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先日、大河ドラマ「平清盛」で、清盛が後白河院を攻めようとしたときに嫡男重盛に
踏みとどまるようにと説得されたシーンで、「まあ、よい。院を攻めるとなると北面の武士どもも
うるさいからな」という台詞を述べていましたが、この台詞にとても違和感を覚えました。

平治や保元の乱以前ならともかく、平家全盛時の北面の武士といっても、当然に
たいした力もない護衛だとはわかるのですが、この時期の北面の武士って、どういう勢力が
任ぜられていたのですか?

大阪夏の陣や冬の陣ならば、豊臣方には関が原で敗北した武将の勢力や浪人が組したのは
有名ですが、平家全盛時の北面の武士についての中身がみえてきません。
どなたか詳しい方にご教授願いたいと思います。
またこの時期の北面の武士について、何か記述されている書物はあるのですか
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F% …
頼朝の母親の実家ですね

時期は不明であるが、『尊卑分脈』の記述によれば後白河院の上北面を勤めていたという。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD% …

大番役で上洛し鳥羽院武者所、後白河院北面を務め、


北面の武士とか言うと、何やら組織があるように思えてしまいますが、要は「後白河」の私兵です。
なので、実際の戦闘とかがあって、戦記モノに記述されていないと記録としては残りません。
No1の方の指摘しているURLで後白河の北面の武士が少ないのは、後白河は実際の戦闘に入っていないから、記録が少ない。

宇都宮氏が京都にその段階で北面にいたならば相当な勢力になります。
1180年には京都にいたようなので、1179年の重盛云々の時にも在京であったのではないかとおもわれます
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりすいませんでした。
たいへん詳しい説明ありがとうございました。
まだまだ知らないことばかりです。
このたびのご回答、たいへん役に立ちました。
『尊卑分脈』も知らなかったし、宇都宮氏のことももっと知りたいと思いました。
ドラマにや小説などに出てこない人物はあまり知られていないですね。
回答者様の深い知識には脱帽します。
改めてありがとうございました。

お礼日時:2012/11/20 23:12
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりすいませんでした。
このたびの回答ありがとうございます。
『愚管抄」にも記述されているのですね。
もっと、もっと深くまで追求してみたくなりました。

お礼日時:2012/11/20 23:14

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