出産前後の痔にはご注意!

江戸時代だと思うのですが、京都が時代劇で、以前~伏と呼ばれていて、ドラマなどでもそのように呼ばれていたと思うのですが、何伏?伏何?か解る方いますか?

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A 回答 (4件)

>江戸時代の京都の名前は?



都(みやこ)・京(きょう)ですね。
質問者さまはご存知か否か分かりませんが・・・。
日本書紀時代頃から平安京時代に書かれた文書に「都は、天皇が支配(居住)する地。京は、以前都であった地」と区別しています。
これが、京の都とか徐々に呼び方が変わりました。
※明治維新後、江戸の地を「東の京都=東京都」と変名した理由も分かりますよね。
※この場合の東京とは、都道府県単位の東京都の意味です。
※この例で言うと、大阪都を目指している大阪市長の主張は(歴史的)根拠が無くなります。^^;
幕末(倒幕派・左幕派の)手紙には、当て字が多いので断言はしませんが「きょう・みやこ」と呼んでいますね。
漢字も、京でも都どちらも「きょう・みやこ」と混在して呼んでいる場合が多いですね。

>何伏?伏何?か解る方いますか?

古文書・手紙に、「○伏」を記載しているのを見た事はありませんが・・・。
伏○なら、伏見ですがね。
伏見だと、京と大坂を結ぶ水運交通の要です。
伏見寺田屋事件は、幕末で重要な事件です。
残念ながら、○伏は不明です。^^;
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伏見城



 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B% …

 徳川家康が京都での拠点にしてたから、それで耳に入ったのではないでしょうか。
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 一般には「都(みやこ)」でオーケーです。

現在の伏見は京都市の一行政区画(伏見区)ですが、大正時代に合併しています。それまでは伏見市でした。

 現在の京都市はたくさんの周辺市町村を合併してできあがっています。明治維新すぐの頃の地図では京都市というのは「上京と下京」しかありません。その周りには、聖護院村、吉田村、熊野村、修学院村、松ヶ崎村、などなど現在の左京区や東山区に所属する行政区画が独立した自治体としてあります。もちろん嵐山や嵯峨野方面も全く別の自治体でした。葛野郡とか、紀伊郡とか面白い地名がいっぱいです。

 で、お探しの***伏についても、そのような地名を持つ街を京都市で検索すれば出てくるかもしれません。京都出身ですが古い時代に**伏とか伏**とか呼ばれていた、ということは聞いたことがありません。

http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/map/map_n/ky …
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/

 上記リンクは古地図です面白いですよ。
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京都市伏見区の事でしょうか?


伏見(ふしみ)は江戸時代には伏水(ふしみ)と呼ばれていたそうです。
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Q江戸時代に京都に大名がいなかった理由

徳川幕府は天皇・公家と大名が手を組むのを恐れたためかなあ、と漠然と思っていたのですが、実際のところはどうなのでしょうか。なにか特別な理由があったのでしょうか。

Aベストアンサー

 純粋に藩がなかった都道府県は東京都と静岡県と山梨県ぐらい。これらは、#3のmatubokkuriさんが説明してくれたように、
 「幕府も自分の領地があります。直轄領といいます。
首都の江戸はもちろん、墓のある日光、佐渡の金山、大阪城のある大阪、朝廷のある京都、伊勢神宮のあたりなど、・・・徳川幕府の領地で、自分の部下(旗本、1万石以下)を京都所司代として治めさせました。」

と言うことです。
http://www.nipponhyojun.co.jp/search/syakai/6_11edo1/shakai_edo_2_2.html
を見るとわかりますが、京都府にはかなりの大名がいました。また、京都所司代は、会津藩がつとめていたので、厳密に言うと大名はいたことになります。
 ともあれ、天皇のお膝元であり、重要の産業も古くからあり、皇室や西国を監視するための京都所司代があるため、幕府にとってもっとも監視を強めなくてはならない要所の一つであり、譜代大名でも自由に住まわすことはさせず、まして外様大名には住むことができない地だったようです。

 純粋に藩がなかった都道府県は東京都と静岡県と山梨県ぐらい。これらは、#3のmatubokkuriさんが説明してくれたように、
 「幕府も自分の領地があります。直轄領といいます。
首都の江戸はもちろん、墓のある日光、佐渡の金山、大阪城のある大阪、朝廷のある京都、伊勢神宮のあたりなど、・・・徳川幕府の領地で、自分の部下(旗本、1万石以下)を京都所司代として治めさせました。」

と言うことです。
http://www.nipponhyojun.co.jp/search/syakai/6_11edo1/shakai_edo_2_2.html
を見るとわかりま...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

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Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q江戸時代の上方と江戸文化の違い

上方が「いかに生きるか」
江戸が「いかに楽しむか」
だと思っていますが、あっているでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにすること」など、本来の文化に求められるものは全て有していたと思います。

しかし、江戸幕府成立後、江戸の地には新しい文化をつくりあげようとする機運が急激に高まってきたのです。とはいえ、その初期の時代は、いまだ京都を中心とした上方文化の影響を強く受けていました。

ところが、政治の中心地、人口の増加の顕著な江戸には、次第に独自な江戸文化が完成して行きます。これに対し、上方は伝統的な文化が存続し、江戸時代の中期以後は両文化が併存するとも考えられます。 江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

江戸時代なかば、近松門左衛門や井原西鶴などが登場し、元禄文化が花開くけれど、その発信地は上方だった。いや文学だけではない。諸事全般、新興都市の江戸は、千年の都を背にした上方の文化に頭が上がらなかった。 

江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

時代も下ると文化の中心は江戸へとシフトしていきます。
 宝暦、天明の時代ともなれば、いやもう上方なにするものぞ、の気運バリバリ。超人気作家、山東京伝により「金の鯱(江戸城の天守閣の意味)にらんで、水道の水(玉川水道)で産湯を使い、吉原本多(イケメン風髪形)に髷を結い、本町通りの角屋敷を売ってでも吉原でお大尽遊び」なんて感じの江戸っ子像オリジナル版が登場したのもこの時期だったのです。

このように文化の勢い、新鮮さなどにおいては江戸文化のほうに軍配が上がるかもしれませんが、伝統、質等の面では上方も引けは取らなかったと思います。

「いかに生きるか」は上方も江戸も、というより江戸の方が大変だった時代です。みんな大変な時代にあって、いかに楽しむかを大事にしていたのではないでしょうか。

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにするこ...続きを読む

Q江戸時代の大阪の武士

江戸時代、豊臣家が滅んでからの大阪城には
誰が住んでいたのだろう…?なんてふと
疑問に思いました。大名でしょうか?

江戸時代の大阪には、武士が極端に少なかった
そうですが(ネットで調べたら200人足らず)
本当ですか?

だとすると、大阪は封建時代にほとんど封建と
いうものを意識しない、自由市場経済の中で
生きていたということになるのではないでしょうか。

東京に行くと、いつも意識するのは「身分をわきまえる」という気風です。

これは、武士が多く、身分の格差を肌で感じることが
多かった時代の気風を、今も多少ながらひきついで
いるのかなあと思ったりします。

ひるがえって大阪では、身分の違いというのは
経済力の違いによって生まれていたように思います。

努力と運次第で、身分の逆転もできる。
金持ちは、金を持っているだけだから威張るな。

そんな反骨の精神を感じたりもします。

(京都に行くと、公家というものがあり、
生まれ付いての身分の違いの意識が若干残っている
ような気もします)

これをまとめて大胆に仮説するなら、

「江戸は身分社会だが大阪は格差社会だった」
というようなことがいえるのではないでしょうか?


直接の質問の内容は、冒頭に挙げた2点ですが、
それ以外の皆さんのご意見も幅広くうけたまわりたいと
思います。
長文おゆるしください。

江戸時代、豊臣家が滅んでからの大阪城には
誰が住んでいたのだろう…?なんてふと
疑問に思いました。大名でしょうか?

江戸時代の大阪には、武士が極端に少なかった
そうですが(ネットで調べたら200人足らず)
本当ですか?

だとすると、大阪は封建時代にほとんど封建と
いうものを意識しない、自由市場経済の中で
生きていたということになるのではないでしょうか。

東京に行くと、いつも意識するのは「身分をわきまえる」という気風です。

これは、武士が多く、身分の格差を肌で感じること...続きを読む

Aベストアンサー

江戸時代の大阪はごく初期に家康の外孫松平忠明が領した以外は天領(幕府直轄領)であした。(いまの大阪府の範囲なら小大名は高槻・岸和田にいましたが。)
そのかわりに、大阪には大阪城代がおかれ五万石クラスの譜代大名が赴任していたほか、大阪定番、大阪加番として一~二万石クラスの大名も赴任していました。
また城代の下には大番組の一組が一年交代で江戸から赴任してきており、そのほかに大阪町奉行などもあり、大阪にいる武士が二百人というのは過小すぎますが、大阪に住み着いている(単身赴任ではない)武士であれば町奉行所の与力・同心、大阪定番の与力・同心、大阪船手くらいですので二百人ほどになります。

Q江戸時代の夜の街の照明事情について

 時代劇などでは江戸時代の夜の花街を描写する時、決まって現代の繁華街のようにそこらじゅうが明るくて歩くのにも何不自由ないような場面をよく見ます。

 しかし、実際のところは菜種油などを燃料とした照明はかなり暗かったのではないでしょうか?
 資料を見ますと遊郭も結構遅い時間まで営業していたようですが、店をひやかしつつ歩きまわるにしても暗くて遊女の顔も良く見えなかったのでは?などと余計な心配までしてしまいます(笑)
 本当のところ歩くにも不自由ないくらいの照明であったのでしょうか?

 江戸時代に詳しい方のご教授をお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>資料を見ますと遊郭も結構遅い時間まで営業していたようですが、店をひやかしつつ歩きまわるにしても暗くて遊女の顔も良く見えなかったのでは?などと余計な心配までしてしまいます

遊郭では、百目蝋燭をふんだんに点していましたので、遊女の顔や衣装は、けっこう明るかったので見ることができした。
大門は、基本的には、明け六ツ(午前6時)~夜四ツ(午後十時)までですが、横に木戸があり、ここから客は出入りをしていました。不夜城は吉原だけでした。


>>本当のところ歩くにも不自由ないくらいの照明であったのでしょうか?

江戸では、夜になると「戒厳令」がしかれており、夜の外出はよほどのことがない限り、外出はできませんでした。
そして、必ず1軒には少なくとも1貼りの提灯を常備することが「義務付け」られていました。
夜の外出では、必ず提灯を持つことも「義務付け」られていました。
提灯を持たずに外出した際、夜盗と間違えられて切り殺されても文句は言えなかったのです。

また、道を歩くだけであれば、月夜の晩などは、月の明かりだけでも十分歩くことができました。
現代の我々のように街路灯に慣れてしっている人々からは考えられないくらい、夜は暗くて当たり前だったのです。

従って、提灯一つあれば十分な明かりだったのです。


>>実際のところは菜種油などを燃料とした照明はかなり暗かったのではないでしょうか?

屋内では、江戸時代中期(元禄年間)頃より行灯が大変に普及しました。
これは、受け皿に灯心を灯しただけよれも、その四方に紙を貼ることで、明かりが集中して照らしてくれるようになり本も読めるくらいの明るさになったのです。
ただし、菜種油を使用できるのは、武家や商家など裕福層に限られており、庶民は「魚油」を使っていました。
魚油は臭いもきつく、また、煤がたくさん出ましたが、庶民にとっては安い魚油で我慢しました。
「暗くなったから、寝るぺーか」
が、常識だったのでしょうね。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>資料を見ますと遊郭も結構遅い時間まで営業していたようですが、店をひやかしつつ歩きまわるにしても暗くて遊女の顔も良く見えなかったのでは?などと余計な心配までしてしまいます

遊郭では、百目蝋燭をふんだんに点していましたので、遊女の顔や衣装は、けっこう明るかったので見ることができした。
大門は、基本的には、明け六ツ(午前6時)~夜四ツ(午後十時)までですが、横に木戸があり、ここから客は出入りをしていました。不夜城は吉原だけでした。


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Q京都から東京まで徒歩で何日かかりますか?

京都から東京まで徒歩で旅をしたいと思うのですが、特にスポーツもやっていない普通の生活をしている人間です。普段歩くことも少ないです。ホテルで寝ている時や食事の時以外は極力歩こうと思いますが、大体何日ぐらいかかりますか?

Aベストアンサー

500キロ近くあるわけですが、
http://drive.mapion.co.jp/route/?nl=35.37359460896306&el=137.6477600911867&scl=2&stx=135.7699174066398&sty=34.99114873312197&edx=139.68247972582876&edy=35.67667313215638&chg=0

長距離を歩く場合は翌日に疲労が残ることも考えて、
時速3キロで8時間くらいが妥当なところでしょう。
けっこうだらだらのペースです。
普通に歩くと4キロ
早足で5キロくらいになります。

日によっては7時間ということもあるでしょうし。
となるとやはり1日20キロから25キロくらいとなるわけです。

とすると普段歩き慣れていな人が歩くとなると、約20日くらいですね。
もちろん、3日も歩けば歩くことに慣れてくるので、
ペースは上がりますが、その分疲労も蓄積されてきます。

Q原爆・長崎・広島の被害者数は一体どれくらいなんでしょうか。

鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて
12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
です。

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む

Q電車に飛びこんで自殺した方の親族は本当に多額の賠償金みたいなのをはらうのでしょうか?

電車に飛びこんで自殺した方の親族は本当に多額の賠償金みたいなのをはらうのでしょうか?

 そのまんまです。よくそういう話は聞きますけど、噂以上にわかりません。家族だからと言って連帯保証人でもないと思いますし、仮にそうでも額がでかいと即自己破産なきもしますし、死者の財産を放棄すれば債務放棄ということにもなるような気がしますが、良く分かりません。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

以前聞いた話しでは実際に請求、支払までいくことはないと言ってましたが・・・

自殺→電車に飛び込む→通常の精神状態では出来ない

のような理由だそうです。一億円以上等、高額の賠償金や
慰謝料の話しは鉄道関係者がある程度意図的に流しているようで(そう簡単に電車に飛び込まれては困る)。
それよりも飛び込まれた電車の運転手さんの精神的ショックのほうが大きくて事故後強制的に1ヶ月の休暇をとらされるようです。

いずれにしろ、電車で飛び込み自殺なんて絶対にいけません!!


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