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何で戦前の日本は雪崩を打ったようにして議会政治が崩壊していき、軍部独裁に移行してしまったんですか?

僕は日本史の中でこれが一番不思議です。今でも解せません。

戦後の民主主義ほど完全ではなかったとはいえ、戦前も曲がりなりにも民主主義国家として議会政治が機能していたのに、何で太平洋戦争直前くらいになると、怒濤の勢いで一気に軍部独裁が成立してしまったんですか?

ごく大まかな説明でもいいので理由が知りたいです。因みに議会政治が終焉した年を具体的に特定すると、何年になりますか?

余談ですけど、僕はこの危険な史実こそ、日本の歴史2000年の中で後世の人間が一番学ばなくてはならない点だと思っています。

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A 回答 (9件)

他の方も述べておられますが、戦前の日本では軍部と政府が並列に存在していました。


これは明治維新政府の基盤が脆弱であったことから、政府と軍部を一本化せずに並列とすることで反政府勢力が政府を揺さぶっても軍部は替らず「体制の擁護者」たることが求められたのです。
当然ながらこのような体制は対外戦争には不向きなものですが、日清日露戦争時は伊藤博文、山形有朋などの元老が行って見れば「超法規的」に軍部と政府の意思統一を図ったのでこの問題は表面化しませんでした。
しかし皮肉にも日清日露戦争の勝利は「体制の正しさの証明」となってしまい、既に時代遅れとなった体制を昭和まで引きずる事態となってしまいます。

しかしながら昭和初期には軍・政府の並列体制の不備もまた明らかであり、このため「軍の統帥権はあくまでも純粋な作戦面に限定され、軍部は政府に従うべきである」とする見解が主流となっていました。
ところが1930年のロンドン軍縮条約調印時、衆議院では野党の政友会が「政府が勝手に軍縮条約を結んだのは統帥権の干犯である」と政府を攻撃し、統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
これ以降、議会で軍部の行動を制しようとすると政敵から「統帥権干犯だ!」と揚げ足を取られる事態を招き、議会は自ら軍部へのチェック機能を放棄してしまうのです。
議会における目先の主導権争いの為に、国益を大きく損なったと言えるでしょう。

そして当然ながら議会における目先の足の引っ張り合いのために統帥権を弄ぶ政党の行動は、有権者の失望を招き、それと共に「統帥権」をタテにとって政府を無視し、満州全域を制圧した「満州事変」がマスコミや世論の喝采を浴び、国民は軍部の暴走を支持するようになってしまいます。

このように戦前の議会政治の終焉は
「過去の体制がその成功故に時代遅れとなっても維持され続けた」
「政治家達が体制の不備を改正するのでは無く、政敵の足を引っ張る事に利用した」
「体制の不備をついて暴走した軍部の行動が短期的には成功を収め、政府や議員に代わり国民の支持を得た」
といった理由があるのです。

敢えて言えば議会政治の破綻が始まったのは1930年、その後年々崩壊を続け、最終的に終焉したのは大政翼賛会が設立された1940年でしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。当時の歴史的な流れが把握できて大変参考になりました。

お礼日時:2012/10/18 17:25

私たちは、邪悪な戦後教育による洗脳工作によって、無意識に民主主義が至上の正義だと刷り込まれています。

だから質問者さんのような誤った歴史認識に陥ります。

元々戦前の議会政治は薩長による藩閥政治のアンチテーゼとして誕生したものです。明治新政府は、明治維新に功績のあった薩長土肥の有力藩士の合議制によって運営されていました。政府だけでなく、中央官僚、軍官僚も全部、薩長土肥の藩士に抑えられていて、賊軍となった東北諸藩はもとより、町民・農民はまったく政治に関わることができませんでした。

ところが明治6年、明治新政府は内部の路線対立が表面化し明治六年の政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野します。西郷隆盛は薩摩藩、江藤新平は肥前藩、板垣退助は土佐藩です。つまりは長州藩の一人勝ちになってしまったわけです。薩摩藩の大久保利通だけは西郷隆盛と道を別って政府に残りましたが、薩長土肥の内、薩土肥が中央政界から弾き飛ばされてしまったという構図は変わりません。

そして西郷隆盛は薩摩藩の不平士族に担ぎ出され、同様に江藤新平は肥前藩の不平士族に担ぎ出されて士族の反乱に至ります。反乱の名目は、明治政府の不正を糾すというものでしたが、実際は明治維新で功績を挙げたにも関わらず、明治政府から阻害され、武士の特権を剥奪されたのが不満だったからなのです。しかし士族の反乱は鎮圧される。武装蜂起では藩閥政治を打倒出来ないと考えた板垣退助は自由民権運動を起こします。元々議会は板垣退助が民衆の支持を背景にして明治政府内に復権しようという目論見で起こしたものなのです。

邪悪な戦後教育は、自由民権運動を民主化の走りのように賛美し、捏造したイメージを作っていますが、それは暴力的な政権交代を目指したものではなく、平和的な政権交代を目指したという方法論であったのに過ぎません。板垣退助が明治7年に結成した愛国公党は、日本最初の政党といわれますが、土佐藩士が中心で個人的人脈によって結成された地域政党に過ぎませんでした。

そうして帝国憲法、帝国議会が設立されることになるのですが、それは政変や反乱といった権力闘争で政権交代をするのはやめましょうという意味です。それを民主主義と呼びたいなら、それでもいいが、農民には主権者意識も育ってないし、農民階級から出た政治家もいないのです。

議会政治といっても、政友会は資本家・地主を支持基盤として、民政党は商工業者・中産階級を支持基盤としていました。つまり議会政治といいながら小作人の利益を代表する政党は存在しなかったのです。また議会は、政敵のスキャンダルの暴きあい合戦の場であり、何も政策の議論などしていなかった。

1925年に成立した普通選挙法によって納税額に関係なく、小作人も選挙権を勝ち取ったのですが、同時に立法された治安維持法によって共産主義は非合法化された影響もあって無産政党は様々な路線対立によって離合集散してまとまらず、二大政党制をつきくずすほどの議席を得られませんでした。それが戦前、寄生地主制を廃止できなかった理由でもあるのです。無産政党が小作人の支持を得られなかったのは、元々小作人は議会政治など全く信用していなかったからでもあるのです。長年、議会政治から忘れ去られ、無視され続けていた小作人は選挙権を得たといっても、もはや議会政治に期待するものなど何も無かったのです。表現を変えれば、小作人には民主主義など全く根付いていなかったということになります。

そうして1930年~1934年昭和東北大飢饉、昭和東北大凶作の時代になる。

昭和東北大凶作
http://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html

プロローグ  「欠食児童世代」

歴史的な飢饉多発地帯
江戸・天明の大飢饉/天保の大飢饉

昭和五年(1930)世界恐慌の直撃
泣く子も地頭もかなわない/失業の大群とホイト(乞食)

昭和六年(1931)凶作の追い打ち
大不況と凶作と「満州事変」/粒々辛苦の甲斐もなく/北海道――辛うじて飢えをしのぐ飢餓地獄/青森県――ワラビの根を掘って食料に/岩手県――茅の野原のような田んぼ/秋田県――収穫皆無地1300町歩

昭和七年(1932)悲惨、娘身売りと欠食児童
売られ行く娘たち/欠食児童全国20万

昭和八年(1933)戦争への道行と三陸大津波
救農事業と「自力更生運動」/地主様と小作農民の悲哀/軍国美談の陰で/厳寒・暁の大津波

昭和九年(1934)ああ、昭和東北大凶作
恨みのやませ(風)/死の東北を救え!

飢餓線上の凶作激甚地を行く
岩手県――深刻な飯米の欠乏/青森県――娘たちを求めて人買い人が横行/秋田県――料金未納で電灯が消されていく/山形県――皮を食用にと裸にされた松の木/宮城県――凶作のうえに養蚕収入激滅の打撃/福島県――野獣対人間の木の実の争奪戦

重荷を背負った娘たち、空腹に泣く子どもたち
「悲しみの身売り列車」/走る食堂車からの恵みのパン/軍事予算に潰された農村救済


では議会政治は、東北の惨状に何か救済策を打ったのか。何もしなかったのだ。無為無策だ。
515事件で斃れ、政党政治に終止符を打った犬養毅は何かしたか?高橋是清を蔵相に起用して金輸出再禁止と兌換停止を断行しただけだ。これは日本を世界大恐慌のデフレから世界最速で脱出させた金融政策として高く評価されているけれども、それは飢えに苦しむ東北の農民には何も関係がない。

では東北の農民は何に期待をかけたのか。満州事変です。満州事変を首謀した石原莞爾は山形県、板垣征四郎は岩手県出身です。山形県はおしんで有名ですし、岩手県は江戸時代最も不作・凶作が頻発し百姓一揆の発生件数が多かった地域です。

これは決して偶然ではない。中央政界への道を閉ざされた東北地方の有志は、軍をよりどころに身を立てるしかなかった。それが立身出世の唯一の道だった。犬養毅が撃たれたのは、満州国を承認しなかったからなのです。それが東北の惨状に胸を痛める青年将校には許せなかった。

日本国民よ!
 刻下の祖国日本を直視せよ
 政治、外交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや
  政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と 更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と 軟弱外交と堕落せる教育と 腐敗せる軍部と 悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民労働者階級と 而して群拠する 口舌の徒と……
 日本は今や斯くの如き錯騒[綜]せる堕落の淵に死なんとしてゐる
 革新の時機!! 今にして立たずむば日本は滅亡せんのみ
 国民よ
 武器を執つて立て! 今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外に何者もない
 国民諸君よ!
 天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
 国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
 横暴極まる官憲を膺懲せよ!
 奸賊、特権階級を抹殺せよ!
 農民よ、労働者よ、全国民よ……  
   祖国日本を守れ
 而して……
  陛下聖明の下、建国の青神[精神に]帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用し 朗らかな維新日本を建設せよ
 民衆よ!
  この建設を念願しつゝ先づ破壊だ!
  凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ!
  威[偉]大なる建設の前には徹底的な破壊を要す
  吾等は日本の現状を哭して赤手世に魁けて諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの
  素より現存する左傾右傾の何れの団体にも属せぬ
  日本の興亡は吾等(国民前衛隊)決行の成否に非ずして吾等の精神を持して続起する国民諸君の実行力如何に懸る
  起て!
  起つて真の日本を建設せよ!

昭和七年五月十五日
陸海軍青年将校
農民同志
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございました。調べれば調べるほど深い事情が交錯していることが分かりました。

お礼日時:2012/10/18 17:19

そんなに当時の歴史に詳しいわけではないですが。



まず政治的に混乱していたという事情があったのです。内閣が短命政権でくるくる変わったのです。中には、大臣が決まらずになんと政権発足前に内閣が倒れる(ただし、これは陸軍の嫌がらせによるものでした)なんてこともあったくらいです。
そんなわけで政治家は政争に明け暮れて、何も決められずにいました。政治が何も決められないので軍部が独走し、満州事変が起きました。本来は政府が軍部(といってもそのごく一部の陸軍エリートなのですが)の暴走を止めなければならないのですが、現状を追認するようなことになってしまったのです。

そういった中で、五一五事件が起きます。これは海軍の青年将校が犬養首相を暗殺した事件です。この五一五事件、実は戦前昭和史のターニングポイントになった事件なのですが、現代で考察されることがあまりありません。なぜか。
それは、「国民が軍人の暴走を熱狂的に支持した」からなんです。青年将校は政争に明け暮れる政治家に義憤を感じ行動に移したのですが、それが国民の琴線に触れたのです。裁判では、政治の腐敗を批判する青年将校の姿に「裁判所は涙に包まれた」と新聞は美談調に書き、ついには傍聴席のあるご婦人が立ち上がり、「裁判長様、どうか、ご寛大な判決を!」と叫んだのです。
日本中で青年将校に対する助命嘆願運動(反乱罪はもっとも重い罪で、世界のどこでも死刑です)が沸き起こり、とうとう事件の青年将校たちは軽い判決を受けることとなります。

この五一五事件の顛末が「動機が純粋(義憤)なら、行動が乱暴でも人々の支持を得られる」という前例を作ることとなり、それがあの二二六事件を引き起こします。だから、二二六事件はよくテレビなどでも取り上げられますが、二二六事件と五一五事件はセットで考えないといけないのです。五一五事件がああいう顛末にならなければ二二六事件は起きませんでしたから。
ただ、二二六事件の背後には陸軍内におけるいわゆる「皇道派」と「統制派」の権力争いがありましたのでチトややこしいです。二二六事件によって皇道派は失脚します。しかし二二六事件によって政治は力を失い軍部の発言力がとても強くなります。

つまり、戦前のあの戦争になっていく流れの時代は、「世間は不況」で、「東北地方などは塗炭の苦しみ」にあり、「隣国との関係は最悪」の状態で、それでありながら「政治はなにも決められず政争に明け暮れ」て、「エリート官僚(軍部)が暴走していた」のです。
え?私は2012年の日本の話はしていないですよ。戦前の日本の話をしているのです。

よく、「歴史は繰り返す」といいます。それって、こういうことなんです。私たちが今いる道は、「いつか来た道」なんですよ。
もし今、偶発的に尖閣諸島で中国海軍と海上自衛隊が軍事衝突して海上自衛隊が勝利したら、たぶん日本人は熱狂することでしょう。「もっとやっつけてやれ」という声も出ることでしょう。日中戦争も、「一撃膺懲論」というのが引きずったのです。「中国に一撃を与えて、それで中国人を反省させて和平交渉に持ち込もう」というのが日本人の考えでした。ところが、無限とも思える国土の広さを持つ中国は別に一撃を喰らったくらいではたいしたダメージではありません。広い国土に引きずり込まれで、ズブズブの泥沼戦争になりました。
また他の人も回答していますが、世間は不況だったのでもし日中戦争が終わって戦争に行っていた大量の将兵が国内に復員しても、引き受けられる雇用がなかったのです。戦争に参加して粗暴になっている大量の失業者が国内にウロウロされたら、国が不安定になってしまうでしょう?だから政治家は怖くて戦争終結を決断できなかったのですよ。
今の日本でも、エリートである原子力ムラの人たちは原発再稼働にまい進し、政治はそれを追認する形です。原発を軍部に変えれば、構造としては同じなのです。かつて「統帥権」が錦の御旗となったように、「日本のエネルギー問題」が錦の御旗となっています。
きっと将来、我々は「なぜ当時の人はあのとき原発をやめることを決断できなかったのか」と未来の人々から批判されることになると思います。
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございました。歴史は人間が紡ぐもので、故に様々な事情が交錯していることを痛感しました。

お礼日時:2012/10/18 17:22

 《戦前の日本は雪崩を打ったようにして議会政治が崩壊していき、軍部独裁に移行してしまった》


 と、たった一行で表現できるほど、現実は単純ではありません。

 《この危険な史実こそ、日本の歴史2000年の中で後世の人間が一番学ばなくてはならない点だ》
 というのはもっともです。

 しかし、今、あなたがいちばん学ばねばならないのは、1990年以降の日本の政治、経済、社会でしょう。

 実は、1930年代も現代も、日本には立派な官僚機構があり、大きな支配権力となっています。

 1930年代も、現代も、政治権力や軍事権力、経済力は盛衰がありましたが、官僚機構に付随する権力には、ほとんど動きがありません。

 昔も今も、議会政治は、官僚機構が実質的な権力機構である事実をかくすための隠れ蓑として機能しているのであって、実質的な権力ではなかったのです。

 《戦後の民主主義ほど完全ではなかったとはいえ、戦前も曲がりなりにも民主主義国家として議会政治が機能していた》
 ですから、戦前も今も、選挙があり代議士と呼ばれる人が議会政治の担い手にはなっていますが、議会政治そのものは、昔も今も実質的な権力を持っていません。
 日本では、まだ、西洋型の民主主義が機能してい無いどころか、始まっていないと考えるべきでしょう。

 始まらないものは終わりません。
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戦争のお蔭で国民がご飯を食べれるようになったからです



昭和11年は景気はどん底でした。翌年、日中戦争が勃発して軍服・弾丸・兵器がバンバン生産され、余剰労力は徴兵され、食料も国が買い上げてくれたのです。農家・工業・商社すべての産業が息を吹き返しました。昭和12年のヒット曲は「もしも月給が上がったら」です。国民が戦争万歳!軍部ありがとう!!!になったのです。政治家はクソの役に立ちませんでした。

最近、日本近海がきな臭くなっておりますが…
もし、尖閣・竹島で小競り合いが発生し、予備自衛官の召集が決定され、弾薬その他の発注が政府より行われたら製造業は息を吹き返します。この紛争で韓国の国防力が弱まり、第二次朝鮮戦争が勃発ともなると日本が製造・物流拠点にならざるを得なくなります。尖閣奪還に失敗した中国も内戦になるかもしれません。これまた蜜の味です。

あなたの給与がこれらの戦争で5倍になるかもしれません。もしそうなったら戦争万歳!防衛省ありがとう!!!私は防衛省を応援しますになりませんか?

そういうことです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。僕が考えてもいなかった視点からのご説明で大変参考になりました。

お礼日時:2012/10/16 21:32

原因は明治憲法の仕組みにあります。


明治憲法では、天皇の下に軍部と政府が並列関係となっておりました。並列関係ですので政府が軍部に命令を出す権利(統帥権)はなく、また軍部も政府の命令に従う必要がありません。こうした憲法上の仕組みで軍部が政府の意向に従わずに暴走してゆくことになります。これを統帥権問題と呼びます。

暴走した軍部は勝手に外国と協定を結んだり占領したりを繰り返し、政府と国会がそれを追認していくことになりました。こうなると政府も国会も存在価値を失いますよね。国会で反対したって軍部に命令を出す権利はないのですから。

ですので議会政治が終焉したのは翼賛政治が始まった1940年以前であり、軍部が本格的に暴走を開始した満州事変から、といえるかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。ご意見は参考になりました。

お礼日時:2012/10/19 07:38

「統帥権干犯問題」なんていうのも理由に有りますよね。



 明治政府が出来たばかりの頃は山縣有朋など、
元老と呼ばれる人たちが軍を統制できていました。
だから明治政府が軍を統制する仕組みが憲法にはなかったのです。

 そして、元老クラスの人が引退していなくなると、軍が統制できなくなり、
「統帥権」を名目に軍部が暴走しました。
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まあ、安っぽい民主主義だったから



明治大正期には選挙権が制限されていたのだが、大正末に成年男子に選挙権が与えられた。
これにより、民主主義が進んだように思えたのだが、実際には買収が蔓延る結果となった。

そして政党や政治家は、金儲けや権力闘争に明け暮れることとなり民衆の困窮には目もくれなかった。

一方、軍部はそういった打算と汚職にまみれた政党政治を毛嫌いし(他にも、軍縮が行われて予算と影響力の削減が起きたことへの反感)政党政治に対して様々な妨害工作を行った。

軍部もある意味官僚機構と同じで自分達の影響力拡大と邪魔者の排除にまい進することになった。
その際に、旧軍には『統帥権の独立』というそれまで誰も持ったことの無い、絶対的な切り札があった。

その切り札を政党や政治家に対して行使しても、先にあげたような政党・政治家に対する民衆の支持が無かったので
政党や政治家には軍部に対抗する手段がなかった


転記の一つとしては、五一五事件(昭和7年)が挙げられるのではないか?
或いは、軍部大臣現役武官制(昭和11年)とも言えそう
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。ご意見は参考になりました。

お礼日時:2012/10/19 07:37
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なぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

関東軍の暴走や、5.15事件、2.26事件…。
真珠湾攻撃の前には既に南方で勝手に戦端が開かれていたとか。
それから、敗戦時にも玉音放送を中止させようと陸軍のクーデターが起こるなど、なぜ戦前の日本では、軍事がコントロール不能になってしまったのですか?

当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?

※これはド素人の質問ですので、質問文中に認識違いなどがあった場合は遠慮なく指摘して頂いて結構です。その際はどうぞお手柔らかに…

Aベストアンサー

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良かったのでしょう。
内閣・国務大臣も戊辰戦争を戦ってきた人々でしたからね。

時代が進むにつれて、「統帥権」の変容したのが、軍部の暴走した要因だと思います。
大日本帝国陸海軍には行政組織の陸軍省と海軍省が有り、それぞれに大臣がおりました。
これらは内閣の一員の行政組織で、人事権、徴兵などを行政事務を行ないます。
それとは別に海軍には軍令部、陸軍には参謀部があり、軍令部総長・参謀総長がおりました。
実際の作戦立案、実行を一手に握っていました。

最初は海軍省>軍令部、陸軍省>参謀部の関係でした。
現役の軍人とはいえ、官僚ですのである程度の常識を持ちイケイケの軍人を抑えていたのですが
それに不満を持つ軍人が「天皇は陸海軍を統帥す」の文言を盾にとり、統帥権の独立を画策し始めました。
次第に省令等を改定し、海軍省<軍令部、陸軍省<参謀部の力関係になりました。
つまり、軍人の文が弱まり、武が強くなってきました。
国会議員が異議や反対意見を述べたりすると「統帥権干犯」を持ち出し、反対意見を封殺していきました。
つまり、建前上、天皇のみしか軍隊を指揮命令する事が許されない
神聖にしてだれも犯す事の出来ない武力集団に仕立て上げたのです。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tousuikennnokannpann.htm

しかるに、昭和天皇は皇太子時代、大英帝国を訪問し、英国の立憲君主制に触れ、それを模範にするお考えが有りました。

国王・皇帝が独裁的に指揮・指示・命令をするのではなく、それを輔弼する内閣・国務大臣の政策を承認する形を取りました。
それで、天皇の名の下に、自分の都合よく相手国に武力行使を独断専行で行い、全て事後承諾で戦争へと進んだのです。
結局は、降伏か戦争継続かで意見が分かれ、収集が付かなくなり、昭和天皇のご聖断となった訳です。

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良か...続きを読む

Q戦前の日本の政治体制について。軍国主義?

以下、箇条書きで、文体も悪いので見苦しいかと思いますが、ご回答願います。


・戦前の日本は軍国主義ではなく民主主義国家だった、という認識でよいでしょうか?
・なぜあのような(戦争賛美)状態に至ったのですか?
・軍隊がクーデターを起こしたのでしょうか?
・世界の歴史上、戦前の日本のような現象(?)は珍しかったり恥じることなのでしょうか?


・軍が国政において強い力を持つことは今後も起こりうることでしょうか?
・中国は軍部が強い力を持っているようですが、クーデターを起こして戦争まっしぐら、なんてことはありえますか?
・核が開発された後と前とでは、軍の影響力の違い(所詮核を使うことは無いので戦争はできない、だから軍自体意味が無い、など)はありますか?
・今後の日本において、徴兵はありえますか?
・現在、徴兵を行っている国はどこですか?(徴兵同然、というようなことでも可)

Aベストアンサー

箇条書きの質問順に回答を記します。

・戦前の日本が軍国主義・ファシズム一色だったというのは、戦後史観の後知恵であり、その実体は、大日本帝国憲法の下で立憲君主制に基づく民主主義国家であったといえます。
天皇大権は象徴的なもので、議会主義が機能していました。その証拠に、戦後の社会党や民社党の源流である社会民主主義政党(社会大衆党)も一定の議席を得ていました。

・戦前の既成政党(政友会・民政党)や財閥は、基本的に軍縮・平和志向ながら、国民の貧困層のために福祉・生活向上を図ることには冷淡でした。
この現状打破を目指した若手官僚や社会運動家が政治・経済体制の改革を推進する中で、やはり現状に不満を抱いていた軍部と結び付いたのです。つまり、行き詰った国内経済を打開するために、中国や東南アジアの鉱物・食糧や市場を獲得しようと考えた非軍人のグループと、軍事費増大・海外進出を図る軍部との思惑が一致したわけです。
結局、平和(現状維持)か改革かの二択の中で、軍事行動も辞さないとする後者が優勢となり、国民全体の雰囲気もそちらの方に雪崩れ込んでいきました。そして、欧米列強の権益との衝突が、戦争へとつながったのです。

・5.15事件や2.26事件のような個別のクーデターは鎮圧されましたが、それ以後、統帥権を盾にした軍部の力が強くなり、軍人が政権を握るようになりました。

・三国同盟の締結により、日本の軍国主義がドイツのナチズムやイタリアのファシズムと同一視されますが、各々の主体が異なるので、この認識も誤りです。
また、戦前の日本の現象を恥じるかどうかですが、少なくても戦争責任は、A級戦犯だけでなく、当時の国民全般にあるように感じます。例えば、バブル期に国民全体が浮かれていたのと同じような連想をもちます。

・現行法制はシビリアンコントロールが徹底しており、政権に就けるのは文民(非軍人)だけなので、軍(自衛隊)が政治力を持つことはありえません。

・仮に中国でクーデターが起こったとしたら、13億人のパワーを軍事力で統制することは不可能なので、結果的には国家体制自体が崩壊する危険があります。現実的には、経済成長で国民の求心力を維持する途しかありません。

・核抑止力の主体も結局は軍なので、その影響力は逆に強まります。

・日本で徴兵制の立法論が提起されたとしても、例えば、男女共に適用するのか等の問題があり、妥当なコンセンサスが得られないですし、戦前と違って権利意識が強く、義務感が希薄な現代にあっては、徴兵忌避の大量発生等で機能不全に陥ることが予想されるので、実現性に欠けます。

箇条書きの質問順に回答を記します。

・戦前の日本が軍国主義・ファシズム一色だったというのは、戦後史観の後知恵であり、その実体は、大日本帝国憲法の下で立憲君主制に基づく民主主義国家であったといえます。
天皇大権は象徴的なもので、議会主義が機能していました。その証拠に、戦後の社会党や民社党の源流である社会民主主義政党(社会大衆党)も一定の議席を得ていました。

・戦前の既成政党(政友会・民政党)や財閥は、基本的に軍縮・平和志向ながら、国民の貧困層のために福祉・生活向上を図る...続きを読む

Q昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

軍幹部や閣僚、枢密院の事実上の強制である「助言」に逆らえなかったのはなぜなのでしょうか?
天皇は、軍部を最終的に指揮・統括する統帥権を持っていたのですよね。
様々な事由で軍や政治家の意見を聞き入れなければならない状況もあったと思います。しかしミッドウェー以後の戦況を正確に知っていたなら、最早戦況は絶望的で、このまま戦いを続けたなら軍人のみならず、多くの国民の命が失われることは火を見るより明らかであったことは知っていたはずです。
軍・政治家の「助言」は飽くまで助言であり、例えそれに反したものであっても、最終の決断を下す権限を当時の天皇は持っていたのですよね。そしてそれは、何人たりとも妨げることはできなかったのですよね?
にもかわらず「本当の」統帥権を発動できなかったのは一体なぜなのでしょうか?

Aベストアンサー

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答されていらっしゃるように、昭和天皇が自身を「立憲君主」として律していた根拠でもあります。
つまり、統帥権を含め国務は輔弼の臣の輔弼行為に依拠し、天皇は積極的な国政への関与を控えていたと言うことです。皆さんがおっしゃているように田中首相への叱責、二二六事件、終戦の決断以外には判断を下していません。終戦についても最高戦争指導会議構成員会議および閣議が意見の一致をみないために、最高戦争指導会議に枢密院議長を入れ、御前会議の形式をとり、天皇の判断を仰いだために天皇が決断したのであって、昭和天皇も決断を求められるのは本来の形でないと思っていらしたようです。
ですから、戦争がいかに不利になろうとも、国務・統帥の輔弼がない限り停戦・休戦・終戦にならなかったのではないでしょうか。また、統帥部の輔弼がない限り、終戦への統帥権の発動もなかったと思います。
このように輔弼を受けることにより、責任は輔弼の臣が取るべきもので、天皇自身には及ばない体制が成立しています。西園寺が天皇に田中首相叱責で注意したのはこの点であり、長い伝統を持つ公家社会(天皇を含め)の伝統的方策(生き残るための知恵)にも合致していたからです。

以上、参考まで。

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答さ...続きを読む

Q民主党の国会議員には、なぜ、元在日朝鮮人が多いのか

衆議院だと、民主党の議員の3人に1人(分裂前)は、元在日朝鮮人です。
民主党の国会議員には、なぜ、元在日朝鮮人が多いんでしょうか?
考えられるのは、3年前の衆議院選挙のとき、民主党が、朝鮮総連や韓国政府から、巨額(数百億円だそうです)のワイロをもらい、その見返りとして、党公認の立候補者に、多くの元在日朝鮮人を立てた、ということです。
でなければ、こんな異常な議員構成には、なりません。
日本人にだって、政治家になりたい人は、たくさんいます。
日本人を差し置いて、朝鮮人を候補者に立てる理由としては、さしあたり、”金”しか考えられません。
また、民主党の政治家と、韓国の政治家の異常な親密ぶりは、裏取り引きがあることを推察させます。
この推論に、異論のある人は、いますか?

Aベストアンサー

「人種・民族」と「国籍」の違いが理解できない人や、
「民主党の国会議員には、なぜ、元【在日朝鮮人】が多いのか】
という質問に、
「日本人も【在日】だ」とか答えてしまう読解力のかわいそうな常連さんが湧いていますね。


>民主党の国会議員には、なぜ、元在日朝鮮人が多いんでしょうか?

回答:民主党は朝鮮人の為の政党でもあるからです。


>衆議院だと、民主党の議員の3人に1人(分裂前)は、元在日朝鮮人です。

そこまで多いかは疑問ですが、以下の理由で他の党よりは多いと思います。
(旧社会党より多いかは疑問ですが)


>日本人を差し置いて、朝鮮人を候補者に立てる理由としては、さしあたり、”金”しか考えられません。
>また、民主党の政治家と、韓国の政治家の異常な親密ぶりは、裏取り引きがあることを推察させます。

民主党は、在日韓国朝鮮人や、日教組などのサヨク組織から支援を受けています。

【マスコミが報道しない民主党の実態】
http://www.youtube.com/watch?v=sppB9R6dxMU


以前は民主党の党員には外国人でもなれました。(このような制度は民主党以外ありません)
そして、党員は党の代表選挙への投票権がありました。
(与党の場合、代表=首相 ということになります)
↑は国会で問題になり現在は廃止されていますが、↓の事から外国人の影響力が全くなくなったわけではないと思います。

【国会中継、西田議員が野田の民潭癒着を激しく糾弾】
http://www.youtube.com/watch?v=yAVJr_l0ss8&feature=player_embedded
【韓国マダンに集まる売国議員の皆さん】(白真勲・田嶋要・奥野総一郎・中後淳・加賀谷健)
http://www.youtube.com/watch?v=10T4W1AenJY
【売国奴・岡崎トミ子を追求!!】((韓国の反日デモに参加)
http://www.youtube.com/watch?v=J5Euglb42jg
【“売国的行為”土肥議員が民主会派復帰 竹島領有権放棄訴える共同宣言に署名】
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20121017/plt1210171551007-n1.htm
(土肥氏は昨年2月27日、ソウルでの「3・1節」の関連行事に出席し、竹島について「日本政府は歴史教科書歪曲と独島(竹島の韓国名)の領有権主張によ り、後世に誤った歴史を教え、平和を損なおうとする試みを直ちに中断しなければならない」と記された共同宣言に署名したのだ。)

「竹島領有権主張問題 共同宣言文の骨子」
一、日本は恥ずかしい過去に対し、歴史の真相を糾明し、日本軍慰安婦、サハリン強制徴用被害者など、歴史の被害者に対する妥当な賠償措置を履行しなければならない。両国の善隣関係は、真実の謝罪と賠償が出発点となる。
一、日本は、平和憲法改正と軍国主義復活の試みを直ちに中断しなければならない。
一、日本政府は歴史教科書歪曲と独島(注、竹島の韓国名)の領有権主張により、後世に誤った歴史を教え、平和を損なおうとする試みを直ちに中断しなければならない。


他にも外国人参政権法案を何度も国会に出してきたり、
今の国会でも人権侵害救済法案を通そうとしています。(動画参照)
(そんな法案より、するべき仕事は山ほどあるはずです)

【人権侵害救済法案の廃案を訴える日本国民の会】
http://jinkenhouanhaianproject.web.fc2.com/index.html

https://www.youtube.com/watch?v=YEt5D1uxSv0

「人種・民族」と「国籍」の違いが理解できない人や、
「民主党の国会議員には、なぜ、元【在日朝鮮人】が多いのか】
という質問に、
「日本人も【在日】だ」とか答えてしまう読解力のかわいそうな常連さんが湧いていますね。


>民主党の国会議員には、なぜ、元在日朝鮮人が多いんでしょうか?

回答:民主党は朝鮮人の為の政党でもあるからです。


>衆議院だと、民主党の議員の3人に1人(分裂前)は、元在日朝鮮人です。

そこまで多いかは疑問ですが、以下の理由で他の党よりは多いと思います。
(旧社会党...続きを読む

Q目処(めど)と目途(もくと)

目処と目途の使い分けについて教えてください。
送り仮名に違いがありますか。
PC辞書で「めど」の変換を探すと目途が入っているのもありますね。
これは明らかに誤用ですよね。

Aベストアンサー

めどはやまと言葉ではないでしょうか。もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。

広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく
不親切です。朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。

解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、
ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です)

Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む

Q軍部の暴走を止められなかった理由

戦前の軍部はなぜ暴走したのですか?
張作霖爆殺は、なぜ軍の指揮権を持つ天皇に許可無く行われましたか?
そして、その実行犯を天皇が罰しろと言ったのに、罰せられませんでしたか?
柳条湖事件、満州事変、盧溝橋事件、日中戦争と、軍部と天皇との関係も教えてください。

Aベストアンサー

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に対する恐れから、戦前の日本では本来過渡的な体制であったはずの明治体制の抜本的な変革は、さしずめ戦後日本における改憲のごとく、タブー視されるようになってしまいました。
しかしながら元老のカリスマ性に頼った体制が長持ちするはずが無い事は自明の理であり、このために大正期は「軍の統帥権とはあくまでも純粋な作戦面に限定される」という言わば「解釈改憲」でこの問題を乗り切っていたのです。
しかしながら抜本的な改革が行われなかった結果、軍と政府の分立状態は次第に亀裂が大きくなり、張作霖爆殺事件でも真相究明ではなく田中義一内閣総辞職で幕を引く結果となりました。
そしてロンドン軍縮条約調印時、野党であった政友会は政府を攻撃するために「海軍軍令部の同意の無い軍縮条約の調印は統帥権の干犯である」と非難し、軍の統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
この結果、これ以降に政府や議会が軍の行動を統制しようとすると「統帥権の干犯だ」と揚げ足を取られる事になってしまいました。
(当時の書籍を読むと現役の軍人でも「統帥権の独立は時代遅れであり、国家の将来に禍根を残す」と激しく非難している例もあります)

そしてもう一つ重要なのは、当時の日本では中国大陸に有していた利権(いわゆる「特殊権益」)は「日露戦争で多大な犠牲の末に獲得したものであり、絶対に手放してはならない」という、これまた戦後の日本における一時期の憲法九条のように、その是非を論じる事の出来ない不可侵の存在であるかのように評価されており、その利権の保持を目的とした武力行使は世論やマスコミの強い支持があったのです。
この為に満州事変では軍中央の意向に逆らって占領地を拡大し、現地軍が勝手に満州国建国を行った事をマスコミがこぞって支持し、軍中央も政府も暴走を追認してしまいます。
当然ながらこの結果として「軍中央や政府を無視しても戦果さえ挙げれば認められる」という「下克上」の風潮が生まれ、その後の日中戦争においてズルズルと占領地を拡大する現地軍を止めることが出来なくなってしまいます。

総じて言えば本来、過渡的な体制であった筈の明治維新体制が、皮肉にもその成功故にこそ維持され、時代に合わなくなった状態で行われた普通選挙による民主化が、党利党略しか考えない近視眼的な政治家を生んでその問題を拡大し、また政府及び軍中央が武力行使を支持する世論に阿って誰もが責任を取ることを回避していった結果だと言えるでしょう。

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に...続きを読む

Q日本陸軍はなぜ海軍より悪役にされるのですか?

海軍は真珠湾攻撃、ミッドウェー、カダルカナルなど攻勢終末点を越えた無謀な作戦ばかりして戦火を広げ、陸軍はそれに引きずられたそうですが。
また戦闘機の開発、思想では陸軍のほうが進んでいた。
(海軍格闘戦にこだわる。陸軍一撃離脱を取り入れる)

Aベストアンサー

前に
「帝国海軍について」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4902336.html
と言う質問があり、No.4で私が回答しています。
その中から今回のご質問「日本陸軍はなぜ海軍より悪役にされるのですか?」の答になる部分を引用しますと

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
戦後、陸軍が悪玉、海軍が善玉ということでイメージが定着しています。この理由は、

1) 海軍は「短期現役士官制度」「予備学生制度」で、現在で言えば「大学在学以上の青年」を短期間の教育後に士官とするしくみを作りました。
昭和15年以降は、大学を卒業したら何もしないと陸軍に二等兵として入営しなければならない状況でした。それから逃れる唯一の道である「短期現役士官制度」「予備学生制度」に応募・採用された学生は多数に上りました。
こうした「学徒士官」は「最初から士官に準じる待遇」で海軍に入り、戦争を生き残った人は中尉か大尉で一般社会に戻ったわけですが、海軍のことを悪く思うわけがありません。
そうした人の中で、著名な作家になったり(例:阿川弘之)、官界・実業界・言論界・学界で有力者となる人が多数出ました。こうした、社会に影響力を持つ人が海軍びいきであったことが現在にかなり影響しているようです。
特に、海軍予備学生出身の高名な作家である阿川弘之が
「山本五十六」「米内光政」「井上成美」
の「海軍三部作」をはじめとする多くの海軍関係の著作をものしたことは、「海軍の良いイメージ」を世の中に広げるのに役立ちました。
一方、陸軍の場合「大学在学以上」の人であれば、二等兵として入営しても約1年後には少尉になっているのが普通でした。「甲種幹部候補生」になった人です。「大学在学以上」の人は、特に問題がなければ「甲種幹部候補生」になりましたので、「大学在学以上」で陸軍に入り、戦争を生き残って兵卒や下士官で復員した人はそれほど多くはありません。この点で、海軍と大差なかったようにも見えます。
しかし、陸軍の場合は「甲種幹部候補生」になる前に必ず何ヶ月か二等兵として兵営生活を送らねばなりませんでした。これが「軍隊より監獄の方がよほど楽だ」というとんでもない苦しい生活でしたので、陸軍に入って戦争を生き残って中尉や大尉で復員した人も、「陸軍びいき」になる人は通常いなかったようです。

2) 昭和20年の時点で、健康な20歳以上の男子はほぼ全て陸軍か海軍に属していると言う状態でしたが、人数で言えば陸軍の方が圧倒的に多いです。そして、その多くは学歴がないため「幹部候補生」にはなれず、二等兵として入営して地獄の責め苦を最後まで受け、死なずに復員できたと言う人たちです。こういう人たちが「陸軍大嫌い」になるのは当然のことでした。

3) エリートの「大学在学以上」の人が「海軍びいき」か「沈黙」、一般庶民は「陸軍大嫌い」であれば、陸軍の味方をする人は
「元・陸軍の職業軍人」
程度です。
ただし、一般にこうした人たちは戦後は沈黙を守りましたので、世の中に聞こえるのは「海軍びいき」の声が圧倒的となります。

4) 陸軍にも宮崎繁三郎中将、山下奉文大将、今村均大将のように名将・智将として評価されている人はおりました。
また、開戦責任・敗戦責任が陸軍にだけあるわけではありません。
開戦時の東條英機首相(陸軍大将)は、自分の意思で首相になったわけでもなく、自分の意思で戦争を始めたわけでもありませんが、彼が首相になった時には既に「アメリカを相手に戦争する以外はない」状況でした。「東條首相と陸軍が積極的に戦争を始めた事実」はありません。
しかし、現在は
「太平洋戦争は陸軍が始めたもの。陸軍にはとんでもない連中ばかりいた」
という「常識」が成立してしまっています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「大東亜戦争の敗北についての海軍の責任」について良く分かる本として、

「太平洋戦争はなぜ負けたか」 別宮暖朗
http://www.amazon.co.jp/dp/4890632409/

「なぜ敗れたか日本海軍 (光人社NF文庫)」 是本信義
http://www.amazon.co.jp/dp/4769825250/

「大本営参謀の情報戦記(文春文庫)」 堀栄三
http://www.amazon.co.jp/dp/4167274027/

の3つを挙げます。

また、帝国海軍が、それなりに充実していた潜水艦部隊を有効に使用せず、まるで「鉄の壁にタマゴをぶつける」ようにして無駄に消耗させていったことが分かる本として

「本当の潜水艦の戦い方」 中村秀樹
http://www.amazon.co.jp/dp/4769824939/
をお勧めします。

4冊買ってもそれほど高くありませんので、ぜひお読みください。
いかに「海軍善玉・陸軍悪玉説」が事実と乖離しているのかが良く分かります。

前に
「帝国海軍について」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4902336.html
と言う質問があり、No.4で私が回答しています。
その中から今回のご質問「日本陸軍はなぜ海軍より悪役にされるのですか?」の答になる部分を引用しますと

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
戦後、陸軍が悪玉、海軍が善玉ということでイメージが定着しています。この理由は、

1) 海軍は「短期現役士官制度」「予備学生制度」で、現在で言えば「大学在学以上の青年」を短期間の教育後に士官とする...続きを読む

Q日本のミサイル防衛にTHAADが無いのは何故?

【ワシントン共同】米陸軍当局者は26日、米領グアムに配備した高性能の地上発射型迎撃システム「高高度防衛ミサイル」(THAAD)が完全な稼働状態に入ったことを明らかにした。との報道です。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130427/amr13042709290001-n1.htm
一方日本の場合イージス艦から発射するミサイルとPAC3でTHAADはありません。
日本の場合THAADは無くても良いのですか?


 

Aベストアンサー

>日本の場合THAADは無くても良いのですか?

はい、必要ありません。

THAAD (Terminal High Altitude Area Defense) Missile は射程 200km、射高 40km~150km の地上発射型迎撃 Missile で、High Altitude Area Defense (高高度域防御) の部分だけを見て ICBM (Inter-Continental Ballistic Missile:大陸間弾道弾) をその頂点付近の宇宙空間で迎撃するかのように誤解されがちですが、Terminal (末端の/終末の) のいう言葉が示すように、目標に向かって高度を下げて大気圏 (成層圏よりも上の 40km~150km にある化学圏) に突入してきた最終段階での弾道弾を撃墜する Missile です。

一方、日本が Aegis 艦に搭載している SM3 (Standard Missile 3) 161B Block IA は射程 400km、射高 250km で、先端部が Kinetic 弾頭と呼ばれる高機動弾頭になっているように、空気のない大気圏外での超高速運動能力を持たせたものとなっていて、THAAD よりも高性能な Missile になっています。

http://www.youtube.com/watch?v=Clny6teU5ik&feature=youtu.be

最初に海上自衛隊に配備された「こんごう」の SM3 161B Block IA は高度 160km を飛行する模擬弾道弾の直撃撃墜に成功していますし、現在は日米共同開発になる Block IIA の地上試験を終えて来年に飛行試験、2018 年には現在の Block IA を Block IIA に置き換える予定になっています。

http://www.youtube.com/watch?v=A6CIu9fRk3k

地上発射型で射程が 200km しかない THAAD では幅数百km 長さ 2000km 余りの日本列島に数十基の発射機を配置しなければならず、何時 Terrorism だの過激な反対運動の前に壊されるか判ったものではないのに比べ、SM3 は部外者など近付けない Aegis 艦の中にありますし、相手国の Missle 発射機から 400km 以内の海域に派遣すれば 1 隻で事足ります。

相手国が日本に向けて発射する Missile の Course は決まっていますので、日本列島近海に配置する Aegis 艦の数も数隻あればよく、既に海上自衛隊は上記「こんごう」型 Aegis DDG (Missile 護衛艦) を 4 隻、次級の「あたご」型 Aegis DDG を 3 隻運用していますので、2~3 隻が定期整備中であっても常時 4~5 隻は緊急配備に就くことができるようになっています。

>日本の場合THAADは無くても良いのですか?

はい、必要ありません。

THAAD (Terminal High Altitude Area Defense) Missile は射程 200km、射高 40km~150km の地上発射型迎撃 Missile で、High Altitude Area Defense (高高度域防御) の部分だけを見て ICBM (Inter-Continental Ballistic Missile:大陸間弾道弾) をその頂点付近の宇宙空間で迎撃するかのように誤解されがちですが、Terminal (末端の/終末の) のいう言葉が示すように、目標に向かって高度を下げて大気圏 (成層圏よりも上の 40km~150km ...続きを読む


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