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 他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。
 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。

 ▼ (ヰキぺ:二元論) ~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83% …

 (にげんろん、dualism)とは、

  世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。
  例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわちここで 単純に

  ▼ または二つからなる区分に分けられるとする

 という場合も二元論と呼ぶのだと言っているようです。けれどもこの場合というのは 二項対立とか二項区分あるいは双対と言ったりする場合なのではないでしょうか?


 すなわちもし 二つの事項があって互いに区別されているだけの状態であってもその二項について――つまり精神と身体 あるいは モノと心といったように互いに区別されている二項であるなら―― 二元論という用語で呼んでさしつかえないとするなら  けっきょくおよそ《ふたつのもの》は二元論になってしまう。
 というだけではなく じつはそれだけではなく  どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。のではないでしょうか?

 そんな一元論など 意味がない。はずです。すべてのものごとの根元をひとつだと見ることから 一元論と言うのであって 根元を問わない《ひとつのもの》が 一元だと――世界観において――言うなら へんなことになりませんか? そんな用法は無用にすべきではないでしょうか?

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A 回答 (29件中1~10件)

>《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。


誤読です。そんなこと言っていない。
たぶん、説明文を
(世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から
構成される、)または(二つからなる区分に分けられる)とする概念のこと。
と読んだからこういう結論になったものと思われます。
日本語文法上、こう読むことは可能だけど、そういう意図でかいたわけじゃないでしょ?
(世界や事物の根本的な原理として、)それらは<(背反する二つの原理や基本的要素から
構成される、)または(二つからなる区分に分けられる)>とする概念のこと。
と読めばよいだけ。日本語文法上、こちらの読み方も可能。というより、こちらが普通。

二区分に分ける場合も、根本的な原理で区分しないとなりません。
根本的な原理で区分したのだから、当然、勝手に統合することはナシです。
根本的な原理を統合したら、意味が変わってしまいます。

>どんなものでも《ひとつのもの》を捉えて それは一元論だと言ってもさしつかえないことになってしまう。
そうですよ。そのとおりです。
でも、以下の意味であり、条件限定です。たとえば、
善悪二元論:行動Aと行動Bで、どちらが究極的に正しいかわからない。(最終で勝ったほうが善、なんだろうな。)
善悪一元論:行動Aと行動Bで、どちらが正しいかは最初から決まっている。(けれども、当事者はどちらが正しいか判明できない。)
この二つを同一視してよいような議論のたてかたであれば、二元論を一元論として述べても差し支えない。
(たとえば、ごく普通に倫理を語る(=二律背反を語る)とき。)
要するに、根本的な原理そのものを語るのではなく、根本的な原理が単なる前提条件となったとき。

ゆえに、結論。
>そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。
そんな用法は無いし、そんな用法を述べているという事実すら存在しない。

この回答への補足

 文章の読み方は別として とうぜんおっしゃるように読む・またはむしろすでに理解している というのが ふつうであるはずです。

 その意味で BA と受け留めました。

補足日時:2012/10/31 13:06
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この回答へのお礼

 やっぱそうなんですか?

 まづは まさ2211さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうなんですかねぇ。
 つまり そう読むとですね。
 ★ ~~~~
  (世界や事物の根本的な原理として、)
   それらは<(背反する二つの原理や基本的要素から構成される、)
   または(二つからなる区分に分けられる)>とする概念のこと。

 と読めばよいだけ。
 ~~~~~~~
 ☆ こう読むとですね 後者は 次のように理解されます。
 ▼ 《世界は ふたつの原理に区分されて捉えられる》
 ☆ と言っていることになります。言いかえると 《二つの原理としての区分》は すでに前者の意味内容として言っていますから それとの関係からは 次のように理解されることになります。

 ▼ 《世界は 互いに背反するのではなくとも・つまりは言ってみれば互いに並列されるような ふたつの原理に区分されて捉えられる》という場合が 二元論のひとつのかたちである。

 ☆ こうなりますよね?
 《ふたつの原理は 互いに背反しない》場合です。

 だとすると 回答No.3以下の じねんさんのご見解も 二元論と言えるようになるのではないか? という懸念が出て来ます。

 つまり
 ○ 人間と自然 あるいはその当地の住民とそこに生息するヒグマ とのあいだに 《互いに背反しないけれども 互いに区分されるふたつの生活原理がある》 よって この場合にも《人とヒグマとの二元論》が成り立つ。

 と言えるようになってしまいます。まいか?
 これは おかしい。そんな用法はないはずです。ジャーナリズムでもそんな奇異な表現は使わないでしょう。




 こうなりゃぁ ひとえにオシエを乞います。

お礼日時:2012/10/13 11:48

あのー話が噛み合ってないみたいで、これを更に進めるのも無理があるので、


こっちの事情ですが、このへんで失礼します。
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この回答へのお礼

 そうですか。
 
 神とは何かという小論文もあったのですが。

 無理があるのなら やむを得ないかも知れません。

 ありがとうございました。

お礼日時:2012/10/25 20:39

★ 広義の元、狭義の元とはわかりますが、その定義を誰が決めるのかです。


 ☆ わたしが提案したのです。
では仮定と言えます。


★ 関係性が非経験  ☆ これは マチガイ。関係しあっているというのは あくまで経験事象です。よ。

 これも仮定です。
正確にはブラジェロンさん個人の経験事象であり、万人に通用するとはいえないと思います。一般化は無理です。
僕や僕と似たタイプの人ならその経験に合わないことになるので。
でも逆に定義して、これが通用する範疇のことを哲学と呼ぶのであれば、納得です。



☆ これなら 神のごとくです。ただ あまり受け容れられないでしょう 一般には。
ブラジェロンさんは、受け入れられないとか、社会ではあまりそうは言わない、などをよく使いますがそれはちょっと・・



《関係》と言えば かかわりです。カカワリと言えば 或る存在とまた別の或る存在がいるというかたちを言っています。
これも個人体験を前提として受け入れてるという事なら、それ以上は掘り下げません。



ポイントはこれらの仮定が、哲学において定義として受容されているのか? という点です。
僕は違う意見ですが。
この間からの話の流れで、こういう定義を認めることが哲学なんだ、と言われればそれが分野分けの問題ということにもなり、一応のケリになるということでしょうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ☆☆(No.26お礼欄) つまりは ひとつ ふたつと認識しうるものは 経験事象だということになります。
 
 そして同じことですが 個別性とか有る無しとかの概念で認識したり規定したりできるものごとは 経験事象です。
 
 有る無しを超えているのは 《非経験の場》です。


 ★ 関係性
 ☆ は 経験事象であると考えます。ふたつ〔以上〕のものごとのカカワリを認めて言っているからです。



 全体として そんなところでしょうか。
 すなわち 経験世界と非経験の場との区別が 問われている。こう捉えました。

お礼日時:2012/10/22 23:57

間違い訂正




不二二元論→不二一元論

不二一元論は、一元論と違う、という意味です。すんません。的外れならスルーおねがいします。
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この回答へのお礼

 了解です。

お礼日時:2012/10/22 00:00

善悪の2元論は間違いだと証明されたのですか?


もしそうだとしても不二二元論は、一元論とは違います。



ーーー単にふたつに区分されたものについて

-つまりそれはそれだけプリミティブな意味で本質的だからこそ、「単に」分割されます。(というこちらのスタンスです)
つまり本質的だということです。だから2元論という言葉は当てはまります。
最も辞書的にどうこうと言われると、その辺は使う人で決める歴史的変遷に左右されるものだと思います。

でも内実を見れば、2元論はピッタリです。単に決められるからこそ、まさに本質的です。直感的です。(と個人的に解釈)
つまり、「なぜ単に2つに区分されたのか?」を考えてもらえればと思います。
それは、非経験 といえるかも知れません。(非経験のはっきりしたところがわからないですが)
これがあれこれ考えた挙句2つに分割しましょう、というのであれば、それはとても作為的であり、
とても2元とはいえません。




ーーー経験現象の定義について

人は生まれつき性格才能能力環境などが違います。
これは、とある人にとっては経験現象であっても、他の人にとってはそうではない可能性があることを意味します。
このあたりはリサーチでもして調べないと、あることが経験現象である、後天的であるとは、一般論として主張できません。
ある人にとっては、生まれつきである可能性もあるからです。

広義の元、狭義の元とはわかりますが、その定義を誰が決めるのかです。



>関係性は経験世界の問題
こう書かれてるのがブラジェロンさんの経験であり、人によっては違うんです。というか僕とは違います。
ということを異世界という言葉で表現しています。やっぱり文学的か・・・
>独立性と関係性とを同時に持つ
のに、何で独立性がもともとのものであり、関係性は経験になるのか? というところが論理的に危ういです。
だって僕なら正反対ですから。
このあたりは、ブラジェロンさんの好みが大いに反映しており、別に好みに文句はつけませんが、
それを一般化は無理があるのでは?
・・・いえ、哲学のフィールド内でこう一般化することはおかしくはないですが。ここもカテゴリーの問題が絡みますね。

というのもこれで僕のスタンスはざっくり否定されるも同然なので。
好みは好き嫌いですからいいんですが、でも一般化は微妙です・・・
それを正しいというのは、間違いなく定義であり、論理ではないはずです。




ーーー関係性の哲学や全体性の哲学

これらは関係性を概念存在に落とし込もうとしています。
存在を本質とする人が哲学するのですから当然ですが。
なので
>《関係主義》は 関係性の一元論
というのが違います。
関係主義の定義はそうでしょうが、それは関係そのものを取り扱えません。
それは既に、関係性より存在を優先した偏りのある視点です。間違いではないけれど。
関係性を基礎に据える世界観を認められるのであれは、元は2つが基礎です。1元など存在しません。
2元論こそ、関係性の基礎ですから。
2の次は、止揚が起これば、次は0です。1などありません。全体≠1なので。
関係性という0の葡萄の枝がまずあり、その両端に葡萄の幹と実という2が現れます。
関係性を関係性のまま実感するか、関係性を存在の視点から捉えるかで、元の数は変わります。


>世界は人間の数だけの多元論から成るとは まづ言わないでしょう
言いませんが、だから正しいというわけでは・・。
でもこれもカテ違いというか、分野が違うんだ、ということで、ここで線を引くことが可能であることは理解します。
なぜならひとつの極限だから、です。
極限は、分野の区切りの一つの目安ですね。





ーーー「元」の定義

広義と狭義について別段おかしいとは思いませんが、何が非経験で何が経験かというその中身が既に違います。
僕にとっては、関係性が非経験で、存在が経験体験です。
性格の違いです。

>☆ わたしは こうです。つまり
 ○ 人間という存在は 社会的に一人ひとりが独立しており なおかつ同時に 社会的に関係しあっている。
 と。存在は 独立性と関係性とを同時に持つ。その人間という存在に――それが 小宇宙としてのごとく―― 世界の全体性をも反映させうる。と。

これは存在が本質で、関係性が従属的な視点と世界観です。いや別にいいのですが、もうぜんぜん正しいわけですが、
これ以外の論理的なパターンは認知されるでしょうか?
ここが折り合わないなら、やはり分野を分けた方がいいかもと。
例えば物理と生物学を同時に議論したら頭が混乱するみたいにです。どちらも論理的でも、
複数の分野を同時に考えられるほど人間の脳はよくできてないので。




>存在論や関係性の議論 これらは それらの《元》の取り扱いの取り決めのあとに来ます。と考えます。
それは全くそのとおりですが、性格の様々な人間のうちの誰がこれを取り扱うのか?が違い大きいので。
生まれつきの違いに踏み込んでくれるのであれば、そういう取り決めも成立可能と思います。





ーーー立ち位置の違い

ブラジェロンさんが言っておられるのは(あるいは関係性の哲学などは)、関係性という概念存在であり、
僕が言ってるのは、関係性そのものです。
それは存在ですらありませんし。存在していないので、幽霊みたいなものです。
幽霊を実体化するのでなく、幽霊を幽霊のまま扱う・・・・比喩は文学的でしょうか?
僕はここの違和感を大事にしています。

これは、関係性を経験として知るか、プリミティブなものとして生まれた時から知ってるかの違いです。
逆に僕は、「存在」、という概念が生まれつき理解できませんが。(経験的後天的にはわかります)
関係性を概念存在として扱うのは哲学にとってやりやすいですが、
関係性を関係性として(非経験として、広義の元として)生で扱うことは、別物です。
これが哲学の範疇内なのか外なのかが現状分からないですが。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 善悪の2元論は間違いだと証明されたのですか?
 ☆ 善は悪 悪は善となれば――しかも 根元のところでそうなれば―― 世の中何をやってもかまわない。となる。
 悪ではないかと言われても いや これは善だと言い返せる。



 ★ 広義の元、狭義の元とはわかりますが、その定義を誰が決めるのかです。
 ☆ わたしが提案したのです。



 ○ 孤独は どうしようもなく独りだと思ったとき それは 孤独関係だとさとることになる。

 網の目(ネットワーク)を考えたとき 結び目が 或る意味における独立存在。つながりが 関係性。同時にそうである。



 ★ 関係性が非経験
 ☆ これは マチガイ。関係しあっているというのは あくまで経験事象です。よ。



 ★ ~~~~
 僕が言ってるのは、関係性そのものです。
 それは存在ですらありませんし。存在していないので、幽霊みたいなものです。
 ~~~~~~
 ☆ 幽霊は ひょっとすると 神のことかも分かりません。いくらか茶化して言っていますが 霊なら非経験の場です。


 ★ 関係性を関係性として(非経験として、広義の元として)生で扱うことは、別物です。
 ☆ これなら 神のごとくです。ただ あまり受け容れられないでしょう 一般には。
 《関係》と言えば かかわりです。カカワリと言えば 或る存在とまた別の或る存在がいるというかたちを言っています。つまりは ひとつ ふたつと認識しうるものは 経験事象だということになります。からです。

お礼日時:2012/10/22 00:00

追加



僕個人は関係性世界の住人なので、普通こういう存在を基盤にした哲学には縁がないんですが、
たまたま、仏教哲学の因縁縁起や、関係性の哲学という言葉を耳にして、

哲学をする人がこういう関係性すら、概念として対象化してくれるのであれば、
僕も首を突っ込むことのできるフィールドだな、と思っただけなので。
ここをルートとして、哲学の世界に入ってきてます。
そこから存在の哲学にまで手を伸ばしてます。苦手ですが。

なので、概念存在以外の何かを認めないという哲学の定義があるなら、そこで異世界の人間同士会話ができないことになります。それはそれで仕方ないですが。




文学的、ということが、気持ちの流れや変化を記述したもの、それを中心に据えた表現だ、という内容であれば、

感情や気持ちは、外部に開いた感覚器官に入力される様々な刺激に反応して猫の目のように変化するものです。
これは、関係性の変化そのものです。
質感とも言いますが。

つまり、文学的と評される感情や気持ちの流れは、それを「感情、気持ち」という概念存在として理解するのではなく、
関係性の具象化だと理解するほうが、よほど論理的にはシンプルになります。
ちょうど、天動説より地動説のほうが表現が簡略されるようにです。
何でもかんでも概念存在として考えることは、論理的には間違っていなくても、思考の効率の意味で実情に合わないとも思うので。
つまり、一瞬一瞬変化する感情や心の動きは、存在を放棄して関係性世界観を基盤に考えるほうが論理的にシンプル、という意味です。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 まづこの質問は 
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~
 世界観において 二元論と言ったら・・・

 他の何ものにも依存せず独立して存在するものを《元》と呼ぶのだと思っていたのですが ヰキぺを見ると それだけではなく 《単にふたつに区分されたもの》をも 二元論と言うとあります。
 そんな用法は ありえるのですか? これが 問いです。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ このとき たぶん どうしても経験事象についても二元論とか多元論とかというふうに使いたいということであれば 前回述べましたように

  ○ 広義の元(=非経験の場) および 狭義の元(:経験事象にも当てて用いる)

 という規則を置くとよいと考えます。その点に触れておられないのは 残念に思うのですが?


 存在論や関係性の議論 これらは それらの《元》の取り扱いの取り決めのあとに来ます。と考えます。

お礼日時:2012/10/21 17:31

>哲学としては そういう場合


2項対立とも言うし、2元論とも言うと思います。どの切り口で見るかの違いなので。定義の違いです。

>元は ほかのものに依存せずみづからだけで存立している何もの
それには関係性も含まれますか?

>元を用いて世界観を表わすときには 一元論 これしかない。と考えられるが
関係性も含まれるときは、その限りではないと考えます。

>この《根本》という用語だけでは あいまい
これはとりあえずの定義だと思うので。

>哲学ではそんなふうに定義しない
定義しないというより、哲学がそれを考えてないのでは? いやまあでも定義でもあるんですが。
足元も見てほしい、的な。




>哲学の定義について

ちょっと文学的という言い方はあてはまれへんと思ったので
たしかに僕のざっくりな捉え方は、普通の哲学とは合いません。
曖昧さの哲学というか。

いきなりですが
関係性を構成する要素は必ず2つですし、2つないと関係性は成立しません。
より正確に言うなら、ただひとつの関係性が先にあり、
そこから2つの存在が2次的に発生します。
仏教でいう縁起はほぼこれに近いものと思います。

時間が進む変化することで、概念や存在も変わる、という現実を考慮に入れれば、こうなります。
概念や存在は固定したものではありません。
存在は関係性によって生まれます(という立場、定義、世界観もあります)
このあたりを文学的、といってるんじゃないかと。
文学と哲学が、ペアをなしている、2元か双対と考えられますか?

2元という言い方は間違いではありません。
この場合、1など存在しないので。(この場合、関係性を、概念存在として捉えることに無理はありますが)
あるいは、ある定義によっては間違い、ある定義によっては正解、です。

1元論しかない、と言われる主張は、言い換えると、哲学においては関係性を取り扱えないはずだ、
ということになります。
哲学では「存在」しか扱わない。それが哲学のゆるがない定義といえるかどうか。
関係は存在のおまけだから、考慮に値しない、とかいう、そういうスタンスの人もいることは知っています。
言われてる一元論が、論理的に間違ってる、というのではなく、むしろ論理的には完全に正しく、
正しいがゆえに、定義に基づいて一つのかっちりとした世界観を形成しています。
そしてそれは哲学の全てではない、あるいは、それを哲学の全てにしてほしくはないなーと思うので。

とにかく哲学の定義も時代とともに刻一刻変化してると思うので、
そのあたりの話をクリアにするのは難しそうに思います。




ただこちらのいう内容は文学的ではないです。
・・・文学的という気持ちもわかりますが、それは一面的です。
あるいは、文学にも論理があるんだ、といってもいいのだけど。文学という言葉の定義はこの際気にしません。
とにかく一貫した論理性を大事にしてるので。(哲学の主流的世界観から見て全く論理的ではないでしょうけど)
この論理が哲学かどうかは僕も知りませんが、論理には間違いありません。
主観の論理的表現、という言い方が近いかと。
文学、という言い方には、そこには首尾一貫した論理が存在しない、という風に考えておられるかもしれませんが。
あるいは関係性は論理ではないでしょうか?このあたりはボーダーなので、個人裁量的です。
存在そのものを自分と人生から破棄してもらって、関係性を自分の基礎、土台に据えてもらったら、それはそれで別の論理的世界観が成り立ちます。
存在とは別のものを中心に構成したら、また違うものがあります。
詩や文学ではなく、違う世界観の論理です。
僕が自分の考えが、文学にも哲学にも心理学にもうまくはまらないので、自然にこうなってます。
古典的、あるいは主流の哲学には合わないですし。
結果的に僕は基本トランスボーダーで カテゴリーの境界線を超えていくことを大事に思ってます。
というかカテゴリーを求めると、当てはまるものがなくて放浪することになるので。
それによって色んな可能性を探るというか。

世界観の前提が違うので、会話が通じにくいというのは確かにあり、
それは僕が、概念の存在を中心とした哲学の議論を読んででひしひしと思います。
でもだからといってこれを哲学に含まないというのは・・・どうでしょうか?
定義などを持ち出されると、
哲学では関係性、心理学では全体性(ゲシュタルト)、物理ではクオリアと、その学問の定義や枠組を震わせる概念も近年生まれてきており、
存在を基盤とした、把握による色んな学問の成立そのものが見返されるところまで進んできてる気もします。
トランスボーダーは必然ではないでしょうか? あるいはメタ哲学? 曖昧さの哲学?表現は定まらないですけど。
つまり定義の変更ですが、
あるいは、カテゴリー分け、つまり存在の哲学と関係性の哲学と、全体性の哲学、という風に分けることがスムースにやっていくには必要なのかもしれないです。
科学哲学などもありますから、クオリアやゲシュタルトも哲学の俎上に載せることもありだと。
その成立過程を見れば哲学の主流ではないともいえ、古典的な主流ではないけれど、
哲学も横に広がっていくと、他の学問との境を、軒を接するようになるのも自然な流れと思うので。
深くえぐっていく方は、在来通りの概念存在の哲学が成立していると思います。


というか、はなしがこう転ぶとは思わなかったですが。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 2元論とも言うと思います。
 ☆ じっさいに たとえば善悪の二元論などがあります(ありました)。つまりその用語の用い方は マチガイだという問いを発しています。


 ○ 文学
 ☆ というのは 表現するに際してその前提に何ら制約や約束事を持たないという意味です ここでは。
 自己表現する人が よいと思ったなら 哲学の議論においても 二元論や多元論という言い方をすることがある。しかもそれは 哲学としての約束事をやぶって 文学的に振る舞ったのだと見るという意味です。

 

 ★ 1元論しかない、と言われる主張は、言い換えると、哲学においては関係性を取り扱えないはずだ、ということになります。
 ☆ いえ そうではなくて 《元》はけっきょく《非経験の場》にのみかかわるという意味になるはずです。
 たとえば いわしのあたまが 神だとした場合。それが ただ名だけの話であれば 神は非経験の場ですから 一元論です。その神の名を《イワシのアタマ》と呼んでいるだけのことですから。

 ですがもし この《鰯の頭》というそのモノですね そのモノを神としたり 神としたから 鰯の頭の一元論だと言ったばあい これは つごうがわるい。そして 文学的表現としてなら まだ愛嬌でだいじょうぶですが 哲学としてなら あたまからダメです。そういう意味です。




 ★ 哲学においては関係性を取り扱えないはずだ、ということになります。
 ☆ これは 経験世界の事象でしたら いくらでも関係性について扱います。つまり《元》は 非経験の場にかかわることがらに用います。要するに 神のことです 《元》は。

 ですから すでにほかの方とのやり取りで触れていますが もし何なら 《元》を広義のそれと狭義のそれとに分ければよい。
 つまりは 非経験の場には 広義の元を用い 経験世界のことがらについては 狭義の元を使うと。

 たとえば 《関係主義》は 関係性の一元論となります。これは ふつうは狭義の元のことでしょう。
 《存在》を基礎とする場合には 世界の根元をやはり一元として――これは 広い意味での用法です――世界観を立てるでしょう。 
 ただし 世界は人間の数だけの多元論から成るとは まづ言わないでしょう。




 ★ あるいは関係性は論理ではないでしょうか?
 ☆ 関係性は 大事ですよ。ただし それは 経験世界のもんだいだと見ます。




 ★ ~~~~
 あるいは、カテゴリー分け、つまり存在の哲学と関係性の哲学と、全体性の哲学、という風に分けることがスムースにやっていくには必要なのかもしれないです。
 ~~~~
 ☆ わたしは こうです。つまり

 ○ 人間という存在は 社会的に一人ひとりが独立しており なおかつ同時に 社会的に関係しあっている。

 と。存在は 独立性と関係性とを同時に持つ。その人間という存在に――それが 小宇宙としてのごとく―― 世界の全体性をも反映させうる。と。


 全体性の哲学は いま

 【Q:空仏一如!?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7730857.html

 で扱っています。

お礼日時:2012/10/21 16:14

すみません書き忘れで・・脱線気味ですが。



1元と2元の例として、冥想と祈りがあります。冥想が一点集中がスタートで、祈りが合掌による左右の統一を起点とすると思います、体験的に。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 これも 前回ふれましたように 《文学》的な表現としてあり得るということだと見ます。

 哲学としては そういうふうには定義しないのだと。
 
 どうでしょう?

お礼日時:2012/10/21 07:52

こんばんは。


質問文の意味が理解できないところがあり不安を残す回答なんですが・・

ざっくりな話として、すべての対は2元論というのは合ってるのでは?
すべての一つのものが一元論、これもおかしくないかも。

そこで、何で意味が無い、ということになるのかが意味のわからないところで・・
一つのものから見れば、一つのものが基礎になるのも当然で、そのポイントから世界を捉えられます。
宇宙の全ての点は、宇宙の中心ですし。
別に変なことにはなりません。というよりそれは現実です。
根本を問わないというより、すべてのものが根本かと思います。
脳の認識にはもともと偏りがあるので。

と言っても、いまいちよく読解できてないので的を外してるかもしれないけれど。



ちなみに、一元論は集中、2元論は統一を生み出すもので、
つまり単なる数字の1と2ではなく、この2つは、集中と統一、という異質なものです。
デジタルとアナログ、無限小と無限大、物理なら波と粒子、などに例えてもいいんじゃないかと思ってるんですが・・ 異質でありながら2極でもありますし。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ざっくりな話として、すべての対は2元論というのは合ってるのでは?
 ☆ 哲学としては そういう場合 二項を取り上げるとか 二項対立あるいは双対と呼ぶのではないか。という問いです。

 《元》を使うことは ない。つまり 元は ほかのものに依存せずみづからだけで存立している何ものかについてのみ用いるのではないか? (哲学としてはですよ)。

 したがって じっさいには 元を用いて世界観を表わすときには 一元論 これしかない。と考えられるが どうでしょう? という問いです。


 ★ 根本を問わないというより、すべてのものが根本かと思います。
 ☆ この《根本》という用語だけでは あいまいだと考えます。




 ★ ~~~~~
 ちなみに、一元論は集中、2元論は統一を生み出すもので、
 つまり単なる数字の1と2ではなく、この2つは、集中と統一、という異質なものです。
 デジタルとアナログ、無限小と無限大、物理なら波と粒子、などに例えてもいいんじゃないかと思ってるんですが・・ 異質でありながら2極でもありますし。
 ~~~~~~~~
 ☆ ですから 哲学を離れて 哲学の定義から自由に用いるなら そういう表現もありえます。という説明で応じています。哲学の定義から自由に表現するということを 文学的表現と言っています。ここではです。

お礼日時:2012/10/21 07:51

他人と自分との二極化は関係しませんか。



参考URL:http://www.mediafreakcity.com/ppv/ppvdetail.aspx …
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この回答へのお礼

 しないようです。なぜか? ・・・

お礼日時:2012/10/19 20:27

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