【最大10000ポイント】当たる!!質問投稿キャンペーン!

 江戸時代の歌について教えてください。
 江戸時代、特に幕末に市井に流行した手鞠歌や、吉原などの遊郭で流行った戯れ歌など、そういったものが知りたいです(幕末でいう『上喜撰……』やトコトンヤレ節のようなものです)。短歌、都々逸など、どんな種類のものでもいいです。
 その歌詞、もしくは題名を教えてください。一緒に流行した時代も表記していただけるとありがたいです。また、そういったものが掲載されているサイトでも嬉しいです。
 細かい質問ですが、回答よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (1件)

「かんかんのう」 長崎で流行し江戸へは文化末年流行。


「とっちりとん」 文化~文政流行。
「げほう」 大津絵節、大津の妓女から弘化初めから流行。
「かっぽれ」 京阪から維新前後に江戸で流行。
「蝶々とんぼ(猫じゃ)」 文政中ごろ江戸で流行。
「こちゃえ節(はねだ節)」 天保初め江戸で流行。
「茄子とかぼちゃ」 幕末流行。
「お江戸日本橋」 天保から。
「なげ節」 明暦、京都から江戸へ。
「向こう横丁」のお稲荷さんへ、一文あげて…
「手まり唄」  おん正々お正月 松立て竹立て 喜ぶ…
   幕末から流行。

どど逸   九尺二間に過ぎたるものは
       紅のついたる火吹き竹  …

まだまだあります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

さっそくの回答、有難うございます。
こんな感じのが知りたかったんです! 時代も明記していただいて、本当に助かります。ひとつひとつ調べて、参考にさせていただきます。
詳しい回答、有難うございました。

お礼日時:2013/02/09 11:54

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q「このダボが!」のダボの意味

ドラマを見ていたらでてきましたが
どういう意味なのでしょうか。
語源も気になります。

Aベストアンサー

神戸より西の方言です。
「アホ」「バカ」と、同意語です。

Q江戸時代の面白い遊びについて

江戸時代に流行した、面白い遊びについて調べています。
今の時代でも「すごい!」と驚くものや、思わず熱中してしまいそうな、楽しくて粋な遊びがあったら教えてください!

Aベストアンサー

こんなものですか?

和製ダーツの「投扇興(トウセンキョウ)」
http://homepage2.nifty.com/bwc/dg_tosen.htm

ムシキングも真っ青の「蜘蛛合戦」
http://www.geocities.com/Heartland/Valley/8116/society.html

Qカンカンノウについて

 「カンカンノウ」という踊り?や歌?のことが、本などを読んでいるとごくたまに出てくるのですが、どうやら落語の中で出てくるらしく卑猥な歌?らしい、ということしかわかりません。
 ネットでも調べてみて、歌詞らしきものも見つかりましたが、どこが卑猥なのかよく分かりませんでした。
 もしかして、どこか日本以外の言語なのでしょうか?
 歌詞の意味や由来・背景についてご存知の方、分かる範囲でけっこうですのでどうぞ教えてください。

Aベストアンサー

とくに卑猥なものではないはずですよ(笑)。
落語で有名なのは「らくだ」で、死んだ「らくだ」の葬式代を家主にに出させるべく「出さないと死人にかんかんのうを踊らせる」と脅す場面がありますが、
これは歌舞伎になっており、「かんかんのう」を踊るシーンもあります。
といっても、生きているヒトがらくだの死体の手足を動かしてバタバタさせるだけですが。
この場面については派手な、妙な動きをしているというだけです。

もとは1番のかたもお書きになっているように中国(清)の歌に振りを付けたものです。
とはいえ意味分かって歌っているわけではなく、響きのおもしろい音を口まねしているだけのはずです。
意味不明の中国語の口まねは、当時よく面白がられ、舞台に中国人が出て、意味不明の言葉をしゃべる、それだけでお芝居が大入りになったこともあるほどです。
で、清風の衣装を着て踊ります。
長崎でまず流行り、江戸→上方にと逆流して伝播したようです。文化から文政のころです。時代のイメージとしては鶴屋南北が「東海道四谷怪談」書いたころで、全体にちょっとエログロでバイオレンスなものが受けたころと思ってよろしいと思います。

当時はテレビがありませんから、道で芸をして小銭をかせぐ路上パフォーマーはたいへん多かったようです。
何かが当たると、類似品がたくさん出回りました。

というわけで当時のこういう大道芸的なパフォーマンスは、流行るとともに原型を失っていきます。
「歌祭文」というのがもともとは節を付けて仏の教えを説いていたはずが、だんだん心中事件などを歌ってあるくようになった、などが象徴的だと思います。
というわけで「かんかんのう」もだんだん妙な衣装で妙な振り付け、歌の文句に「かんかんのう」が入っているだけ、
という状態になったことが想像されます。
実際「らくだ」の「かんかんのう」は(まあ端から真面目にやる気はない設定だとしても)下座の音楽も含めて異国テイストは殆ど感じられません。

これは一度廃れます。かなり詳しく当時の大道芸について記している江戸末期の著作「近世風俗誌」には出てきません。
で、明治中期に復活します。「法界節」と呼ばれました。
こちらは衣装は日本風だったようです。
「らくだ」(というか現行の落語作品の殆ど)は明治時代の作品ですので、「かんかんのう」と言うとき、このとき流行った「法界節」もイメージされているかもしれません。

とくに卑猥なものではないはずですよ(笑)。
落語で有名なのは「らくだ」で、死んだ「らくだ」の葬式代を家主にに出させるべく「出さないと死人にかんかんのうを踊らせる」と脅す場面がありますが、
これは歌舞伎になっており、「かんかんのう」を踊るシーンもあります。
といっても、生きているヒトがらくだの死体の手足を動かしてバタバタさせるだけですが。
この場面については派手な、妙な動きをしているというだけです。

もとは1番のかたもお書きになっているように中国(清)の歌に振りを付けたもの...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q遊女はどれくらいの借金がありましたか(江戸時代)

遊女は少額で売られてきて、多額の借金を背負ったと聞いたことがあります。
実際にはどれくらいの借金を背負ったのでしょうか?
借金の額はどのような計算で決まったのでしょうか。
また身受けする場合はどれくらいの金額が必要だったでしょうか。

Aベストアンサー

こんばんわ。
私の「つたない」解説をお読みいただきありがとうございます。

>>1.遊女は実家に仕送りなどしていたのでしょうか?

仕送りをする・・・美談ですね。
でも、実際には「不可能」でした。
前回、
(2)揚代や酒色での代金の25%が遊女の取り分。75%が楼主の取り分でした。
と、記載しましたが、遊女は25%の中から、さらに、15%を借金の返済に取られました。従って、自分の自由になる銭は10%でした。
史料によると、揚代は以下のように変遷しています。
寛永18年(1641)頃
太夫=1両
明暦年間(1655~1658)頃
太夫=60匁、格子=26匁、散茶=金1分、局=3匁
元禄年間(1688~1704)頃
太夫=37匁、格子=26匁、局=3~5匁
享保19年(1734)
太夫=74匁、格子=52匁、散茶=1分、梅茶=10匁
延享2年(1745)
太夫=90匁、格子=60匁

時代により、現在の金銭の換算は変化をしますが、おおむね・・・。
1匁=約1500~2500円。
ただし、寛永18年の太夫=1両=約25万円。
その10%=2万5000円。
酒食のバックマージンがあったとしても、せいぜい、3万円位。
享保19年では、74匁=約19万円
10%=1万9000円。酒食のバックを入れても2万円少々。
太夫でさえそれ位ですから、太夫以下は押して知るべし。
とても、実家などへの「仕送り」などはできませんでした。
そして、15%を借金の返済に取られましたので、まあ、「苦海(苦界)10年」で、何とか、借金を返して、自由の身になれたのです。

>>2.遊女は吉原から外で出ることはなかったそうですが、本当にそうですか?花見とか月見とか、なじみの客とでかけたりしませんでしたか。

3月には「お花見」などで、主に「上野のお山」へ行きました。
「妓楼」単位で「若衆」の見張り付きで行われましたので、途中で「逃げ出す」ことなどはできませんでした。
次のサイトで吉原の「年中行事」が出ています。ご参考までに・・・。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/sukeroku/bangai/nenjyuugyouji.htm
馴染みの客とのデート・・・これは、「厳禁」でした。
遊女が、もし、その男と姿をくらましたら、折角の商売道具を取られたようなものですから、これはできませんでした。
もし、妓楼から逃げ出したり、男がそれを手伝ったりした時は、男は殺されました。
また、遊女も「遣手(やりて)」によって、竹刀でさんざんに叩かれたり、一晩立ち木に縛られたり、時には、攻め殺しにあうこともありました。他の遊女への「見せしめ」があったからです。
奉行所も、よほどの「たれこみ」がない限り、出張ることはせず、またもし、出張ったとしても、多額の「わいろ」でもみ消されました。

>>病気になって小石川養生所へ移されるとか。

「病」としては、大別して「瘡(かさ=梅毒)」と「労咳(肺結核)」でしたが、働きが良かった(客を大勢取った)遊女は、その妓楼の別宅で養生させてもらえましたが、大部分の遊女は、微熱があろうと、喀血をしながらも、多くの客を取らされました。
そして、いよいよ「ダメだな」となると、妓楼内の日当たりも良くない、薄暗い納戸のようなところへ閉じ込められ、食事もほとんど与えられずに遊女の「死」を待つだけでした。
遊女が死ぬと、腰巻一枚の丸裸にして、菰(こも)に包んで銭200文を付けて「投げ込み寺」へ。
寺では、「総墓」と呼ばれる大きな穴に投げ込み、簡単なお経を読んで供養を済ませました。
従って、小石川養生所などはもとより、医者にかかることさえできませんでした。

>>3.ご祝儀は自分のものにできましたか?

これは、自分のものになりました。
しかし、吉原ができた頃は、主に裕福な「武士」を対象としていました。これには、幕府の考えとして、金持ちの大名や武士が居ては、いつ幕府転覆をされないとも限らない、と、言う理由から、大名や高級武士、豪商などに限られていました。つまり、散財をさせて貧乏にする、と言う政策でした。
庶民が自由に大門を出入りできるようになったのは、元禄年間(1688~1704)頃からでした。
ですから、当初は「太夫」と言う「超エリート」が大名などにもてはやされ、「書」「読」「囲碁」「将棋」などの素養を必要としました。
だが、庶民が出入りするようになってからは、一晩抱くには、余りにも窮屈で、宝暦年間(1751~1764)頃には「太夫」は消滅をし、そこそこの器量で、そこそこの話題についていける「花魁」に変わりました。
しかし、京都や大阪では「太夫」の名称は残りました。
それは、江戸と違い、京や大阪では、「踊り」などの「芸」に優れた者を「太夫」と呼ぶ習慣があったからです。江戸の「太夫」ほどの教養は必要としなかった。
また、ご祝儀は「自分のもの」になったとはいえ、庶民にとっては、吉原で遊女を揚げるだけで精一杯でしたので、よほど、お大尽でもなければ、「チップ」はもらえませんでしたし、お大尽になれば、「花魁」や「格子」などの格の上位を指名しましたので、それ以下の遊女は、めったに「チップ」はもらえませんでした。
享保時代に実際に?あつた話として、大工が1カ月かけて、銭200文(約6000円)を貯めて、やっと、吉原へ繰り出した、という話もあります。まあ、せいぜい「次」などの下級の遊女でも買ったのでしょうね。

こんばんわ。
私の「つたない」解説をお読みいただきありがとうございます。

>>1.遊女は実家に仕送りなどしていたのでしょうか?

仕送りをする・・・美談ですね。
でも、実際には「不可能」でした。
前回、
(2)揚代や酒色での代金の25%が遊女の取り分。75%が楼主の取り分でした。
と、記載しましたが、遊女は25%の中から、さらに、15%を借金の返済に取られました。従って、自分の自由になる銭は10%でした。
史料によると、揚代は以下のように変遷しています。
寛永18年(1...続きを読む

Qだらり結びの結び方

だらり結びとはどうやって結ぶのですか?

また舞妓さんがしているような画像をよくみますが、普通の半幅帯か名古屋帯でもできますか?

Aベストアンサー

結び方だけなら、あれは普通のヒモをかた結びしたようなものですから、簡単です。
ひもの両端をブランとさせる、結び目を隠すように上げヒモをして・・・と。
帯がとても重たいの長いので、実際に、結ぶには腕力が要りますが。

ただ、よーっく、ダラリの帯を見てください。
裏表、同じ柄がついているはずです。(だから重たい、袋帯2本分以上重たい)

ぶらぶらさせているのに、裏表がない。
ソレと、胴体にぐるぐる巻いている帯の幅が、半分(4寸=20cm?)におってないでしょう?

立体構造として、腰骨から、胸まで、しゃんと、帯幅で「柱」にしないと、どうやっても腰骨のうえまで、帯が落ちてくるから、
帯幅いっぱいまで胴体にへぐるぐる出来るだけの「柱」が必要。

今は、帯というと、「結び」を見せますが、昔(江戸時代それ以前)は、帯そのものをみせるの本筋だったのです。
ぴらんとみせるように、反物を見せる様にです。
だから、浮世絵を見ても、みんな後姿では帯を幅いっぱいに、びらんびらんでしょう?

ぴらんぴらんだと、みせるにはいいけど、動くに不便。
それで、もっと「結ぶ」様になり、結びをアレンジするのが、いわば、あまりたいしたことない帯でも見せる、魅せる、手法になりました。
それから出来たのが、結びの部分の帯だけをみせる節約バージョンとして出来た、けち臭い帯・・・だから名古屋(俗説かもしれないですが、ふんどしの簡易バージョンを越中というのと同じでしょう、コレも本来の長さの半分ですむ)といいます。
ハンハバも普段使いの、節約帯ですから、元から長さ、幅ともに不足です。

帯、そのものをぴらんぴらんと、これ見よがしに、スゴイだろう、全部に柄がゴージャスにある・・・
・・・とみせるために、最低限の結び=だらりです。

帯を見せるものじゃない、半幅や、けち臭い目的が生まれの名古屋では元から、役不足なんです。
というか、舞台裏が全部見えるでしょう?
幅がぜんぜんない、長さがない、道中が半分しかないとか。

ちなみに、いまどきの袋帯(振袖用)なども、見えるとこだけ柄があるので、同での2重巻きの部分の下に相当するところには柄ナシで、裏にも柄がないです。
コレも、節約帯のパターンだから。

結び方だけなら、あれは普通のヒモをかた結びしたようなものですから、簡単です。
ひもの両端をブランとさせる、結び目を隠すように上げヒモをして・・・と。
帯がとても重たいの長いので、実際に、結ぶには腕力が要りますが。

ただ、よーっく、ダラリの帯を見てください。
裏表、同じ柄がついているはずです。(だから重たい、袋帯2本分以上重たい)

ぶらぶらさせているのに、裏表がない。
ソレと、胴体にぐるぐる巻いている帯の幅が、半分(4寸=20cm?)におってないでしょう?

立体構造として、腰骨か...続きを読む

Q江戸時代の墓について

数年前に江戸時代後半の先祖墓が見つかりとてもびっくりしています。墓石は70個くらいでしょうか。
凄い田舎で百姓をやってたと思うのですが、墓のひとつひとつが貧農ではまずこのような墓を作るのは困難と思われるようなものばかりなのです。
しっかりとした石を使っているためか、かなりの墓石の文字がはっきりわかります。
中には墓石に仏像が彫られ、着物に赤い色が塗られているのも数体あります。女性の墓石ではないかと推察しています。
写真を添付しますので、見ていただければ幸いです。
ネットで同様の墓石を探しても見当たりません。
なぜこのような墓を作ることができたのか?どのような推察でも構わないので教えてください。
また、昔の墓の研究をしているところがあればそれはどのようなところなのか、どうすれば調べられるのかわかれば
それも教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

江戸時代は土葬が基本です。
同時にお墓は個人単位が基本です。
たくさんの墓石が集団で見つかるのはこのためです。
ただ上質の石材を追加って丁寧に彫られていますことから、相当の名家であったのではないかと思います。
お墓を管理している菩提寺に過去帳は残されていませんでしょうか。
彫られている享年で推定はできます。

生前墓といって死ぬ前から用意することがあります。(長生きができるとされています)
この際に戒名などに朱を入れます。
この朱を入れる習慣の延長かどうかはわかりません。
男女は掘られている戒名等で判別は可能か思います。

いずれにせよ、お近くの博物館などの学芸員の方に一度みてもらってください。
市町村の役場で問い合わせ先を教えてもらえるのと、依頼ができるかと思います。
市町村の図書館で郷土史家の方を教えてもらえますので、その方とも一度話をしてみて下さい。
お住いの地区でどのようなことがあったのかは大よそ見当がつくかと思います。


人気Q&Aランキング