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明治天皇の出自及び王統系譜に関する疑問が発せられている。これについては早くより識者が個別に指摘し続けてきていたところ、1999年、鹿島昇・氏が「裏切られた三人の天皇 ─ 明治維新の謎」で精緻に論証したことで衝撃を与えることになった。鹿島氏は、同書に於いて、概要「孝明天皇は、幕末の倒幕・佐幕両派の抗争過程で、岩倉具視と伊藤博文ら長州志士等によって暗殺された。長州藩はその後、南朝光良親王の子孫(血統)である大室寅之祐を擁立し、孝明天皇を後継した睦仁親王(京都明治天皇)にスリ替えた」との説を唱えている。

 これを仮に鹿島説とすると、「明治天皇として即位したのは、それまでの北朝系ではなく、熊沢天皇同様の南朝系の末裔にして長州藩が秘匿擁立してきた大室家の寅之祐(おおむろとらのすけ)である」ということになる。倒幕派は、「長州に住んでいた南朝の末裔と称されていた大室寅之祐を擁立し、北朝系に代えて南朝系の大室寅之祐を睦仁親王の名で以て身代わり即位させ、幕末政変で勝利するや東京遷都し、終生本物の明治天皇として振舞わせた」ということになる。

 明治天皇の即位前の名前は、睦仁親王である。睦仁親王は、孝明天皇逝去後、「幼君」として擁立されたが、この睦仁親王は暗殺され、長州が仕立てた大室寅之祐が睦仁親王を騙って身分を継承した。従って、明治天皇となって即位したのは睦仁親王ではなくて大室寅之祐であるということになる(「明治天皇すり替え説」)。こうなると、「睦仁親王」と後に「明治天皇」として知られる東京明治天皇は別人であり、「皇家クーデター」が起っていたということになる。実に、明治維新とは、「明治天皇すり替えによる王朝交替だった」ことになる。 

 「明治天皇替え玉説」の根拠として、睦仁親王時代の即位前の写真と即位後の明治天皇時代写真の様子の違いが挙げられている。一言で云えば、即位前は腺病質な姿が語られているのに即位後は威風堂々としており、とても同一人物とは思えないという説である。

 つまり、倒幕派は、当初は攘夷派であったが途中で時代の流れに合わせて「開国維新」に転換した。ところが、孝明天皇は、この時代の流れを拒否し、「鎖国攘夷」に固執しつつ「公武合体的佐幕」を志向した。孝明天皇急逝後を後継したその皇子の睦仁親王(京都明治天皇)も孝明天皇と同じ路線を踏襲した為、共に暗殺された。

 補足すれば、孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、幕末維新過程で、最後まで「逆賊」として抵抗した会津松平家は、孝明天皇以来の忠義を貫いたことになる。というか、薩長の不義を告発し続けていたことになる。


ということなのですが、明治天皇になる予定だった人は殺されて、伊藤博文などが都合のいいように天皇を大室寅之祐という人に仕立て上げたのでしょうか?

それだと、天皇400年の歴史はやはり途切れていたということになりますが、どうなのでしょうか?


会津藩のしわざともいう噂もありますが、どうでしょうか?
伊藤博文は蛮族の身でもあったとのこと。

http://2002mar.blog.fc2.com/blog-entry-430.html

http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html

A 回答 (4件)

> それだと、天皇400年の歴史はやはり途切れていたということになりますが、どうなのでしょうか?



根拠が薄弱であり、歴史的な事実に照らしても無理がありすぎます。
単なる陰謀論以上の価値はありません。



> 明治天皇の即位前の名前は、睦仁親王である。睦仁親王は、孝明天皇逝去後、「幼君」として擁立されたが、この睦仁親王は暗殺され、長州が仕立てた大室寅之祐が睦仁親王を騙って身分を継承した。
> 幕末の倒幕・佐幕両派の抗争過程で、岩倉具視と伊藤博文ら長州志士等によって暗殺された。

ということは、1860年に「睦仁」という名になり、孝明天皇崩御・明治天皇即位は1867年1月なので、1860年~1967年のどこかですり替えが起こったはずです。


> ところが、孝明天皇は、この時代の流れを拒否し、「鎖国攘夷」に固執しつつ「公武合体的佐幕」を志向した。

岩倉具視は、この時期、和宮降嫁に賛成するなど、いわゆる公武合体・佐幕でした(少なくともそう見られていました)。実際、この後1862年に失脚し、蟄居を命じられますが、その理由は「佐幕派だから」です。
この点からも分かるように、孝明天皇下の朝廷は必ずしも公武合体・佐幕ではありませんし、航海遠略策を取り上げ公武周旋を長州藩に命ずるなど鎖国攘夷に固執していたわけでもありません。

その後、攘夷派は処分が甘いと処分を重くするように運動し、その結果、洛中から追い出され、明治帝即位後の1987年11月まで京都に入ることができませんでした。

また、長州藩は1864年に禁門の変をおこして朝敵とされます。これが解かれるのは、やはり即位後の1867年のことです。



>  「明治天皇替え玉説」の根拠として、睦仁親王時代の即位前の写真と即位後の明治天皇時代写真の様子の違いが挙げられている。

今のアイドルだって、何枚か並べればとても同じ人だと思えない写真が多いですよね。
特に即位(15歳)前後から5年くらいの間は、人間最も変わる時期です。
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Yes, he is too stupid to be a Tenno.

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>どうなのでしょうか?



 どうでもよろしいのではないでしょうか。つまり、DNA鑑定などによって科学的に
 その真偽を追求する必要はないということです。そのまま、そういった陰謀説もあるという
 ことを残しておくのが賢いでしょう。
 
 すでに、天皇家は明治開闢以降も重い歴史を重ねておられます。

 激動の困難な時代に心優しくそして強く君臨してきた今の天皇家を、
 国民はそれに呼応してお慕いし、象徴天皇として心の拠り所にし続けると思います。

 靖国神社を参拝しない天皇の御心とこれまで国のために多くの命を捧げた桜たち。

 このギャップこそが、日本の安寧に導く仕掛けの一つなんだと思ったりもします。
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それはよくある陰謀論に過ぎません。


まず伊藤博文ら明治の元勲は睦仁親王即位時には、しのぎを削りあういろいろな勢力の中にあって、一派閥内の有力者程度の存在に過ぎず、宮中の出来事に介入する事など不可能です。
(当時の伊藤博文は長州閥内では有力者でしたが、それでもまだ二十代の若造に過ぎません)
彼らが権力を握ったのはその後のめまぐるしく変動する状況と熾烈な権力闘争の結果なのです。
そもそも当時は倒幕・佐幕、攘夷・開国にとどまらずいろいろな対立軸があって、数多くの勢力がしのぎを削りあい、宮中でも当然それらの勢力が争い、また日和見をしている者も大勢いました。
「鎖国攘夷」の方針を支持していた派閥の人間も少なくありませんが、彼らはなぜ睦仁親王がすり替えられたときに黙っていたのでしょう?

また睦仁親王と面識がありながら、維新時には官軍に刃向かい逆賊となった人間も少なくありませんが、質問者様が例に挙げた松平容保は、戊辰戦争では「逆賊」となりましたが後に赦されて、正三位を叙任し参議にまで昇進していますし、嫡男の松平容大も同様に赦された後は子爵となって貴族院議員をつとめています。
もし容保が質問者様のおっしゃるように「薩長の不義を告発し続けていた」のならなぜ明治政府は「逆賊」となっていた時点で処刑もしくは暗殺しなかったのでしょうか?
それはそんな事実が無かったからと考えるのが一番真っ当な結論でしょう。
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