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 1. もしおそらくあやまって母性本能と呼ばれる場合の《本能》による場合でなければ 他者の利益になるような自己の行為というのは 敢えて言えば広く自己を活かす意味における利己にもとづく共生としての行為のほかには ないのではないか?

 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか?

 3. 自己を活かし他人をも活かそうとする共生としての自己表現であり そういう意志行為である。と見ることになるのではないか?

 4. 自己表現としての意志行為は 相手に援助をする場合 相手の意志行為における合意にもとづく。つまり それぞれの自己表現から成る共生行為である。(広い意味での《利己》に共生行為までもが含まれる)。


 5. 母性本能も 共生としての自己表現としての意志行為であるのではないか?

 6. 寄付行為は 自己もしくは相手あるいは両者のつながりが直接には定かでない場合は けっきょく同じく自己表現としての社会的な意志行為でしかない。のではないか? (社会行為は 一般に共生としての行為である)。

 7. 広く助け合いとしての互恵行為があるではないか?
 慈悲――特には無縁慈悲――なる行為は どう捉えるべきか?
 
 8. となりびとに成ることが 自己が活きほかのびとも活きる共生行為である。
 この命題と 前項の助け合いや無縁慈悲は どう同じでどう違うか?



 広く自由なご見解をお寄せください。

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A 回答 (22件中1~10件)

ブラジュロンヌ様。

 こんにちは。

ブラジュロンヌさんの許可があるなら、お礼の宿題をここで書いても良いですが、この「利他とは」という投稿サイトが建設的になるように別の視点で述べてみたいと思います。

こまあすさんの社会はホヤのような集合体であると言う考えに触発されました。

私は昔は生物の研究者を目指していましたが、専門的言葉になっていたらすみません。

個人というものが個々のの細胞であると考え、社会と言うものが個体であるとします。

こまあすさんはホヤと投稿しましたが、現在社会では価値観が多様化し、ホヤより進化した生物の個体(わかりやすく人間とします)に社会が進化したとします。

ある価値観を肯定する集団を体の器官(脳、心臓、胃、肝臓などなど・・)

しかしこれらだけでは人間の部分です。

私はキリスト教を信仰してますが、聖書にあるように、教会はキリストを頭とし、各個人は体の一部と表現されてます。

ですから、すべての器官が必要。

生物に戻りますが、細胞は癌化しそうな場合アポトーシス(細胞の自立的死)を起し、周りに影響を与えないような仕組みがあります。細胞の自殺とも表現されています。まさに利他です。

しかし、私は人間の自殺と言うものは否定します。いろいろ困難はありますが、せっかくの一度きりの人生の命ですから。

利他とは何かの回答になっていなかもしれませんが、利他を考える場合、ある価値観の集団(国、会社、ソーシャルネット等)に中で、お前の考えは癌だと言われても、それは体の器官の一部のことですから、自殺などせず、もっと広い視野(グローバルには)で、体全体の中では何か役に立っていると考えると、利他的行為と言うものをもっと肯定できるのではと考えます。

脱線しましたか?

この回答への補足

 ★ ブラジュロンヌさんの許可があるなら
 ☆ 《許可》も何も どうぞ まったく自由ですよ。

補足日時:2013/03/05 10:49
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この回答へのお礼

 うううーーーん。とまづは うなって ごあいさつを申し上げ ご回答への感謝をお伝えします。


 じつは 何を隠そう このあと聖句――たとえば《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》(ヨハネ福音15:13) ――についても問うつもりでいます。

 これも《利他》ではないか? と問い返されるものと考えます。

 ★ 生物に戻りますが、細胞は癌化しそうな場合アポトーシス(細胞の自立的死)を起し、周りに影響を与えないような仕組みがあります。細胞の自殺とも表現されています。まさに利他です。
 ☆ まぁ この事実そのものは あくまでも部分あるいは体の部位としての問題だという見方で 直接の反証にはならないと思っています。

 けれども 問題はそのような事実をたとえとして 実際にひとりの人間の存在がそのような行為におよぶ場合 《それ以上に大きな愛はない》と捉えるごとくに 《利他》ではないかという議論が提起されるときにあります。もし
 ★ ~~~~~~
 私はキリスト教を信仰してますが、聖書にあるように、教会はキリストを頭とし、各個人は体の一部と表現されてます。

 ですから、すべての器官が必要。
 ~~~~~~~~
 ☆ というごとくに 《器官》という部分や部位が そのままひとりの人間の存在にあてはまるとき 問題が起きます。


 あるいは――先にご見解のほうを復唱しておきますが――
 ★ ~~~~~
 ・・・利他を考える場合、ある価値観の集団(国、会社、ソーシャルネット等)の中で、お前の考えは癌だと言われても、それは体の器官の一部のことですから、自殺などせず、もっと広い視野(グローバルには)で、体全体の中では何か役に立っていると考えると、利他的行為と言うものをもっと肯定できるのではと考えます。
 ~~~~~~~
 ☆ つまり《アポトーシス(細胞の自立的死)》ということについて 枯れ葉がみづから落ちてゆく場合だけではなく 落ちてでも落ちる前にでも枯れ葉として部分的に全体の生命のために しかるべき行動を起こし 《共生》を担う一環と成っているという場合。

 つまりは《共生》という大きな命題(目的)のもとに その一環としての一部位をになって おのが自己表現を果たしている。そのときそれが担うハタラキは 《利他》ではないか? と。



 そうですね。大前提として《共生》。個々の場合に《利己ないし利他》の互恵的な意志行為。こうなるでしょうね まづは。

 それでももしその一部位の担うハタラキが アポトーシスのごとく《犠牲になる・ないし自死に到る》という場合には どう考えるか?


 ★ しかし、私は人間の自殺と言うものは否定します。いろいろ困難はありますが、せっかくの一度きりの人生の命ですから。
 ☆ わたしも このもうひとつの大前提の内容に拠ります。他殺も自殺(ないし自死)も すべて人殺しです。《カイン》の血を わたしたちは――めぐみとしてでしょうが―― もはや承けていません。《アベル》の血からも自由になっています。(これも 公理です。信仰の側からは またイエス・キリストの歴史的な登場を持ち出しましょうが)。


        *

 

 さらにあらためて考えました。
 アポトーシスの場合には 自己がすでに何らかのかたちで《朽ちて来つつある》という事実があって しかもこれを自己が自覚している状態にありますね?

 《朽ちつつある》ものが 朽ちて行くのは それほど問題になるとも思われません。そのときに《おのれの命を省みず ほかの人びとのために おのれのハタラキを果たす》と言っても それがどうして《利他》なる行為として分類されることになるか? 
 利他なる要素はあるけれども ひとつの《利他》というカテゴリを立ててそこに分類されるほどの内容は 必ずしもまだ成っていない。のではないか?

 なぜなら 《朽ちる》ことは おのれの広い意味での〔負のかたちにせよ〕利己行為であり そこに利他の要素も見られる。ということのようですから。


 ふううーう。どうでしょう?

 

お礼日時:2013/03/03 16:18

ブラジュロンヌ様 こんばんは



下記のNo.21における考え方を肯定いたします。

今日は7時30分からNHKの震災復興のための歌番組を観て、考えておりましたが、どれも、心にしみるいい歌詞ですね、楽器という美しいメロディーが付くとさらに心に働きかけられる。

音楽というものの力を改めて感じました。

やはり、愛とか希望とか、ひとりじゃないという言葉が多いですね。でも、そのような言葉に勇気付けられる私です。

キリスト教を信仰しているものとしては、こう考えました。

J-POPもなかなかですが、クラッシックのオーケストラを考えましょう。

神様は、交響曲「愛」というものを作曲された。

この曲は非常に長く、現段階では何楽章まで進んでいるかは、人間には、わかりません。

楽器ですが、ピアノは全音域が出せるようですが、他の楽器は音域は限定されています。

このいろいろな楽器が個々の私たち自身としましょう。

個々の楽器には得意分野(神様は個々の人間に賜物をおあたえになった)がある。

しかし、人類全員が利己心が強すぎ、演奏してしまうと、ハーモニーが崩れてしまう。

得意分野でない(音域が出ない)ところは、他の楽器に任せればよい。

また、出せる音域でも、他の楽器で弾いた方が、美しく聴こえ、譲ったほうが良いかもしれない。

これが利他。共存。

ある人は、シンバルなどのように、バイオリンなどに比べると、出番があまりないかもしれません。

しかし、この交響曲「愛」はすべての人類が人生のうち一度はかき鳴らすことが出来るように作曲されていて、じっと忍耐強く出番を待つと必ず出番はある。

そして、なによりも、全体の調和、ハーモニーを美しくしなければならない。

ちっぽけな人間の短い人生では、この超大曲交響曲「愛」の一部にしか参加できないですが、時代によるこのハーモニーが美しく聴こえるか、不協和音に聴こえるか、を論評し考えるのが、哲学の仕事である。

理想主義ですか?ご検討のほどを宜しくお願い致します
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この回答へのお礼

 あめんほてぷ2000さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ ~~~~
 しかし、人類全員が利己心が強すぎ、演奏してしまうと、ハーモニーが崩れてしまう。

 得意分野でない(音域が出ない)ところは、他の楽器に任せればよい。

 また、出せる音域でも、他の楽器で弾いた方が、美しく聴こえ、譲ったほうが良いかもしれない。

 これが利他。共存。
 ~~~~~~
 ☆ 《ゆづる》または《ゆづりあい》という鍵語として受け取りました。



 たとえばパスカルは例の『パンセ』で こんな話をしていました。

   前に川があって 一本の丸木橋がかかっている。
   都合悪く向こうからも人が来る。
   相手は従者をしたがえている。
   こちらは われ一人なり。
   だとすれば 社会公共の仕事をなす量や質が 相手のほうが上だ。
   ここは先をゆづろう と決めたのだと。





 あるいはちょっと変わったところで《復讐を控えた》という事例が 日本の昔話にあります。

 ○ オホケ・ヲケ兄弟のかたき討ちの物語 ~~~~~

 その昔 やまとの国では 市長(もしくは国王)の身辺でも 勢力争い・権力闘争が繰り広げられていました。
 次代の首長候補の市辺忍歯(イチノへノオシハ)のミコは 対抗勢力の雄略ワカタケルによって 暗殺されました。その野原にともにいたオシハの双子の息子たちは 命からがら逃げて 権力を握った雄略ワカタケルから隠れて いのちを長らえることにしました。

 ところが オシハの血筋の飯豊青(イヒトヨノアヲ=女性)は これら兄弟を 播磨の地で探し出したと言います。迎え入れられ ともに 続いて 首長の務めに就いたのですが そのとき 父の敵(かたき)を取らなければいけないという話が出ました。

 雄略ワカタケルは もう死んでいました。
 弟のほう(顕宗ヲケ)でしたかが 強硬派で そのみづからに首長の位を譲っていた兄(仁賢オホケ)に命じて ワカタケルの陵墓を壊せと指示しました。
 兄の仁賢オホケは 行って その陵墓の端っこを少し破壊して 戻ると その旨を伝えました。弟も これを了承しました。

 という話です。

 後日談も添えます。
 暗殺された野原の近くに 或る老婆(置き目の媼(おうな))が住んでいて じつは 暗殺の現場と その後 イチノヘノオシハが埋められるところを見ていて その場所を覚えていたそうです。
 じっさい 果たせるかな 掘り出してみると 歯が出て来て 出っ歯(押し歯)だったので 実証することが出来たとさ。・・・
 ▲(ヰキぺ:顕宗(ヲケ)天皇)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AE%97% …
 ~~~~~~~~~~~~~~




 もうひとつ 《くにゆづり》の昔話です。

 ▲(ヰキぺ:葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F% …

  天照大御神(アマテラスオホミカミ)ら高天原(たかまのはら)にいた神々(=天津神:あまつかみ)は、

   「葦原中国を統治するべきなのは、
    天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」

  とした。
  そのため、何人かの神を出雲に使わした。
  大國主神(オホクニヌシのカミ)の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降る(降参する)と、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 〔オホケ・ヲケの首長の血筋とは別の《アマテラス》国からの服属要求だと捉えられます。《尖閣諸島》の領土化であったのかどうか。のちには 婚姻でつながったようです〕。




 ゆづる側には おおむね
 ★ この超大曲交響曲「愛」に参加
 ☆ しているという自負とその実存の動態があると思われます。

 ゆづられる側は ややもすると 不当な要求を押しつけている場合があるかも知れません。
 じじつ雄略ワカタケルは 国の正式な史書としての『日本書紀』の中で《大悪天皇》と記されています。

 ▲(ヰキぺ:雄略天皇) § 3.1 大悪天皇の記述
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E7%95%A5% …



 ゆづりあいの精神は 利他の要素と関係しましょうが 《共存》と書いておられるように 双方のそれぞれの実存の――互いに自由でゆるやかなかたちながら またそれゆえ 現実味のゆたかな――からみあいの中におこなわれるものと考えられます。

 《からみあい ないし 関係性》 これが そこに正負両様のかたちを見せる交響曲『愛』の問題だと思います。
 ★ 時代によるこのハーモニーが美しく聴こえるか、不協和音に聴こえるか、を論評し考えるのが、哲学の仕事である。

お礼日時:2013/03/10 06:46

この命題を考えるにあたり逆転の発想ができないものかと逆さまから考えておりますが。



1)正当防衛行為は「利己」ですか?

2)引きこもりの方々もこのネットを見ているかもしれませんが、他人と関わるにあたり、傷つくのを恐れ、心を開かない、防衛行為は「利己」ですか?

話しがまとまりかけたところを、壊してしまったらすみませんが、このあたりに人間の「利他」なる秘密が隠されているような気がいたします。

うーん。謎が解明できないものか?

解釈をよろしくお願い致します。
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この回答へのお礼

 あめんほてぷ2000さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。いろんな角度から迫ってみましょうか。

 § 1 ブディズムにおける《慈悲》をめぐって 《利他》はどう捉えられるか

 ▲(ヰキぺ:慈悲) ~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2

 ・2 漢訳仏教圏における慈悲の思想的発展

 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。

 (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。

 (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。

 (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。
   
 この三縁の慈悲とは、

 第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、
 第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、
 第三は 仏の哀愍の心であると言える。

 この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。
 ~~~~~~~~~~~

 § 1-1
 《衆生縁の慈悲》: これは ふつうに思いやりであり 相談に乗ったりちょっとした助言を与えたり手伝ったりすることでよいと思われる。
 《利他》の要素をそこに見てもよいはずだが 特にこの思いやりを利他行為だと言うことは少ない。

 § 1-2 
 《法縁の慈悲》: けっきょくこれも思いやりに同じであろう。相談に乗られる側が 知識や経験が豊富である場合だと見ればよい。
 法律の専門家が ふつうは料金を取って解決策を示すとき 無料でそれをおこなったら 《利他》行為と言うであろうか?

 § 1-3 
 《無縁慈悲》: これは よく分からない。ブッダになってみないと分からない。

 もし人は その思いや行動がすべてにおいて真理によって知られており おのが心づもりや何を考えていたかを分かってもらえていると かなり自信がつく。真理がわが人生の軌跡を精神のたどって来た道として 理解していてくれると思うなら 心は癒される。

 このような事例において 《真理》の代わりに特定の人が同じ役目を果たすことが出来るか?
 ブッダとなった人なら 出来るか? ほんとうにそんな人間がいるか?


 § 2 ギリシャ語の《愛》を表わすことばをめぐって クリスチアニズムの見解を捉えて考えるに そこで《利他》はどう見なされているか

 あなたの提示された視点です。

 ▲(ヰキぺ:愛) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B
 1. 「ストルゲー」 στοργή storgē :キリスト教では家族愛。古代ギリシアでは風、火、水、土を結合させる愛。

 2. 「エロス」 έρως érōs: キリスト教では性愛。古代ギリシアでは自己を充実させる愛。

 3. 「フィーリア」 φιλία philía :キリスト教では隣人愛。古代ギリシアでは友人の友人に対する愛。

 4. 「アガペー」 αγάπη agápē : キリスト教では真の愛。古代ギリシアではあるものを他よりも優遇する愛。
 ~~~~~~~~~~~~

 § 2-1
 ここでいま一度前項にもどって考えるに
 ▲(ヰキぺ:慈悲) ~~~~~
 慈悲(じひ、サンスクリット: maitrī、パーリ語: mettā)とは、

 仏教用語で、他の生命に対して自他怨親のない平等な気持ちを持つことをいう。

 一般的な日本語としては、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫」(mercy) の気持ちを表現する場合に用いられる。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とあります。つまり《気持ち》と《気持ちを表現する》とで説明されています。
 《気持ち》はいくら《他の生命に対して自他怨親のない平等な》ものであっても それだけでは すべてその人の主観の内におさまっています。
 では それを《表現する》とは どういうことか? まさか《わたしは これこれの無差別平等の気持ちを持っています》と宣言することではありますまい。《あなたをあわれみます》と伝えればよいわけではない。

 どういうことか?

 § 2-2
 《アガペー》:《古代ギリシアではあるものを他よりも優遇する愛》であるなら あくまで主観の問題におさまります。
 《キリスト教では真の愛》。人は神ではないゆえ 誰も分からないはずです。

 § 2-3 
 《フィーリア》 :《キリスト教では隣人愛。古代ギリシアでは友人の友人に対する愛》。
 これはおそらく 

    § 1-1 《衆生縁の慈悲》
    § 1-2 《法縁の慈悲》

 と人間関係のあり方としてほぼ同じことであろうと見られます。


 § 3 これらの検討から何が言えるか

 (あ) 人の生きるのは 自己の表現である。
 (い) 社会という共同生活における自己表現は 相手のあるコトにおいて おこなわれる。
 (う) 自己表現が たとえ利己であっても 社会的な関係性において ほかの人びとの生活とかかわっている。
 (え) 自己表現は 共生なるいとなみである。
 (お) 共生の中に 利己行動がある。利己の度合いは 程度問題である。
 (か) 共生的自己表現のなかに 利己行動が 見られる。
 (き) この利己行動を 友人や隣人として或る程度――《同感:シンパシー》の原則において(?)―― 容認することがある。
 (く) ときに人びとの中には 利己を極力おさえてほかの人びとの共生のために〔のみ〕自己表現をおこなう場合がある。
 (け) これは 《利他》なる行為であるか?


 § 4 もしこうだと考えると どういう見方ができるか

 § 4-1
 ★ 1)正当防衛行為は「利己」ですか?
 ☆ ふつうの自己表現という範疇に入ると思われます。相手に対して一定のやむを得ない損害を与えますが。

 § 4-2
 ★  2)引きこもりの方々もこのネットを見ているかもしれませんが、他人と関わるにあたり、傷つくのを恐れ、心を開かない、防衛行為は「利己」ですか?
 ☆ 同じく自己表現の一環であると考えられます。相手やほかの人びとに対して極力損害を与えないようにしている場合の自己表現であるようです。むろん そういう主観における考えであろうと思われます。

 § 4-3 
 ですが これら二つの事例もどちらも けっきょく《共生》を目指しています。共生という基礎の上にあります。

 緊急避難は 相手を傷つけることをおこなっても ともに共生を目指そうと言っており そううったえつづけています。

 ヒキコモリは おそらく――ひとつの解釈として――本人はすでに未来社会を見ている。《関係性》の未来における有り方を 感覚的にせよ 捉えている。それゆえその夢としての――理念としての――人間関係における自己表現を つよくねがっている。

 この願いが そのいま現状のままでは実現がかなわないと感じたなら 人びととできるだけ衝突を起こさないようにと 引き籠もるという自己表現のかたちを採るに到った。

 もしヒキコモリの人の描く未来社会が当たっていたとしたら その自己表現は すでに理論家である。論文は その行動としてある。

 § 4-4
 すなわち すべて《共生》の問題としてある。

 《利己・利他》 これは自他にことさら分けるのもダメだと思えますが どうも《利》という言葉もそぐわないように見られます。

 一般的な自己表現なる振る舞いの中に わがままな部分があるということでしょうから。けれども たいてい人間は わがままでしょうね。

 もしこの《わがまま》が 同感の原則を超えてしまっているとしたら 確かにその行動は《利己主義》になるかと思いますが だとしたら ぎゃくに《おのれの利益を省みない自己表現》がその同感の限度を超えているとしたら どうか?  その行動は《利他主義》という目立った思想とその実践であると見られもします。

 なんでそんなことをするのか? 共生としてである。(かな?)
 わがままな利己主義も 社会の共生の問題だと考えられます。

    *


 【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7775052.html
 
 【Q:観念の運河を 《空気》なるゴンドラはきょうもゆく】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7136310.html

お礼日時:2013/03/08 18:17

 #18です。

そんなに深読みしないで下さい(^^;)。特に今時分は、前後不覚なるくらいスキーを滑ったりした後なので、もうどうしようもない筋肉頭で、本当に感覚的な事を書きました。


> ★ 「己のためだけに生きてる奴」は、四六時中「痛い、痛い」言ってます。例えば、人のために何かする代償行為は皆無なので、当たり前のような気もします。

 これは、

> ★ 逆説的ではありますが自分のためだけに生きて来たために、感覚的に人の痛みを実感できるから

を強調したかっただけなんです。

 「己のためだけに生きてる事」を自覚し続けるのは、思いのほか辛いところもありますよね?。「あいつのためにやった(例:代償行為は意味が違うかも知れませんが)とか、あいつのせいだ」とは絶対に言えません。常に「自分のため」であり「自分のせい」です。たぶんに大げさですが、ちょっとした針のむしろです。

 そのぶん人生の密度や濃度が上がるので、感覚的に人の痛みを実感できる気がする、というだけです。人の身になって考えろと言うが、痛い事も経験もしてないくせにわかるのか?。お題目だけの綺麗事なんか言うんじゃない。見捨てておけないと、本当に胸が痛くなった事はあるのか?、・・・という捻くれた意見です(^^;)。

 そこを論理的に突き詰め言葉にすれば、良心の呵責なのかも知れませんが、その背景を内省すると、どうも(のんびりとした)教育による刷り込みや、育った環境が大きいなぁ~と思えます。
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この回答へのお礼

 回答No.18には わたしの一票のほかに二票の《回答を評価する》が入っていますね。

 まづは ご回答をありがとうございます。

 今回うかがうと ふつうのことのようにも思われます。
 前回は 助ける気はなかったのに やむに已まれずお世話のようなことをする。というので 共感を得る説明なのだと思います。


 今回よく考えてみると 《ひとりの道をあゆんでいる》場合も 《ふつうにおつきあいをしている場合》も やはり困っているところを見たなら お手伝いをする。といったかたちで どちらの場合も 思いやりや持ちつ持たれつの関係であるようにも ひびいて来ました。

 ひとりで歩んでいると ひとの痛みが実感できる気がするということですが けっきょくそういう共通感覚というのは ふつうにおつき合いしている道の上にあっても 分かるのではないか?
 身も蓋もないことを言うようでいて むしろどちらの場合にも 共生感覚は起き得るというところに キモがあるように思います。

 言いかえると 《自分のため / 自分のせい》という見方をしている場合でも あるいは《みんなの責任 / みんなのため》という行き方をしている場合でも それほど変わらないのかも知れません。

 そしてそれは殊更《利他》という概念を持たずそういう見方もしないときに 共生感覚として 日常生活の中で起こりうると言っていいのではないか。こう思いました。

お礼日時:2013/03/07 23:10

こんばんは




>「利他ね・・・・・・ぬかせ。アホども。」

これはね、相当だと思いますね。
「JAPAN AS No.1! in 2013」ですか。


>「むしろほどこしを受ける側に この行為はすなわちあなたに利益をわたしが与える《利他》であると言ったなら そのことのほうが冷酷である。と言うより 成っていない。人間性が成っていない。」

・・・これも一緒でしょ。


「JAPAN AS No.1!」からは、利他は出て来ない。
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この回答へのお礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「JAPAN AS No.1!」からは、利他は出て来ない。
 ☆ そうですね。

 1. 利他は その概念だけを捉えて 利他なる行為が独立して行なわれるとも 必ずしも思われない。のではないかと問うています。

 2. 自己表現は どうしても人間ないし自己を基準としてものごとを捉え考えおのれの意志行為として表わすことになる。ゆえに 広い意味で利己なる行為である。

 3. ただしこの広義の利己なる行為には 利‐相互といった側面があるはずだ。もともと人は ムラ(町)の人びととのあいだに自然な共生感覚を持ち その共生行為として 自己表現しているはずであるから。

 4. 思いやりや助け合いは 人間の自然である。わざわざ《利他》をそれとして掲げるのは 言わばあたかも第二の自然であるように感じられる。

 5. 《「JAPAN AS No.1!」》は こうした人びとのそしてムラムラのそれぞれのいとなみの結果である。

お礼日時:2013/03/07 05:47

 某板をほっておいて、こんな処に出てきて申し訳ありません。




 私は利他行為は、「結局は己は、自分のためだけに生きている」と自覚してる人間にしか出来ないものだと思っています。

 そのような人間はまず、そのような行為は出来るだけ避けます。アホらしいからです。しかしそれでも、見捨てておけない場合があります。

 それは教育によって刷り込まれた規範のせいでもあり、逆説的ではありますが自分のためだけに生きて来たために、感覚的に人の痛みを実感できるからです。

 「己のためだけに生きてる奴」は、四六時中「痛い、痛い」言ってます。例えば、人のために何かする代償行為は皆無なので、当たり前のような気もします。

 そんな奴は、「人間として当然だとか」「貴方のためにやった」だとかは、口が裂けても言えません。自分のためにやった事を、自分の気持ちのためにやった事を、痛いほど自覚してるからです。感謝されたら照れ笑いするか、走って逃げだします。


 でもですね、見捨てておけない理由を考えてみると・・・。

 今では非常に希薄になりましたが、村社会における共生の感覚なのかなぁ~、とは時々思います。

 自分も昔は、まわりじゅう水田と茄子畑しかなかった田舎に住んでました。上下水道もなく、あったのは井戸と肥溜だけだした。当然のごとく、井戸と肥溜には、それぞれ一回ほど落ちました(^^;)。
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この回答へのお礼

 ddtddtddt さん お早うございます。たしかにお久しぶりですね。まづはご回答をありがとうございます。

 いいことをおっしゃる。と思って読み終わったときには ただしそこには賛同と反発のふたつの側面があるとも思いました。

 肥溜経験一回におなじく。母の実家が 上下水道もなくの田舎でした。家々の前を流れる小川で洗い物をします。風呂の水にも使います。

 ★ 今では非常に希薄になりましたが、村社会における共生の感覚なのかなぁ~、とは時々思います。
 ☆ まぁ 自然本性と言ってよいと思うのですが・・・。そして そこから 《我れとなんぢ》の一体感が薄れ 双方に分かれ 両極というべき関係にまで成ったのでしょうか?

 あるいはそもそもの初めから 我れとなんぢとのあいだには 埋めるべからざる溝が横たわっているということなのでしょうか?




 いいことをおっしゃると思ったのは 次の一文です。
 ★ 私は利他行為は、「結局は己は、自分のためだけに生きている」と自覚してる人間にしか出来ないものだと思っています。
 ☆ そして
 ★ しかしそれでも、見捨てておけない場合があります。
 ★ でもですね、見捨てておけない理由を考えてみると・・・。 
 ☆ と進めて 最初の肥溜経験 いやちがった ムラビトとしての共生感覚に到ります。


 反発を感じた一面というのは:
 ★ 「己のためだけに生きてる奴」は、四六時中「痛い、痛い」言ってます。例えば、人のために何かする代償行為は皆無なので、当たり前のような気もします。
 ☆ あっ! いま気づいたのですが これは こういう意味でしょうか?

 つまり 《代償行為》というのは 意味が違っていて 《誰かの負い目をその誰かに代わって その債権者に対してつぐなう行為》ではないと。そうしてそのときには 《相手が窮地に落ち入っているのを見て これに助け舟を出さず 見て見ぬ振りをしている》。ゆえに四六時中《痛い 痛い》と言っている。つまり 良心の呵責になやんでいる。

 もしこれだとすると 《反発》ではないですが つまり反発反応は取り消しますが そうしますと
 ★ しかしそれでも、見捨てておけない場合があ
 ☆ って実際に助け舟を出すこともある このことに反する。

 すなわち
 ★ 教育によって刷り込まれた規範のせい
 ☆ で もし《良心の呵責として 痛い 痛いという》場合は――自身の問題として捉えるまでの前段階と見なして―― もう別としますが それでも
 ★ 逆説的ではありますが自分のためだけに生きて来たために、感覚的に人の痛みを実感できるから
 ☆ けっきょく助け舟を出す。ならば 出さない場合の《痛い 痛い》の前にすでに 共生感覚ははたらいている。ということですね?

 言わば良心ないしそれによる呵責より前に 共生感覚はあって はたらく。
 自然本性ですよね? 《良心》も 自然本性なのではありますが。



 ★ ~~~~~~
 そんな奴は、「人間として当然だとか」「貴方のためにやった」だとかは、口が裂けても言えません。自分のためにやった事を、自分の気持ちのためにやった事を、痛いほど自覚してるからです。感謝されたら照れ笑いするか、走って逃げだします。
 ~~~~~~~~
 ☆ わたしもどちらかと言うと この口ですが でもこれまでのやり取りから行けば どうも無償の援助をあたえられる側と与える側とは 無条件に対等である。となるようです。たぶんその《照れ》に耐えなければならないとなりましょうね。

 たぶん《貴方のために こうしたいのですが どうか》という合意を事前にもとめるのが いいのでしょうね。



 なんだか《利他》という行為がありうると認めたかたちになったかも知れませんが たぶん《利‐相互》であると考えます。共生感覚にもとづいてです。

 どうなんですかねぇ。

お礼日時:2013/03/06 09:54

ブラジュロンヌ様。

こんばんは。

膨大な新聞のスクラップを整理していたら、興味ある記事がありました。

情報源は2012.5.12の日経新聞の夕刊

笑いの心理学 「笑いの心理学 苧阪直行さんに聞く」

この中で、苧阪さんは

「自分が損をしても他人の利益のために動く、利他的行動というのがあります。この行動は人間固有のもので笑いにはこの利他的側面があります。自分が笑うことで相手を笑わせ楽しい気分にさせる。それが、自分の報酬になる。利他的行動は心のゆとりがあってできるのですが、笑いも心のゆとりがあって出てくるものです。」

と見解を述べてます。

確かに、良く言われるように笑いは人間特有の行為であって、少なくとも、対象(人間ではないことにもありますが)がなければ生まれない。

しかし下記のアダム・スミスの考えとして述べたように、人間はこの世に生まれると他人を喜ばせたいという自然的欲求がある。

私の見解としては、人間が生まれて始めてみるのは、母親の笑顔である。

人間の笑顔ほど、心理的に利己としては最大の喜びである。

ブラジュロンヌさんの質問の1は肯定します。受け売り要素が強い回答ですが・・・。

追伸

ブラジュロンヌさんからのお礼の宿題が来ると、私はちびまるこちゃんのような青筋が顔に立ち、眉間にしわを寄せ、どう考えても、他人が笑顔になるよな顔でない状態でパソコンに向かっているので、バライティ番組をこれから観ます。
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この回答へのお礼

 そうですね。大いにテレビ番組を見て たのしんでください。
 そういうところについて――と言いますか むしろ全般的に――わたしは ぶっきらぼうです。かなり。あしからずご了承いただければさいわいです。

 こんばんは 四世ならいくなーとんさん。ご回答をありがとうございます。


 ★ ブラジュロンヌさんの質問の1は肯定します。
 ☆ ありがとうございます。そして いまの段階において おそらくそういうことぢゃないかと思っております。まだ持ちこたえております。

 確かに《利他》という要素はありましょうけれど それは 基本的に利己なる行動もしくは自己をそれとして中心としひとつの物差しとして図った自己表現の行動があって その中に《利他》なる要素はおさまる。こうではないかと考えます。

 《利‐相互》といった考えや行動は 同じくそれとして ありうるとは考えます。


 ▲ 笑いにはこの利他的側面があります。自分が笑うことで相手を笑わせ楽しい気分にさせる。それが、自分の報酬になる。
 ★ しかし下記のアダム・スミスの考えとして述べたように、人間はこの世に生まれると他人を喜ばせたいという自然的欲求がある。
 ★ 人間の笑顔ほど、心理的に利己としては最大の喜びである。

 ☆ このようにそれぞれ 大きく《利己》行為の中に 互恵的な要素が含まれる。といったかたちだと思います。

 要するに エゴイズムやアルトルイズムを 《自 / 他》に分け しかもその志向性を《利》という言葉で表わそうとした。ここに 何かどこかそぐわないものがあるように思われます。



 
 この質問は もう少し開いているつもりです。
 どなたかまだ投稿してくださる方がいるかも知れないと思って。

お礼日時:2013/03/05 20:59

「利己」という場合の『己』が、肉体的な自己である限り、


利己と利他は必ずしも反対概念ではなく、社会性(分業
による組織化)の進展に応じて、自己の生存は社会の
順調な運営に依存し(一人では生きられない)、そうした
社会性の認識において、利己的な意志の発現過程に
利他が介在するようになる。
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この回答へのお礼

 ぷしゅてっくすさん ご回答をありがとうございます。


 Q‐1: ひとの存在をどうして
  ★ 肉体的な自己
  ☆ にかぎるのでしょうか? 

 でもこれに関しては この自己が《身と心との一体となった存在》と見なして次へすすみます。

 Q‐2: ★ ~~~~~
 利己と利他は必ずしも反対概念ではなく、・・・
 利己的な意志の発現過程に 利他が介在するようになる。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 中ほどを端折って引用していますが このように読むかぎりでは 《利己》と《利他》とは ふたつの別個の概念であり何らかのそれとしての行為であるのですね? (これは確認だけです)。


 Q‐3: ★ 社会性(分業による組織化)の進展に応じて
  ☆ これは 言うまでもなく概念の説明を端折ったかたちだと受け取りますが 問題は: 
  (あ) 《分業》の歴史的な進展にかかわりなく 《利己》とそして得体の知れぬ《利他》とはどういう実態であるのかが問われて行くものと考えるところに この質問の焦点は ありますが そうお考えになりませんか?

  (い) 《利己》は たとえば《いのちのとうとさ》に従属しつつもそれに並ぶような存在の基礎を成していてそれとして保持されて行くと思われます。そのとき その利己とそして《利他》なる概念および行為が どのような関わり方をしているのか? これが問うところであります。

  (う) すなわち《分業》は 単位体となる集団に応じて 一定地域の社会(たとえば国家)としてのそれとその中の会社などの組織におけるそれとがあると考えますが その分業の組織化〔としての社会性〕の進展に応じて 利己と利他とのからみ合いのようなものが 進化する。こういうお考えでしょうか?


  (え) つまり 利己は いのちの問題に次いで存在の基礎として保持されて行くと思われるからには この分業の組織化の進展とは 必ずしも相関関係を持たない。こうも見ているのですが その点にかんしては どうお考えになりましょうか? (つまり 利己は初めから展開されて来ている)。



  (お) すなわち もっと大胆に極論しますが この〔生命存在における〕利己行為の歴史的な進展が それとして主流だと思われるとき 《利他》がどこにどういうふうに かかわってくるのか? これがよく読み取れません。出来ればご説明を。


  (か) 分業の組織化が進展するしないにかかわらず 《人なる存在》の――或る種の仕方で独立性を持ちつつ 同時に持つと思われるところの――《関係性》は 普遍でありまた不変であると考えられます。

  (き) 言いかえると この人間と人間との――存在の基礎的な条件におけるところの――関係性 そしてそれの言わば発動 においてすでに言うとすれば《利他》ないし《利‐相互》という心づもりも振る舞いも――思いやりや助け合いなどとして―― 現われて来ていると考えるのですが その点 いかがお考えになりましょうか?

  (く) 言いかえると 《生活の共同性》〔としての社会関係性〕においてすでに――原始心性の時代から―― それとしての《利他ないし利‐相互》なる考え方もおこないも持たれて来ている。のではないか? と問います。

 Q‐4:★ 自己の生存は社会の順調な運営に依存し(一人では生きられない)、
  ☆ (け) これは ずばり《社会の運営》が《順調であろうとなかろうと》 社会的な関係性をそなえつつ 相対的な経験的な有限の《独立性》をも ヒトなる存在は――けっきょく自由意志の存在において――たもって来た。のではないか?

  (こ) 《一人では生きられない》と《自己の生存》とが 一義的にひとしいと受け取ってはいけないのですよね?  そういう《関係性》のひとつの側面があるという意味ですよね? (それでないとおかしいと思います。人間の存在は《社会の運営のあり方に依存》することになってしまう)。

  (さ) ★ そうした社会性の認識において、
  ☆ ということは 利己なるひとつの基礎的な歴史過程とそこへ《利他》なる概念および行動が どのように絡み合って来るのか。これは この《そうした社会性の認識》いかんにかかわらず 歴史の初めから それとして大きな問題としていとなまれて来たのではないか? と問います。



 Q‐6:★ 利己的な意志の発現過程に 利他が介在するようになる。
  ☆(し) 端的に言って 《どのように》でしょうか?

  (す) そのように介在するようになる《利他》とは どういう内容を持ちましょうか?

  (せ)  つまり《利己》なる欲求とその展開なる過程にも 関係性として捉えられる《利‐相互》――思いやりや助け合い――が現実にいとなまれていると思いますが そのこととそして《利他》は どう同じでどう違いましょうか?



 以上のような疑問が明らかにして解かれないなら まだ質問者は その問いへの答えとして不満足でいつづけますが どうでしょうか。

お礼日時:2013/03/04 15:22

>その《利他》の思いや心づもりとそしてその内容の実行とのあいだには



 お前にとっては、それにしかんらん。氷を通りこしてドライアイスだなこりゃ。

 地下鉄ホームから落ちてしまった婆さんを助けようと線路に飛び降りて婆さんをホームに抱え上げて救出した直後電車に轢かれて死亡した青年がいたっけ。

 心づもりと実行のあいだに、隔たりがある例というのはむしろこういうことだ。 
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この回答へのお礼

 うきよとんぼさん なかなか今回は 熱心ですね。まづはご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~
 地下鉄ホームから落ちてしまった婆さんを助けようと線路に飛び降りて婆さんをホームに抱え上げて救出した直後電車に轢かれて死亡した青年がいたっけ。

 心づもりと実行のあいだに、隔たりがある例というのはむしろこういうことだ。 
 ~~~~~~~
 ☆ この青年の場合 自分(本人)も助かったならよかったなぁ。

 という批評をのこすだけなのではないだろうか? その青年の心を汲むとするならば。


 どういう心か?



 もし青年の心づもりもその実行も ひとえに《利他》なる――しかも純粋な利他なる――精神にもとづくものであり この上なく気高い行為であったともし言うなら それは そう言う人に その気高き精神がないと告白したことになる。

 言いかえると さらには 自分にはこういう利他なる心はとぼしいが もし自分がその事件における婆さんのような窮地に落ち入った場合には――自分は そういう心は持ち合わせておらず 実行することはなきに等しいのだけれど それでも 人びとよ――そのわたしを助けてくだされ。と言っているにひとしい。

 《冷酷》と言うか 《情けない》と言うか。
 
  ○ 心づもりと実行のあいだに、隔たりがない

 と言う人びとのほうが すでに事前にお手上げであるという敗北主義に落ち入っているのではないか?

  ○ 一般的につねに 心づもりと実行のあいだに、隔たりがある

 のだ。よ。
 

お礼日時:2013/03/04 11:24

あなたのおっしゃる通り、


完全な利他など幻想でしょう。

ぼくはエゴと利他は共存すると感じます。

だって、自分がメッチャしあわせになりたいなら、
他人をメッチャしあわせにする必要があります。

それこそ、世界中で有名になりたいなら、
世界中の人をしあわせにする必要があります。

要はwinーwinです。
たとえ、思考はエゴイストだとしても、
現実に他人をしあわせにするなら、いいじゃありませんか。
エゴイストを批判して、なにもしない人よりはるかにいいです。
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この回答へのお礼

 ぽえにくすいーう゛るさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 あなたのおっしゃる通り、
 完全な利他など幻想でしょう。
 ~~~~~~
 ☆ そう言われてみると――わたしは天の邪鬼なんでしょうか―― 不完全なものでも その志向性やよしというふうにも応えたくなってしまいます。
 
 《利他》と呼ぶかどうかは別ですけれど。《思いやり》ですかね。


 
 ★ ぼくはエゴと利他は共存すると感じます。
 ☆ これは同感です。まづ自己の〔広義の〕利益をないがしろにしては 何ごともみづからの意志行為にならないであろうし 相手にも風変わりなやつだなぁと思われておしまいではないでしょうか。つまり ひとりで何か趣味のようなことをやっているぶんには構わないのでしょうが。

 あめんほてぷさんが指摘したA.スミスの《同感》の考え方について ここで引用しておきます。われわれ日本人から見ると ところどころ あれぇっと思うくだりもあるかと思いますが。
 
 ▲ (A.スミス:《同感》) ~~~~
 文明社会では 人間はいつも多くの人たちの協力と援助を必要としているのに 全生活をつうじてわずか数人の友情をかちえるのがやっとなのである。

 ほかのたいていの動物はどれも ひとたび成熟すると 完全に独立してしまい 他の生き物の助けを必要としなくなる。ところが人間は 仲間の助けをほとんどいつも必要としている。

 だが その助けを仲間の博愛心( benevolence )にのみ期待してみても無駄である。むしろそれよりも もしかれが 自分に有利となるように仲間の自愛心( self-love )を刺激することができ そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが 仲間自身の利益( advantage )にもなるのだということを 仲間に示すことができるなら そのほうがずっと目的を達しやすい。

 他人にある種の取引を申し出るものはだれでも 右(上)のように提案するのである。私の欲しいものを下さい そうすればあなたの望むこれをあげましょう というのが すべてのこういう申し出の意味なのであり こういうふうにしてわれわれは自分たちの必要としている他人の好意の大部分をたがいに受け取りあうのである。

 われわれが食事をとるのは 肉屋やパン屋の博愛心( benevolence )によるのではなく かれら自身の利害( own interest )にたいするかれらの関心( regard )による。われわれが呼びかけるのは かれらの博愛的な感情( humanity )にたいしてではなく かれらの自愛心( self-love )にたいしてであり われわれがかれらに語るのは われわれ自身の必要( own necessities ) についてではなく かれらの利益( advantages )についてである。

 (国富論 大河内一男 訳 1・2)
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いわゆるギヴアンドテイクの考え方にも見えます。そしておそらくそのような量的なことがらをどのように扱うかについての人びと一般の同感が得られるかどうか。これが 問われているのかと思います。
 《胸中の公平な観察者》と言う場合には 同感は 良心のことだとも考えられますが。


 かくして
 ★ ~~~~
 要はwinーwinです。
 たとえ、思考はエゴイストだとしても、
 現実に他人をしあわせにするなら、いいじゃありませんか。
 エゴイストを批判して、なにもしない人よりはるかにいいです。
 ~~~~~~


 そうして――ひとつの結論になるかどうかの見解として―― 仮りに《利他》を思いそう行動しようとする人は けっきょくいまのスミスの同感にもとづく適宜性( propriety )に合った等価交換なる仕組みのごとくに 相手とのあいだでその《利他》行為についての合意に達するということ。ではないでしょうか?

 そうなると
 ★ ぼくはエゴと利他は共存すると感じます。
 ☆ とわたしも感じます。

お礼日時:2013/03/04 09:50

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