歴史の本を読んでいると「天下統一」という言葉がよく出てきますが、これはどういう事を言うのでしょうか。
日本の歴史で「天下統一」をした人は誰なのでしょうか。
また、徳川家は江戸幕府を開いた時点で「天下統一」をしたといえるのでしょうか。それとも大阪の陣で豊臣氏を滅ぼした時点で「天下統一」をしたということになるのでしょうか。
あるいは「天下統一」の明確な定義など無いのでしょうか。

勉強不足であまり歴史に詳しくない私ですが、よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

こんばんは。


『天下統一』は武家による政治に対して使われます。つまり戦による武力争いの結果頂点にのぼりつめた場合に天下統一という言葉を使い、その人を『天下人(てんがびと)』とか『天下様(てんがさま)』なんていう呼称もあります。

足利尊氏、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はまぎれもなく天下統一をした人々です。通常は天下人を倒すことによって、新たな天下人が生まれます。

徳川家康の天下統一は『関が原』か『大阪夏の陣』かということに関しては、形式的には関が原、実質的には大阪夏の陣っていう感じじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

お答えいただきありがとうございます。

形式的とか実質的とか「天下統一」という言葉は曖昧な物なのですね。

「天下人を倒す」ということから言うと明智光秀は天下人になるのでしょうか。この言葉は曖昧な物なのであまりこういう風に厳密に突き詰めては行けないのでしょうか。

もしおわかりになりましたらお願いします。

お礼日時:2001/05/20 18:11

こんばんは。


二度目の回答です。

明智光秀は天下統一をしたか?に関してですが、私の見解ではNOです。

彼が本能寺にて信長を討った動機は『天下人』になりたかったからに他ならないが、結局はすぐに倒され彼による政治は一切行われていない。つまり天下に号令するには至っていません。まさに『天下獲り未遂』ですね。
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この回答へのお礼

二度もお答えいただきありがとうございます。

やっぱり明智光秀は天下を統一したとは言えないのですね。参考になります。

お礼日時:2001/05/21 17:47

個人的な意見ですが、天下統一を成し遂げた人物は豊臣秀吉だけだと思います。


頼朝は、平家を倒して実質的に武家政治を始めましたし、尊氏は、北条氏の専制政治から朝廷を主とした(結果的には足利専制になりましたが)仕組みにしようとした人物で、統一したと言う事ではないと思います。
天下統一と言うのは、応仁の乱以後の群雄割拠の時代を終わらせて、天下に号令する(信長以前の人が自分で号令する気が有ったのかは分りませんが)事だと思いますし、
信長が亡くなった時にはまだ、勢力的には中部・近畿地方しか押さえていませんでしたので。
 最後に家康ですが、豊臣氏が統一した天下を譲り受けた(奪い取った)と言う事でよいと思います。
ついでに、家康が「天下人」になったのは征夷大将軍になったときでよいと思います。
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この回答へのお礼

お答えいただきありがとうございます。

人によって「天下統一」の基準がこれほど違うのに驚きました。
「天下統一」と「天下を譲り受けた」が違うものだという考えは興味深いです。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2001/05/20 18:25

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Q「天下統一」とはどういうことを言うのか

歴史の本を読んでいると「天下統一」という言葉がよく出てきますが、これはどういう事を言うのでしょうか。
日本の歴史で「天下統一」をした人は誰なのでしょうか。
また、徳川家は江戸幕府を開いた時点で「天下統一」をしたといえるのでしょうか。それとも大阪の陣で豊臣氏を滅ぼした時点で「天下統一」をしたということになるのでしょうか。
あるいは「天下統一」の明確な定義など無いのでしょうか。

勉強不足であまり歴史に詳しくない私ですが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。
『天下統一』は武家による政治に対して使われます。つまり戦による武力争いの結果頂点にのぼりつめた場合に天下統一という言葉を使い、その人を『天下人(てんがびと)』とか『天下様(てんがさま)』なんていう呼称もあります。

足利尊氏、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はまぎれもなく天下統一をした人々です。通常は天下人を倒すことによって、新たな天下人が生まれます。

徳川家康の天下統一は『関が原』か『大阪夏の陣』かということに関しては、形式的には関が原、実質的には大阪夏の陣っていう感じじゃないでしょうか。

Q織田信長・徳川家康・豊臣秀吉 この3人をまとめてなんと言いますか? 歴史は苦手なもので…この3人はた

織田信長・徳川家康・豊臣秀吉
この3人をまとめてなんと言いますか?
歴史は苦手なもので…この3人はたしか、天下統一を目指していた方ですよね?

その辺を詳しく教えていただきたいです!!

Aベストアンサー

「(戦国)三英傑」でいいと思います。

Q天下統一

日本ではじめての天下統一したのは誰ですか?

Aベストアンサー

「日本」「天下」の定義によります。
現在の日本国の領域という意味なら明治時代に入ってからです。

中央で「日本」とか「天下」という意識が出来てそれを統一したというなら天武天皇のころからかと思います。

祟神天皇という説も出ていますがあれはまだ「倭国」の時代の話で日本ではありません。

Q室町幕府と徳川幕府

共通点があるのですが
 
 初代(尊氏と家康)はどちらももちろん有名
 どちらも3代(義満と家光)が優秀でこの代で幕府体制が
 確立され、またどちらも名前に「みつ」が付く
 その後はどちらも良くも悪くも8代(義政と吉宗)が有名
 さらにその後はどちらも特出した将軍はいない
 そして何と言ってもどちらも15代で終わり

 ただの偶然でしょうか?

Aベストアンサー

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え、大過なく人生を全うしましたが、個人の資質としてはかなり落ちると思います。
また、8代将軍吉宗は、初めて直系以外から将軍になりましたから、しがらみが無く各種の改革を行いましたので、中興といってもよいのですけど、結果論としては功罪相半ばする業績ですね。
因みに、15代将軍の慶喜は極めて優秀な人物ですけど、秀才にありがちな泥臭さを嫌う点が残念な将軍と思いますし、幕府を再興しようという熱意は、室町15代義昭にも通じるものがあります。

一方の足利尊氏は、義侠心に富み、勇敢で物欲の薄い、将に男の中の男という人物ですが、家族や功のある部下を冷酷に切り捨てることが出来なくて、不安定な幕府になってしまいます。
パソコンでもそうですけど、安定したシステムを構築するためには、レガシーというか、古い規格との共通性を求めると不安定になり、これがWindowsMeが評判が悪い理由で、ある時点で思い切って古いものを切り捨て、新しい規格だけで組んでいく必要があります、WindowsNTのように。
尊氏はこれが出来ないために、終生弟や養子に出した実子の反乱に苦しめられ、増長した家臣を治めきれず、ひ弱な幕府になってしまいました。
その中で、3代義満は怪物といってもよい政治家で、権謀術策を弄して、幕府の権威を高めます。
資質としては、徳川家光とは比べ物にならない高い力量で、家光がシステムの上に乗った将軍なら、義満は自分の才知で政治を動かした将軍ということになります。
但し、室町幕府が最大領土になったのは、6代義教の治世で、この義教は織田信長に匹敵する改革者とも言われますが、信長同様、部下の裏切りにあって絶頂期に暗殺されます。
この義教にあたるのが、徳川では5代将軍綱吉で、綱吉の時代に戦国の殺伐とした習慣は無くなり、儀礼に支配される世の中になりますから、ある意味綱吉も時代の常識を変えた政治家です。
彼以前では、例えば水戸黄門ほどの人格者でも、刀を試すために乞食を切ってみたりしていますし、九州地方から江戸に来た武士達は、犬コロ飯といって、野良犬を捕らえて食べていましたから、まだまだ戦国の気風が残っています。
足利義教の死により、幕政の改革は頓挫し、信長の死後、秀吉や家康が織田家を空虚なものにしたように、畠山、細川といった有力大名が将軍を操るようになって、8代義政は諦めの境地だったのでしょう。
この点は、中興の祖というべき、徳川将軍の8代吉宗とは大いに違います。

こうしてみますと、大体3代目で幕府の骨格が完成する、5or6代目で一つの切があって、真ん中の8代目で転換期を迎える、足利氏はこの8代目で戦国に突入し、徳川氏は系統が宗家から枝に移った。
偶然ともいえるし、必然ともいえますね。

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え...続きを読む

Q信長による天下統一

天正10年6月、信長は天下統一を目前にして本能寺の変に斃れました。
信長の死後、天下統一事業は秀吉に引き継がれ、結局天正18年7月までの略丸8年かかって達成されたのでした。
ここで質問です。信長の死は結果的に天下統一を早めたのでしょうか、それとも遅れさせたのでしょうか?
確かに本能寺の変が無ければ、織田家が混沌とした時期を迎えることはなかったので、より速やかに九州、奥州へと兵を進めることが適うと思われます。(関東後北条家は既に服属している)
しかし、これまでの信長の征服戦争のやり口が、殊更に諸大名の抵抗を苛烈なものとする要素も否定できないのでなんとも言えません。

皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

>信長の死は結果的に天下統一を早めたのでしょうか、
>それとも遅れさせたのでしょうか?

あくまでも、楽しく空想のレベルで回答されていただきます。
結果としては、早くなった。と思います。

信長の強圧的で刃向うものには苛烈なやり方は、
あちこちで軋轢を呼び、例えば中国の毛利などとは
長期にわたる戦いを強いられたのではないかと
思われます。

確かに、織田家中を取りまとめるのにかなりの年数を
要していますが、それ以降、長期の闘いと言うと
北条攻めくらいしか思いつかないくらい、
スムーズに西国の諸大名もなびいているようにみえます。

そして、北条攻めの時期にはすでに天下は平定されていた
感すらあります。

秀吉の治世に後戻りはありませんが、
信長の場合は、条件や背景が違うとはいえ、
絶えず諸将の反乱や裏切りなどの後戻りに時間を
費やしているところも見逃せないと思います。

Q徳川家康が天下統一したというけれど・・・

本当は豊臣秀吉もしてるじゃん


織田信長は統一する前に死んでしまったので確かにしてないけど、秀吉は明らかにしてるじゃん!

死んだ後に関が原だし、秀吉本人からしたら今後の跡目争いが心配だったかどうかは別として天下取りは完了してるじゃないですか!

本人が生きている間には本人には絶対そういう意識があったと思うし、当時の人々もそう思ってたに違いないですよ

死んだ後政権が変わってるからダメというなら徳川だって270年後に変わってるしダメというコトになります

生きてる間が全てでしょううがぁ!!

納得出来ません

だから正解は、鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス。と鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス、の二つになるんです


でも、なぜこの三人のうち家康だけが天下をとったみたいに言われるのでしょう?

納得行きません

「長生き」の話しではなく天下とりのはなしなんですこれわ!

Aベストアンサー

織田が突き 羽柴がこねる天下餅…
って歌知りませんか 最後に家康が奪っちゃうやつですね

豊臣秀吉だってちゃんと天下人って言われてるでしょ
それで満足です

Qもし、織田信長が天下統一を果たしていたら

もし、織田信長が天下統一を果たしていたら、今の日本はどうなっていたと思います...

Aベストアンサー

 信長の天下統一が単なるイベントではなく、そのポリシーの次世代への継続となっていたら・・・

史実:徳川幕府の政策によって、日本人の海外渡航と帰国ができなくなり、海外にあった日本人町も衰退しました。

IF:この要素を逆転すれば、海外の日本人町が大発展し、経済活動が活発化し、「海外」には大儲けのチャンスがあるという意識が日本人に根付く。

 一部の連中は、先に居る日本人が基盤を作り、先取特権を築いてしまった東南アジアやヨーロッパ人の基盤のあるインド・アフリカ方向ではなく、一攫千金を狙って、政治力の空白地帯を目指し、太平洋を渡ってアメリカ西海岸に向かい、カリフォルニア北部に日本人の植民地ができる。(1600年代始め?)

 参考:ピューリタンによるプリマス植民(メイフラワー号) 1620年

 参考:コルテスによるアステカ王国滅亡 1521年
    カリフォルニア半島を確認    1539年
  ※メキシコ湾に面した地域は、スペインの植民地になったが、太平洋側の植民地化は進まなかった。 

・1600年当時の日本の人口は、3000万人でポルトガルの10倍以上、スペインの3倍以上と言われる。(=母国の人口過多は、植民地へ向かう人間の数の多さを作りだす。)
 ヨーロッパと同等の武器を持った日本人による植民が、カリフォルニア北部~カナダ南部に広がり、ロッキー山脈も超え、ミシシッピー川の西は、日本人の住む地域になっていた?
 そうなれば、『アメリカ合衆国』は生まれなかったかもしれない。

 『アメリカ合衆国』がなく、明治維新もない以上、「富国強兵」の結果生まれた軍国日本もない。
 ということであれば、現在の日本は、イギリス同様の老大国になっていたかも。

 信長の天下統一が単なるイベントではなく、そのポリシーの次世代への継続となっていたら・・・

史実:徳川幕府の政策によって、日本人の海外渡航と帰国ができなくなり、海外にあった日本人町も衰退しました。

IF:この要素を逆転すれば、海外の日本人町が大発展し、経済活動が活発化し、「海外」には大儲けのチャンスがあるという意識が日本人に根付く。

 一部の連中は、先に居る日本人が基盤を作り、先取特権を築いてしまった東南アジアやヨーロッパ人の基盤のあるインド・アフリカ方向ではなく、一攫千...続きを読む

Q歴史上の天下統一って?

日本の歴史についての、疑問です。

情報メディアもインフラもある程度進歩した20世紀においては、例えば「××党の○○議員が

第○代の内閣総理大臣に任命された」となると、その情報は、日本全国にメディアを

通して広まり、名実ともに○○議員が総理になった、ということは民衆も知ることとなり、

歴史上も確定するでしょう。

それに対して、テレビもラジオも、新聞さえもない時代において、例えば、ある武将が

大きな戦いで勝利を収め、天下をとった、といっても、それはせいぜい、その地域、

もしくは周辺地域において広まることであり、例えば、田舎の民衆たちには全く感知されて

おらず、またその生活も変わるわけでもない。とすると、その天下統一というのは、

本当に文字通りのものなのだろうか。皆様はどうお考えでしょう?

Aベストアンサー

>田舎の民衆たちには全く感知されておらず、またその生活も変わるわけでもない。とすると、その天下統一というのは、本当に文字通りのものなのだろうか
現在の価値観に基づいたお考えですので、価値観も社会制度も異なる時代の判断には不向きです。
情報の伝達がどうの、拡散伝播がどうのという考え方そのものが現代のものの考え方です。
当時の価値観からすれば、文字通りのものです。
秀吉は天下人とされたことに間違いも不都合もありません。

天下が云々と言われる際には「民衆」などというものの考え方は存在していませんでした。
田舎の民衆に感知される必用など一切ありません。
逆らう武力集団(武家)がいなくなって、全ての武力集団がその人の武力集団の意志に従うようになれば統一したと看做します。

庶民がその武力集団の長の名前を知っているかどうかなどということは無関係です。
そもそも庶民にとっては武力集団どうしのゴタゴタ(戦)は無関係です。

現在のように選挙民の顔色をうかがいながら法制度をきめている時代とはまったく違います。
決められたルールに従うだけです。
誰がどう決めているのかなどということに関与できる余地はありません。
どのような基準(法律)に基づいて治安を維持しているのか、労役に駆り出される基準は何か、税をとり立てる基準は何かなどということには一切関与できません。
不服があれば集団で武装蜂起するだけです。
北陸地方や大阪では一向宗の門徒が団結して信長軍と戦いました。

歴史小説家の使う言葉を頼りに史実を云々しても誤解を生じるだけです。

>田舎の民衆たちには全く感知されておらず、またその生活も変わるわけでもない。とすると、その天下統一というのは、本当に文字通りのものなのだろうか
現在の価値観に基づいたお考えですので、価値観も社会制度も異なる時代の判断には不向きです。
情報の伝達がどうの、拡散伝播がどうのという考え方そのものが現代のものの考え方です。
当時の価値観からすれば、文字通りのものです。
秀吉は天下人とされたことに間違いも不都合もありません。

天下が云々と言われる際には「民衆」などというものの考え方は存在...続きを読む

Q復刻版 天下統一

なかなか天下統一するのが難しく困っています
もし統一出来た方がいれば、どこの大名で統一する為のアドバイスを教えていただけませんか?

Aベストアンサー

このゲームでは、基本的に最後には2大勢力が激突するようになっているので、早く勢力を拡大していかないと、勝ち目はありません。
というわけで、どこの大名でも、基本的には(動けない季節を除いて)毎回必ず戦争です。

KOEI系のゲームに慣れていると、どうしても内政をしっかりやることと、武将の忠誠心をあげることに熱心になってしまいますが、内政には非常にお金がかかりますし、武将の忠誠心もどんどん下がっていきます。
従って、内政は楽市楽座は余裕があれば行ってもかまいませんが、開墾はよほど余裕がない限り、無駄なので(戦争で領地を獲得するほうが早いので)やりません。また、武将の忠誠心も、10を超えていればだいたい大丈夫なので、それ以上に引き上げようとはしません(ターンが来るごとに、10を下回っている武将だけ引き上げます)。序盤は余裕がないので、10になってなくても、大きな兵数を持っている武将以外は、低くても我慢です。
戦争では、少ない兵士数を均等に持っているよりは、なるべく強い武将に集中的に兵士を与えたほうが有利です。また、遠隔から攻撃できる鉄砲は、もし余裕があるなら、なるべく購入です。しかし、兵士数の20%程度を上限にしないと、多くなりすぎると相手の突撃に負けやすくなります。

初心者が統一しやすい大名家は、武田家、大友家などですが、織田家、島津家なども強力な武将が登場するので、だんだん楽になります。
どの大名家でも、基本的には兵士を募集して、領地をひたすら拡大していくだけです。攻め込まれるルートが決まっているので、そこさえ守れば、あとは攻め込む一方です(背後に敵のいない島津家は、そういう点では序盤から楽です)。
また、兵士の募集では、1単位ずつ募集すると、住民感情が下がりません(武蔵や越後など、60万石以上の国では、2単位でも大丈夫です)。

とにかく、このゲームでは序盤から中盤までがカギです。そこでもたもたしていると、周辺諸国が大きくなってしまうので、とにかく最初は弱いところに集中して兵力を投入するなどで、とにかく大きくなることをめざすといいでしょう。

個別の大名家の事例でなくて申し訳ありませんが、ご参考までに。

このゲームでは、基本的に最後には2大勢力が激突するようになっているので、早く勢力を拡大していかないと、勝ち目はありません。
というわけで、どこの大名でも、基本的には(動けない季節を除いて)毎回必ず戦争です。

KOEI系のゲームに慣れていると、どうしても内政をしっかりやることと、武将の忠誠心をあげることに熱心になってしまいますが、内政には非常にお金がかかりますし、武将の忠誠心もどんどん下がっていきます。
従って、内政は楽市楽座は余裕があれば行ってもかまいませんが、開墾はよほど余...続きを読む

Q織田信長と豊臣秀吉と徳川家康。

 江戸幕府を開き長年国内の統治に成功した徳川家康ですが、彼はどうして幕府を開き、政治を安定させる事ができたんでしょうか?。
 その前に織田信長と豊臣秀吉は全国を実質的に統治できましたが、どうして幕府を開いて、政府を作り全国を長年に統治できなかったんでしょうか?。
 そもそも、幕府って何ですか?。朝廷から任命されるんでしょうか?。
 

Aベストアンサー

本来、幕府とは将軍(征夷大将軍を含む)の居場所を指す言葉でした

それから転じて、征夷大将軍の政権機構を幕府と言うようになったのです

将軍は、天皇から将軍宣下を受けて、将軍となったのです
他の回答にもあるように令外の官です、令外の官とは律令に規定されていない役を称します、また、臨時に置かれる官で、その任務が終われれば解かれました

平安時代の征夷大将軍からの歴史を紐解いてください

このようなことは、歴史の経緯が判らなくて、その部分だけを抜き出したのでは全く理解することが出来ません

いろいろな事象は、突然起こるのではなく、歴史の流れの中のわずかなうねり、それがだんだんに大きくなって、あるとき、突然大きな事象となって現れます

ある瞬間を見るのではなく、流れで見ることを心がけてください


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