推しミネラルウォーターはありますか?

 自我も 空である。

 それなのに 自我を無くすと言う。無くそうとする。修行が必要であると。

 あたらしいオシエを打ち建てるのなら 話は別になりましょうが ブディズムとして述べるのは まづいのではありませんか?

A 回答 (18件中1~10件)

 これまで私が言おうとしてきたことと、ずれるように思うかもしれませんが、釈尊は、楽しみさえも苦であると言っているようで、私はそれをなんとなくうなづけるのです。



 生物がこの地球に生まれてしまって、生きなければならない事。人間ならば喜び楽しむ姿を見てさえそれを苦であると観たのです。

 なんとなくこの意味が私は分かるのです。

 それだからこそ、生死流転から抜け出すことが「涅槃」なのだと。
 今回のお礼文は“肉的欲望”を肯定するような内容ですが、それだと「苦」からは逃れられないことになるのです。

 究極的には仏教は生命を否定しているだけだと受け止められてしまいそうですが、そうした生命に対しての慈悲心の現われが仏教と言う形になったのだと思います。

 喜怒哀楽の世界で命を全うしなければならないことへの憐みの心、慈悲。キリスト教ならば博愛、が神仏の心なので、そこから抜け出したいと思うならばもろもろの“しがらみ”にしがみつかないようにしよう、と言うのが“修行”という事になるのです。
 
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この回答へのお礼

 そうですね。たぶん 《伝統》に従えば おっしゃるような解釈になるのではないかと思います。

 わいわいえいとさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 そうしますと ここからは 一人ひとりの解釈ということで言うことになりますが。 

 わたしの考えるところとして 二点申し上げます。

 

 ★ 今回のお礼文は“肉的欲望”を肯定するような内容ですが
 ☆ これは 微妙に違います。密教の中には そういう趣旨でオシエをさえ説く場合もあるかと聞いていますが わたしの考える中身は 次のようです。
 
 肉の欲望もが生じるところの身と心から成る人間の自然本性 これは 人間が受け容れられ得る《よきもの》である。もし《善》ではないとしても 善悪や苦楽に対して中立・中性の存在である。と考えるというものです。

 あとは 人の自由意志の使い方ひとつにかかっている。こういう意味です。

 ですから 人の生まれ持った自然本性は 善である(または 中性のものである)ということ。このかたちで 人間存在を《肯定する》という考え方です。





 もうひとつは そのゴータマ・ブッダのオシエの説き方に疑義があります。
 ★ 釈尊は、楽しみさえも苦であると言っているようで、私はそれをなんとなくうなづけるのです。
 ★ それだからこそ、生死流転から抜け出すことが「涅槃」なのだと。
 ★ 究極的には仏教は生命を否定しているだけだと受け止められてしまいそうですが、そうした生命に対しての慈悲心の現われが仏教と言う形になったのだと思います。

 ☆ つまり 初めに《苦》あるいは《無明=煩悩=渇愛》があって 火が燃えている。そのあと だから 《修行し さとりを得る》という消防活動が来る。――この順序でオシエを説くそのやり方は いわゆるマッチポンプ方式でしかありません。

 つまり 最も悪く言えば 自分で《四苦八苦や煩悩》なる火をつけておいて あとで同じく自分の差し出すポンプでそれらを消す。こういう仕組みになっている。というものです。
 なぜならつまり あとでは ブッダター(仏性)を出して来るわけです。(大衆が 出して来た)。ブッダターを言わなくとも 成道・解脱・涅槃うんぬんという状態を提示しています。

 それなら 初めから人間の存在には そのような苦を乗り越え煩悩の火を消し得るチカラがそなわっている。と言えばいいぢゃないですか?
 もし言っているのなら 初めにそのさとりの状態が来て それでも世の中のシガラミにからまって《自我》がまとわりつき煩悩も起きる。そして それに過ぎないから 大丈夫。安心して 生きましょう。とでも言えばいいぢゃないですか?
 赤ちゃんの状態については どうなんでしょう?


 つまりひと言でいえば マッチポンプ方式は ただのマジックである。自説の中に取り込むためのインチキである。
 こう考えます。
 スーパーマンや水戸黄門が最後に出て来るというのではなく 初めから出て来る必要がないほうがいいに決まっているぢゃないですか。じっさいむしろ最初にブッダターは出て来ているのだから・そなわっているのだから きみたち 心配ないよとひと言言っていれば いいはずなんです。
 もしそう言わないのなら それは ゴータマ・マジックであり はっきり言えば ペテンです。
 どうでしょう?

お礼日時:2013/01/05 08:23

 bragelonneさんが言うように、きりがないので最後のコメントにします。


 捨て台詞、となってしまっているかもしれませんが・・・

 釈尊の言葉を“蒸留水”と見立てれば、それをすくう人の手の汚れ具合で、掬われた手の内の水はそれなりに濁ることでしょう。

 こうした感想を持っています。

 泣く赤子も衣服の上からでなく、肌に直接触れさせて抱いてやると泣き止むのではないでしょうか。
 如来はいつも素肌で、救いを求める人を抱こうとしているのだから、我々もその素肌の温かみに触れようと思うならば、やはり衣服は脱がなければ・・・・・
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ですが 《捨て台詞》かどうかも分からない恰好です。
 述べていただいた《感想》です。



 そうですね。
 ものごとを相手に遠慮してあいまいなままにしておくと よくない場合もあります。
 ここは わたしの考えをはっきり述べることとします。


 ★ 釈尊の言葉を“蒸留水”と見立てれば
 ☆ この表現に・つまり そこにはご自身の見解の表明もあると思われるからにはその表現内容に ただちに噛みつきます。

 つまり ゴータマブッダの《ことば》が――それは ひとりの人間の言葉であるからには―― 《よごれていない》とは 微塵も思えません。


 以下にそのことを例証します。
 ▲ 【ゴータマ氏が求愛をことわる】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】その趣旨説明欄
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html

 ・・・マーガンディヤーの父親が、たまたま釈迦に会い、その説法を聴聞すると父親は釈迦にほれ込んで、この男になら娘を嫁にやってもよいと思う。父親は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。

 ある日、釈迦はマーガンディヤーの両親の家を訪問し、両親と娘の3人にむかって説法をはじめた。娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説法をするのである。内容は次のようであった。

   「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人
  の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。
  大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは
  この女の足にさえ触れようとは思わぬ」
     (『スッタニパータ835』)

 「大小便の詰め込まれた女」とは、ほかならぬマーガンディヤーのことである。
 釈迦の真意は、娘を溺愛し、盲愛し、執着しすぎている両親をその苦から救うことにあった。いずれ死別はくる。両親が先か、万が一娘が先か、それはわからぬが。であるならば、娘に執着せずに手離しなさいとうのが釈迦の深い諭しである。この説法で両親は真意を悟り、出家を決意する。

 しかし、救われないのは娘のマーガンディヤーである。目の前で「大小便の詰め込まれた女」と言われれば、傷つき「許せない」と思ったであろうことは容易に想像がつく。そして彼女は当然、釈迦を憎んだ。

 その後、マーガンディヤーはコーサンビー国(* コーサンビーはヴァンサ国の都)の王と結婚し、王妃となる。釈迦がコーサンビ-国に布教に来たとき、彼女は屈辱的な過去を思い出すのである。そこで、釈迦に復讐するために、人々を扇動し、王妃の命令によって托鉢に歩く釈迦に石を投げさせ、罵詈讒謗を浴びせたのである。

 このように誤解ゆえの迫害は、釈迦にもあったのである。
 (『徒然草2001 法則編』  
  http://www.melma.com/backnumber_31267_1625651/ )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2013/01/06 09:58

 私は自分をブディストと思ったことはありません。

仏教を学問として学んだことはなく、その知識もありません。
 辛うじて頼る知識と言えば四諦八正道ぐらいなもので、私にとって仏の教えとはこれで十分なのです。

 般若心経の世界は普通の人は実体験できる世界ではなく、釈尊の弟子達でさえ解釈の違い、表現の違いが微妙に表れているようで、そうしたことから弟子たちの解説は、その世界を正しく言葉に表わしてはいないのではないかと推測しています。

 弟子たちが広めた仏教を批判するのは当然かと思いますが、釈尊の言葉は批判の対象にはなりえないと思います。真理だと思うから。

 弟子たちの広めた“仏教”を批判出来るからと言って、そのことを釈尊に責任有り、とするのは現代の社会の風潮と合っているようで、疑問を感じます。

 

 
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この回答へのお礼

 そうですか。
 
 まづはご回答をありがとうございます。ですが だって 局外者が 局内のオシエについて ゴータマ・ブッダにかんしては 《真理》だと見ているということでしたら 誰でもその反対の見解をのべて批評してもよいのではないでしょうか?

 でもこれは もう延ばしません。《真理》が出たなら ケリがつくとは思わないからです。

 言いかえると 真理にもとづきつつも 経験的な事象を交えて語る話であるとか あるいは 理論としての思想内容であるとか これらについては 自由に議論し批判することもできる。とは思います。



 いまの時点で成った批判があります。一回すでに自慢したのですが もう一度してみます。

 たとえば最近 次のような質問がありました。
 【Q:仏教の、説話。子供を亡くした母親。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7860768.html

 そしてその中でのやり取りやベストアンサーの中身について わたしは 次のような物言いをしました。
 【Q:精神は 空である。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7860670.html

 物言いとは そのキサゴータミーの説話をめぐって No.16のお礼欄から始まった議論です。No.17・18そして19と続き 少々長いのですが ゴータマ・ブッダのオシエについて重大な疑義が生じているという問題ですから ひとつの批判の例示とします。


 このひとくだりをご覧になれば わたしのゴータマ批判が
 ★ 現代の社会の風潮
 ☆ とは何ら関係なく 真理の探究一般として問い求めているものだと分かってもらえると信じます。

お礼日時:2013/01/05 19:00

 人間は悩み苦しみ、そこから救われたいと希うから、釈尊が教えを提示したのであって、求めない人には何も説教はしていないのではないでしょうか。



 釈尊が到達した悟りの世界は、説明したところで普通の人には理解されるわけはないと思い、いったんは何も言うまいという心境だったとか。
 でも弟子の強い要望に答えることになった、という事柄は釈尊を学んでる人にとっては周知のことでしょう。

 救われたいと願うならこうしなさい、と言っているだけであって、求めない人にこうしろと要求などしていないと思います。

 人生を否定しているわけではなく、心の仕組みを明らかに示しただけなのです。
 批判の対象にはなりません。

 自我を無くすことが究極の神仏の世界に入ることなので、それには肉欲に打ち勝つ努力が必要、という事を言っているだけなのです。
 この船に乗るか乗らないかは自由です。

 だから私は乗ってません。乗りたいとの願望だけで生きています。

 
 
 
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この回答へのお礼

 えええっ?
 わいわいえいとさん まづは ご回答をありがとうございます。

 ★ だから私は乗ってません。乗りたいとの願望だけで生きています。
 ☆ これに えええっ? なのですけれど だったらわいわいえいとさんも ブディズムから見れば局外者ではないですか。つまり わたしと同じ立ち場でしょう。《乗りたいとの願望》が有るか無いかは 局外者であることに変わりありません。


 そしてもし
 ★ 救われたいと願うならこうしなさい、と言っているだけであって、求めない人にこうしろと要求などしていないと思います。
 ☆ というひとりの部外者の見解がただしいとするならば ひとつには 部内者と話をするしかないと成りましょうし もうひとつには でしたら秘密クラブだとこちらは受け留めます。

 ただですね ただ ブディズム関係の書物などはいくらでも出ています。
 ということは 公開されており公共の場で 一般に議論をし互いに批判をすることも自由である。こうもなります。

 つまり けっきょく局外局内は関係ないのではないですか?
 自由に批判をしてもよいはずなのです。



 ★ 人間は悩み苦しみ、そこから救われたいと希うから、釈尊が教えを提示したのであって、求めない人には何も説教はしていないのではないでしょうか。
 ☆ 歴史事実としてそうであったのかも知れませんが けっきょくいまのブディストたちは 《求めない人にも・つまり万人に当てはまるオシエである》と主張しているのではありませんか?




 ☆☆(No.15お礼欄:ゴータマブッダは マッチポンプのペテン師) ~~~~~~
  つまり 初めに《苦》あるいは《無明=煩悩=渇愛》があって 火が燃えている。そのあと だから 《修行し さとりを得る》という消防活動が来る。――この順序でオシエを説くそのやり方は いわゆるマッチポンプ方式でしかありません。

 つまり 最も悪く言えば 自分で《四苦八苦や煩悩》なる火をつけておいて あとで同じく自分の差し出すポンプでそれらを消す。こういう仕組みになっている。というものです。
 なぜならつまり あとでは ブッダター(仏性)を出して来るわけです。(大衆が 出して来た)。ブッダターを言わなくとも 成道・解脱・涅槃うんぬんという状態を提示しています。

 それなら 初めから人間の存在には そのような苦を乗り越え煩悩の火を消し得るチカラがそなわっている。と言えばいいぢゃないですか?
 もし言っているのなら 初めにそのさとりの状態が来て それでも世の中のシガラミにからまって《自我》がまとわりつき煩悩も起きる。そして それに過ぎないから 大丈夫。安心して 生きましょう。とでも言えばいいぢゃないですか?
 赤ちゃんの状態については どうなんでしょう?


 つまりひと言でいえば マッチポンプ方式は ただのマジックである。自説の中に取り込むためのインチキである。
 こう考えます。
 スーパーマンや水戸黄門が最後に出て来るというのではなく 初めから出て来る必要がないほうがいいに決まっているぢゃないですか。じっさいむしろ最初にブッダターは出て来ているのだから・そなわっているのだから きみたち 心配ないよとひと言言っていれば いいはずなんです。
 もしそう言わないのなら それは ゴータマ・マジックであり はっきり言えば ペテンです。
 どうでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2013/01/05 12:27

 “いらないもの”ではないのです。


 苦、と感じるからこそ乗り越えようとする思いが生ずるのです。

 この娑婆世界が“楽”ならば悩むことはありません。哲学も生まれません。
 生きることが苦であるからこその“教えてグー”なのです。

 「自我」が生命と共に発達、変化するとするならば、どのように持っていくか、どの方向に舵を取るか、それによって“苦”の増減が生じると思います。
 「自我」を神仏サイドから見て好ましい状態に持っていくことによって“苦”は薄められていく。

 精神に、こうした向上心が内存しているのはなぜなのでしょう。
 不思議だ。そして考えるほど面白い。
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この回答へのお礼

 ええっと。まづはご回答をありがとうございます。

 ★ 苦、と感じるからこそ乗り越えようとする思いが生ずるのです。
 ☆ ないに越したことはないぢゃないですか。

 なければ それで済むのではないですか?

 あるいは あるのでしょう。起きるのでしょう。ただし起きたら起きたで 認識しておいて あとは放っておけばよいのではないでしょうか? どうせ余分なものなんですから。

 ★ この娑婆世界が“楽”ならば悩むことはありません。
 ☆ それでよいと思いますが? 悩むことがないに越したことはありませんから。

 ★ 哲学も生まれません。
 ☆ これは 違います。だってどこに住んでどんな服を着て どのように食べ物を得て生きて行くか――考えるのが哲学ですから。

 もしこのように生きて行くときに どのように生きるかにあたって
 ★ “苦”の増減が生じると思います。
 ☆ とするならば それは プラスの中のマイナスです。初めに煩悩があって それをどうにかしようとして生じる苦ではなく 煩悩にかかわらず生きて行くときにぶつかる問題 そういうマイナスのことなら 増減が生じてもよいわけです。


 ★ 精神に、こうした向上心が内存しているのはなぜなのでしょう。
 ☆ っていうのは 苦や煩悩とは別に生きるときにも この向上心は発揮されるのですから。

お礼日時:2013/01/04 22:46

 「自己」と言う言葉はもしかするとあいまいな表現かもしれません。


 辞書には“私”のこと、なんて簡単な説明ですし。
 だから敢えて言い添えれば、「真我」とでも言う方が良いのかもしれません。

 要するに、心には“種”があるのではないかと思うのです。
 植物の種はあんなに小さく、中身を分析しても単純な物のようですが、それが菫のタネは菫になり、ヒノキのタネはヒノキとなって大きく育ちます。

 人の心も元は種のような“核”があって、成長するにしたがって個性が現われ肉づけされてくると思うので、その核にあたるものを自己と言ってみました。
 だから自我は自己に肉付けされ成長するもの、との解釈です。

 “核”は宇宙の精神そのもの。自我が死滅すれば自己のみとなって宇宙に帰るので、消滅、変化するわけではないと想像しているところです。

 修行は自我に対しての行為。自我は良くも悪くも育つと思えばそこに現世においても修行は意義あると思えるし、僧としての修業はその自我を滅する、という事につながると思うのです。

 よって、宇宙の本源に立ち返るために(涅槃とか)仏僧は修行が必要、となるのです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 1. 《自我》というのは そうしますと 人がものごころが着いたころからみづからの心づもり(意志)でいろいろなことを考え行為をおこなって来て ほかの人びととの関係やまじわりをとおして 身につけたクセやら性格のことを言うのでしょうか?

 この自我は 変わり得るのだと。あるいは消えうるのだと。


 2. 《自己》がもし普遍性や不可変性につながっていて永遠であるとしたなら それは それが 《アートマン》です。

 おっしゃるように《真我》と言ったりあるいは《霊我》と言ったりすると思います。


 3. 人間におけるこの《アートマン》は 宇宙の霊魂――つまり ブラフマン――と一体であると言われます。梵我一如。
 ★ “核”は宇宙の精神そのもの。自我が死滅すれば自己のみとなって宇宙に帰るので、〔自己=アートマンは〕消滅、変化するわけではないと想像しているところです。


 4. ゴータマ・ブッダは ただし アン‐アートマン(無‐我。非‐我)と言って 人間存在に《変わらざる実体》はないと言ったとか。

 ですからあとで人びとは この《自己》の中核を 代わりに《タターガタ・ガルバ(如来蔵)》とかあるいは《ブッダター(仏性)》と呼んだ。

 宇宙の中核のほうは ブラフマニズムと同じブラフマンでは都合悪いようで 《シューナター(空)》とでも呼んだと考えられます。

 つまり 仏‐空の一如でしょうか。あるいは 無我‐無神の一如でしょうか。

 無神のことを 宇宙のブッダターと見立てれば 仏仏一如になるかも知れません。あるいは 無無一如とも言うかも知れません。


 5. ★ ~~~~~~~~
  修行は自我に対しての行為。自我は良くも悪くも育つと思えばそこに現世においても修行は意義あると思えるし、僧としての修業はその自我を滅する、という事につながると思うのです。

 よって、宇宙の本源に立ち返るために(涅槃とか)仏僧は修行が必要、となるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですか。そういうふうに《自我》をあつかうのですね。
 ほぼ同じです。そして同じだということは けっきょく《自我》は 人間の存在にとって余分なもの・あとから余計にくっついて来たものだと思われるからには むろん《空》であり けっきょく放っておいても消えて行くようにも思えます。

 クリスマスツリーの飾りみたいなものですから。社会の中でシガラミとしてついて来たものみたいなわけですから。
 その意味では 修行は必要ないとわたしは考えています。
 この点が 少し違いましたね。


 6. すなわち言いかえると ブラフマニズムにおける《梵我一如》をそのまま思想(信仰)の中に採り入れていないとすれば それは 《苦》こそが人生であるとかそもそも人間の存在には《無明=煩悩》が根を張っているのだとか そういう《負》の世界(ないし世界観)から出発しているからだと考えます。

 つまり 苦や無明にまつわる性格やクセなどは これが《自我》の問題なのだと見られます。

 要らないものなら もう放っておいてもよい。存在の初めに如来蔵(タターガタ・ガルバ)ないしブッダターがそなわり 宇宙の鼓動の動きと一体であるとしたら この仏空一如において――自我や煩悩をも確かに生身の人間としては つけ添えつつ―― ゆっくりあゆんで行けばよい。となりませんか?

お礼日時:2013/01/04 21:18

 「実体」と「実態」の使い分け、そして「空」のとらえ方。


 これらについての解釈はおおよそ“共有”出来たと思います。

 質問で使われている「自我」。
 これも“共有”する必要を感じます。

 自我に対しては自己という言葉をもって、宗教的精神を解き明かそうとされてきていますが、質問で使う「自我」を移ろいゆくものとすれば「自己」は移ろいゆかぬもの、となります。

 これでいいですか。
 私はこう捉えますが。
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この回答へのお礼

 たしかに――まづは ご回答をありがとうございます―― 何の断わりもなしに《自我》をつかっています。


 みなさんがよく使うという単純な理由からです。



 《自我》は 《 das Ich = the I = ego 》を訳したのですから もともと《わたし》です。

 その意味で《自己》です。

 《わたしに還る》とか《自己の本来のすがた》とかは言いますが 《自我に立ち帰る》とか《自我がほんとうに求めるもの》とかは言いません。言っても 意味が明らかではありません。

 ですから ふつうは《自我》という言葉はわたしは使いません。



 さて
 ★ ~~~~~~~
 自我に対しては自己という言葉をもって、宗教的精神を解き明かそうとされてきていますが、質問で使う「自我」を移ろいゆくものとすれば「自己」は移ろいゆかぬもの、となります。

 これでいいですか。
 私はこう捉えますが。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ これとは別に【Q:精神は 空である】を設問したのですが 《わたし=自己》は 身と心とから成る自然本性のことですから・そして《心》が特に《精神》のことですから やはり空であると見ます。


 要するに 人間の存在は 経験的で時間的で相対的で有限なものだと見ます。
 そしてしかも この存在が《再生》したり同じことで《復活》したりするというのは こんどは 神学の問題になると思います。
 《わたし=自己》が 永遠であるかどうか? たぶん《非思考の庭=つまり その人の信仰なる主観》において もし成るとすれば 成るのだと見ます。どうでしょう?

お礼日時:2013/01/04 16:34

 「空」については


 回答No.7のお礼欄の2-3.そしてその後の3が私の解釈です。

 空っぽ、という概念からは何も生じません。

 “空”とも言うべき人間の精神が、修行という形で何らかの変化を求めるのは、変化しつつも存在しているから。

 それは高々長くても百年。
 でも人間にとってはそれなりに修行できた気になれる時間であると思います。
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この回答へのお礼

 なあんだ。食い違っていないぢゃないですか。

 こんにちは わいわいえいとさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~
 ・・・変化しつつも存在しているから。

 それは高々長くても百年。
 でも人間にとってはそれなりに修行できた気になれる時間であると思います。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ つまりこの《うつろいゆくもの・くちるべきもの》だという意味で 《空っぽ》と言っています。永遠ではなく 変わりゆくものなのだと。
 ただし その可変的なものとして=仮りのものとして 存在している。



 ただし 若干疑義が残りましょうか?
 ★ ~~~~~~
 「空」については
 回答No.7のお礼欄の2-3.そしてその後の3が私の解釈です。
 ~~~~~~~~

 ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~~
 2‐3. つまり 色心ともに空だという意味は 身にも心にも《実体》はない。と言っているのだと受け取るという意味です。
 
 空即是色心というのは 実体のないもの=すなわち仮りのものとして 身や心やあるいはこの世界がある。と言っているのだと。
 ~~~~~~~~~~~

 そのあと
 ☆☆(同上) 3. 《空》を《変化しつづける》という意味に捉えるということは 《変化しつつも 有る。有り続ける》ということになる。それでよいか?


 ☆ ということなのですが そうしますと こうでしょうか?


  ○  《変化しつつも 有る。有り続ける》のは 《高々長くても百年》。つまり うつろいゆくべき仮りの現象である。その意味で空である。


 でしょうか?
 そうして念のためには:
 ☆☆(同上) 3‐2. 要するに たましいも 人間のものとしては 空であり仮りの現象であり 永遠に存続するものではない。こうなるのではないか?


 ☆ ということで 合意に達したでしょうか? それでしたら めでたしめでたしです。

 もう少し開いています。
 

お礼日時:2013/01/04 14:33

 回答No.7のお礼を受けて考えました。



 実体とは絶対と言えるものであって、相対の対象となるものではない、と受け止めました。
 そこで、実態=現象=変化するもの、と。

 だから回答No.7で使った“実体”は実態と言い換えるのがより正確かと思いました。

 「空」についてはまだ意義を呈してみたい思いがあります。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 

 ええ。たぶん 《実体》については――《体》の字のほうは―― おっしゃるとおりでよいと思います。



 あとは
 ★ 実態=現象=変化するもの
 ☆ に プラス《有りつづける》ということ・つまりほとんど永遠ということ これが加わっていると 《空》について どうなるか?――このような問題だと思います。


 いろんな説があるようですので 質問者としてもそれぞれにしっかりした整合性があるかどうかなどを見てみたいとおもっています。待っています。

お礼日時:2013/01/01 23:15

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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 久保田早紀:異邦人

 これはもう 歌詞そのままだと思います。

  ♪ 空と大地がふれあう彼方

 って言ってるんなら 平行線も無限遠点でまじわるのでしょうか?


 でも おんなは まだ無邪気だったと自分で言っている。
 おとこは そこまではまだ考えていない。《通りすがり》であると。

 だから 全体としておんなは そのおとこに対して《異邦人》であったと。



 けれども

  ♪ あとは哀しみを持て余す異邦人

 って言ってますが 異邦人だから話が出来ないとも通じないとも限らない。とも見られます。そういう場合はあり得ます。――と言ったら 話をぶち壊しましょうか? でも だって《空と大地がふれあう》とも言っているのだし。・・・


 なぞめかしておくのが よいのでしょうか?

お礼日時:2013/01/01 21:47

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