
No.11ベストアンサー
- 回答日時:
なるほど。
面白い質問ですよね。とてもいい疑問だと思いますよ。征夷大将軍→武士で一番上の位。つまり武士のボスです。
太政大臣→これは貴族社会の高い位です。
つまり、単純には比べられないのです。
A中学校の校長先生とB高校の校長先生はどっちが偉いか、というのと同じですなのです。
そして、覚えておいてほしいのはここからです。
貴族社会(中学生なら平安時代とおぼえておいていいです)で、
「俺たち貴族の領地を荒らす者が出てきたぞ!そうだ!武に長けた者を雇うよ!」
ということになって、雇われたガードマンの役目をしたのが武士のはじまりなんです。
貴族が雇い主、武士は雇われる人、こういう風に覚えておいて下さい。
そうすると、貴族社会の高位である太政大臣と、雇われ人の武士のボスである征夷大将軍では太政大臣のほうが偉い人、ということになりますよね。
最後に、あなたのいうような、「清盛と頼朝が同時に存在したらどっちがえらい?」
という質問に答えると、太政大臣にあった清盛が上、ということになるのです。
No.10
- 回答日時:
太政大臣は大宝律令で定められた位階制で最上位です。
対して征夷大将軍は令外官という、もともとは律令制の外に臨時に設けられた位であって、正式な官位ではありません。朝廷の力が凋落して源・足利・徳川のような全国に力を及ぼすような武家が現れると、天皇の政権代行者として幕府を開きました。なので一見すれば征夷大将軍は最高官位のように見えるでしょうが、朝廷から見れば源・足利・徳川幕府は本来地方軍事政権であり、征夷大将軍はそのトップにすぎません。ですから、他の回答者様も述べられているとおり、源頼朝は正二位権大納言が正式な官位、平清盛は従一位太政大臣なので清盛の方が上の官位です。No.9
- 回答日時:
身分は太政大臣が上ですが、将軍職は特別な職権があっていささか他の官職と性質が違うんです。
(征夷大)将軍となると坂上田村麻呂が有名ですが、将軍という役職は外敵と戦うためにその地方を軍権行政権併せ持って独立に治める権利があります。そしてそのための政庁を府と呼びます。(幕府の府)
将軍が居るところを幕府と呼びます。(これが江戸時代になぜか政権を指して幕府と呼ぶようになった。)
だから太政大臣といえど(下手すれば天皇からも)口出しできず独立にその地域を治めることができるんです。
まあ口出しも武力で排除するわけですが、晴れてその地方を正式に治める大義名分を朝廷から勝ち取ったわけです。
朝廷を支配して朝廷内部から全国を支配するなら、朝廷の要職である太政大臣です。
ただ頼朝はまず鎌倉を支配して、自分らの東国を自分らの好きに独立して治めたかったのです。
また古代は将軍が任じられるとだいたい陸奥や出羽が支配領域として定めます。
ところが頼朝は特に支配領域を定められなかったため、将軍が治める土地であると(勝手に)して徐々に全国を支配していったわけです。
No.8
- 回答日時:
NO7の回答を
訂正します、ゴメンネ\(^^;)...
位階で言えば、(江戸時代の慣例では)征夷大将軍は正二位 太政大臣は従一位です
今風に言えば 太政大臣総理で 征夷大将軍は戒厳司令部司令官・軍事評議会議長といったところです
ですから身分は(実権は将軍という時代も多いが)太政大臣の方が上です
正一位 豊臣秀吉 徳川家康 岩倉具視
まさに位人身を極める。この中で生前にもらったのは関白太政大臣秀吉だけ。岩倉は生前は従一位。現在これがもらえる見込みはまず無い。
従一位 大久保利通 織田信長 中曽根康弘 徳川慶喜
総理大臣経験者の中でも特に優秀な人がもらうことになっているらしい。
徳川慶喜は慶応二年には他の将軍と同じように、正二位、大納言、征夷大将軍に任命されている。
ところが翌年には辞官納地でいったんすべての官位を剥奪された。
その後だんだんと、大政奉還の功績が認められ、旧幕臣の不満勢力をなだめる意味もあって、
明治五年には従四位が与えられ、
明治十三年にはもとの正二位に復帰。明治二十一年には従一位まで躍進したのであった。
正二位 徳川将軍 大平正芳 児玉源太郎
徳川家は代々、征夷大将軍になると同時に正二位を与えられる。
そののち累進する場合もあり、
家康、秀忠、家光は
死後正一位を与えられている。
総理大臣になれば、正か従の二位をもらえるらしい。
No.7
- 回答日時:
征夷大将軍 武家の棟梁
太政大臣 公家の棟梁
位階で言えば征夷大将軍は正一位 太政大臣は従一位です
今風に言えば 征夷大将軍が総理で太政大臣が事務次官といったところです
ですから征夷大将軍の方が上です
ただし征夷大将軍で右大臣に任部された場合
もう一人が太政大臣で関白に任部だと
右大臣と関白は関白のほうが位階は上ですね
ちなみに征夷大将軍は名誉職的な側面があります
位階は正一位ですが征夷大将軍に任官されても他の官位についてたりもしています
頼朝は征夷大将軍で右大将
足利義昭は中納言でした
太政大臣は関白とセットな事が多いです
ようは武家のトップと公家のトップの違い
偉いのは征夷大将軍です
No.6
- 回答日時:
既に指摘がありますが、清盛は義経に殺されていません。
鎌倉幕府は、朝廷に反乱を起こした頼朝と頼朝をボスとして仰ぐ武士達が東国につくった朝廷とは別の政治組織です。後に反乱軍ではなくなり、頼朝も朝廷の官位を得ていますが、朝廷の支配下に入ったわけではありません。
武士のボスとして政治組織頂点に立っていたという意味では両者は同格でしょうが、朝廷の官位で比べるなら清盛の方が上です。
清盛・・・A株式会社(朝廷)の社長(太政大臣)。
頼朝・・・B株式会社(鎌倉幕府)の社長(鎌倉殿)兼A取締役会社の役員(征夷大将軍)。
B会社はA会社の傘下ではない。
A株式会社(朝廷)の組織の話で言うと社長(太政大臣)である清盛のほうが、役員(征夷大将軍)である頼朝より身分は上ということになります。
ただ、どちらも社長という点では同格です。
No.5
- 回答日時:
わかりやすく言うと、階級と役職は別って事ですね
有名どころでは
「副将軍、水戸光圀公」=「中納言」
中納言が階級で、徳川幕府副将軍が役職です
まあ、征夷大将軍でも太政大臣でも、やっていることは「執政」つまり政権です
これは本来、朝廷の役割です
建前上は(実際には力づくに近いですが)清盛や頼朝は朝廷からその権限を委任されている形
その権限を委託するために必要な階級を一緒に与えている
清盛は天皇の代理ができる「太政大臣」という藤原貴族がほぼ独占してきた高位をもぎ取りました
頼朝は武人として最高の「征夷大将軍」これも天皇の代理人としての権限を持っています
それ以来、足利は「征夷大将軍」、豊臣は「太政大臣」、徳川は「征夷大将軍」
信長は将軍になりたがっていたらしいですが、任官前に本能寺の変にあってしまいました
日本の政治をとってきたのは、天皇の代理職です
形の上では大首領に指揮を任されている大幹部みたいな感じが近いかも
ゲルショッカーの「ブラック将軍」とショッカーの「ゾル大佐」
階級は将軍と大佐で大違いですが、役割(=役職は)一緒
大首領=朝廷が一応トップではあるけれど、事実上表に出てこない・・・
No.4
- 回答日時:
位は清盛が上。
しかし幕府を開いた後なら頼朝が実権を握っていたでしょう。清盛に従うことはなかったと思います。日本は天皇から将軍へと政権が後退しても、一族を粛清するようなことをせずに、共存したという外国では見ることのない歴史をたどって来ました。
征夷大将軍は坂上田村麻呂が有名ですが、現在の関東・東北地方の豪族を、朝廷に取り込むために派遣された軍勢の大将です。後に「将軍」と短く呼ばれるようになりました。軍隊を派遣する決定をして、命令を下したのが天皇であり、貴族の最高位が太政大臣だったりです。つまり、知識階層のトップが大政大臣で階級は征夷大将軍よりも上になります。、実力部隊のトップが征夷大将軍だったと言えます。
武家社会が訪れると、血筋を重んじるき貴族よりも、実力もあり民衆の支持の高い将軍が実権を奪いました。しかし実力で政治のトップの座を奪った後でも、武士は自分の権力の源として貴族の位である「将軍」の名称を残したのです。天皇制からの完全な決別はできなかったのです。豊臣秀吉が貴族の位である関白に就いたのも、戦乱の世を駆け抜けた後のご褒美みたいなものてした。
No.3
- 回答日時:
官位としては
平清盛は
従一位太政大臣
征夷大将軍というのは、相当する位階が設定されていない「令外官」ですが、
(坂上田村麻呂は、従四位下 陸奥守です)
源頼朝は、正二位のときに征夷大将軍に任命されました。
清盛の方がワンランク上の官位ですね\(^^;)...
身分は太政大臣の方が上ですが、
個人としての権力は将軍が上です。
太政大臣は、天皇を補佐し行政を行う太政官の長ですが、
朝議(公卿高官が朝廷で開く会議)に意見をはかり
総意をまとめてからでないと何事も進みません。
(内閣総理大臣も閣議決定しないと独断専行できないと同じ)
対して将軍は、天皇から平定せよと命じられた地域では、
派遣軍の司令官であると共に、幕府を開き、民政に関与し
地方官に命令したり、必要なら部下に代行させ、裁判を行うことも
許されてました。
※清盛は 病死ですよ\(^^;)...
No.2
- 回答日時:
平清盛の方が上になりますね。
征夷大将軍は官位ではないので。
頼朝の官位は正二位大納言だったかと思います。
太政大臣は正一位です。
征夷大将軍は天皇の配下なので実験を握っていようがいまいが官位は官位です。
なので身分は平清盛が上です。
官位は天皇が授けるものなので。幕府を開いても開かなくても関係ないのです。
「朝廷の指図はうけん!」っていうのは合ってると思いますよ。
頼朝は朝廷の指図を受けたくなくてそれ以上の官位を辞退していたはずです。
それに反したのが実朝で、右大臣まで昇進していたと思いますが、
朝廷に媚を売っているという評価をされていたかと思います。
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