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五摂家の二条家は足利将軍家から偏諱受けています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1% …

偏諱は主君から家臣へ、目上から目下へするものです。権力はともかく、官位上は足利将軍家よりも二条家のほうが上です。偏諱受けたのはなぜでしょう。

A 回答 (4件)

wikiで確認しただけですが


二条政嗣 1455年元服。正五位下。 足利義政は、1453年従一位。
二条尚基1471生。 足利義尚は1476年時点で従三位。
と、元服時点では足利氏の方が位階が上です。ほかの当主も同様ではないでしょうか。
よって、位階が下の人物からの偏諱というわけではないので、別に問題ないと思われます。
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別に目下の家臣から名前をもらっちゃいけんという事は無い…

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>偏諱受けたのはなぜでしょう。



時の権力者に媚びただけです。
官位が上でも、生活苦では困りますよね。
これは、二条家に限った事ではありません。
九条家・近衛家も、足利将軍家から偏諱 を授かっていますよ。
こうする事で、財政的基盤を磐石にする事が出来れば万々歳なのです。
江戸時代でも、二条家では代々将軍家の猶子となり偏諱をうけるのが通例でした。
結果、二条家は1708石でしたよ。
禁裏全体が3万石(幕末には、10万石に増額)ですから、皇族を除くと金持ちです。^^;
※この3万石で、皇族・公家全ての生活を賄うのです。
明治天皇の実母の実家である中山家は、幕末でも200石に過ぎません。
「名を捨てて、実を取る」のが、一般的でした。
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参考URLに次(*****から*****)の記述があります。



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朝廷に対しても、生殺与奪の権をにぎった義満はこううそぶいたという。

【われ国王となりて、斯波、細川、畠山らを摂関となさん。われは清和〈56〉の末(=足利は源氏の分かれ)なれば、非理の道にはあらじ】(『足利治乱記』)

次いで、息子の義嗣を後小松〈100〉のあとに就ける構想をたてる。その直後の義満急死がなければ、〃足利天皇〃が出現していたことはまず間違いない。

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摂政関白はもちろん、天皇も決定する力がある、実質的な権力者です。
形式的な権力者は、実質的な権力者の意のままですので、実質的権力者に媚びるため偏諱を受けたのは自然の流れだと思います。

参考URL:http://www.rodo.info/oldsite/bulletin/bn/0307/re …
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