『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜこれほど人々を魅了するのか

「太平記」、「信長」、「武田信玄」などなど大規模な合戦ロケを敢行してた時代にくらべ、近年の大河ドラマは合戦シーンをスタジオで小規模に済ませたり、最悪の場合、ナレーションで流す事もあり、明らかに合戦シーンの扱いがショボくなっていると感じます。

「時宗」の蒙古襲来の上陸シーンなどは、元の沈没船発見といったNHKニュースでもイメージ映像として使われるほど見栄えの良いモノでしたし、ドラマの出来や面白さとはまた別に、合戦シーンにもそれ自体にファンがいると思っています。

合戦シーンを割愛しても面白い作品は多いですし、そもそも合戦シーンを想定してない方針の作品もあるのでしょうが、大河といえば、ド迫力の合戦ロケシーンも楽しみの要素と思っているので、さびしく思っています。

「葵徳川三代」あたりまでは最高でした。近年だと「風林火山」は健闘していたように思いますが、それでも縮小気味に感じます。
「利家とまつ」、「功名」、「天地人」あたりになってくるとガッカリ感が強いです。

「清盛」でも、正直、視聴者のニーズにも物語の盛り上がりにも適してるとは思えない海賊討伐のロケシーンに無駄に力を注いで燃え尽きたのか、それ以外の戦シーンは実にあっさりしたもので、非常にもったいないなあと思っています。歴史番組のイメージ映像として使い回されるような保元・平治の乱の映像作りに予算使ってほしかったです。


いわゆるホームドラマ路線、予算の減少、暴力描写への拒否反応などがあるのでしょうか?

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A 回答 (5件)

なんといっても戦国時代は合戦ですよね。


この時代では「信長」、「武田信玄」「葵徳川三代」「秀吉」「風林火山」「天地人」見ました。

印象に残っているのは徳川の関が原です。

他の回答にもあるようにコストという現実はあるのでしょうが、
もう一つ、私が思うのに、
「馬」です。
押し寄せる騎馬隊が待ち構えた種子島で打たれてドドーンと何頭も武将を乗せたまま、派手に転ぶでしょう。
あれってどうやって撮影してるのかな、って馬好きの私は心配してるんです。
かわいそうとか言ってNHKに電話してくる視聴者、いるはずですよね。
そんなのも理由かなと思ってました。

私の不満。
これって歴史上の人物は最後に死ぬわけだし、歳取るからしょうがないと思うんですが、
「風林火山」なんて最後の10回ぐらい毎回泣いてたでしょう。ああまた泣いてるよ。って思いました。
セリフ回しがやたらと冗長になっておいおい泣いて、 あれがなんかイヤなんですよ。
「おおげさなんだよ」と言ってしまいます。
むしろ、初回から10回ぐらい、ハチャメチャに若くて生きのいい時代、が見ていて楽しいです。

秀吉が最後まで元気で馬鹿騒ぎが好きで、ラストシーンも夢のなかで太陽に向って走っていくシーンで、あれは良かったなあ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「馬」!大事ですよねー
敗残兵が屍をさらすシーンには、必ず主を失ってウロウロしたり、草をついばんでいる軍馬の描写ありますよね(笑)

落馬シーンとか馬ごと倒れるシーンなんか、熟練のスタントさんによる相当な習練が必要に思いますね。言われてみれば、馬の存在感も近作は希薄になってる気がしてきました。

>「風林火山」なんて最後の10回ぐらい
これは大いに同感です。ここ数年の戦国大河の中では「風林火山」は一番好きですが、クライマックスに向けて~川中島がホント残念でしたね。合戦シーンもロケを行ったのは拍手でしたけど、尻切れ感がありました。
物語半ばで、千葉真一さんが戦死する単独殺陣シーンはホント印象深かったですし、ローカルな戦をいくつも取り上げていた序盤~中盤は好きです(笑)

秀吉の「夢のまた夢」エンドは私も鮮烈に記憶しています!

ありがとうございました。

お礼日時:2012/11/10 23:57

 そうですね。


 そしてその結果、製作者サイドの戦闘シーンへの理解がなくなり、昔の戦闘シーンを再現できなくなってきた、ということではないでしょうか。
 近年の大河でよく見るのは、馬上から刀を振り回すシーン。
 そんなのありえません。
 馬上といわず、戦場では槍が基本。
 わざわざ最初から刀なんて、槍と勝負したら負けることは明白で、直接戦わない指揮官でもなければありえません。
 合戦と一口に言っても、戦うのは個人と個人な訳ですから、一人一人の戦闘がリアルかつ重厚に描かれていれば見せ場には十分になりえます。
 合戦は時代劇の殺陣とは本来違うもののはずなのに、鎧を着ない、江戸時代のチャンバラのノリで描かれすぎではないでしょうか。
 刀で鎧に切りつけたって刃こぼれするだけ。
 騎馬だからって、槍を構えた雑兵の群れに突っ込めばあっさりやられるだけ。
 鎧の隙間に槍を突っ込む、下から上へ槍を突き上げて雑兵が騎兵を倒す、組み打ちになって首を狙いあうなど、リアルに描けばいくらでもできるはず。
 戦闘よりもキャストなど話題性作りに意識を向けるようになり、戦闘シーンはおろそかにされ、本来あったはずのそうした戦闘を再現する技術と志が失われてしまったのだと思います。
 武術指導や時代考証なんて項目が表示されますが、一体何を指導、何を考証しているのかと正気を疑います。
 ですがそういう現状にしてしまった、リアルさや重厚さよりも手軽な人気や分かりやすさを求めたのは我々視聴者自身なのかも知れず、そこは考えさせられるところです。

 本物志向の、個々人の戦闘術が堪能できる、重厚な作品を期待したいものです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>製作者サイドの戦闘シーンへの理解がなくなり、昔の戦闘シーンを再現できなくなってきた
このご指摘はファンとして憂鬱ですよね

製作側が合戦シーンを軽視していると、その内、往年のスタッフが去り、ノウハウが伝承されずに次のスタッフが技術的に再現できなくなってしまうという悪循環…心配ですし、確実に進行しているように思います。

>リアルさや重厚さよりも手軽な人気や分かりやすさを求めたのは我々視聴者自身なのかも知れず、
これも一理ありますね。反戦主義な女性主役のライトな大河が近年増えてるのもそういったニーズの現れと思います。


少し路線が違いますが、たしかに「武蔵」や「新撰組!」は、ドラマ部分での評判は置いておいて、剣豪モノを題材にしながら肝心要な剣劇描写には全く魅力がなかった印象があります。
殺陣を売りにして続編も作られた「柳生十兵衛 七番勝負」なんてありましたけど、大河でがんばってほしかったです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/11/10 23:42

演出家にもよるんじゃないですか?



私も葵徳川三代については凄かった記憶があります
あれは作者のジェームス三木氏の意見がかなり反映されてるらしいです
戦国物の本質は戦なのだから そこをおろそかにしたらNHKの威信に関わる とジェームス氏は発言
局もその意向をくんで製作したようです



最近は予算の都合というものもありますが 脚色もひどすぎますね
こんな出来事なかっただろう と言うような事を平気で盛り込んできます
大河は創作ドラマではなく史実に基づいたものですから あまり逸脱するのもよくない


あとは主演がショボイ
無名の若手俳優や女優を使いすぎでつまらない
当然事務所サイドは合戦シーンで爆破とかだと怪我したら困るから演出を小さく…
というのもあるみたいです
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。

>ジェームス三木氏の意見がかなり反映
初耳でしたが、さすがですねー
ヒット作である「独眼竜」「吉宗」と、すでに大河において大きな実績を出していたからこその影響力ですねえ

「葵三代」での関ヶ原は、以後10年以上経っても使いまわされるクオリティでしたし、細部までこだわった大河史上屈指の合戦シーンだと思います。

質問の趣旨とはズレますが、時代劇未経験で大河主役に抜擢されるのは私もあまり好きではないですね…

2014年に決まった黒田如水のV6岡田氏は、NHKドラマや邦画での時代劇経験も積んでますし、乗馬やアクションもこなせるので少し期待していますが、どうなるか…

お礼日時:2012/11/10 16:18

昔→人件費が安かった


バブル時代→人件費は高くなったがそれを上回る景気だった。
いま→人件費はそこそこだけど予算がしょぼい。エネルギーの節約運動などでそれに拍車がかかった。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。

単純明快で納得です、
実際、バブル期のような景気のよい時代の大河の合戦シーンは派手でしたね
90年代の大河は、とにかく合戦シーンに凝っていた印象ですし、
市街戦、山岳戦、海戦までロケ撮影してた「太平記」はまさにバブリーな時代だからこその規模の作品ですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/11/10 16:00

 大河ドラマや映画の撮影に協力した経験から・・・・・



 今は「時間」「予算」がないのが主な理由でしょう。
 
 いくらデジタル処理が出来るといっても撮影場所は限られているのです。
 
 だから時代劇はいつでも似たような背景ですよね。

 馬・人・甲冑など、準備するのはすっごく大変で、20人くらいのを数百人にするのは技術だなって思います。

 殺陣もお粗末になってきていますしね。もう「大部屋」でエキストラではだめなのかなって思います。

 時代物はある程度やり尽くした感じもするので、仕方がないのかなって思ったりもしたり。
 昔の「衣装」は豪華絢爛だったし。今はあり得ない装束も見受けられ、もったいないなと思います。

 ただ、源平合戦については深く追えない部分もあるので、あの程度で仕方がないのかとも思います。

 暴力描写というのであれば、今の犯罪を追う「謎解き」が多いのも気になりますね。似たような物ばかり作ってる。
 戦争映画がつくられなくなったのも、そういう理由でしょう。

 誰も「イラク戦争」の映画を作ろうとはしないでしょう。

 
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。

撮影に携わった方の意見は興味深かったです。

スケジュールの過密な人気俳優を野外に長時間拘束する上、危険をともなう乗馬や重い甲冑衣装を着てのアクション撮影はやはり難儀なのでしょうね

本能寺や桶狭間みたいな有名シーンともなれば、過去作との比較もされちゃうし、その都度、特徴出して作るのも大変そうですね(笑)

>ただ、源平合戦については深く追えない部分もあるので、あの程度で仕方がないのかとも思います
実際、戦の規模も戦国あたりとは違いますし、ご指摘ごもっともです。

ご回答ありごとうございました。

お礼日時:2012/11/10 15:47

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たとえエンターテイメント作品とはいえ、作品中で述べられた史観が日本政府もしくは日本国民の公式見解だと受け止められかねません。

元寇のように、歴史的な評価もかなり定まり(さすがに神風うんぬんは、戦後数十年経った今、一般国民は誰も信じなくなりました)、またクレームをつける国も無ければ別ですが、文禄・慶長の役についてはまだ隣の国から多くの文句が飛んできそうです。

しかし、かつての文禄・慶長の役(韓国では壬申倭乱)については、韓国側でも自国の問題点についてそれなりに問題点は認識してますし(基本的には国の政治・軍備に不備があり過ぎた)、日本でも豊臣秀吉の暴走という見方がそれなりに定着してますので、イデオロギー色の少ない識者を選抜すれば、割と客観的なドラマ作りは可能かと思っています。


余談ですが、嫌韓論の広まりからか、李舜臣について奇妙な評価が広まっているようです。
客観的に見れば、李舜臣は十分名将ですよ。
限られた兵力を有効に活用するには、ゲリラ戦をせざるを得ません。
李舜臣を批判する人は、同じくゲリラ戦を活用して奮戦した楠木正成も批判しなければ、公平とは言えないでしょう。
また、遠征軍の補給を絶つという戦い方は、戦略的に見ても非常に有効な手段です。(理解できない人は、ナポレオンのロシア遠征で、ロシア側がとった焦土戦術を勉強されたし)
参考:『焦土戦術』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A6%E5%9C%9F%E6%88%A6%E8%A1%93

さらに重要な会戦には、正面から挑んで戦術的な勝利を収めています。
(参考:『鳴梁海戦』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6)

戦死した露梁海戦(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6)についてはさすがに疑問を感じますが、仮に生き残ったとしても、宮廷の政争に巻き込まれて失脚するか死を賜ることになったでしょうから、討ち死にして名誉を残したことは、かえって本人にとって良かったかもしれません。

ついでに言えば、李舜臣が自国の国民から略奪したという史実は記憶にないのですが。(清野の計といって、李王朝が政策的にそうしたことは、知っています)


文禄・慶長の役は結果としては日本の負け戦ですけど、局地戦を見ればすごい戦いも幾つかあります。
特に『泗川の戦い』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84は、「島津すんげーえっ!」の一言です。国内の戦いで、この時の島津軍以上の戦果を上げた戦いは、他には無いんじゃないかと思います。

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東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
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本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

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だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

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この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

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この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
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Qなぜ越後兵は戦国最強だった?

以前、戦国時代に書かれた書物を本で読んだことがあります(現代訳で)。
それによると戦国時代、一番強い兵隊は越後の上杉兵だそうです。
ちなみに2番目が甲斐の武田兵、3番目が相模の北条兵と三河の徳川兵らしいです。
武田兵は騎馬隊があるのであるので強いのは分かりますが、なんで越後兵はそれより強かったんでしょうか?

Aベストアンサー

合戦には戦略というものがあり、目先の勝敗はどちらでもよいのです。
例えば徳川家康は「桶狭間の合戦」で大将の今川義元が首を打たれたため三河に敗走、越前攻めでは主将の織田信長が逃亡したので敗走、三方が原では武田信玄に敗れて浜松に逃げ込み、本能寺の変でもやっとの思いで三河に脱出、とどちらかというと負け戦の多い武将です。
中国でも漢を建てた劉邦はライバルの項羽にやられて逃げ回りますが、最終的には勝利を拾います。
「尾張兵は弱兵」といわれ、その理由として尾張は肥沃な濃尾平野に恵まれ、津島の海運により商業が発達して豊かなため、命を惜しむからといわれてきました。
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越後も雪国ですから、人間的には我慢強い気質の方が多いため、「強兵」といわれると思いますが、それと本当に強いかどうかはまた別と思います。
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兵の強弱は江戸期に甲斐の軍略家がまとめますから(武田家滅亡後、徳川に多くが仕えた)、どうしても武田家を持ち上げる傾向があり、武田信玄が梃子摺った越後兵は強いとなったと考えます。

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Q薩摩の武士が強かったのはなぜですか?

島津の兵はなぜ強かったんでしょうか?(幕末にイギリスと貿易する以前から)
戦国時代に武田や上杉と戦ってたらどうなってたと思いますか?

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薩摩兵の勇猛さは、薩摩藩の「郷中教育」に起因しています。

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このため薩摩兵の結束力は極めて強く、リーダーの指示であれば死をも厭わない戦闘集団が形成されたのです。明治維新において、郷士に過ぎなかった西郷隆盛が主導的立場に立てたのも、彼が二才頭であったことが大きな理由の一つとされています。

参考URL:http://washimo.web.infoseek.co.jp/Report/Mag-Goujyu.htm

Q世界の弓の威力について

歴史上の戦闘でもっとも威力があって射程距離が長かった弓はどこの国の何時代の弓ですか?それと比べて日本の弓の優劣はどのようですか?またそういったことを扱ってる本とかURLをご存知の方がいらしたら教えて下さい。

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当方弓道をやっておりますので、知る範囲でお答えします。
威力と射程は矢により変化(一般的に矢重に比例する威力と、矢重に反比例する射程はトレードオフの関係)するので、弓自体の性能についてお話しします。

 一般論になりますが、弓は当然ながら”強い弓”をより引き尺をとって使えば威力・射程とも上がります。
しかし引き絞った時に強いからといって弓にパワーがあるというわけではありません。
 正確には、「引き絞っていく途中の加重の積分値」が弓のエネルギーになります。
(平たく言えば、弓の引き尺に対しての加重をプロットしたグラフの、その曲線の下の部分の面積)
 木製・合板の弓や単純な湾曲の弓ではこの引き尺と加重がほぼ比例します。(和弓もだいたい比例します)
 しかし、強靭な材料を使い、湾曲を複雑にすれば、この曲線を上に膨らますことができるので、前者の弓と引き絞ったときに同じ加重でも(つまり、同じ筋力の射手でも)、より威力のある矢を飛ばせます。
 
この後者の条件に当てはまるのが、騎馬民族系の大きく湾曲した弓で、トルコ弓などとも呼ばれます。
(ちなみにコンパウンドボウという現代の弓は非常に高効率、正確なことで知られていますが、この弓をヒントに作られました。)

 そのため形状で言えば単純湾曲弓より、上記のような特徴を持つ湾曲弓のほうが高性能でしょう。実際、トルコ弓の最大飛距離は実用の矢で400m、遠矢用で約600mだそうです。
材質は、木だけのものは、折れるのを防ぐため引き尺が取れず(ロングボウは折らずに引き尺をとるために長いのです)しなりが少ないため不利で、木竹をあわせた合板弓(和弓はこれ)や、さらにはより強靭な角・腱・革を使ったもののほうが高性能でしょう。

結論として、ご質問のものは時代はわかりませんが、騎馬遊牧民族系の弓だと思います。

和弓では、長い距離を飛ばす競技で最高400mという記録がありますが、これは専用の軽い矢を使った記録なので、征矢では最大でも200m位だと思います。
因みに和弓は、番える位置が中心より下寄りになっているため矢は先端をやや上げて飛行し、遠くに飛びやすくなっています。

有効射程となると一口で言うのは難しいですが、
~2,30m だいたい急所を狙える
~40m だいたい人を狙える
~7,80m だいたい騎馬を狙える
くらいだと思います。
威力ですが、フライパンぐらいなら結構簡単に射抜けますし、
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/kyuba.html
かつて明珍の鉄兜を串刺しに射抜いた人もいます。

書籍ですが、確か歴史群像シリーズの『北条時宗』で蒙古弓と和弓の比較をしていたと思います。
あとは検索で見つけましたが
http://www.coatl-head.com/arc.html
の『武器の歴史(Weapons)』(マール社)が詳しそうです。
キャッシュでしか見られませんが
http://72.14.203.104/search?q=cache:gEp-EUHAqMkJ:
www.if-n.ne.jp/member2/netdh/Item/mktext.pl
%3Fcorpus%3D0%26id%3DOTAwNjU
も詳しいです。

当方弓道をやっておりますので、知る範囲でお答えします。
威力と射程は矢により変化(一般的に矢重に比例する威力と、矢重に反比例する射程はトレードオフの関係)するので、弓自体の性能についてお話しします。

 一般論になりますが、弓は当然ながら”強い弓”をより引き尺をとって使えば威力・射程とも上がります。
しかし引き絞った時に強いからといって弓にパワーがあるというわけではありません。
 正確には、「引き絞っていく途中の加重の積分値」が弓のエネルギーになります。
(平たく言えば、弓...続きを読む

Q『鋸挽きの刑』 本当に通行人が挽いたのか?

 江戸時代の一番厳しい刑罰は『鋸挽きの刑』だと云われています。
 私は残酷なことは好きな方ですが、自分や家族をヒドイ目に遭わせたわけでもない罪人の首を、挽く気にはとてもなれません。
 ほんとうに道行く人が、首から下が土に埋まっている罪人の首を挽いたんでしょうか。

Aベストアンサー

いつもお世話になっております。
私も何かお役に立てないものかと色々調べてみましたところ、ものの本に以下のように書かれたところを見つけました。
『主殺しなどに適用された極刑で、罪人を一日引き回した上で首のみ出した形で箱に入れて埋め、刀傷による血を付けた竹鋸を側に置いて二日間晒した後に刑場で磔にされた。古来は往来の者に「首挽候真似」をさせていたが、慶安年中に実際に挽くものが現れたため、その後は鋸に血を付けて晒すことに、さらには単に鋸だけを側に置くようにした。』
どうやら慶安の頃に不届き者があったようですね。ある程度平穏な時代が続くと、いつの世も少し感覚が麻痺したような人々が出現するものなのかもしれません。
何か少しでもお役に立てれば幸いです。

Q武田軍はどうして鉄砲を増備しなかったのか?

少し前のNHKの歴史の選択(その時歴史が動いたのスペシャル版)の川中島合戦でやっていましたが
武田信玄軍は鉄砲を少数ながらも配備していたとやっていました
息子の勝頼は長篠合戦で織田信長の鉄砲隊に騎馬隊をやられていますよね
槍騎馬隊だけでなく鉄砲騎馬隊にすれば対等ぐらいには戦えたのではないですか?
小田軍の足軽で鉄砲三段撃ちも良いかもしれませんが、武田軍の騎馬で鉄砲三段撃ちのほうが強いのでは?

Aベストアンサー

失礼ながら、質問者様の歴史認識はさまざまな点で間違っています。

「息子の勝頼は長篠合戦で織田信長の鉄砲隊に騎馬隊をやられていますよね」
現在「織田軍の鉄砲三段撃ちに、武田騎馬隊が粉砕された」ことは否定されています。

理由1) 現地に行ってみると分かるが、戦場は両軍で3万以上の兵が入ったら身動きもできないような狭くて起伏のある地形。
こんな所で、騎馬隊が突撃できるわけがない。

理由2) 織田軍の鉄砲が3千丁あったとする根拠は、信憑性が乏しいとされる史料。おまけに、最初は「千丁」とあったのを、後に「三千丁」と直した形跡がある。織田軍の規模からして、千丁の鉄砲を持っていたというのはおかしな話ではない。

理由3) 現地の狭隘な地形で、伝えられるように織田軍が野戦築城して三段撃ちで武田軍を迎撃したとする。火縄銃は周囲に一定の間隔がないと使えないが、その一定の間隔を確保できないので、鉄砲足軽同士が接触し、ある兵の銃の火縄が他の兵の火薬に触れて暴発するなどして迎撃するどころではない。よって、そのような戦法はありえない。

理由4) 「織田軍が鉄砲の三段撃ちで武田軍を撃退した」という話そのものが、合戦後かなり年数を経て出た「軍記もの」を出典とするもの。明治時代になって、日本陸軍の参謀本部が「長篠の合戦は織田軍が鉄砲の三段撃ちで武田騎馬隊を撃破した」と「認定」したため、つい最近まで定説になっていたもの。

他にもいろいろ根拠がありますが省きます。要するに「織田軍が鉄砲の三段撃ちで武田軍を撃退した」と言う話は「軍記ものにそう書いてあり、日本陸軍参謀本部が事実と認定した(史料を詳細に検討した形跡なし)」だけの話です。具体的な証拠は何もなく、探せば否定する根拠ばかりが出てきます。

鉄砲隊と騎馬軍団 真説・長篠合戦
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31127305

が手軽に読める本で分かりやすく書いてありますから推薦します。

火縄銃は、重い上に次発装填に時間を要し、野戦で攻撃に使うには不適です。さらに、火縄銃自体も火薬も弾丸も高価なものです。

それでも、長篠の合戦の前に武田軍が長篠城を落城寸前まで追い詰めた際は、No1さんが言われるように「それでも長篠城攻撃で武田鉄砲衆は活躍し、合戦後に家康が検分した際の記録では、壁土が落とされて穴だらけ、散々に撃ち抜かれた戸板は障子のようだったとか」と、「城攻めの武器」としては十分な数を揃えて活用していたようです。

ただし、鉄砲の産地である国友や堺を支配し、かつ硝石(火薬材料)や鉛(弾丸材料)を自ら南蛮貿易で有利に輸入できる織田軍の方が、武田軍よりずっと鉄砲装備に有利だったのは確かでしょう。

火縄銃は、
「野戦の際に、敵が接近するのを防ぐ、あるいは敵の先鋒を撃ち殺して勢いを殺ぐ」
「城や陣地の中に鉄砲足軽を配置し、攻めて来る敵兵を狙い打つ。高い所に陣地を築き、坂を登って来る、あるいは堀に阻まれた敵兵を狙い撃つとさらに効果的。大坂冬の陣は、『城にこもった大坂方が、攻めて来る徳川方を鉄砲で撃つ』戦いで、徳川方は何もできない状況でした。」
「武田軍がやったように、集中射撃で城壁を崩し、突破口を作る。当時の日本には大砲がなかったので、大砲の代用」
「敵の側面に鉄砲隊を潜ませ(または進出させ)、合戦の最中に横の近距離から銃撃する。伏兵としての使用。関ヶ原の合戦で黒田長政隊が石田三成隊にこれをやっている」
というように使うものでした。

失礼ながら、質問者様の歴史認識はさまざまな点で間違っています。

「息子の勝頼は長篠合戦で織田信長の鉄砲隊に騎馬隊をやられていますよね」
現在「織田軍の鉄砲三段撃ちに、武田騎馬隊が粉砕された」ことは否定されています。

理由1) 現地に行ってみると分かるが、戦場は両軍で3万以上の兵が入ったら身動きもできないような狭くて起伏のある地形。
こんな所で、騎馬隊が突撃できるわけがない。

理由2) 織田軍の鉄砲が3千丁あったとする根拠は、信憑性が乏しいとされる史料。おまけに、最初は「...続きを読む

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。

Q【風林火山】首を取り返す方法

12/16に放映された、NHKの大河ドラマ「風林火山」の最終回を観ての質問です。
激戦の川中島決戦で、武田信繁、諸角虎定、山本勘助がそれぞれ討死し、上杉軍に首を取られましたが、武田軍が最後に三人の首を取り返してきました。
これってどういう風に取り返してくるのでしょうか?
上杉軍の方で、一通り死体の確認が終わったら返してもらえるのでしょうか?
それとも武田軍の方で実力で奪い返すのでしょうか?

Aベストアンサー

ご質問の答は
「それぞれの首を取った上杉方の武士を、武田方の武士が討ち取って、信繁、諸角豊後守、勘助のそれぞれの首を奪還した」
とドラマ上で設定されている、ということです。

川中島の合戦については、歴史学者が認める確実な史料はほんの僅かしか存在せず、「歴史学上は、合戦の詳しい様子は不明としか言えない」のが実情です。
「永禄四年に武田軍と上杉軍が激しく戦い、信玄の弟の信繁が討ち死にした」
「謙信が自ら武田兵と太刀打ちをするほどの激戦であった」
程度のことしか史実とは認定されていません。

今回のドラマで描写された、
「上杉軍が妻女山に上り、戦線が膠着し、山本勘助が献策した「啄木鳥の戦法」によって武田軍を二分して妻女山に奇襲をかけようとし、それを見破った上杉軍全軍(1万数千人)が事前に妻女山を降りて八幡原に進出し、そこに陣を構えていた武田軍(8千人)に車懸りの陣で攻めかかり、劣勢の武田軍は妻女山に向った味方が援軍として駆けつけるまで苦戦した」
という話は、甲陽軍鑑などの「軍記もの」の記載によるものです。日本人の常識としては「史実」と同視されていますが、実際にどうだったかは「歴史の闇の中のこと」でなんとも言えません。

そして、甲陽軍鑑には
「武田信繁の首は、武田軍の山寺某という武士が取り返した」
「諸角豊後守の首は、豊後守の家臣2名(石黒五郎兵衛、成瀬某)が取り返した」
と書かれています。

今回のドラマでは、信玄が「ヤマダカ平左衛門、石黒五郎兵衛、よくぞ二人の首を取り返してくれた。大儀であった」と褒め言葉を与えていました。甲陽軍鑑の記載をそのまま採用しているわけです。なお、「ヤマダカ」は誤りで、この場面で信玄は「山寺平左衛門」と言うべきだったと思われます。
※ 録画していましたのでこの場面を再生してみましたが、信玄役の市川亀治郎は「ヤマダカ」と言っているように聞き取れます。「ヤマダカ」と読む姓は普通はありませんので、脚本にどう書いてあったのか興味があります。

勘助の首については、甲陽軍鑑には特に記載がないようです。
ただ、他の軍記ものには、「勘助の家臣何人かが、非常な苦労をして取り返した」と書いてあるようです。今回のドラマでは、勘助が特に可愛がっていた家臣である太吉が「非常な苦労をして、勘助の首を取った」ことで収めたわけです。

参考文献
「武田軍記」 小林計一郎 著
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=05090598
絶版書ですが、図書館やネットの古本屋で見つかるでしょう。

なお、戦国時代の大規模な合戦では、戦勝後に首実検を行った後は、首を集めて戦場付近に埋めて、土地の僧侶に金子を与えて供養させる(五輪塔などを築き、読経する)のが「良き武将の心得」であったようです。そうした伝承を持つ「首塚」が全国に散在しています。

川中島古戦場の首塚の紹介記事
http://sky.zero.ad.jp/~zac28831/syashin-takeda2.htm

ご質問の答は
「それぞれの首を取った上杉方の武士を、武田方の武士が討ち取って、信繁、諸角豊後守、勘助のそれぞれの首を奪還した」
とドラマ上で設定されている、ということです。

川中島の合戦については、歴史学者が認める確実な史料はほんの僅かしか存在せず、「歴史学上は、合戦の詳しい様子は不明としか言えない」のが実情です。
「永禄四年に武田軍と上杉軍が激しく戦い、信玄の弟の信繁が討ち死にした」
「謙信が自ら武田兵と太刀打ちをするほどの激戦であった」
程度のことしか史実とは認定さ...続きを読む


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