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人間が自由に考え、自由に選択し、自由に行動するすることは、あるんでしょうか?
あるのなら、具体的に教えてください。

A 回答 (16件中1~10件)

自由の定義によると思います。


選択肢にAとBがあった場合、AとBのどちらかが選べるという自由と、AとBの他に何も選べない不自由が同居します。
これは人間の行動定義における「枠内での自由」と「枠外行動における不自由」と言い換える事もできるでしょう。

例えば

  そば屋に行った。メニューを見る。すると
  A.かしわそば
  B.かけそば
  の二つがあった。
  太郎さん「かしわそばとかけそばのどちらかが選べる! 自由がある! 」
  二郎さん「玉子焼きは頼めないのか。自由は無い! 」

という事ですね。

ただ、本当に玉子焼きは出ないのでしょうか。
人が蕎麦屋で玉子焼き定食を求めるなら、玉子焼き定食を出せるそば屋を開いても良いので、これが人間の自由行動(「人間の行動枠外への自由行動」)となります。
(余談ですが、蕎麦屋さんで玉子焼きを頼めるかどうか試してみて下さい。ごく希に出たりするお店があるらしいです。)

AとBの選択肢にCが選べない不自由がある、そこでCを作り出して選択する事こそ人間における自由なのではないか、というのが私の考えです。
このような自由は本当にあるのでしょうか。
無い事は無いと私は考えます。

例えば、芸術などは既存の表現方法を打ち破る事が主眼に置かれているケースがあります。

ターナーの「雨、蒸気、速度」
http://www.salvastyle.com/menu_romantic/turner_r …
これは既存の回答からすれば写実的描写をすればOKなのですが、写実ではない表現で人間の感覚に訴えかける斬新な表現手法でした。

既存のA,Bではなく、新しいCを追い求める。
それが利益の出る発明や発見であれば、それらは人間の性(さが)として捉えきれたかもしれませんが、芸術における表現手法の開拓と社会への衝撃の付与は、人間が理性を以ってその枠を破壊する事を欲している証左に他なりません。

尤も、これら全てをひっくるめて「それが人間の行動できる枠内なんです」という言い方もあるでしょうが、「枠を定められれば(自由が束縛されるので)その枠を壊したくなる」というのが人間なのではないでしょうか。

この回答への補足

”かしわそば”と”かけそば”のどちらかが選べる! 自由がある!
というのは、ほんとに自由でしょうか?

例えば、前日に”かけそば”を食べたとするのなら、”かしわそば”を食べるかもしれませんし、”かけそば”が好きなら食べ続けるかもしれません。
また、金銭的な理由もあるかもしれません。

明日あなたが食べるものは、”この質問を見るまで”帰ることができましたか?”という事です。

職場の条件や金銭的な理由、天気、食べた経緯、好みなんかで、明日食べるものは、決まっていたはずです。
それは無意識でしょうが、違いますか?

”この質問を見るまで”を付け加えたのは、これ自体があなたに対する刺激であり、明日の行動を帰る理由になりえるからです。

補足日時:2013/07/30 21:03
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この回答へのお礼

似たような食品で多少イメージしにくいですが、ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/30 21:03

去年の10月にした質問の返礼を9ヶ月後の昨日になってしたように自由意志は存在しますよ。


返礼してもしなくても良かった。
具体的にはそう言うことです。
有るとも言えるし、無いとも言えます。


>その徳も、親や環境、生まれ持った個人の趣向ですよね?
>そこになにか謎なものは介在しませんよね?

>つまり、同じ親で、同じ環境で、例えば遺伝子が同じなら、同じ人間になるはずです。

>そこに自由はあったのでしょうか?

確実にあるでしょう。
例えば、一卵性双生児の場合。

>つまり、同じ親で、同じ環境で、例えば遺伝子が同じなら
この条件が満たされます。
しかし、この条件を多く揃えても獲得形質は全く別のモノになります。
例え双子でもよく似ては居ますが全く違った別の人格です。

経験を積んで能力を向上させると言う事は個々人に属します。

つまり、例え遺伝子が同じ・親が同じ・環境が同じでも
※ 感じたこと
※ 経験を積んだこと
※ 学んだこと
※ 思ったこと考えたこと
これらのことは、1人1人全く違ってきます。

それでも、否定して無いと言えば無いと言えるのが自由意志です。
つまり、個々人の努力よりも運命や宿命・神々の意志を大きく見ると自由意志は存在しないのです。

繰り返しますが。
>つまり、同じ親で、同じ環境で、例えば遺伝子が同じなら、同じ人間になるはずです。
 そんなことはあり得ないんですよ。
一卵性双生児のほとんどが全く違う人格なのは確実です。
得意で好きなスポーツも趣味も全く違った人間に成長の過程で成っていきます。

 つまり、遺伝子レベルで見ると同じ人間です。
しかし、人格を見ると全く別の人間なんです。
だれでも経験から学び、生来持っていた形質・生まれついての才能に追加して、その人らしさや能力を獲得していきます。

 自由意志の有る無しを決めるのは、やはり個々人の主観です。
しかし、人が学んでその人らしい成長をしていくことは誰も否定できないことでは無いかと思います。
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この回答へのお礼

はははっ、これ自体がネタですからねー。
そうせざる負えなかったのですよ。(苦笑

個々人の主観ってのは、分かりますが。
ありがとう

お礼日時:2013/07/31 20:18

質問者さんが、この質問で言わんとなさってることは、私にも理解できるように思いました。



ないと言えばないし、あると言えばある。禅問答めいていますが、
捉えかたの範囲が極端から極端までに可能な問題なのですね。
その範囲によっても、答えが違ってくるでしょうけれど、
いわく、「選択肢がない」ということだって、「選択肢がない」という「選択」をしたのでは?といった、より突っ込めば、そう簡単な話ではなくなりそうです。

そもそも、自分の、脳も含めた、この肉体というものが なければ、はたして、「選択」という行為をするものだろうか。
その「選択」とは、そもそも、何が行わせているものだろうか。

たとえば、甘いものを欲しているのは、何者が、欲させているのか、
何かを覚えなければならないときでも、何者が、それを可能に、あるいは不可能にしているのか。


理性といえども、根本的には本能的なものにこそ裏打ちされているはずですし。
「神」という概念ですら、人間の、法則性とか整合性とかを希求してやまない性質が産み出したと見ることもできそうですし。

生理学等の科学の視点で、まだ解決を見ていないようですと、おのずと哲学などの方面に向かってしまいますね。

この回答への補足

物理法則のなれのは・・・だと思うのですが。

補足日時:2013/07/30 21:07
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この回答へのお礼

まぁ、哲学で扱われるじゃんるですかね。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/30 21:07

 ありますし、歴史資料(教科書でもいいです)には、選択とその結果、さらにはその結果からの選択と繰り返す、膨大な例があります。



 それが自由意思である傍証は、それだけの人間の意思決定に関する資料がありながら、未来のことはやはり分からないという現実です。

 未来のことが分からなかったということは、それが来てみないと分からないわけですが、日々、多くの予想を裏切られることで充分に確からしい正しい推測となっています。

この回答への補足

自由意志があるかないかは分からないが、どちらでも、未来は分からないということですか。

補足日時:2013/07/30 21:05
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この回答へのお礼

個人的なものを論点としていたのですが、、、

ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/30 21:06

>例えば、回答者さんにそういうことを学ぶ機会がなかった場合、こういう回答は出てこないと思うのですよ。


>よく、ドラマなんかで、人を殺してしまった、理由が出てきますが、「そりゃー、人を殺すよね。」って共感できる部分もありますよね?
>「生まれが貧乏な女の子で、裕福なお嬢様にイジメられていた。」「ので、殺してしまった。」なんてのが、シンプルな原因と結果ですよね?
>もちろん、同じ状況でもそうならないのは、人には個性があり、様々な情報がその人にくっついているからです。
>つまり、人間は全く同じ遺伝子、全く同じ環境、その他もろもろ全く同じ、だとすれば、全く同じ結果になるのではないでしょうか?
>これは自由な意志があるという事なのでしょうか?

この事を考え、ネットを検索してみました。
「本性と教育」と言う議論が存在しているそうです。
この問題は、洋の東西を問わずに古典的な思考問題として存在し続けています。

この「本性と教育」について日本人に最もなじみが深いのは、孟子の性善説の様です。
「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)
「羞悪」(不正や悪を憎む心)
「辞譲」(譲ってへりくだる心)
「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)
これは四端と呼ばれ、学び実践していくことで仁・義・礼・智という人間の4つの徳に到達すると考えられていたそうです。

そして、こう続きます。
決して人間は放っておいても仁・義・礼・智の徳を身に付けるとは事は出来ず、努力して伸ばさない限り人間は禽獸(きんじゅう。けだものの意)同然の存在だと・・・

わたしは、同様に「自由意思」も徳と似た様な性質を持ち努力して伸ばさない限り発揮出来ないのでは無いのかと考えます。
また、生き物は個々に違い
>つまり、人間は全く同じ遺伝子、全く同じ環境、その他もろもろ全く同じ
と言うことはあり得ないと考えます。
そして、学ぶ方法も実践すべき事も個人によって全く違うのだと考えます。

「自由意思」は、一人一人が全く違う為、存在しているのでは無いでしょうか?
その人が成長の過程で、学ぶべき知識・実践も大きく異なるはずです。

この回答への補足

その徳も、親や環境、生まれ持った個人の趣向ですよね?
そこになにか謎なものは介在しませんよね?

つまり、同じ親で、同じ環境で、例えば遺伝子が同じなら、同じ人間になるはずです。

そこに自由はあったのでしょうか?

補足日時:2013/07/30 20:55
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この回答へのお礼

人間の本質については、まったく興味はないのですが、詳しくありがとうございました。

お礼日時:2013/07/30 20:56

さきほど書き忘れたんで戻ってきました。

補足に書こうとしたらかけませんでしたので、回答でもなんでもなんですが、ここに書きます。

非現実的とは思うんですが、例えばフェルマーの定理やポアンカレ予想とか長年証明されて来なかった数学の定理などなど、(私の感覚的には)自由意志で形成されたものに見えてしまうんです。実際そうかどうかは別として、私と同じように感じてしまう人って少なくないと思います。

将来的に彼らの頭の構造のここが違ったとかなんとかなんでもいいから、定理を思いつくことができた理由、あるいは自由意志ではなかったということが証明されることがあり得るんだろうかと思います。

この回答への補足

逆に、専門的なことをしている人ほど、私は自由意志がなかった・・・と思うんですが。
例えばイチローや松井は、野球をやるという環境にいたと思うんですよ。
父親の影響だったり、近くの環境だったり。
数学もそうで、人より計算の能力が高い脳や近くの環境とか、持っている脳だったのでは?と。

また、その問題を解く、解いてやる!!という強烈な報酬を感じるために、その研究をしていたのかと。
そこには、その報酬を得ないという選択はなかったのかと。

補足日時:2012/10/14 18:16
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この回答へのお礼

私は、募金をします。
赤い羽根にも、震災募金にも。
それは、そのことで快感という報酬が発生しているからです。
また、そういう報酬が強く感じる正確になったのも周りの環境からだと。
でも、それでいいと思っていますし、それでいいかと。

有り難うございました。

お礼日時:2012/10/14 18:18

最近、中学生の子供の宿題に全く同様の問題があったみたいです。

なんて書いて出したかって聞いたら、あるけど、結局物理的、経験的要因に規定されている。って、言ってました。なるほどなぁ。と思ったんだけど。

定義にもよるでしょうけど。自由と意思って相反するものってことはないでしょうか。世の中一番自由なのは先の読めない粒子の動きというような気がします(定義違ってたら教えてください)。けど、彼ら/彼女ら(?)は意思なんかないでしょう。意思を持てそうなのは人間も含めて生物の一部しかなくって、それを作り出したのは環境でしかありえない気がするし。

あるとしたら、絶対存在としての神とか宇宙とか、普通の人には理解できないもののみでしょうね。とすると、人間じゃなくなってしまうし。

この回答への補足

なるほど、言葉の定義の問題ですか。
現象が不確定になる要素は否定していません。
サイコロは1/6ですが、どの目が出るかは予想できませんし。

補足日時:2012/10/14 18:10
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この回答へのお礼

中学生にまた、シビアな質問ですね。
自由意志がないことを誤解すると、自堕落なことにもなりかねないけど。
有り難うございました。

お礼日時:2012/10/14 18:11

NO.6です。



>自由意志があると思っている人は、その箱を開けるまでは、自由意志は存在するのかもしれません。

そう思うのがあなたの自由意志だと思いますので、尊重します。

人は自由意志があるから、意見の違いが出てしまうので。

この回答への補足

>人は自由意志があるから、意見の違い
ではなく、全く同じ状況の人間がいないから、だと思うのですが。

もし、全く同じ遺伝子、全く同じ環境だった場合、その人が行動を変えられるとは思えないけど。
一卵性の双子だとしても違いが出るために、微妙に性格や嗜好に差が出るが、普通の人よりかは差がすくない。
それはなぜか?
遺伝子や環境が、他の人よりかは近いためでは?

そうなると、遺伝子や環境によって、人は決まるんですよ。

補足日時:2012/10/14 09:19
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この回答へのお礼

尊重していただき有難う。
ふと、人工知能みたいな言葉なのかなー?と思いました。
プログラムでは、ファミコンから簡易の人工知能が搭載されていまして、ようは、人間の決定っぽく見えるシステムのことなんですが、それを人工知能というのは、違っていると思いませんか?
もしかしたら、自由意志ってのも、そうなのかなー?
ありがとうございました。

お礼日時:2012/10/14 09:22

ない、に○。



人間を含めて生物は反射で行動を起こします。反射というのは条件が満ちたら選択肢が絞られて統合的に人間の体がそのように動くということで、条件というのは外部の刺激(複数の場合が多い)と自身の記憶との突合せでシーケンシャルに結論づけられるものです。ですから、うなぎの蒲焼のにおいがしたらかならず暖簾を潜るという単純なことでもありませんが、その場その場で自分の意思にもとづいて動いていると思っていても、結局決定論的に動いていることになります。

自由意志がある、というひとはその条件の中に自身の強烈な意志力が介在して最終的な選択肢を決定している(場合がある)ということでしょうが、その意志力だって人間が按配している、恣意的に動かせるというものではありません。それを証明できるものは存在しないのです。多くは自身を客観的に見る社会的な目、プライドなどがそれをねじまげて動かす力にもなり、必ず最後はひとつに決めねばならないということがこのことを示しています。
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この回答へのお礼

実は、私の回答がこれでした。
人間は、所詮、フィジカルとメンタルの反射で進む方向が決まるのだと。
それが縦犯罪者になろうが、聖人になろうが、です。

とはいえ、否定する意見を望んでいるのも確かな事ではあるんですが。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/10/13 09:49

 ・あります。

ひとりで部屋にいるとき。それも、妄想に身を任せられるとき。

  ただ、人間は「社会」の中で暮らしていますから、少しでも「社会」を

  考えると、その自由はすぐに消えてしまいます。

  妄想が壊れると、自由も同時に壊れます。

  幼児は「社会」性をあまりわかっていないし、もってもいないので、

  年上からみると発言や表現力に自由さを感じますが、それは、知らないだけ。

  無知が理由です。

 ・自分ひとり、他人との接触や、他のモノとのかかわりが薄いところでのみの

  自由意志ですね。自分の部屋にひとりでいても、他人とのかかわりや、

  モノとのかかわりを考えているときは自由さは感じられません。

  また、自分の精神を解放できない人、部屋の家具を意識するとき

  家に縛られ、家具に縛られ、家族に縛られますから、自由は感じられないでしょう。

  ただ、「はだかになりたい」と思えば、誰も見ていないなら平気ですから、なれます。

  でもこれも自分自身が「冷静な判断」を自分に向けたとき、壊れてしまうことはあります。

  想像をめぐらし、妄想を楽しむのは、ひとりでいるからですね。


 ・人は揺れ動いている生き物です。心も「ころころ変わるのでココロ」と名づけられたように、

  変化するのが当たり前です。人前で、自分の行動や発言が発表できないことも、

  恋をなかなか告白できないこともあります。家族、学校、友人、会社など、自分の存在が

  小さくて、自己主張しようにもできなく、自由に振舞えないことも多いものです。

  でも、これは、「自由がない」からではありません。「人間社会」で生きているからであり、

  人間社会の中で生きると決めた人の「セルフガード」、「安全装置」と言えるでしょう。

  宇宙も引力をはじめ、いろいろな法則で動いています。もし「月」が、もうここはイヤだ!

  違うところに行きたい、月でいたくない! 太陽になるんだ! と自由意志のままに

  行動すると、引力は壊れ、大きな太陽に吸い込まれて自滅するでしょう。月を飲みこみ

  太陽も無事ではないでしょう。肥大して爆発する時期をはやめるかもしれません。

  今の自分を否定して、決断的に行動するのが、ルールの中に生きるものの「自由」では

  ないことがわかります。自由というより、「破滅」ですね。

 ・快適に過ごせて、飲食・睡眠にも不満が出ない「おひとり様無人島」に行っても、からだは

  本人の自由意志に逆らって、成長するし年もとります。病気にもなります。

  一時的に自由を獲得したように見えても、結局は「自殺行為」になってしまいます。

  地球は超スピードで回転する物体です。でも、走っている電車の中で飛び上がっても

  同じところに落ちるだけ。

  もし、飛び上がったり、飛び降りたりしたとき、空中にいる自由な時間中

  家や道路やビルは動きますから、飛んでいる人は激突してつぶれるでしょうね。

  同じところに落ちてくる・・・これも、不自由というより、人を守る安全装置になっています。

 ・最後に、文字遊びをしているように思われるかもしれませんが、あなたの書かれたことは

  いつでも実行可能なのです。

  『人間が自由に考え、自由に選択し、自由に行動する』ことは、いつだって出来るのです。

  ただ、「人間が自由に考え、自由に選択し、自由に行動」しようと動き出すまでは、その通り

  『自由』です。「自分の部屋で、オレは自由だ、選択できる、自由に行動できる」と一歩

  動き出したときに『もう終わっている自由』なのです。

 ・ただ、限界というものは、他人や社会が決めていることですし、

  あなたならそれを越えられるかもしれません。限界までなら挑戦できる自由、

  それを選択できる自由、行動できる自由があります。

  運命や現実は簡単に変えられませんが、今の自分なら変えられます。

  勇気のない自分に少し勇気を持たせたり、憎んで当然の誰かをゆるしたり、

  くちびるをかみしめるところで少しほほ笑んでみたり、少しだけ、

  今日の自分を明日変えてみようと思ったりならできるのです。


 ・いろいろ書きました。少しは参考になるとうれしいのですが。

  あなたの明日にステキなことがありますように。

この回答への補足

うむー、自由意志がないことに否定的?かなー、と感じたのですが、私はそうではないと思います。
例え自由意志がないとしても、そこには幸せがあると思うんですよ。
自分で得たと錯覚している砂糖も、甘いことには代わりがないので。

>今日の自分を明日変えてみようと
と思うのは、それがきっかけで、影響であり、見た人の進む方向を少し変えるかもしれません。
ただ、そこに至る過程と、どういうふうに影響され、進むのかには、選択権がないと思うのですが。

補足日時:2012/10/13 09:46
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この回答へのお礼

まぁ、そこそこ幸せ&不幸せですよ。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/10/13 09:46

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