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後期の倭寇の構成員は日本人ばかりではなく、多くの中国人、朝鮮人が含まれていたと聞きます。その倭寇は、豊臣秀吉によって根絶されるまでたいそう暴れ回ったそうですね。
そこで疑問に思ったのですが、なぜ秀吉は倭寇を根絶できたのですか?
倭寇に中国人、朝鮮人が多いなら、倭寇は中国・朝鮮に多くのアジトを持っていたと考えられます。もしそれらのアジトを秀吉が攻撃しようとしたなら、確実に外交問題になると思うのですが、そんな話は聞きません。秀吉は一体どうやって倭寇を攻撃したのでしょう? また、なぜその時まで、中国・朝鮮は自国内にある倭寇のアジトを殲滅できなかったのですか?
それとも、実は中国・朝鮮に倭寇のアジトは無く、『中国人、朝鮮人が何らかの事情で日本に居着き、日本にアジトを置いていた』のでしょうか? もしそうなら、その“事情”とはいかなるものですか?

A 回答 (4件)

直接的な理由は、秀吉が賊船停止令(海賊停止令・倭寇禁止令とも)を1988年に発布していることだといわれています。

この法令は、海の惣無事令ともいわれています。また、海の関所をつくり、警固料という名の通行・安全税を徴収することも禁止されます。しかし、倭寇根絶の根本的な理由は日本に豊臣政権という統一政権ができたことだと思います。それまで日本国内の分立状態の中で、自立傾向が強かった海賊・海賊衆・警固衆などと呼ばれた海の勢力が統一政権の出現で、武士として残るか、武装放棄して農民や漁民・商人になるかの道を選ばざるを得なくなったということです。今までですとAという戦国大名に海賊停止令を出されても、Bという戦国大名と結んでもよいし、自立してもやっていけたものが、統一政権の誕生で、このようなことができなくなったとも言えます。そのため、海賊停止令には兵農分離政策の意味のあったとされます。
また、この法令により豊臣政権は海上勢力を支配下に組み込み、来るべき朝鮮進出への準備と、海外貿易・海上輸送の支配強化を狙ったとも言われています。
ただし、海賊=倭寇ではありませんし、特に後期倭寇はどちらかというと商人の性格が強く、貿易取引がうまくいかないと、倭寇に変身するようなことが多く見られます。もともと明王朝は海禁政策をとり、朝貢以外の貿易を認めないことが多く、日本とは勘合貿易が途絶して以降、密貿易が横行したとの背景があります。そのような性質は明の側でも理解するようになり、倭寇の討伐だけでなく、日本と琉球を除く東アジアへの条件付きで中国船の出船を認め、寄港先の港で日本船との出会い貿易を行うようになります。また、日本でも1588年の賊船停止令の発布後、1592年に海外渡航許可状である朱印状を持つ朱印船を派遣するなどの政策により倭寇は根絶されるようになります。(前期倭寇も勘合貿易の実現と、対馬-朝鮮の貿易の再開、日本・朝鮮の倭寇取締りの強化・日本の南北朝統一などにより沈静化)
つまり、
1、1588年の賊船停止令
2、1592年の朱印船の許可
3、明の海禁政策の緩和と出会い貿易
4、明の倭寇討伐
などが倭寇根絶の原因となります。

海賊停止令
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E4%B8%8A% …
倭寇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87
海禁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E7%A6%81
朱印船
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%8D%B0% …

以上、参考まで。
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大名は海賊を黙認していました。


彼らは水路を通る船に通行税をかけ、海を領地とする地侍(水軍)でした。

大名は敵の大名の船を襲撃する倭寇をかくまっていたのです。

秀吉の検地政策は地主、地侍、百姓と言う二重三重の名義の土地を一本化し、
年貢の中間詐取者(地侍)の職を奪う物でした。

更に刀狩を行います。

この時、地侍は
大名に仕える侍になるか百姓として生きるか?

この二つの選択を余儀なくされます。


応仁の乱以降活発になった倭寇ですが、天下が統一されると
どこどこの国の倭寇に襲撃されたと言われると大名自体が窮地に立たされる時代になったのです。

大名は地侍や水軍を必要としなくなります。

その上、検地、刀狩令や海賊禁止令を無視した事になり、
秀吉から直々に仕置きされる事になります。

惣無事令に背き
九州征伐、小田原征伐、奥州仕置きときつい仕置きを各大名は受ける時代になります。
(別名平和令)
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まず認識していただきたいのは船乗りには国籍意識も民族意識も存在しないということです。

彼らの意識には海の仲間かそうでないかを区別する考えしかないのです。船に乗せてくれるなら自国だろうが外国だろうが全然気にしないのです。なぜなら船に乗れるかどうかが全てだからです。指導力のある船長がいるかいないかが全てです。例えば、アメリカを発見したとされるコロンブスはイタリア人(ジェノヴァ人)でしたが、ポルトガル時代もありますし、スペイン時代もあります。自分を認め、スポンサーを求めてどこにでもいくんです。ウイリアム・アダムス(三浦按針)はイギリス人航海士でしたが、オランダの航海士募集の話を聞きつけてオランダ船に乗り込み徳川家康に気に入られて、日本で暮らすことになってしまいました。船乗りの一生とは、こういうものなのです。それは倭寇とて同じことです。

さて倭寇に話を戻しましょうか。倭寇は好きで倭寇をしていたわけではありません。生きる手段が他に無いから、そうしていただけの話です。もっとましな商売の口でもあれば倭寇なんかすぐ止めちゃいます。そういう変わり身の早さも船乗りの特徴です。

秀吉は倭寇のアジトを攻撃などしていません。海賊を取り締まって倭寇の首魁を逮捕しただけです。船乗りは指導力のある船長を失うともうだめです。船の進路をどうするかといった決断が誰もできないので話がまとまらなくなってしまいます。

秀吉が倭寇を根絶したという評価は過大評価です。秀吉がしたことは1588年に海賊取締令を発しただけです。裏で倭寇と結託して倭寇を容認していた諸大名に、それはもう許さないと脅しをかけたといったことなのです。とはいいながら、その時点では秀吉が天下を統一し、平和的な交易が成り立つようになっていて、倭寇は交易商人にすりかわっていて既に海賊行為は下火になっていました。世の中が落ち着いてくると、倭寇といった危ない橋を渡るのは止めて、もっとましなまともな商売をやりたいと考えるものなのです。倭寇は自主廃業です。船乗りのスキルを活かして転職したといったことです。

それが倭寇の根絶といったことです。
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なかなか面白いご質問ですね。

ちょっと気付かないことです。秀吉は倭冦の贋物を根絶したわけではありません。本物だけを取り締まったのです。秀吉は朱印船貿易を始めたのですが、倭冦が略奪を繰り返すと御朱印貿易ができなくなるのでこれを討伐したり懐柔したりするのは当然です。本物の倭冦がいなくなると贋物の倭冦は自分達が贋物であることがばれてしまい、相手が恐れずに立ち向かって来るので仕事にならず、自然に消滅したと考えられます。ルイビトンの本物が販売をやめたら贋物もやめざるを得ないのと似ていますよね(^_-)
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