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真田佐衛門佐幸村
真田大助幸昌
後藤又兵衛基次
長宗我部宮内少輔盛親
明石伯耆守全澄
長岡興秋
大谷吉久
塙団右衛門直之
薄田隼人正兼相
毛利豊前守勝永
木村長門守重成
大野治長
大野治房
速水甲斐守
淡輪重政
増田盛次
渡辺糺
福島正守



この中で生き残った牢人はいたのでしょうか?

A 回答 (6件)

>この中で生き残った牢人はいたのでしょうか?



地元(豊臣政権の三中老の1人だった生駒家支配)の伝承ですが・・・。
真田佐衛門佐幸村・大助親子ですね。
大阪夏の陣で敗れた幸村は、地元に落ち延びて来たとの事です。
そこで、庄屋の家で傷を癒しました。
よくある話で、(世話をしていた)庄屋の娘とねんごろになり男児をもうけています。
※今でも、この子孫は「六文銭」が家紋です。
傷が癒えた幸村は、大助が待つ薩摩へと落ち延びた!とのお話です。^^;
そういえば、大坂城落城の時「鬼のような真田が、花のような秀頼を連れて、逃げも逃げたり鹿児島へ」という唄が有名ですよね。
実際、鹿児島では秀頼の墓と伝わる五輪供養塔も残っています。
また、秀頼が上陸した浜辺とか「乞食の姿で落ち延びて来た」とか多くの伝承が残っています。
日田藩主は、一子相伝として「秀頼の子孫」となっていますね。
明治維新後の旧藩主への爵位を与える時の家系には、豊臣姓を記載しています。
※日田藩主子孫の方が、一子相伝を一冊の本に書いています。探せば、入手可能。
※私も、数年前に購入しました。
信じるか信じないかは、あなた次第です!(笑)
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この回答へのお礼

幸村は間違いなく戦死してます
逆に家康は間違いなく大阪夏の陣で戦死してます

お礼日時:2013/01/02 13:11

真田幸村は松平忠直の家臣である西尾宗次に、増田盛次は藤堂高虎の家臣である磯野行尚に、木村重成は井伊家家臣の安藤重勝(同家家臣の庵原朝昌とも)に、薄田兼相は水野勝成の家臣である河村重長によってそれぞれ討ち取られています。


後藤基次・大谷吉久(吉治とも)・塙直之は乱戦の中で討死し、長宗我部盛親・大野治房は徳川方によって処刑されました。
真田幸昌・毛利勝永・大野治長・速水甲斐守(守久)・淡輪重政・渡辺糺は自害し、長岡(細川)興秋は父・忠興の命で自害しました。
明石全登・福島正守は戦後行方不明となっています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/01/07 18:48

 ずいぶんたくさんの名前が出てきましたね。

良い本をお持ちなのですか?

 これらの人物のうち、「明石全登」と、「福島正守」は、生死不明です。ほとんど、全滅ですね。

 明石全登は、敵陣に突入して行方不明になったので、討死の可能性が高いです。

 福島正守は、幕府による残党狩りでも発見されなかったので、やはり討死の可能性がありますが、生き残ったにせよ、その後、歴史の表舞台に出てくる事はなく、また、残党が幕府に危機をもたらす様な事もなかったので(由井正雪の乱はありますが、残党の縁者が関わったかどうかは不明)、豊臣氏の影響力を消す目的は達成されたと言えるでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/01/02 13:11

明石掃部頭全登(全誉とも。

読みはオシトウ、実名は守重)
は間違いないでしょう。他の武将と違って戦死が史料で確認できません。
一部戦死説があるようですが出典がよくわかりません。
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この回答へのお礼

水野隊に討たれたという説が有力ですよね

お礼日時:2013/01/02 13:10

後藤又兵衛基次



は、一応、生き残っていた。ということにしておいてください。

地元の伝説なもんで。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4% …
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この回答へのお礼

又兵衛さんは残念ながら…

お礼日時:2013/01/02 13:09

まさしく、あずきさんは歴美女ですな、私はこの並び立てられた牢獄人の事は全く知りません、オット!真田幸村、長宗我部盛親は、少しだけ知っていますが。

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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/01/02 13:10

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