初めて質問させて頂くんですが…。皆様かなり難しい言葉を使っておられて私には理解不能です。たぶん、私が常に思ってしまう「全ては1つで私しか存在しない」という孤独感を“独我論”という超自己中心的な考えの人みたいに思われてしまうのでしょうね。。。だから誰にも話せないんです。理解しがたい人って沢山いるけど、でもでも人間も自然も何もかも1つの様な気がして。そして孤独を感じるのです。毎日が楽しくない訳ではないのです。逆に毎日楽しくて私にはもったいないなと思うくらいです。でも、ふっと全てを私だけに感じるのです。(変な日本語でスイマセン。想いを伝えるのは難しいっっ)

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A 回答 (4件)

お釈迦様は天上天下唯我独尊といいましたが、これはお釈迦様に限ったことではありません。

たとえばあなたから考えた場合でも同じことが言えます。

唯我というのは、今の肉体のあなたのことではありません。あなたの潜在意識の最も深いところにある神の心のことです。この神の心は私の神の心と同じものです。

そして、その神の心の造ったすべてのもの、つまり天界、霊界、人間界すべてあなたの心が造ったものです。肉体のあなたは神の心が造ったものであり、あなたが立ち向かう人々は神の使いということになるのです。

したがって、この世にはあなた以外はいないことになるのです。
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私はどれ程難しい考え方でも中学生なら理解させることが出来ると思っています。

オックスフォード現代英英辞典という辞書があります。この本では全ての単語を基本的な3000語で説明しています。『ホルモン』や『フィードバック』という専門用語ですら3000語しか使いません。3000語というのは大体5,6歳のレベルです。ですので何事も噛み砕けば誰でも分かるはずなのです。オックスフォード現代英英辞典は全ての単語を3000種類の言葉を組み合わせて説明しているのですから……。(中には例外もありますが、ごくわずかです)日本語に出来ないはずはありません。

独我論というのはある意味正しいといえます。あなた自身が存在することはあなたには分かっているはずです。しかしあなた以外の存在を証明できるでしょうか? あなたの目の前にあるパソコンが脳の中の電気信号などで作られた『幻覚』でないことを証明できるでしょうか? もっといえば人生自体が夢であることを確実に否定できるでしょうか? 100年前に世界が存在していたと証明できるでしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C% …

↑『世界五分前仮説』というWIKIの面白い記事です。読んでみてください。

と、考えていくと誰でも最後には『何も分からない』と悟ります。昔でも今でもいつの時代でも天才と呼ばれる人達は同じ結論に至りました。『何も分からない』と。昔のソクラテスという人の『無知の知』が有名です。『知らないことを知っている』という意味です。当時、ソクラテスは賢者という人達の無知を暴いたので人々の怒りを買って殺されました。

と、話が逸れました。すみません。ただ、自分の存在だけは確実にあるのでこれを『独我論』といったのではないでしょうか。

『全ては1つ』というのは、この世の色々な物事はあなたが『体験している』物に過ぎません。あなたの脳が『存在する』と思っているに過ぎません。逆に言えば脳が『存在する』という情報を受け取れば人は何かが存在すると感じます。

ですので全ての物は自分の脳の電気信号が生み出した、と考えれば全ては1つです。自分が全てを生み出しています。自分の脳で『存在する』と思って存在しているのですから。

『考える故にわれあり』という言葉も有名です。これは『考えることが出来る』ので自分だけは存在する、という考え方です。自分が存在しなければ考えることは出来ません。自分の脳が無ければ色々な情報を受け取ることも出来ません。情報を受け取れなければ何も見えませんし、聞こえません。すなわち全ての物事が存在すると脳が分かりません。脳、自分が存在するから他のすべての存在が分かるのです。

逆に分かり辛くなった気もしますが、長々と読んでくださって有難うございました。
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独我論も一切が平等一如であるとするのも、


それは両極端な物の見方なのであって、
実際はすべての存在は相互に他に寄りかかり、寄りかかられて、
存在しています。(縁起の法という)

>全ては1つで私しか存在しない
>でもでも人間も自然も何もかも1つの様な気がして。そして孤独を感じるのです。
>毎日が楽しくない訳ではないのです。

まあ、別に困ってるほどでないのでしたら、その自分を受け容れて楽しみましょう。
ニュートンはりんごが落ちてふと、「どうして落ちたのだろう?」と言う疑問から万有引力を見出したと言われています。
アインシュタインはペンキ屋が落ちたのを見て「ペンキ屋が落ちたのでなく、地面がペンキ屋に向かって上がったのでは?」と言うことを考えて(ペンキ屋の心配しろよ(笑)、後の相対性理論に繋がっていったと伝えられています。
ですから、もしかしたら、新しい学問や技術、商売など、なんかのアイデアに結びつくかもしれませんね。
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 おそらく問題にされているのは、「自分の考えが他人に伝わることはあるのだろ


うか」とか、「自分と他人が心から一緒の存在である、と感じることはあるのだろ
うか」というようなことなのではないでしょうか。
 そういった意味では、ふだん、私たちは、人と人が意志を通じている、というこ
とを前提にして、生活しています。ですから、この時には通じていないのではない
か、と不安に思ったり、それがために孤独を感じることは、極めて正常な判断だと
思います。言葉を交わす、ということは、おおむねそのような積み重ねです。
 ところが、kampaさんが言われたとおり、「独我論をもっとわかりやすく」
と言われると、これは、日常のレベルを離れた「哲学」の問題になるため、どうし
ても使う言葉の種類が変わるため、難しくなるのです。これは、私の好きなパソコ
ンでも同じことで、表面に出ている画像や模様はきれいですが、それを動かしてい
るプログラムの言語が意味不明なことと同じです。
 ですから、人と人が意志を通じ合わせている源をプログラム言語で書くと、チン
プンカンプンとなり、C言語もあれば、HTML言語、……人の数だけ無数な言語
が発生してくるのです。
 そして、そのような人は、それでは、結論として、人と人は本当に意志を通じ合
わせているのか、と言えば、日常感覚では「言語」があいまいなため、あいまいな
まま理解している「ファジィー」な状態だ、と言っています。
 つまり、「独我論」という論自体、誰に理解させたらよいだろうか、わからない
のです。私もえらそうなことを言っていますが、わからないというのが、ホンネの
ところです。
 ですから、賢い人は、誰それの「独我論」はこうである、いや、あっちの学派は
こう言っている、といって、「論」の説明に終始します。私もそうしたい、と思い
ますが、それだけの教養は、イマイチ、ありません。
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Q孤独からここに戻るのか いや 孤独へと立ち還るのか

 1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

 2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか? 


 




 3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びすることである。

 4. 孤独どうしであり 孤独関係である。

 5. この自己了解から われは いま・ここなるわれに立ち戻って来て 社会的な不自由や不安やまた孤独関係に向き合ってあゆむものか。

 6. それとも われが孤独関係なるわれに立つとき おのが孤独なる固有の存在に立ち還っていると見るべきか。

 7. 固有なる《とき》こそが われのわれなる所以である。か?




 【Q:《まじわり》をめぐる或る対話】
 その回答No.7をめぐって考えようとする問い求めです。
 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8580531.html

Aベストアンサー

 孤独とは、自分が唯一無二の存在である事を、どうしようもなく思い知る事だと思います。例え肉親であろうとも、自分と同じではないという意味で他人であり、伴侶など絶対に他人です。何とかは他人の始まり、というように・・・(^^;)。

 それと供に、自分を庇護してくれる機構というものに確実性(絶対性)など、まるでない事もわかります。それは空気であったり、慣習であったり、制度化された慣習(法律や道徳など)であったりするに過ぎません。

 その意味で、その自分は絶対的に自由ですが、いつ野垂れ死んでもおかしくないし、かまいもしない存在です。でも、そのような覚悟を理想的に完了すれば、他人のそれぞれが、それぞれに唯一無二である事も了解できるはずです。それは対話への契機だと思います。


>1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

という問いは、たぶん無意味だろうというのが、自分の意見です。

>2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか?

 そういう意見です。


[追伸]
 あなたとのやり取りは、個人的にはけっこう長いと思っているのですが、過去の会話に鑑みて、真意を汲み取って頂けませんかね?。都合の良い話だとは思いますが・・・(^^;)。

 孤独とは、自分が唯一無二の存在である事を、どうしようもなく思い知る事だと思います。例え肉親であろうとも、自分と同じではないという意味で他人であり、伴侶など絶対に他人です。何とかは他人の始まり、というように・・・(^^;)。

 それと供に、自分を庇護してくれる機構というものに確実性(絶対性)など、まるでない事もわかります。それは空気であったり、慣習であったり、制度化された慣習(法律や道徳など)であったりするに過ぎません。

 その意味で、その自分は絶対的に自由ですが、いつ野垂れ...続きを読む

Aベストアンサー

全ての存在=感受は、感受表面における量子相互作用に還元されます。
時空的広がりは、その五感の相関した経験の蓄積において、新たな先行感覚(光や音など情報性の強い)の感受パターンにおいて、より生理的な他の感受(触覚や味覚)を励起する(=そこに行けば何が起きるか予測する)事によって生じます。

そこにおいて、その「感受表面」そのものが、その“空想的時空的広がり”に有限な広がりを持っていることによって、それ(原点としての自我仮説)は確定的な先入条件から、「自我仮説」になります。
そうした時空的広がり=有限的存在性が、相補的不確定性(不確定性原理)に基づいていることによって、その「自我仮説(経験=時間)」と「時空仮説(予測=空間)」は相補分化している、と言えるのです。

全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に認識体の仮定断面(潜在的認識可能性)の運動(時系列化=プランク定数hの収束=物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。
自我仮説(記憶=時間の流れ=過去=超光速)と空間仮説(予測=空間の広がり=未来=光速下)の相補分化。

全ての存在=感受は、感受表面における量子相互作用に還元されます。
時空的広がりは、その五感の相関した経験の蓄積において、新たな先行感覚(光や音など情報性の強い)の感受パターンにおいて、より生理的な他の感受(触覚や味覚)を励起する(=そこに行けば何が起きるか予測する)事によって生じます。

そこにおいて、その「感受表面」そのものが、その“空想的時空的広がり”に有限な広がりを持っていることによって、それ(原点としての自我仮説)は確定的な先入条件から、「自我仮説」になります。
そうし...続きを読む

Q孤独からここに戻るのか いや 孤独へと立ち還るのか

1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たる
ことが出来る。と見るべきか? 


 




3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びするこ
とである。

4. 孤独とは 孤独関係である。

5. この自己了解から われは いま・ここなるわれに立ち戻って来て 社会的な不
自由や不安やまた広く孤独関係に向き合ってあゆむものか。

6. それとも われが社会にあって孤独関係なるわれに立つとき むしろおのが孤独
なる固有の存在に立ち還っていると見るべきか。

7. 《わが固有なるとき》こそが われのわれたる所以である。か?

Aベストアンサー

こんにちは、ぶらじゅろーぬさん。そして瀬里香さん。

二日ほどこちらを見ていませんでした。
今、先の「質問」に大方のお礼を投稿してきました。
すみません、肝心のお二方は、もう少しお待ちください。(心の中ではお礼済みではありますが)

わたしがらみの質問

>ぐらす_るーつさんの質問の関連ではあります。この質問です。

であり、瀬里香さんのご指名であれば自分の意見を簡単に述べようと思います。
(もっともわたしにはそれが限界で、ぶらじゅろーぬさんの「更なる深みへ」は、ついていけそうにないことを、予めご了承ください。)



>1. 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

「孤独って?」

孤独とは、物理的に、肌寄せ合う人がいないことか?

或いは精神的な繋がりを誰とも持つことが出来ないという感覚か?

では「孤独」の対義語はなにか?「帰属」?「社会」?「集団」?

個人的には「孤独」と対の言葉は「友」

孤独からの帰還を切に願いますが、それは「誰それへ」或いは「どこそこ」への帰属ではなく、
自分が自分でいることを保証してくれる「Someone」との友好関係です。

『孤独はいいものだ。けれども、「孤独はいいものだ」と、語り合える誰かがいることはもっといいことだ』(バルザック)
これが理想です。


>2. 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。と見るべきか? 

帰属することによって、個が埋没してしまうことは避けなければならないと思います。
これは「孤独のパラドクス」ですが、「わたしが完全にわたしであることを容認してくれる相手」が友と呼びうる人であり、
わたしが殺人を犯していようと、ジャンキーであろうと、受け容れる人です。(わたしは「友」が犯罪者であっても一向に構いません)

>ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たることが出来る。

これは全く同意見ですが、その前提としては、孤独地獄からの帰還イコール「社会への帰属」ではない、ということかと思います。


>3. 孤独とは たぶん 他者とのあいだで ひとが独りであることが切り結びすることである。

>4. 孤独とは 孤独関係である。

無論そうでしょう。孤独の状態こそわたしが完全にわたしである状態だと思っています。(で、あるから「孤独」に陥るのですが)
その「わたしがわたしである」状態を認めてくれる相手との交流、それが「孤独」の交流ではないかと思います。

5.は解読不可能

6は7と同じように思うので

>7. 《わが固有なるとき》こそが われのわれたる所以である。か?

わたしがわたしである状態は「孤独」に立脚するとはいえ、それをサポートしてくれる存在=愛が必要です。

つまり「わたし」が「わたし」であるためにはそれを認め、支えてくれる存在が必要です。
無論これを一般化するつもりはありません。あくまでわたしの個人的な意見に過ぎません。

結論としては、先ほどのバルザックの言葉のように、「孤独を認め合える友」が理想です。

『寒いねと、いえば「寒いね」と、こたえる人のいるあたたかさ』 (俵 万智)

孤独を考えるなら、その片割れである「友」とは何かをも同時に考えなければならないのでしょう。
(孤独の対概念が友と考えているのはわたしですから、それを考えるのもわたしですね)

以上、完全なる「非哲学的」私見を述べさせていただきました。

こんにちは、ぶらじゅろーぬさん。そして瀬里香さん。

二日ほどこちらを見ていませんでした。
今、先の「質問」に大方のお礼を投稿してきました。
すみません、肝心のお二方は、もう少しお待ちください。(心の中ではお礼済みではありますが)

わたしがらみの質問

>ぐらす_るーつさんの質問の関連ではあります。この質問です。

であり、瀬里香さんのご指名であれば自分の意見を簡単に述べようと思います。
(もっともわたしにはそれが限界で、ぶらじゅろーぬさんの「更なる深みへ」は、ついていけそうにない...続きを読む

Qデカルト曰く「私以外の全ては無根拠」なのに何故皆平然と生きているのですか?

デカルトの思想「我思うゆえに我あり」によれば
本当に正しく、真理だと言えるのはこの「私がこうして思っていること」だけだそうですね。
更に言えば、私のこの手足や顔だって本当に存在しているか分からないらしいですね。そして、学問や数学ならOKだろうと思いきや、これら全て無根拠だそうですね。1+1=2が正しいかどうかさえ・・・。
(方法序説で読みました。)

すなわち、

真理の追求だ!とかいって永い間、人々が頑張ってきた学問も・・・
宇宙の謎が解けた!と喜んでいた物理学者の努力も・・・
心から愛していたあの人も・・・

全ては無根拠であり、何の論理の裏打ちもないってことですね。

世間知らずの僕はこの事実を知った日、雷を打たれたようにショックを受け、空虚な気分になりました。しかし、少し世間に目をやれば、全くそんなことを気にせずに人々は生きているように感じるのです。
ここでクエスチョンです。

・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?
・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書などを参考にしたのですが)
・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?
・それとも、人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生きている「覚悟の人々」なのでしょうか?

まだ社会人にもなっていない僕には全然分かりません。教えてください、m(_ _)m

デカルトの思想「我思うゆえに我あり」によれば
本当に正しく、真理だと言えるのはこの「私がこうして思っていること」だけだそうですね。
更に言えば、私のこの手足や顔だって本当に存在しているか分からないらしいですね。そして、学問や数学ならOKだろうと思いきや、これら全て無根拠だそうですね。1+1=2が正しいかどうかさえ・・・。
(方法序説で読みました。)

すなわち、

真理の追求だ!とかいって永い間、人々が頑張ってきた学問も・・・
宇宙の謎が解けた!と喜んでいた物理学者の努力...続きを読む

Aベストアンサー

>・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?

ご質問者様が考えている様なことを考えていないか
また、そんな事考える必要もないから
これに加え、それを知っていても「現在自分が生きている」をいう事実を否定できないから
これを否定できない以上は「生きているという状態を続ける」のが普通だよ
自殺とか苦しい事から人は逃げる傾向があるからね


>・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書など
>を参考にしたのですが)

間違ってないけど、囚われ過ぎ
今ままでに色んな考え方や哲学が生み出されてきた
デカルトの思想はそのうちの一つでしかない


>・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?

まあ、甘い点があるよね
確かに全ての事柄は無根拠であると言えるけど、それを言ったところで何?って話でしょ
(凄く簡単に説明してます。多分、この辺りを真面目に説明するとここでは書ききれない)
ついでに他の方も回答されているけど、自分自身の存在自体証明不可能なんだよ
であれば、デカルトの思想の根幹が揺らいでしまう


>・それとも、人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生きてい
>る「覚悟の人々」なのでしょうか?

一番最初に答えたように、デカルトの思想自体を知らない人もいるよ
ついでに言えば、その思想を知っていても、覚悟なんかなくても普通に生活できると知っているというところかな

存在の証明ができなくても「実際に存在している物は存在している」
それを前提としなければ頭でっかちの、悲壮感だらけの事しか考えられない人間になるだけ
正確には、時にはデカルトの思考について考えるのは温故知新として必要だけど、古い時代の考えから前に進まなきゃ何も始まらない


ちなみに全ての存在の証明が無いとご質問者様は生きていけないのかい?
自分が好きな物や人の存在が証明できなかったら、ご質問者様はその好きな物を嫌いになるのかい?


また物の価値なんて自分で決める事



PS.哲学する事はいい事だと思ってます。ただし、頭でっかちになっちゃダメだよ。理論じゃ説明(証明)できない事も多々あるって考えていた方が真理に辿り着く早道だと思うしね

>・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?

ご質問者様が考えている様なことを考えていないか
また、そんな事考える必要もないから
これに加え、それを知っていても「現在自分が生きている」をいう事実を否定できないから
これを否定できない以上は「生きているという状態を続ける」のが普通だよ
自殺とか苦しい事から人は逃げる傾向があるからね


>・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書など
>を参考にしたのですが)

間違ってないけど、囚われ過...続きを読む

Q無理解は無理解のままに。(11ぴきのねこ)

子どもたちが図書館で勝手に選んで借りてきて、母なる私(幸せな自称です^^)に「読んで!」と読ませます。
そんな一連の絵本群のなかに、最近我が子たちのはまっている「11ぴきのねこ」シリーズがあります。
毎週とっかえひっかえのねこたちのお話で、特に気になったのはこのふたつ。
11ぴきのねことへんなねこ
11ぴきのねことあほうどり    馬場のぼる

ご存知の方、或いはお読みでなくとも私の質問で何か思うところのある方、どうかご教授ください。
私事ですが、このところ自分の頭のがちがち加減に困り果てております。。。

あらすじを書こうかと思ったのですが、うまく書けそうに無いので略させて頂きます。

「。。。へんなねこ」では、11ぴきのねこたちの水玉猫への偏見と思いやりの無さが見えますし、
「。。。あほうどり」では、アホウドリの丸焼きで頭を一杯にしながら、アホウドリを故郷へ案内させる、我が侭さが見えます。

勿論、ねこたちはねこたちなりに真剣です。
でも、ねこたちに、相手の水玉猫やアホウドリへの想像が抜け落ちていますし、水玉猫やアホウドリにも、猫たちへの想像が(おそらく、ですが)抜け落ちています。

両者はともに、考えているのは「わが身のみ」です。
両者の間に、無理解の溝が、どちらの岸からも理解を望む手が差し出されること無く、横たわっています。

あれあれーーと思いつつ、両者の無理解ぶりよりももっと私の興味を引いたのは、「無理解と共感の欠如と言うなんとも無味乾燥な筈の情景が、こうも暖かく感じられるのは何故だろう??」です。

子供向けの絵本だから、と言う理由は無意味です。
子供向けの絵本は時として、残酷で悲惨な現実を悲しみそのままに描き出します。
例えば、独断ですが「おこりじぞう」とか「スーホの白い馬」とか。

「無理解と共感の欠如」は、程度の大小/強弱はあれ、現実に生きる中でも見事にたびたび遭遇するものです。
そして、「分かり合えない悲しみ」と共に「分かり合えなくとも思い合える暖かさ」も存在します。
(ん?後者は理想主義な私が生み出した幻想でしょうか??)

そうは言っても、「無理解と共感の欠如」状態から生まれるのは、多くの場合、やり場の無い悲しさや空しさ、脱力感、無力感、、、です。
この辛さをうまく浄化?超越?する鍵が、この絵本の暖かさに隠れている気がしてなりません。

11ぴきのねこたちの、見事なまでの無理解っぷりが、何故こんなに暖かく可愛らしいと思えるのか?、、、頭がちごちの私にうまく飲み下せる説明を頂けませんでしょうか。。。

よろしくお願いします。

子どもたちが図書館で勝手に選んで借りてきて、母なる私(幸せな自称です^^)に「読んで!」と読ませます。
そんな一連の絵本群のなかに、最近我が子たちのはまっている「11ぴきのねこ」シリーズがあります。
毎週とっかえひっかえのねこたちのお話で、特に気になったのはこのふたつ。
11ぴきのねことへんなねこ
11ぴきのねことあほうどり    馬場のぼる

ご存知の方、或いはお読みでなくとも私の質問で何か思うところのある方、どうかご教授ください。
私事ですが、このところ自分の頭のがちがち加...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちはー。

先の投稿は別にして、この本図書館で読んでみました。
UFOの話の方です。
で、感想です。
暖かくかわいらしいと思うのは、僕は猫が自己肯定できてるからだと感じました。

この猫たちには、理解も共感もないですが、別になくてもいいと思います。
理解しなくても共感しなくても、なんというか、受容というか、分かってるというか、
それがあれば、あとはやりたい放題していいんだなーと思います。
暖かいのは、いわゆる愛ですよねー。
愛は、言換えると言葉で表現すると、なんにもないことだし、この童話の話にぴったり当てはまる概念だと思います。
無でもいいと思いますが。

わかり合えなくても思い合えるーー
この童話の場合、みんなにたような性格の猫ばかり、のような気がするので、
理解や共感を意識的にしなくても、お互い相手と自分を了解できてます。納得、あるいは受容です。

でも人間の場合、その性格と環境の幅は、この猫とは比較にならない多様性があります。
その多様性ゆえ、ものすごく複雑な文化も創り上げていますが、それ故相互の了解は、ずっと難しいです。

相互に相手を、あるいは自分を了解できないときに、理解や共感で乗り越えよう、とする努力も猫の場合とは比較にならないやろうなーと思います。

多分、理解や共感が本質だ、という誤解があるのではないかしら?
それらは、手段だと思いますー。本質ではないので、状況次第ではなくてもいい、という物ではないでしょうか?

こんにちはー。

先の投稿は別にして、この本図書館で読んでみました。
UFOの話の方です。
で、感想です。
暖かくかわいらしいと思うのは、僕は猫が自己肯定できてるからだと感じました。

この猫たちには、理解も共感もないですが、別になくてもいいと思います。
理解しなくても共感しなくても、なんというか、受容というか、分かってるというか、
それがあれば、あとはやりたい放題していいんだなーと思います。
暖かいのは、いわゆる愛ですよねー。
愛は、言換えると言葉で表現すると、なんにもない...続きを読む


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