展開をご存知の方がいらっしゃれば教えてください。

y=√xのグラフとy=√(x+1)のグラフではさまれた面積と考えることで、
√1+√2+√3+…+√n
=(2/3)n√n+…
となることはわかるのですが、
√1+√2+√3+…+√n
=(2/3)n√n+α√n+…
とさらに精密にしたいとき、αがどういった定数になるのかわかりません。

http://en.wikipedia.org/wiki/Euler-Mascheroni_constant
によると
1+1/2+1/3+…+1/n
=γ+log(n)+(1/2n)-Σ[k=2,∞](k-1)!C(k)/n(n+1)…(n+k-1)
という漸近展開があるそうです。漸近展開とは、簡単に言うと、nが十分に大きい場合の近似式です。

http://en.wikipedia.org/wiki/Stirling%27s_approximation
によると
n!
=√(2πn)*(n/e)^n*e^λ(n)
という漸近展開があるそうです。

ところで、
√1+√2+√3+…+√n
などの漸近展開をご存知の方がいらっしゃれば教えてください。

y=√xのグラフとy=√(x+1)のグラ...続きを読む

Aベストアンサー

ちなみに今の場合は定積分からも「α=1/2」が想像できます.
まず
∫[0→1] √x dx = 2/3
の左辺を矩形公式で和に変換すると
(1/n)Σ(k=1→n) √(k/n) = 2/3
となり, 両辺に n^(3/2) を掛けると
√1+√2+√3+…+√n = (2/3)n^(3/2)
になります. ただし矩形公式では区間の幅に比例する誤差があるので, 実際には
(1/n)Σ(k=1→n) √(k/n) = 2/3 + O(1/n)
です (O(1/n) は「1/n に比例する項」というくらいの意味).
ここで, 左辺の積分を今度は台形公式で和に変換すると精度が上がって
(1/n)Σ(k=1→n) (1/2)(√[(k-1)/n]+√(k/n)) = (2/3) + O(1/n^2)
になります. ここで同じように両辺に n^(3/2) を掛けて左辺を整理すると
√1 + √2 + … + √(n-1) + (1/2)√n = (2/3)n^(3/2) + O(n^(-1/2))
となり, 両辺に (1/2)√n を加えることで
√1+√2+√3+…+√n = (2/3)n^(3/2) + (1/2)n^(1/2)
まで持っていけます.
ああ, たぶん a が正なら自然数かどうかに関係なく
Σk^a = [1/(a+1)]n^(a+1) + (1/2)n^a + …
となると思いますよ.

ちなみに今の場合は定積分からも「α=1/2」が想像できます.
まず
∫[0→1] √x dx = 2/3
の左辺を矩形公式で和に変換すると
(1/n)Σ(k=1→n) √(k/n) = 2/3
となり, 両辺に n^(3/2) を掛けると
√1+√2+√3+…+√n = (2/3)n^(3/2)
になります. ただし矩形公式では区間の幅に比例する誤差があるので, 実際には
(1/n)Σ(k=1→n) √(k/n) = 2/3 + O(1/n)
です (O(1/n) は「1/n に比例する項」というくらいの意味).
ここで, 左辺の積分を今度は台形公式で和に変換すると精度が上がって
(1/n)Σ(k=1→n) (1/2)(√[(k-1)/n]+√(k...続きを読む

Q《人の色》と言い《人それぞれの色》と言うのなら 《言葉そのものに色は むしろ無い》。

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける。

――という一つのまとめが得られるはずだ。





《ことば》は 包丁や野球のバットと同じようにその使いようによって 凶器
に成り得るが 初めから《剣》であったり《武器》であったりするのではない。
むしろ 無色の状態において持たれ 大いに――人それぞれにおいて色づけさ
れつつ――用いられて行く。

ということではないか。




展開をこの趣旨説明では広げないが 言葉について言葉は諸刃の剣だというの
は 精確ではない。ということ。

そして それが人を斬りつけると見られそう言われている《言動におけるクセ
としての人の色》は だったら 互いに自由にその思想の中身を取り上げ 万
機公論に決すべしというほどに批判しあって行けばよい。

そのつとめは 哲学よりほかにない。はずでは? ほかの分野では ゆるキャ
ラであってよい。

したがって 言葉を 凶器だと言いあたかも魔女狩りの対象とするのは じん
るいの痴呆化を策略するアクマであり 権力の犬である。いかに?

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれの...続きを読む

Aベストアンサー

「色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける」
→そうだと思います。
つまり、言葉は人間の便利で優れたツールであるが、それにも増して人間そのものがコミュニケーションの原点でしょう。

Q小5、少数の割り算筆算について

小5の子供が算数で少数の割り算、掛け算の筆算をやっているのですが、どうも繰り上げや繰り下がりの足し算、引き算の部分で間違えることが多く困っています。
たぶん、少数の問題でなくても、同じような間違いはよくしています。
この場合、割り算、掛け算の筆算をたくさんやらせた方がいいのでしょうか。
それとも、レベルを下げて足し算、引き算の筆算をやり直させたほうがいいのでしょうか。
何事も繰り返しやることが一番なのでしょうが、
効率のよい勉強の仕方がありましたらどうか教えてください。

Aベストアンサー

>>この場合、割り算、掛け算の筆算をたくさんやらせた方がいいのでしょうか。

当然ですが,間違えたまま沢山やらせるのは,逆効果です.

>>それとも、レベルを下げて足し算、引き算の筆算をやり直させたほうがいいのでしょうか。

足し算、引き算の筆算が不得手で,間違いが多ければ,やり直させる必要はあります.
しかし,その場合,間違える原因をしっかり,確実につかんで,
間違える原因をなおしてやることが肝心です.

>>何事も繰り返しやることが一番なのでしょうが、

「繰り返しやること」自体は,私は,そう重要ではない,と考えます.
重要なことは,「繰り上げや繰り下がりの足し算、引き算」の意味・内容を理解すること
のほうが重要でしょう.

>>効率のよい勉強の仕方がありましたらどうか教えてください。

「効率のよい勉強法」というのは,私にも,良く分かりませんが,
まず,「間違えることが多い」原因を探ることから,お始めになったら如何でしょう.

(1):「間違える原因」は,早くやろうとして,あせって間違えるのか?

(2):「間違える原因」は,何か,理解していない部分があるのか?

(3):「間違える原因」は,繰り上げや繰り下がりの意味が理解されていないためか?

(4):そのほかに「間違える原因」があるか?

などをみてやるのが,良いのではないでしょうか.

>>たぶん、少数の問題でなくても、同じような間違いはよくしています。

と,おっしゃられていますが,これは,お子さんの性格が,「せっかち」なためなのかどうか?
「割り算、掛け算」や「少数の割り算、掛け算」そのものの意味・内容を理解しているかどうかを,
まず,見極めてやるのが,お子さんの将来の為であると存じます.

親が「せっかち」になってはいけません.早くやるように,お子さんをせかせてはいませんか?
お子さんのペースに合わせて,理解度を見極めてやって下さい.これが一番肝心です.

>>この場合、割り算、掛け算の筆算をたくさんやらせた方がいいのでしょうか。

当然ですが,間違えたまま沢山やらせるのは,逆効果です.

>>それとも、レベルを下げて足し算、引き算の筆算をやり直させたほうがいいのでしょうか。

足し算、引き算の筆算が不得手で,間違いが多ければ,やり直させる必要はあります.
しかし,その場合,間違える原因をしっかり,確実につかんで,
間違える原因をなおしてやることが肝心です.

>>何事も繰り返しやることが一番なのでしょうが、

「繰り返しや...続きを読む

Q《わたしがわたしである》わたしがわたしする

1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。
 
2. あざむく対象として存在〔らしき何か〕がないならば 欺かれえない。つま
り もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。
 
3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。



4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこ
と(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。
 
5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現象があるのみ。


 

6. 表現の問題とすれば 世界は善である。この善なる存在が ウソをつく。イ
ツハリをおこなう。光も曲がる。存在もそして存在の中軸としての意志も 相対的
なもの(善)だからである。
 
7. つまりは 善なる存在は そのみづからの存在としての善をも損傷する自由
のもとにある。ウソをつきイツハリをおかす。それは やましさ(恥づかしさ)反
応で分かる。


 


8. ウソを 思惟しただけではなくヤマシサ反応にさからって実行したなら そ
のぶん もともとの(生まれつきの身と心とから成る自然本性としての)善を傷つ
ける。自由意志がみづからに逆らう自由をも持つ。
 
9. このような善の損傷行為が 負の善であり いつもいつもマイナスの善と呼
んでいては能が無いから ひと言で悪とよぶ。悪は 表現の問題である。
 
10. 善が傷つけられた存在の部分ないしその欠けた状態をも 悪とよぶ。悪は 
善――正負の善――の関数である。




11. 存在は 意志自由において 善だが そもそもみづからは時間的な存在で
ある。うつろい行く相対的なものであるゆえ 善も損傷を受ける。ただし その損
傷があるのみであって 善のほかに別の存在または存在に敵対するものがあるわけ
ではない。善がひがみ ゆがむのみ。

12. 人びとの中には やけを起こすわたしがいるだけのことだ。これが やめ
られないとき その悪を悪魔といった独立の存在のしわざだと見たくなる。その想
像の産物として 悪や悪魔がある。



13. 相対的な善なる自由意志のうちに みづからをも傷つけるゆがみ――へそ
の曲がり――が生じる。わたしは わたしであるときこの悪をふくめてわが善なる
存在を自治する。自己経営する。
 

14. 《わたし》たちは 社会をつくって それぞれ自己経営しつつ 社会つま
り人間の行為関係を共同自治して生きる。
 

15. この わたしがわたしする自治の行為 あるいはそのような自己経営の集
まりとしての共同自治の行為は――政治ともよばれるが―― しばしば愛ともよば
れる。悪の共同自治ゆえ。

16. 愛とは 自治である。むしろ自己の愛に発する。自己を愛さずして 愛は
あるか。

 
17. 《わたしがわたしである》わたしがわたしする。のだ。


18. これだけのことであると考えられるところを 世の中には――自由意志ゆ
えに――スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクをこしらえることがあ
る。

19. 理念を推し出しお花畑を描くことによってのみ人間と社会の問題に発言を
おこなったり あるいはぎゃくに 世の中はチカラのみだという〔しばしば悪の〕
社会力学のみを推し出したりする。・・・


成否・当否を問います。
あるいは この《18&19》のあとを ご自分の見解で展開して行ってください。

1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。
 
2. あざむく対象として存在〔らしき何か〕がないならば 欺かれえない。つま
り もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。
 
3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。



4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこ
と(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。
 
5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現...続きを読む

Aベストアンサー

全ては善だ。

子供の頃、私は善だと主張する大人がいることを経験するのだ。
子供の頃、私は善だ。善でないものは悪だという大人を知るのだ。
そして、誰もが子供のとき深く傷つく。

そして心の傷を抱えたまま善を目指そうとする。

そして今の時代は
全てを善ととらえたらいい。

善と思えないものがあったとする。
たとえば事件、殺人事件
生命と尊さをしれた
この世で一人で生きてきた人はいない
もしかしたら奥さんがいた人かもしれない、子供がいたかもしれない
迷惑をかけてはいけない
不安を感じさせてはいけない
殺人は取り返しがつかない
時間はもとには戻らない
家族が嘆き悲しむ
親戚が嘆き悲しむ
その人の所属している団体、すなわち会社が、学校だったりが悲しむ

たとえば旦那さんの不倫があったとする
それは奥さんが旦那さんから気持ちが離れた
旦那さんのことを気に掛けなくなった
旦那さんより自分の気持ちを優先させてしまった
一人では生きていけない
この世は支えあって成り立っている
仕事や自分の趣味等に気が行き過ぎるとよくない
バランスが大切

とか・・・。いろいろなことを教わる。
だから全ては善なんだ。

反対されるかもしれないが
こんな考え方 この世には善しかない
どうですかね?

全ては善だ。

子供の頃、私は善だと主張する大人がいることを経験するのだ。
子供の頃、私は善だ。善でないものは悪だという大人を知るのだ。
そして、誰もが子供のとき深く傷つく。

そして心の傷を抱えたまま善を目指そうとする。

そして今の時代は
全てを善ととらえたらいい。

善と思えないものがあったとする。
たとえば事件、殺人事件
生命と尊さをしれた
この世で一人で生きてきた人はいない
もしかしたら奥さんがいた人かもしれない、子供がいたかもしれない
迷惑をかけてはいけない
不安を感じさせては...続きを読む


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