江戸時代について質問したいことが幾つかあるので、質問させていただきます。

まず一つ目は、江戸時代は何世紀頃になるのでしょうか?

二つ目は、江戸時代の移動手段はなんだったのでしょうか?
馬車などはあったのでしょうか?

回答お待ちしてます。

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A 回答 (6件)

こんばんわ。


お読みいただきありがとうございます。

>>江戸時代では、吉原がありますよね。
親に売られた娘たちは、どうやって吉原にたどり着くのでしょうか?
買い手と一緒に徒歩で吉原まで向かうのでしょうか?
それとも駕籠ですか?

まず、あなたの質問から先に述べますと、すべて「徒歩」で行きました。


次に、もう少し詳しくお話しましょう。

吉原の遊女になるケースは、次の3つです。

1.女衒(ぜげん=人買い)に売られて吉原へ。
2.付き合った男(または、所帯を持った男)にだまされて吉原へ売られる。
3.借金のカタに取られて吉原へ。


1.の場合:

♪花一文目・・・と言う歌がありますが、ご存じでしょうか? 
これは、貧しい農家などの娘が女衒に買い取られる値段のことを指しています。
一文・・・時代によってかなりの差がありますが、おおよそ10円位です。
良く、江戸時代の蕎麦が8文(100円位)、風呂屋が16文(200円位)と言いますが、それよりも安かったのです。
そんなに安くても、農家などでは「口減らし」の意味がありましたので、殺すよりはマシと考えて娘を売ったのでしょうねぇ。
女衒はムダな銭を使うことはせず、どんなに田舎からでも「徒歩」で江戸まで連れてきました。


2.の場合 と 3.の場合:

これは、そのままの通りです。

ところが、幕府では「人身売買」を禁止していました。
そこで、吉原に売られた女たちは、すべて親が承知の上での「奉公」と呼ばれ、
「売った」「買った」とは言わなかったのです。
1.の場合の親は女衒。
2.の場合の親は男。
3.の場合の親は借金をした本当の親。
でした。

そして、吉原の女たちは、幕府公認でしたので、すべて「遊女」と呼ばせました。

それに反するのが、私娼(ししょう=売女・ばいた)で、詳しく述べると長くなりますので、主なところを説明すると、
★江戸では・・・夜鷹(よたか)・・・夜になるとゴザを小脇に抱えて川端などで男の袖を引っ張って事をすませる。
★京都では・・・辻君(つじぎみ)・・何となく風情がありますね。
★大坂では・・・惣嫁(そうか)・・・何でも食らいつくからとか。

遊女のランクとしては、
「太夫」(たゆう・宝暦年間頃・1751~・からは「花魁」おいらん)、「格子」(こうし)、「散茶」(さんちゃ)、「うめ茶」、「五寸局」(ごすんつぼね)、「三寸局」、「なみ局」となります。

遊女は、例えば、着物を買ったりしましたが、郭(くるわ)から出たことがありませんので、世間相場というものを知らず、親方(妓楼の主人)は、呉服屋などと結託して、10両のものを15両などとだまして、ちゃっかりバックマージンを得ていました。
当然、一度では払えませんので、親方からまた借金をする。

さらには、蒲団や座布団、火鉢、煙草盆なども1日いくら、というように、全てが貸し出しだったのです。

まあ、それでも苦界20年と言い、20年間働いてくれれば、親方も許してくれましたが、実のところは、27~28歳になっていましたので、はっきり言えば「年増女はお払い箱」だったのです。

従って、遊女は25~26歳位になると、将来を一緒に過ごしてくれる男を必死になって、客の中から選びました。

もし、男が見つからない場合などは、見世に残って「やり手婆」(やりてばばあ)として、若い者の指導に当たりました。
というより、遊女が「足抜け」(逃亡)などをした場合などは、後ろ手に縛って鴨居にぶらさげ、竹刀で叩いたり、庭の大木に縛り付けて折檻をしたりの本当の「やり手ババア」だったのです。

さて、遊女も一緒になってくれる男が決まると、
男の方から親方に「○○を身請けしたい」と相談をさせ、親方も一応は、先に述べた「親」に了解を得て、男に残りの借金を払わせ、さらに、身請けの当日になると妓楼では、赤飯を炊き、豪勢な料理を用意します。しかし、これらの金はすべて身請けする男の負担でした。
すべてが男の負担で宴が終わると、大門(おおもん)の前に待たせておいた「駕籠」で男の家に向かいました。

ここで、初めて「駕籠」に乗ることができたのです。

お役にたったでしょうか。
まだ、解らないことがあれば、いつでもどうぞ・・・。
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この回答へのお礼

お答えいただきありがとうございました!

やはり徒歩で向かったんですね。
また一つ賢くなれました!

本当に何度もありがとうございました。

お礼日時:2012/12/15 14:01

こんばんわ。



訂正します。

蕎麦が8文(100円位)。風呂屋が16文(200円位)・・・・・・・誤り

蕎麦が16文(200円位)、風呂屋が8文(100円位)・・・・・・・正しい

です。

ごめんなさい。
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この回答へのお礼

訂正してくださってありがとうございます。

お気になさらず^^

お礼日時:2012/12/15 13:58

>一つ目は、江戸時代は何世紀頃になるのでしょうか?



他にも回答がありますが、17世紀から19世紀の間ですね。
ただ、江戸時代の開始年代については色々な考えがあります。
一般的には、1603年「家康の将軍就任」を江戸幕府の開始(江戸時代開始)としています。
が、家康は「秀吉死去以降、既に政治を左右」していますよね。
将軍に就任以前に、既に「政治体制支配」を完了している訳です。
つまり、関が原の戦い(1600年)以降が江戸時代とする説も有力です。
同じ説では、鎌倉時代も1192年の頼朝が将軍に就任する前の「1185年。平家滅亡時点が、鎌倉時代」との考えもあります。
この説を採らないと、1185年から1192年の間は「無政府状態(今の日本と同じ)」となります。

>二つ目は、江戸時代の移動手段はなんだったのでしょうか?

原則は「徒歩」です。
日が昇る前に宿を発ち、日没前に次の宿に入るのが一般的でした。
宿(宿場町)から宿(宿場町)までの距離は、大人が日中歩ける距離でしたよ。
資金に余裕がある場合は、駕籠ですね。
農家が副業で行なっていたのが、馬の背中に荷物・人を乗せての移動です。
この馬の操っていた者が、「馬子(まご)」です。
あまり綺麗な服装では、なかったようです。ここから「馬子にも衣装」という諺が誕生しています。
馬車は、江戸幕府が使用を厳重に禁止としていたので明治まで存在しません。
余談ですが・・・。
吉原の遊女は、18歳から27歳前後までが吉原遊郭内で生活していました。
この遊女の8割は、借金返済目的でしたから「借金完済=年季明け」で自由の身になっています。
残り2割の遊女は、(裏方に回るなど)一生を遊郭で暮らした様です。
※若くして死亡すると、無縁仏として捨てられた。
質問者さまは、ご存知ですかね。
1956年まで、日本には遊郭が存在していました。
昭和初期には、農村部から多くの婦女子が(借金のかたに)遊郭に連れさられた様です。
体を売って、借金を払うのです。江戸時代と、何ら変わりがありません。
※「女衒」「吉原炎上」という映画がありました。レンタルビデオ店に行けば、あるかも?
この悲惨な現状も、青年将校が起こしたクーデター「2.26事件」の発端ですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!

そうなんですね…知りませんでした。
レンタルビデオ屋に行ったら探してみます。

ありがとうございました!

お礼日時:2012/12/15 13:59

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。


>>まず一つ目は、江戸時代は何世紀頃になるのでしょうか?

慶長8年(1603)2月12日に徳川家康が征夷大将軍(東北地方を征伐、または、監視する役目)に任じられた時からです。
そして、慶応4年(明治元年・1868)4月11日に千代田城無血開城までです。

*江戸時代は「江戸城」とは言わず、正式には「千代田城」、または、「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼び、庶民は、ただ単に「お城」と呼んでいました。

従って、17世紀~19世紀、ということになります。



>>二つ目は、江戸時代の移動手段はなんだったのでしょうか?
馬車などはあったのでしょうか?

江戸の街を中心にして言えば、

庶民の場合:

★「徒歩」が一般的でした。
★老人や身体の不自由な人、金持ち、女性などは「辻駕籠」に乗ることもありました。
★旅も、「徒歩」が普通でしたが、宿場(駅)から次の宿場へは「駕籠」や「馬」に乗ることもありました。
★大井川などの川渡しとしては、安いのは人足に「肩車」をされ、金持ちは「蓮台」(れんだい・輿)に乗りました。
★裕福な者が料亭などへ行く時は、「猪牙舟」(ちょきぶね)という舳(へさき)がとがっていて、割合早く進める「舟」なども利用しました。
★例えば、佐渡島などへ渡る場合は、「廻船」を利用しました。


大名の場合:

★参勤交代などでは「駕籠」でした。
★江戸市中の移動も、原則的に「駕籠」でした。

武士の場合:

★江戸市中においては「徒歩」が一般的でしたが、登城する場合などは「馬」にも乗りました。城の大手門などの門には「下馬所」(げばしょ)と言う立札が立っており、そこで大名も武士も「馬」や「駕籠」を降りて、そこからは徒歩で城内へ入りました。
★旅の道中でも「徒歩」が一般的でしたが「馬」も利用しました。また「駕籠」も利用しました。


「馬車」はまだありませんでした。
また、江戸の街の道路は「軍事用道路」と位置づけられていましたので、「大八車」などにしても、道の幅をとる、と言うことで、いざ戦いとなった場合などは邪魔になりますので、勘定奉行の許可をもらう必要がありました。

よくTVなどで、威勢よく大八車が往来し、「どけ、どけ、どけ」などと、我が物顔で走る場面がありますが、真っ赤なウソ!!

この回答への補足

回答ありがとうございました!
歴史作家の方なんですね…すごいです!

では、もう一つだけ思い出したので質問させていただきます…。
江戸時代では、吉原がありますよね。
親に売られた娘たちは、どうやって吉原にたどり着くのでしょうか?
買い手と一緒に徒歩で吉原まで向かうのでしょうか?
それとも駕籠ですか?

お手数ですが回答お願いします。

補足日時:2012/12/14 20:12
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この回答へのお礼

>よくTVなどで、威勢よく大八車が往来し、「どけ、どけ、どけ」などと、我が物顔で走る場面がありますが、真っ赤なウソ!!

これは本当だと思ってました…違うんですね。

色々な事を教えていただいてありがとうございました!

お礼日時:2012/12/15 14:02

江戸時代は17~19世紀



移動手段は 徒歩 船 籠 飛脚 忍術 早馬のいずれかです
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この回答へのお礼

てっきり、19世紀だけだと思っていましたが、17世紀、18世紀も入っていたんですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2012/12/15 14:03

江戸時代は 普通 1603年から1868年とされているので、17世紀から19世紀になるかと



移動手段は 徒歩 あるいは 船便です
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この回答へのお礼

船もあったんですね。
船はないものだと思っていました…馬鹿ですみません…

一番に回答していただいて本当にありがとうございました!

お礼日時:2012/12/15 14:05

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〇「国号に見る「日本」の自己意識 (日本像を探る)/前野みち子」
『言語文化研究叢書. v.5/名古屋大学大学院国際言語文化研究科/2006』(27-62頁)
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/8151

<17~21/36>(43-47頁)
西洋側の呼称としての「日本帝国」
<21~24/36>(47-50頁)
「王国」か「帝国」か

〇「歴史にみるロシアと日本の出会い:日本の漂流民とロシアの対応/平川新」
『東北アジア研究 2号/東北大学東北アジア研究センター/19980331』
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/41022

ほか関連URL
・「前近代の外交と国家:国家の役割を考える/平川新」
『近世史サマーフォーラムの記録/近世史サマーフォーラム2009実行委員会/2010-03-03』
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・「スペインの対日戦略と家康・政宗の外交/平川新」
『国史談話会雑誌 巻50/東北大学文学研究科日本史研究室/2010-03-31』
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『『仙台市史』特別編 巻8 慶長遣欧使節/仙台市史編さん委員会/2010-03-31』
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下記など少しは参考になるかも知れません。

〇「国号に見る「日本」の自己意識 (日本像を探る)/前野みち子」
『言語文化研究叢書. v.5/名古屋大学大学院国際言語文化研究科/2006』(27-62頁)
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/8151

<17~21/36>(43-47頁)
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<21~24/36>(47-50頁)
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〇「歴史にみるロシアと日本の出会い:日本の漂流民とロシアの対応/平川新」
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Q【日本史・家紋の謎】江戸時代に300藩があって300藩主にはそれぞれの家紋があったわけだが、300藩

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江戸時代の人自身が表した書物で、現在でも入手しやすく有名なものとしては、雪国新潟の暮らしを描いた鈴木牧之の『北越雪譜』、東北・北海道(蝦夷地)に住む人々の暮らしを描いた菅江真澄の『菅江真澄遊覧記』があります。それぞれ岩波文庫と東洋文庫に収録されています。

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Aベストアンサー

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徳島藩士でなく松平阿波守家臣(家来、家中)です。    徳島藩邸でなく松平阿波守(様、御)屋敷です。    松平阿波守邸ともいわれました。
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Aベストアンサー

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 鎌倉時代に江戸氏がこの地と関わりを持ちましたが、とくに長禄元年(1457)に上杉氏の家宰太田道灌が江戸城を築いてから城下町が出来ました。

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江戸時代 幕府や藩について
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E6%98%93

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上方が「いかに生きるか」
江戸が「いかに楽しむか」
だと思っていますが、あっているでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
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しかし、江戸幕府成立後、江戸の地には新しい文化をつくりあげようとする機運が急激に高まってきたのです。とはいえ、その初期の時代は、いまだ京都を中心とした上方文化の影響を強く受けていました。

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江戸時代なかば、近松門左衛門や井原西鶴などが登場し、元禄文化が花開くけれど、その発信地は上方だった。いや文学だけではない。諸事全般、新興都市の江戸は、千年の都を背にした上方の文化に頭が上がらなかった。 

江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

時代も下ると文化の中心は江戸へとシフトしていきます。
 宝暦、天明の時代ともなれば、いやもう上方なにするものぞ、の気運バリバリ。超人気作家、山東京伝により「金の鯱(江戸城の天守閣の意味)にらんで、水道の水(玉川水道)で産湯を使い、吉原本多(イケメン風髪形)に髷を結い、本町通りの角屋敷を売ってでも吉原でお大尽遊び」なんて感じの江戸っ子像オリジナル版が登場したのもこの時期だったのです。

このように文化の勢い、新鮮さなどにおいては江戸文化のほうに軍配が上がるかもしれませんが、伝統、質等の面では上方も引けは取らなかったと思います。

「いかに生きるか」は上方も江戸も、というより江戸の方が大変だった時代です。みんな大変な時代にあって、いかに楽しむかを大事にしていたのではないでしょうか。

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにするこ...続きを読む


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