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デリダの哲学のエッセンスを、なんとか中学生にも分かるくらいのレベルで解説していただけませんか?

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A 回答 (2件)

 よく使われる哲学的表現に、自分と「自分」があります。

「」なしの自分は実際の自分で、カッコつきの「自分」はOOだと思われているレッテルを貼られた自分です。他人がレッテルを貼るときもあれば、自分でレッテルを貼るときもあります。同様に、ものと「もの」も使い分けられます。

 私たちが考える「もの」とは、常にそれ自身から遅れています。しかし、私たちは、「もの」はつねにひとつの同じ「もの」だと考えてしまいます。デリダはこのように「もの」が安定して目の前にあるように見なす態度を批判します。この偽〔いつわり〕の安定を取り除かなくてはならないと主張します。
 偽りの安定を打ち破るためにデリダが持ち出したのが、脱構築〔だつこうちく〕と呼ばれる独特な方法概念でした。外側から壊すのではなく、内側から変化させるものです。男と女、人間と自然などのような二項対立に揺さぶりをかけ、意味の内側から、これまで受け入れられてきた意味を書き換えてしまうのです。

 デリダの前から“差異”という言葉は使われていました。イヌとオオカミの違いは?。では、ヤマイヌとは?私たちがものを識別しているのは差異によってですが、その区切り方によってはちがう名前がついてしまいます。ところがそのイヌでさえ、さっきまでの「イヌ」は、いまの「イヌ」とは違っているという点を考慮していません。このことをデリダは、空間的な差異と時間的な遅延の2つの意味をあわせもった、差延〔さえん〕という造語で表現しました。

 では、脱構築の例は、どう言えばいいのでしょう。OO主義を批判して、『OO主義はよくない!』と叫ぶのではなく、『OO主義はいいね!』と言いながら、OO主義の意味する中身を変えてしまう、といったことではないかと思います。・公共事業を批判するのではなく、公共事業の意味する中身を変えてしまうようなことです。

 私たちは、すでに文化の仕組みの内側に入っています。だから外に出たと思っても、それは幻想かもしれません。この時代の、この世界の常識の枠からはみ出して考えることはできないのかも知れません。・脳のある部分の役割が何であるのか表現しようとしても、今流通している表現でしか考え付きません。右脳は空間認識と感覚をつかさどり、左脳は理論と言葉をつかさどる。そうでしょうか。右脳は新奇性をつかさどり、左脳は慣例をつかさどると表現し直されたりしています。

 ・『ねぇ、仕事が大事なの、私が大事なの?』という質問には、そのまま答えず、二項対立の構造自体を崩すように答えるのが賢い答え方ですネ。

  ・ジャック・デリダと言えば、“差延”と“脱構築”を押さえておけばいいでしょう。

 ・は僕の独自の理解・見解・例です。
 
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この回答へのお礼

脱構築と差延ですね!大変興味が湧きました!ありがとうございました!

お礼日時:2013/02/04 20:20

 デリダ(1930~2004・仏)は一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられています。

ポストとはpost(~の後に)という意味で、「反」構造主義という意味ではありません。
 では構造主義とは何か?。それは、一見関係のない違う2つ以上の現象に共通して潜在する構造を見つけ出し、理解(時には制御)しようとする方法論を指します。言語学・精神分析学・文化人類学・社会学・文芸批評などで応用されています。たとえば、文化人類学者のレヴィ=ストロース(デリダの22歳年上・仏)は、“交換”という構造で未開人の行動を括〔くく〕ってみました。先祖にお供えをするのも交換だし、コミュニケーションも言葉の交換だし、結婚も女性の交換とみなして、考えたのです。すると、未開社会でのイトコ同士の禁止される男女パターンを説明できたりしたのです。また、“無意識”という構造を仮定して分析を試みるフロイト(74年上・墺)やユング(55年上・瑞)の手法も構造主義の一種と言えます。近代言語学の父と呼ばれるソシュール(73年上・瑞)は、言語の歴史を研究してみて、言語の本質が数学の構造に近いと感じました。“ラング”と呼ぶ規則体系(=見えない構造)があることを見抜き、時代によって変化しないこの構造こそが言語の本質だと考えました。イヌをイヌと呼ぶのに必然性はなく、恣意的に差異をとらまえて楔〔くさび〕を打ち込み、「イヌ」を「オオカミ」と区別しているだけだと考えたのです。伝統的な哲学では、「もの」はそれ自体で存在するという考え方が主流でしたが、現代では、「もの」とは何かとの関係で存在するという見方が強くなっています。
 構造主義は「人間」中心の考えに対する批判として1960年代に登場しました。その「人間」中心主義が成立した背景には、産業革命(1760~1830頃)によって富が社会に広くいきわたるようになったこと、同時に資本主義が普及して、各人が何を売り、何を買うのか自分で決めるようになったことがあります。主体性とは、この経済システムによって成立したと言えます。そして、正しく教育さえすれば、誰でも自分自身の力で理性的に考えることができるはずだとする啓蒙主義が誕生しました。人間は精神的に神から独立し、人間を中心とする世界観ができあがっていったのです。代表がカントです。カント(1724~1804・独)は人間の理性的認識の正しさを検討するために理性批判しました。そして、人間を離れた世界については考えてもわからないと結論付け、一方で人間が経験できる範囲の世界のことを“現象”と名付けて、これこそが学問の対象だと考え、この範囲の世界でなら理性的な正しい認識が可能だと考えたのです。

 構造主義が批判したサルトルにもふれなければならないのですが、今回はここまで。ふぅ~
 
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この回答へのお礼

構造主義について、大変よく分かりました!また、解説書などでは同列に並べられている哲学者たちがこんなに歳が離れているとは!なかなか普通に本を読んでいるだけでは気づかないところですね。なんか若手も先人を凌駕するような理論を打ち立てなくては!という気がしてきますね。

構造主義が人間中心への批判当店も大変興味深いと思いました。これはちょっと意外だったのですが、人間中心への批判、というのは第1、2次大戦の反省が一番大きかったんじゃないんですか?そこは触れられてなかったので…ズレてたらスミマセン。

とにかく勉強になりました、ありがとうございました!

お礼日時:2013/02/04 20:25

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Qわかりやすい「デリダ」の入門書ありますか?

できれば文庫本で出てればいいですね。
単行本でもいいです。
求めるところは「わかりやすくデリダの思想を一通り俯瞰したい」
ということです。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

まず、参考URLで未来社のサイト「デリダの部屋」をご紹介。
ここでデリダに関する文献、サイトが紹介されてます。

本は
上利博規:デリダ 人と思想(清水書院)
高橋哲哉:デリダ 脱構築(講談社)
かな。

アマゾンにレビューがあるんで、ぜひ参考に。

参考URL:http://www.miraisha.co.jp/derrida/

Q現代の哲学者にはどういう人がいますか?

哲学関連の本を最近読んでいますが、紹介されている人の多くがすでに無くなった人です。
いま、活躍している哲学者はたとえばどのような人がいますか?
宗教家ではなく、純粋に哲学者ということで知りたいので、よろしくお願いします。
また、どのようにして生計をたてているのかも知りたいのですが。やはり大学の先生だとか、副業をもっているのでしょうか。

Aベストアンサー

こんばんは。

存命の哲学者ですぐに思い浮かぶのは・・・

“戦う哲学者”と呼ばれてる? 中島 義道さんですかね・・・

『怒る技術』(PHP研究所)『私の嫌いな10の言葉』(新潮社)『孤独について』(文春新書)『哲学の道場』(ちくま新書)『<対話>のない社会』(PHP新書)『うるさい日本の私』(新潮文庫)『ウィーン愛憎』(中公新書)などの著書があります。
来歴は、手元に本が無いので失念しましたが、確かどこかの大学教授だったと思います。

ご参考まで・・・

Qポスト構造主義・ポストモダンとはどういう意味??

ポスト構造主義とかポストモダンという言葉をよく目にするのですが、簡単に言うとどういうことなのでしょうか?又、両者は同義なのでしょうか?

Aベストアンサー

> 簡単に言うとどういうことなのでしょうか?
短く簡単に述べると抽象的になり
簡単かつ具体的に述べると非常に長くなり、と
実は非常に難しいご質問です。
でも、頑張ります。

「ポスト」はラテン語で「後に来る」とか「次の」といった意味です。
「ポストモダン」とは「モダン(モダニズム=近代主義)の次の」という意味で
思想・哲学・建築・文学の分野で使われる用語ですが
ここでは思想・哲学に限定しましょう。

西洋史上、「近代」は概ねルネサンス、大航海、宗教改革以降の時代
特に市民社会と資本主義を特徴とする時代を指します。
そういう意味では現代も「近代」の延長上にありますが
1900年代後半から近代主義を批判する文化上の運動が活発化し
これ以降の時代を「ポストモダン」と呼びます。

思想・哲学史上における「ポストモダン」の代表的なモノに
1960年代に流行った「構造主義」があり
構造主義の流行が去った後の、構造主義の成果や反省を踏まえた次世代の思想を
「ポスト構造主義」と呼びます。
ちなみに現代は思想史上では「ポスト構造主義」時代にあたります。

このように、ポスト構造主義とかポストモダンというのは
時代区分の一種であって、その流れに属す思想は実はいろいろあります。
それゆえに一言で言うのは難しいのですが
共通する特徴として
●近代の行詰りを克服すべく、近代をいろいろな角度から反省している
●なかでも「形而上学」を反省しようとする態度が大きい
といったことが挙げられると思います。
ちなみに、ポストモダンの条件』を著した哲学者リオタールによれば
「ポストモダンとは大きな物語の終焉」だそうです。
何のことやら、よく分かりません。

形而上学というのは西洋哲学の主流の思想で
古くは古代ギリシャのアリストテレスによって始まり
「我思う故に我あり」で有名なデカルトによって一旦の完成を見た
(と教科書で教えられた筈の)ものです。

さて、以下、大胆に自己流に解釈します。
形而上学とはぶっちゃけ「理性」を武器に「絶対的に正しいものは何か?」を
言葉によって問うて来ました。
その到達点が「我思う、故に我あり」から始まる難解な思想なのですが
19世紀も終わり頃になると、まあ世界大戦勃発だの何だのと暗い世紀末だったので
思想的にも大反省期に入る訳です。
その中でも、大きくメスが入ったのが「言葉」で
ソシュールの「記号論」なんかが有名ですが
簡単に言えば「人間は言葉でしか物事を考えられないが
言葉には限界があり、よって思考にも限界がある」といったことを訴えたのですね。
これは例えば「日本語しかしゃべれない日本人は日本語でしか物事を考えられないので
日本語にない概念については語ることが出来ない」と言えば
何となくお分かり頂けると思います>翻訳できない言葉とかって結構ありますよね。
このように言葉の構造を探ることで言葉の限界を考察したのが記号論ですが
この記号論を発展させて、思考やら文化やらの構造を考察したのが「構造主義」で
メルロ=ポンティなんて人が有名です。

OKWaveにも「○○って、どういうことなのでしょうか?」といった質問が沢山寄せられますが
このように「ひとつの正解に還元できる」という考え方は実は非常に形而上学的な発想で
構造主義的に答えると「ひとそれぞれ、いろいろな考え方があります」
みたいな発想から入り、それぞれの偏見みたいなことを考えていきます。
なので、ときに「相対主義」だと批判されます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3

> 簡単に言うとどういうことなのでしょうか?
短く簡単に述べると抽象的になり
簡単かつ具体的に述べると非常に長くなり、と
実は非常に難しいご質問です。
でも、頑張ります。

「ポスト」はラテン語で「後に来る」とか「次の」といった意味です。
「ポストモダン」とは「モダン(モダニズム=近代主義)の次の」という意味で
思想・哲学・建築・文学の分野で使われる用語ですが
ここでは思想・哲学に限定しましょう。

西洋史上、「近代」は概ねルネサンス、大航海、宗教改革以降の時代
特に市民社会...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Qニーチェのいう超人とは一体どのようなものですか?

連続投稿ですみませんm(_ _;)m
哲学でニーチェ先生を勉強しているんですが、難しくてさっぱりです…;

極論ですが永劫回帰とは、ようは地獄(現実)が繰り返される事を意味するんですよね?;
それを受け止め(運命として)精神的に乗り越える人のことを「超人」と呼ぶ、でいいんでしょうか?;
運命を変える人の事を「超人」というわけではないのですね;

なんだか納得できるような納得できないような…;
あと、個人的に「虚無」についても勉強してるんですが、これに打ち勝てるようなものは存在しないのでしょうか?(この質問は任意で結構です;)
もし、何か御存知でしたら教えて頂けないでしょうか?
勉強し始めたばかりで、誰が何が良いかも分かりません(><;)
本も難しいのが多くてどれがよいやら…;

Aベストアンサー

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。しかし「超人」は、永劫回帰のニヒリズムに対してさえ、「これが人生だったのか、よし、さらばもう一度!」と自己の生を肯定して、より強く生きていこうとする人なのです。またさらに言うなら、「超人」とは、自らが自分の運命をつくり出していく意志を持った人ともいえます。

◎「きみたちが、きみたちの父祖の子孫であることを、きみたちは、きみたちの子孫たちによって償うべきだとは、『過去に囚われるな、未来を見よ』という事なのでしょうか?」について

 この文章の私流の解釈は、「自らの過酷な『運命』や悔恨の『過去』(ある意味では運命とも言える「過去」)を、きみたちは、積極的に『未来』に働きかけることによって、その意味をプラスにすべきなのだ」といった具合です。つまり、肯定的な「未来」を創造することによって、過酷な「運命」や「過去」は自分にとって大切な存在になるのです。ところが、それに「囚われ」ているということは、「運命」や「過去」を呪っている結果であり、「超人」の創造的な生き方ではないのです。

◎「運命(過去?)を愛せよ、という割には「償う」という表現を使うのは矛盾しているような…」について

 自分の「運命」を呪い、現にあるものと違ったものであればよかったのにという考え方は、能力や財力のある者・健康な者に対するねたみや恨みが隠されており、それは弱者の考え方なのです。「超人」は、あらゆる「運命」と向き合い、それを必然なものとして受け入れ愛する人間なのです。なぜならば、その過酷な「運命」が自己を高め、より強大にしてくれる起爆剤を内包していることを、「超人」は知っているからなのです。そして、その過酷な「運命」を、自分にとってプラスの意味あるものにすることが「償う」ということであり、またそれは、過酷な「運命」から逃げず、それと向き合い、それを必然なものとして愛する「超人」にこそ可能なのです。なお最後に、またニーチェの言葉を紹介して締めくくります。 

「いまだに決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない」
  

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。...続きを読む

Qジャック・デリダとポストモダンの関係

最近、東浩紀にはまったんですがポストモダンについていまいちよく分かりません。
モダンのあとにくるもの、というのは分かるのですが。

あと、デリダとポストモダンの関係も分かれば教えて下さい。

Aベストアンサー

このスペースで説明するのはしんどいので
東浩紀を読まれるぐらいの方なら
入門書を数冊読んじゃった方がイイと思います。
別冊宝島44「現代思想・入門」が手っ取り早く分かりやすいと思います。

簡単に、ごく簡単に説明してみます。
アリストテレス等によって始まった「形而上学」は
デカルトによってひとつの完成に至ったとされ
ここに「近代(モダン)」が花開きます。
現代思想はしばしばポストモダンと呼ばれますが
これは、19世紀後半、ニーチェに始まる「形而上学」批判の流れにあるものです。
形而上学批判は実存主義、記号論、構造主義などとして展開しますが
デリダは構造主義を継承したポスト構造主義を代表する哲学者であるとともに
現代の「形而上学批判」の頂点とされる人のようです。

Qメタファーとは

メタファーとはなんでしょうか?まったく意味がわかりません。
何かわかりやすく説明しているいいサイトなどありましたら合わせてよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
メタフォア(メタファーとも言います。metaphor)は、比喩の一種で、シミル(simile)と並んで、代表的な比喩の修辞技法です。

メタフォアは、「暗喩・隠喩」と呼ばれ、シミルは「直喩・明喩」と呼ばれます。形の上からは、「……のような」「……に似た」というような言葉が入っているのがシミルで、入っていないのがメタフォアだという区別がありますが、内容的にはかなり難しいです。

易しい例を挙げると、一般的に、次のように対比させます:

「彼は、キツネのようにずるい」……「ように」がありシミル。
「彼は執念深いこと、蛇のようだ」……「ようだ」がありシミル。

メタフォアはこれに対し、

「彼はまさに希代のキツネだ」
「彼は蛇だ」

前者のシミル(直喩)では、「ように」などがあるのとは別に、「何を喩えているのか」が、明示されています。彼がキツネなのは、「ずるさ」が比喩されています。彼が蛇なのは、「執念深さ」で比喩されています。

しかし、後のメタフォア(暗喩)では、どこがキツネで、どこが蛇なのか、明示されていません。「ように」とか「似て」は、「キツネのように狡猾だ」「蛇に似て執念深い」などで使うので、何を比喩しているのか明示する言葉が来るのです。

彼はキツネだ。彼はイヌだ。彼は蛇だ。……などは、よく使う比喩なので、メタフォアの形をしていても、前後の関係から、何がキツネで、何がイヌか分かります。「キツネだ」というと、狡賢いになりますし、「イヌだ」というと、誰かの忠実な手先だという意味です。

シミルの形をしていても、どこが比喩なのか分からないシミルもあります。例えば、「青い湖水を静かに泳いで行く白鳥のように彼は穏やかに微笑した」というのは、「穏やかさ」を比喩するシミルですが、「青い湖水を静かに泳いで行く白鳥」が、どういう関係で、「微笑の穏やかさ」になるのか、よく分かりません。

こういうのは、形の上では、シミルですが、実質はメタフォアになっています。

メタフォアというのは、「詩」で多く使われますし、効果的に使うと、非常に印象的になります。

「兵士は、獲物を探す鷹の目で、遙か眼下の平野を見下ろした」というのは、おそらく、「鋭い視線・注意深い視線・鷹のように獰猛な意志」などの比喩なのでしょうが、読む人によって色々なものが、想像され、了解されます。

「西欧中世の古風な宮廷舞踊会の毎日のように、時が傍らを過ぎ去って行った」というのは、「ように」がありますが、これはシミルではありません。時間が経過したというのは、分かるのですが、どういう風に経過したのか、その部分がメタフォアになっています。

華麗に過ぎ去ったのか、繰り返しのように過ぎ去ったのか、静かに過ぎ去ったのか、典雅に過ぎ去ったのか、退屈に過ぎ去ったのか……読む人により、前後の文章により、色々なイメージや意味になります。

つまり、何か「比喩」なのですが、意味が明白でない代わり、イメージや雰囲気があり、「暗示的な比喩」であるのです。

メタフォアが多い文章というのは、イメージや雰囲気は豊かなのですが、それで何なのかが分かりにくいような文章です。メタフォアのイメージや雰囲気を味わうことが意味あることになります。

「新月の夜の緑の沼の眸で、スレートの笑いを彼は頬に浮かべた」では、何のことかよく分かりません。「暗い緑の眸で、スレートのように硬い笑いを彼は頬に浮かべた」なら分かります。「スレートの笑い」は、シミルで言えば、「スレートのように硬い」になるのです。

しかし、そう言ってしまうと、イメージや雰囲気の余韻が出てこなくなるので、メタフォアという、何をどう比喩しているのか、イメージなどは分かるが、それが何を意味するのか、自分で味わって了解しなければならない修辞の形式を使うのです。

メタフォアというのは、文章修辞の典型で、詩の本質は、このメタフォアのできぐあいに係っているという見解もあります。

また、以上は、文章修辞のメタフォアですが、メタフォアは、人間の概念思考に常に付随するもので、あらゆる芸術や日常生活にも、メタフォアが関係するというのが、一般的な考えです。三番目のURLは、かなり難しい文章ですが、メタフォア論になっています。

>日本語の修辞法―レトリック
>http://www.sanseido.net/Main/hyakka2/Rheto/rheto_rhe.html#two

>特別企画 第六回 比喩
>http://plaza5.mbn.or.jp/~gendaibun/kikaku/kikaku0601.html

>メタファーと認知
>http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~mogami/metapher94.html
 

参考URL:http://www.sanseido.net/Main/hyakka2/Rheto/rheto_rhe.html#two,http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~mogami/metapher94.html

 
メタフォア(メタファーとも言います。metaphor)は、比喩の一種で、シミル(simile)と並んで、代表的な比喩の修辞技法です。

メタフォアは、「暗喩・隠喩」と呼ばれ、シミルは「直喩・明喩」と呼ばれます。形の上からは、「……のような」「……に似た」というような言葉が入っているのがシミルで、入っていないのがメタフォアだという区別がありますが、内容的にはかなり難しいです。

易しい例を挙げると、一般的に、次のように対比させます:

「彼は、キツネのようにずるい」……「ように」がありシミ...続きを読む

Qイスラム教の聖地はエルサレム、メッカ?

イスラム教の聖地とはエルサレム、メッカ、どちらなのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

どっちもです。

メッカ、メディナ、エルサレムの3つの都市が、イスラム教の三大聖地とされているようです。

メッカには、「神の館」であるカーバ神殿があり、また、預言者モハメッドの生誕地でもあります。

メディナには、モハメッドの墓所に建てられたモスクがあるらしいです。

エルサレムは、モハメッドが天に登った場所だそうです。

Qフェイスブックはアカウントがないとみれないんですか?

フェイスブックはアカウントがないとみれないんですか?

Aベストアンサー

基本的にはそうです。
アカウントのない人でも見られるFacebookのタイムラインは、相手の人が外部検索でヒットしてもいいように設定している場合のみですが、それでもプロフィール写真、カバー写真と、一部の情報に限られます。

ただし、上記は個人アカウントの場合です、企業アカウント(Facebookページ)は自分がFacebookアカウントをもっていなくても見ることはできます。ただしコメントなど投稿する為にはFacebookにログインしなくてはいけないので、アカウントがないとROMのみになります。


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