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他のところで質問して「(私は)花が好きだ」の主語は「私」だと教えていただきました。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7866829.html

それでは、これと同じ構造と考えられる「私は背が高い」の主語は何なのでしょうか。「私」でしょうか。あるいは、高いのは「背」なので「背」でしょうか。

「山が高い」なら「私は山が高い」とは言わないので「山」が主語でしょうね。

「私はだんごより花が良い」の場合はどうでしょうか。

A 回答 (4件)

こんにちは。



日本語文法の研究を仕事としているものです。少し書いておきたいことがあるので、今頃になって出てきました。

こういう掲示板で、日本語の文法の質問が出される場合、どういう答えが求められているのか、ということをいろいろと考えています。

もっと別の分野のことにたとえて考えてみると、地球温暖化と二酸化炭素ガスの問題とか、あるいは消費税増税についてとかの問題の場合、それぞれの専門家、地球科学者や、経済学者、財政学者などが、それぞれの理論・学説に従って論を展開しています。それでも、数学や物理学の問題とは違って、一つの「正解」は出ないのが普通です。対立する説の本を読み比べても、どちらが正しいのかは分かりません。まさに、「いろいろな考え方」があります。(物理学でも、最先端の問題ではまた別なのでしょうが。)
 
しかし、それは、一般の人たち、つまり我々が新聞の解説記事を読んだぐらいの知識で、温暖化や消費税についてあれこれ言うのとはまったく違うレベルの話です。それぞれの論者は、専門家・研究者とての自分の理論に従って論を展開しています。

さて、日本語文法の問題に関しては、どういう質問と応答がなされているでしょうか。

一つは、学校文法の枠の中での問題ですが、これは比較的はっきりとした答えが出されているようです。学校の先生や、あるいは教科書会社の人なのでしょうか、いくつかの学校文法の教科書などの解説を引用したりなどして、明快な答えが出されます。(学校文法には大きな問題点があるのですが、その話は後に回します。)

二つ目は、学校文法の範囲を越えた問題で、この場合は、まさに各人各説になりがちです。上の消費税のたとえで言えば、専門家同士の議論ではもちろん無く、新聞記事や週刊誌を読んだ人たちがあれこれ自分の考えを述べるようなものです。その中で、なんとなく納得できるものがあれば、それで質問者はよしとしているようです。

今回の質問の「私は背が高い」のような文は、「ハガ文」とか「二重主語文」「多主格文」などと呼ばれる、学校文法の枠組みでは扱いにくいものの代表です。
英語流の「主語-述語」を文の骨組みとする考え方では、「主語」が二つあるように見えて何とも困るのです。日本語の文法は、英文法の知識では説明できないという典型的な例です。

この型の文は、明治以来の難問で、多くの研究がなされています。現在の研究者では、野田尚史や菊地康人、天野みどりなどが論文をいくつも書いています。しかし、定説と呼べるような、統一的な結論は出ていません。

そのような問題に、この欄で、どうやって簡潔な答えを書くか。私にはできないので、尻込みしていました。まあ、常識的な答えは、「背が」が主語で、「私は」は主題だとしておくんでしょうか。これではただ名前を付けただけなので、では、「主語」とは何か、「主題」とは何か、という、より踏み込んだ問いに対して答えようとすると、かなり長い答えを用意しなければなりません。

また、「ハガ文」にはいろいろと種類があるので、それぞれについて考えねばなりません。

「私はだんごより花が良い」もまあ同じで、「花が」を「主語」とするのが穏当でしょう。
「私は」は「主題」です。ただ、「背が高い」のほうは「私の背」という語の関係があるのに対して、「私の花」ではないので、その辺の違いをどう説明するかが難しくなります。

学校文法のことを少し書いておきます。
ここでの問題は、「学校文法」というものの内実です。これもくわしく書くと長くなるので、はしょって書きますが、学校文法というのは非常に不完全な、説明能力の限定された文法です。

ここでまた、たとえを出して説明します。今、中学で教えている学校文法というのは、算数にたとえれば、自然数の範囲で四則演算(+-×÷)をやっているようなものです。足し算は自由にできますが、引き算の練習では負の数が出ないように、(5-3)のような練習問題しかできません。(3-5)はできないのです。同様に、かけ算は自由にできますが、割り算は必ず割り切れるものだけにします。分数はまだ知らないから。余りが出るのは美しくないでしょう。

このたとえと同じで、中学で習う文法の練習問題は、必ず答えがすっきり出るような例文ばかりです。日常的な、実際の日本語の中の、学校文法の枠組みでは答えが出にくいものは、慎重に排除されています。
上の「ハガ文」はまさにそのようなものです。

学校文法は、子どもに日本語の中の規則性をごくかんたんに教えるには、それなりに教育的価値のあるものですが、不合理なところがいろいろあり、現在の文法研究者で学校文法を良いものだと思っている人はほとんどいないでしょう。
なんと言っても、戦前の、日本語の文法研究がまだ始まったばかりと言ってもいい時代に作られた枠組みを、そのまま教えているのです。古典文法の理解のためには、それなりに役立つのでしょうが、それにもいろいろ批判があります。早くやめたほうがいいのですが、一つの体制が確立してしまうと、その改革には非常に大きな労力が必要で、一部の文法研究者が取り組んでいるようですが、難しい問題です。

長々と書きました。この辺でやめておきます。

saburoo
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

学校ではどう教えているのかと興味がありましたが、こういう難しいことには触れていないということですね。割り算のたとえもよく分かります。

お礼日時:2013/01/16 11:06

 過日は尻切れトンボの様な形でお話ししてしまい申し訳ありません。


前回、「英語の説明は不要」とのことでしたので、どうお話しすれば良いだろうと逡巡してしまいました。
というのも「文章の構造」を理解するには、どうしても「文章の骨格」を踏まえねばなりません。この点では英語も日本語も同じといえます。最も基本的な構造は「主語-述語」の関係ですが、英語およびゲルマン語系やロマン語系の言語と日本語の最大の違いは、「て・に・を・は」を「格と格変化」に求めるか、それとも独立した品詞として位置付けるかによっても異なるとの性質を有している。
 ドイツ語ならば「冠詞の格」でそれを具体的に示すが、日本語の場合では同じ「ハ」でも大野晋の説明によれば4つの用法を確認することもできます。
 「私は背が高い」との文章でも「私は“背が高い”人物が好きである」といった場合と「私は背が高い“他の人に比べて”」では「述語」が異なり、前者の述語は「好きである」であり後者は「高い」になる、といった具合に状況によって変化してしまうことになります。
 質問者様はおそらくこの様な「曖昧な答」を望まれない方でしょう。であるならば一つの手掛かりもあります。「私は背が高い人物が好きである」は「私は“背の高い人物”を好きである」と言い換えることに着目するならば、「背が高いの“ガ”」と「背の高いの“ノ”」は同質であるとの結論になります。「背が高い(背の高い)」は「私が好きな人物」に掛かる(具体的に形容している)文言であるとの説明になります。
 ではこの論法を「私は背が高い」との文章で考えたならどうなるかとの問題になります。「背たけ」の問題に注目する文意ならば「私の背は高い」となります。大野の説明によれば、「ハ」は直前にある語とその下にある語を結び、○○は~である、として○○に対する叙述と位置付けることができます(「ハ」の第一番目の用法)。
 これに対し、「私は~である」として「私という対象」を先ず提示し、その次に「対象を具体的に綴るとの“話題の再提示”」(「ハ」の第四番目の用法)も大野は説明する。となれば、僕は「背」が主語であるとの考えを持っています。
 英語の説明を緩用すればもっと簡単に説明できる話ですが、質問者様は「純粋に国文法の話である」と強硬な姿勢をお持ちのようですので、どうしても回りくどい話になってしまいます。
 
 「私はだんごより花が良い」に関しては後ほど改めてお話しさせていただきます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

今までいろいろな人からいただいた回答を私なりにまとめますと。

1.「花がきれいだ」の場合
単純に、主語+形容動詞の文型。

2.「私は花が好きだ」の場合
動詞には、1) 「私は帰る」のような、主語+自動詞の文型、2) 「私はご飯を食べる」のような、主語+目的語+他動詞の文型、など色々な文型がある。これと同じように形容詞/形容動詞にも色々な文型があって、「好きだ」は動詞の目的語に相当する「対象」が必要な形容動詞で「私は花が好きだ」は、主語+対象+形容動詞の文型。

3.「私は背が高い」の場合
1) 2. とは異なるが、類似で、主語+部分・側面+形容詞の文型。
2) 「私の背は高い」と言い換えることができて、主語+形容詞の文型。
3) 「私は『背が高い』と思う」あるいは「私は『背が高い』と主張する」の外側の述部が省略されたもの。

などの考え方があるようですね。

形容詞/形容動詞も、自形容詞/自形容動詞、他形容詞/他形容動詞などに分類してもらえると国文法が分かりやすくなるかも知れない。

お礼日時:2013/01/08 10:47

つい先日、同じ内容の質問がありましたよ。



http://oshiete1.watch.impress.co.jp/qa7859327.html

現在の学校(中学校)で教えられている文法の考え方で解釈すれば、「複文」です。

「私は」が主語。「背が高い」が連文節で述部。
  「私」は「背が高い」という性質を持っている、という意味。I am tall.

「私は」が主語。「花が良い」が連文節で述部。
  「私」は「花の方が好き」という気持ちを持っている、という意味。I like flower.

他の方がおっしゃるでしょうが、文法って解釈のためにあるので、自分がすっきりわかったり、人にすっきり説明できればそれでいいんですよ。どの文法論が正しいとかじゃなく。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

前の質問の回答やこの質問の回答を見ても色々な考え方があるようですね。

お礼日時:2013/01/07 14:38

 日本語の文法はどの語が主語であるかを教えてくれません。

結局、文の意味から話題の主体になるものが主語だとしか言えませんが、これは文法ではなく主語の定義に過ぎません。「私は背が高い」の話者が何を言いたいかを想像して、誰が高いのかを言いたいならば、「私は」が主語になりますが、給料が高いのか、身長が高いのかを言いたいならば、「背が」が主語になります。

 「花が好きだ」という文については、「好きだ」が動詞であるために「好き」という行為を行える者だけが主語となり、主語は「私」のように思えますが、

A: 太陽を好きな生き物は、モグラですか、それとも花ですか?
B: 花が好きだ。

という会話ならば、花が主語になります。

 「鮫は私は食べません」という文は日本語として正しいですが、これだけでは主語が鮫であるか私であるか、決められません。日本語には文法がない、ただ習慣だけがある、と言いたくなります。

 海外の日本語学校で日本語の文法について「第一主語、第二主語」というものを教えている学校がありますが、私は国語でこんな言葉を習ったことが無いのでびっくりしてしまいました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

まあ「好きだ」は形容動詞と思いますけど。

お礼日時:2013/01/07 14:37

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