魏の皇帝曹芳は卑弥呼の使いに大量の下賜品を与えています。

 金印紫綬、銀印青綬、緑地交龍(赤地にミズチと龍の模様を織る)錦五匹、締地銘粟罫(赤地に細かいケバの付いた毛織物)十張、著締(茜で染めた赤色の布)紺青(色の布)五十匹、紺地句文錦(曲線的な模様の入った錦織)三匹、細班華罫(細かいまだら模様の入った毛織物)純白の絹布五張、金八両、五尺刀二振り、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各々五十斤

まず、どれだけの量、重さになるのか教えていただきたい。
匹、張、両、斤など単位がよくわかりません。
もし鏡が三角縁神獣鏡なら、重さは一枚1kg強あるので、百枚あればだいぶ重いです。
人が担って運ぶとすれば何人必要か。
中国では車軸を利用した大八車や馬車のようなものはあったでしょうが、日本にもあったのか?
よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (5件)

このような質問を考えるのはとても楽しい。


「どのようにして運んだのか」この件についてだけ回答らしきものを書きます。
それは人担(人が担って運んだ)と思います。
推定根拠は次のとおり。
当時の様子を知ることができる文字史料が日本にはないので、飛鳥時代、奈良時代を参考にして考えました。
1)奈良時代でも、寺院建設時、瓦は人担輸送が主力のようです。

レファレンス協同データベース「瓦の運搬方法」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrd …

<以下引用します>
『日本の古代瓦窯』
「武蔵国分寺造営での造瓦は、郡が一つの責任集団であり、その下部の郷、さらに郷を構成する戸主といった行政組織にのって、戸主層より瓦の納入がなされた。しかし、実際には、国ごとの各瓦屋に瓦長から一括発注され、焼きあがった瓦は、郡、郷の責任で人坦輸送し、それぞれの瓦屋から寺へ搬入されたものであろう。」とあり。

『武蔵国分寺古瓦塼文字考 早稲田大学考古学研究室報告 5』
「瓦塼の運搬については、人担、車載、馬力などを考えることができる。しかし、奈良時代の瓦[セン]運搬に関する一般的記録が存しないので、延喜式木工寮の記載を参考とすれば、(略)」とあり。延喜式木工寮の記載には、瓦に関して人担の率・車載の数量が定められている。このことにより、筆者は運搬方法として「人担、車載、馬力など」をあげている。 <以上引用終わり>

2)明日香石舞台古墳の築造時、土や石を「もっこ」や「せおいこ」で運んだと推定されています。土の重さは、含んでいる水分によって変わりますが、ほぼ水と同じです。比重の大きい銅鏡は、かさばらないので、同じ重さであればかえって運び易いと思います。

「石舞台古墳築造の謎」 明日香村・関西大学共同制作
http://www.asukamura.jp/youtube/ishibutai.pdf

3)箸墓古墳の葺石は「手こし」で運んだ、と『記紀』にあるそうです。
  であれば、卑弥呼に贈られた品々も人担ではないかと想像します。

「古墳の石」 新潟応用地質研究会誌第66号
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bi … 

<以下引用>石は重いので運搬が問題である。箸墓古墳の石は大坂山(芝山か二上山)から手こし(手から手にリレー式)に運んだと『記紀」にのっている。その可能性は否定できないが、道のりは約18キロである。手こしでなくともいろいろな方法で運ばれたであろう。<引用終わり>

4)車は、卑弥呼の時代にはなかったのではないでしょうか。
ぬかるみや丸木橋など、整備されていない道ではかえって不便だと思います。

「ホイールの歴史」5ページ 日本自動車用品・部品アフターマーケット振興会
http://www.jawa.jp/download/chap01.pdf#search='% … 

<以下引用>ところで、わが国では遺物としては発見されていないが、先史時代にも簡単な車があったものと思われる。日本書紀には紀元400年ごろの履伸天皇紀に天皇の乗る車を作る部族であった車持部(くらもちべ)や、その長である車持ノ公という名が見られることから、この時代には他の古代国家と同じような形の車輪があったようである。<引用終わり>

毎日新聞記事「国内最古の車輪出土 7世紀後半?」

http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/rekishi/r … 

5)馬は、飼育して調教して、はじめて使用できるものですが、卑弥呼の時代のことは私には分かりません。

6)一人が担う重さは、岩波書店『列島の古代史 4 人と物の移動』によれば、
  籠に詰められた貢納物は、「延喜式」木工寮人担条で一担は大60斤(約38.4kg)
とされている、
と書いてあります。
こんなに重い物を担ぐことは、私にはできません。

だらだらと私の推測ばかり書きましたが、少しくらいはお役に立てればの思いです。
    • good
    • 0

NO.3 です。

補足頂きましたのでお答えします。
先回も書きました朝鮮通信使の国内通行,多数の運搬人足が徴発されています。
技術があっても,それが広く普及する為には,社会的生産力の発展が不可欠です。
古代中国では,王族の興亡に係わる戦闘が繰り返されてきました。その間,戦闘用馬車は普及しましたが,運送用には普及していません。持てるものと持たざるものとの差,それは,その社会での経済力,生産力で規定されます。奴隷的労働や農兵の徴発が,王族の生活を支えていた時代の,社会的未発展に注目しましょう。
日本での大八車の普及も,農村に及ぶまでには相当な年月を要しています。一輪車も,木製車輪で壊れやすく,今日ほどには普及しませんでした。
自転車も,昭和初期にはお金持ちしか買えませんでした。生産力が急速に向上した今日では,自動車が一人1台,複数台保有する家庭も珍しくは無くなりました。
技術力と生産力とは,発展・普及の仕方に大きな開きがあります。始皇帝の馬車が2000年も前に発明・実用化されていたにもかかわらず,広く普及しなかったのは何故でしょうか。
生産力・量産技術が伴わなかったからです。
歴史の考証は,社会的生産力の観点と,身分差・階級差の観点を抜きには出来ません。
    • good
    • 0

まず,『下賜品』についてですが,これは,『朝貢品』に対する儀礼的な『返礼品』に過ぎません。


中国の諸代皇帝が,周辺国を見下して朝貢させていたのであり,これは,港地での自由貿易黙認の手段として,双方了解の交易法でした。『朝貢貿易』の常套手段でした。遣唐使などの使節に便乗した留学僧などが,多数の文物を持ち帰っていることをにも,注目が必要です。
日本でも平安時代に「鴻ろ(月偏に盧)館」を置き,外国使節の接待所として国交と共に交易を図りました。江戸時代の長崎「出島」も,それ以前の「平戸」も類似の施設です。

運搬手段ですが,車軸を利用した大八車や馬車のようなものは,中国にもありません。
大八車は江戸の産物で,道路状況の良くなかった時代には,全国的には普及していません。農村で用いられたのは,昭和前期まで主として一輪車でした。
戦国期には「馬匹」という運送業集団が居ましたが,馬の背中に乗せて荷を運んでいます。
中国には古代から戦車はありましたが,平地での固い地盤の上での戦闘が前提です。山岳地帯での運搬手段は,今日でも人手や牛馬の背中に頼っています。

下賜品の総重量は他の人の回答を参考にして下さい。

この回答への補足

始皇帝の墓に馬車が見つかっています。
馬車の車輪幅まで規定されていたそうです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~tanzawa/heibayou1/he …

補足日時:2013/03/05 03:06
    • good
    • 0

正確なことは私にはわかりません。

このサイトも参考にしてください。
http://www.cac-net.ne.jp/~inohanda/tourei01.html
重量だけでものを測ることはできませんが、全体で500kgにはならないでしょう。
人が運ぶ場合でも、20~30人で運べるのではないでしょうか。
魏志倭人伝では、倭には牛、馬、虎、豹、羊はいないとなっています。服装などの記述状態から想像すると、車軸を使う運搬具はなかったでしょう。
 
時代が江戸時代末になりますが、和宮が京都から江戸に行くときの行列や荷物運搬は、近隣から人足などを調達しています。遣隋使、遣唐使などの場合も随行員等も身だけでいくことが多く、荷物は賦役で人足を近郷近在から調達していたと思います。
http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyo …
 
玄奘三蔵なども随行の僧だけでなく、荷物運搬は別口で人足や兵隊を使っていたと思います。
三蔵の運んだ分量はとても多く、馬や人足もたくさん使っていますが、この時代と西域旅行ルートと、魏志倭人伝の時代やルートとは違うし、分量が桁違いです。
http://ethnos.exblog.jp/5503548/
    • good
    • 0

匹→反物(着物などを作る材料)の枚数  張→出来上がった製品(絨毯や緞帳「幕」)  両→金(Gold)の量   斤→金(Gold)の重さ、他に匁(もんめ)も有り「この斤の項はwikipediaを参考に」。

量や重さについては今の計り方とは違いますので確実なことは差し控えます。あと豆腐などは 丁 箪笥は 棹(さお)と数えますね。本題ですが、魏志倭人伝自体がほんとのことを記述しているかどうか、はなはだ疑問もあり、考古学でも立証されたものは何一つありません。只 三角縁神獣鏡は畿内では見つかっておらず、九州が圧倒的に多い。「漢委奴国王印」の金印が偶然見つかったのも九州の孤島ですね。邪馬台国自体が何処か?私は近畿の者ですが、九州説を支持しています。それも具体的には「宇佐」です。何故かというと神の降り立った地高千穂のほぼ真北に位置している。京大などは畿内説、東大は九州説に分かれてます。大八車や馬車はあったのかどうか?当然あったと思います、それまでに何度も卑弥呼の使いが訪問していますので、見ているはずで同じようなものを持っていたと考えるのが妥当だと。魏志倭人伝に興味を持たれているのはやはり古代のロマンからですか?よく読むと「南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る」これが考古学者を悩ませているものです。帯方郡から距離と方向をそのまま辿ると遥かフィリピンの東太平洋上になります、そんなことはないですよね九州南部を支配していた「熊襲」が居たのですから。話は逸れましたが面白いというか、私としては邪馬台国の有った地が特定されないほうが良しと思っています。そのほうがロマンもありいろんな論争を聞き立証していく作業も面白いからです。一度地図を広げて 宇佐と伊勢を線で引いて また宇佐と出雲 伊勢と出雲を線で結ぶと二等辺三角形になりませんか?その底辺 出雲から宇佐と伊勢の中央(直角に線を引く)に高知県 そこには一の宮という神社があり、三種の神器の一つ「草薙の剣(天叢雲剣)あめのむらくものけん」を一時祀った所です。実際そこに訪れました。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q産業廃棄物運搬について

産業廃棄物(コンクリート殻、アスファルト殻)を運搬するときは収集運搬の許可をとった車で運搬しなければならないのですが、例えば下請け工事会社のトラック又はレンタカー(収集運搬許可無し)で運搬するときは、元請け会社の者が同乗していけば許可無しで運搬できると聞いたのですが本当でしょうか。

Aベストアンサー

産廃業務にも携わっている建設会社の事務員です。

私も最近知って、調べてたんです。法律の拡大解釈が必要なのですが本当のようです。(今回は、特別管理型ゴミは別とします。)

解りやすく言えば「廃棄物」とは、所有者不在の不必要な物品の事を差します。例えば、ご質問者さんがゴミと思っているものでもお友達が、「それ買うから。」と言って売却成立したなら、それはお友達の者であって、廃棄物ではないのだそうです。

物の運搬において、産業廃棄物収集運搬業の許可が必要なのは、廃出する自らが、ゴミ(責任の所在を放棄する)と認め、第三者に「ゴミと認めたもの」を運搬して貰った場合との事です。

続きは省略♪(笑

ココらあたりが私には参考になりました。一度読んでください。

http://www.eic.or.jp/index.html
(ここの環境Q&Aタブをクリックしてください。)

http://www.eic.or.jp/qa/?act=view&serial=6986
http://www.eic.or.jp/qa/?act=view&serial=6986
http://www.eic.or.jp/qa/?act=view&serial=6988

私もまだまだ勉強中です。ご質問者さんも、もっと明確な答えを見つけられたなら、情報提供どうかよろしくお願いしますね♪(^_^)v

産廃業務にも携わっている建設会社の事務員です。

私も最近知って、調べてたんです。法律の拡大解釈が必要なのですが本当のようです。(今回は、特別管理型ゴミは別とします。)

解りやすく言えば「廃棄物」とは、所有者不在の不必要な物品の事を差します。例えば、ご質問者さんがゴミと思っているものでもお友達が、「それ買うから。」と言って売却成立したなら、それはお友達の者であって、廃棄物ではないのだそうです。

物の運搬において、産業廃棄物収集運搬業の許可が必要なのは、廃出する自らが、...続きを読む

Q【歴史日本史】倭国は邪馬台国の卑弥呼の時代。倭人は顔を赤く染め、体に入れ墨を入れて位を表していた。

【歴史日本史】倭国は邪馬台国の卑弥呼の時代。倭人は顔を赤く染め、体に入れ墨を入れて位を表していた。

邪馬台国の時代の刺青がどんなものだったのか知りたいです。

時代は卑弥呼が占い、卑弥呼の弟が政治を取り仕切り、卑弥呼に謁見出来たのは2人の男性だけだった大和の時代です。

身体のどの部分にどんな入れ墨を入れて身分をどのくらい分けていたのか知りたいです。

室町時代になると紫色が身分が高かったが卑弥呼の時代は身分が高い人はみな白色の服を好んで着ており体の入れ墨で身分を分けていたと伝記があります。

どんな形の入れ墨だったのか知りたいです。

腕だと隠れるので手首か足首に入れ墨を入れていたと思うのですがどうなんでしょう?

Aベストアンサー

基本的には、今のタヒチあたりに見られるような入れ墨だったのかなと思います。日本のヤクザがやってる一枚絵の、ある種芸術的な目でみられたりすることもあるアレではなく、黒だけで幾何学的な模様(?)のような感じも受ける、そういったやつです。

魏志倭人伝の記述は注意しなくてはならないのは、この原文を書いた人物(帯方郡の役人と思われる)の憶測がたっぷり入っているということです。それは、倭の黥面文身(入れ墨)が中国の南部にあたる會稽あたりに見られる風習とよく似ているから『これと同じものに違いない』という思い込みで書かれている文章です。
なので、入れ墨が左右大小がありそれらで身分(の差)を表していたということはあっても、それ以上の具体的な記述がないことに注意してください。
(ちなみに赤色云々は、現代訳にまぎれこんだニセ情報だと思います)

顔にイレズミを入れるくらいだから、手足も上半身にもバッチリ入れてたのではないでしょうか。


白色の服を好んだという情報もどこに書かれていたものか不明ですが、紫色が高貴な色として珍重されたのは貝紫とよばれる貝から取れる動物性の染料によるものが大きいです。これによりエジプトや地中海周りでも中国でも紫色(貝紫)は高貴な色として珍重されました。これが日本にも来て、聖徳太子の12階でも見られるように(諸説あるようですが)紫色は最上位の色とされています。

基本的には、今のタヒチあたりに見られるような入れ墨だったのかなと思います。日本のヤクザがやってる一枚絵の、ある種芸術的な目でみられたりすることもあるアレではなく、黒だけで幾何学的な模様(?)のような感じも受ける、そういったやつです。

魏志倭人伝の記述は注意しなくてはならないのは、この原文を書いた人物(帯方郡の役人と思われる)の憶測がたっぷり入っているということです。それは、倭の黥面文身(入れ墨)が中国の南部にあたる會稽あたりに見られる風習とよく似ているから『これと同じもの...続きを読む

Q電動ハンドリフトを足の甲にぶつけてしまいました

一月前に不注意で電動ハンドリフトを右手で引っ張っている際に止めずに半自動ドアの操作を左手で操作(手をかざす)したら右足の上を電動ハンドリフトが通過してしまいました。
電動ハンドリフトの金属製カバーの下に右足の甲が挟まれた格好になりました。
電動ハンドリフトの車輪に引かれた訳じゃないですが、長靴が避けて当たった箇所は一週間位腫れていましたが、腫れた場所に何か触れたりしなければ痛みがなかったのでそのままにしました。
サンダルやスリッパを履いて歩く際に今でも激痛がします。
折れたり、ヒビが入っていればもっと痛いと思うので違うと思います。
けど1ヶ月もこのねような痛みは続くものでしょうか?

Aベストアンサー

1ヶ月も激痛があるなら 一応、ヒビ、筋の損傷なども考えた方が良いと思いますから
早期に整形外科の診察を受けて下さい。

ヒビ、筋がなんとも無くても・・・治るまでに時間が掛かることが有りますが・・・
万が一を考えると早期の受診が良いです。

Q卑弥呼とその後

歴史カテかもしれませんが、卑弥呼が実在したかどうかはっきりしないというのは本当ですか?
確かめたわけではなく人から聞いたものなのですけど。
また、その後に「いお」という名前の巫女がいたと、小学生の時くらいに子供向けの本で読んだのですが、
この人はもっと実在が疑わしいとか。これも本当かどうか教えてください。

Aベストアンサー

卑弥呼はあくまでも当時の中国側からの呼び名であり、本当の名前はわかりません。実在したかどうかわからないのは証拠が三国志の記述しかないためです(魏志倭人伝)。卑弥呼の死後、男王をたてたが、倭国が混乱し、動乱がおきたそうです。そのために女王「いよ(とよ)」をたてて混乱が終息したそうです。
実在が疑われている人物は聖徳太子です。厩戸皇子がいつのまにかそうだというようになったそうです。

Q戦国時代から江戸時代初期。参内に牛車を使いましたか

慶長8年、家康に将軍宣下があり、このとき牛車の使用を許可しています。
そこで疑問があるのですが、この当時、牛車の使用を許可された公家や武家は、実際に牛車に乗って参内したのでしょうか。
普段は使用しなくても、特別な儀式に参列する場合には牛車に乗ったのでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは ひさかたぶりで回答させていただきます。
『徳川実紀 東照宮御実紀』の慶長八年三月廿五日の条(2月21日が将軍宣下)に、次のような記述があります。
将軍宣下御拝賀として御参内あり。一番雑色十二人。-中略-七番御車。(糸毛なり。)牛二疋。牛飼二人。舎人八人。白丁二人。榻(*しじ)持一人。御階持一人。-中略-九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相秀康卿。豊前宰相忠興卿。若狭宰相高次。播磨少将輝政。安芸少将正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。-以下略-
ここで、「御車。(糸毛なり。)」とあるので、家康が牛車を用いたことが分かります。また、「榻(*しじ)」は、牛車から牛を外した時に、牛車の轅(ながえ-牛に牛車を結ぶ部分)の軛(くびき)を支え、なおかつ牛車に乗る人物が、乗り降りする時の踏み台とする物で、この榻を持ち歩く者がいることからも、牛車の使用がわかります。ただし、この時代には牛車が大きく、高くなり、榻では乗り降りに高さが足りなくなり、五段の階段の「桟(はし)」を使用するようになります。これが、「御階持一人」の「御階」のことになります。また、扈従する者の内、高位者は、塗輿を用いています。
ところで、牛車の使用の許可の宣旨についてですが、正確には牛車に乗ったまま大内裏の外郭門を通過して、内裏の外郭門(内裏外郭の春華門・建春門・朔平門まで入れるとされますが、建礼門説もあります)まで牛車で乗り入れることを許す宣旨のことです。牛車の宣旨が無い(一般の公家・親王等)場合には、大内裏の外郭門で牛車を降り、徒歩で各目的地に歩いて向かうことになります。
牛車の使用の制限はないようです。特に八葉の牛車は、地下でも使用ができました。ただ、牛車の種類と乗車する者の身分により、使用制限はありましたし、車の装飾等が華美になりやすいために、制限が加えられることもありました(以上は、平安時代の中期・後期)。さらに、鎌倉時代になると貴族社会全体に活力が無くなり、牛車の使用が激減し、特別の行事に、摂関・大臣クラスが用いる特別な乗り物になります。南北朝・室町期の動乱を経過して、牛車が失われたり、牛車(牛飼童などを含め)の維持・管理ができなくなった公家も多く、摂関家・清華家クラスの公家でも牛車は使用されなくなってきて、腰輿(たごし)を使用するようになっています(牛車が廃絶したわけではありません)。武家の将軍は特別の行事の場合、牛車を用いています。
秀吉以降、特に天下人(秀吉・家康・秀忠・家光)の場合、将軍に任官し、牛車宣旨を賜った場合、家康の例のように拝賀参内等に牛車を使用しています。秀吉の場合は、後陽成天皇の聚楽第に供奉する場面でも牛車を使用しています。このような牛車の使用は、天下人・将軍の権威を見せるだけでなく、一大デモンステーションで、特に家康の場合、対豊臣の面でも、牛車を使用した拝賀参内の行列をすることで、新たな天下人の誕生を宣伝する意味も強かったものと思います。特に、扈従の大名が、関ヶ原の役の対抗勢力の中心であった上杉・毛利に、豊臣恩顧の主要大名ですから、その意図は明らかであると思います。
なお、石村貞吉著の『有職故実』に、次のような記述があります。
『宣胤卿記』、長享三年(1489)正月十日の条には、「今日室町殿(*足利義尚)、諸家参賀の式日なり。殿下(*関白一条冬良)より、今日御参賀の御乗用として、予の輿借り召さるるの間、皆具し進じ了ぬ。乱(*応仁の乱)よりこのかた摂家清華、皆以て板輿に乗り車の沙汰に及ばず。輿所持の方すら尚以て稀なり。末代の作法悲しむべし云々」とあるのでも、その衰廃の様が推測される。爾後、豊臣秀吉、德川家康、秀忠、家光などが参内の際に乗用したことがあったが、その後には、将軍参内のことさえなくなって、牛車の制は、全く廃絶してしまった。(*幕末、家茂の参内に用いられたとされます)

以上、長くなりましたが、参考まで。

こんにちは ひさかたぶりで回答させていただきます。
『徳川実紀 東照宮御実紀』の慶長八年三月廿五日の条(2月21日が将軍宣下)に、次のような記述があります。
将軍宣下御拝賀として御参内あり。一番雑色十二人。-中略-七番御車。(糸毛なり。)牛二疋。牛飼二人。舎人八人。白丁二人。榻(*しじ)持一人。御階持一人。-中略-九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相秀康卿。豊前宰相忠興卿。若狭宰相高次。播磨少将輝政。安芸少将正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。-以下略-
ここで、「御...続きを読む

Q卑弥呼・・・?

 最近ニュースなどでも話題になっている卑弥呼と邪馬台国・・・ニュースを見ていて疑問に思ったことがあるので質問させていただきます。邪馬台国は、大和説や九州説があるようですが、どこに存在したのかはっきりわからないのになぜ卑弥呼という人が存在した事や、邪馬台国の存在があることははっきりしているのですか?普通は、地中から出てきた出土品から判断して、この時代にこのような人がいたと判断するのではないのですか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

yoshin01さんの見解のように有史前のことがらは、発掘により時代が確認されて初めて認められます。考古学では推論は認められないわけです。従って発掘の数と発掘技術の進歩によって過去の”事実”がどんどん改められていきます。

卑弥呼の時代の発掘と遺跡の再現は相当進んでおり(ここ15-20年で)中国の魏志倭人伝に書いてあることが発掘によって確認されつつあります。卑弥呼(個人名)や邪馬台国の存在の確認は日本に文字がなかった時代のことだから今後とも難しいでしょう。(魏志倭人伝に邪馬台国の場所が詳しく書かれていますが、方位や距離が正確ではないなどの事情から、まだ解読されていません。
しかし、邪馬台国のようなクニや卑弥呼的女性の存在は発掘によって証明がすすむでしょう。同様のクニはたくさんあったと思われるので、九州説や近畿説が出るわけです。

Q飛行機で結婚式のスーツを運搬する場合キャリーバッグ

カテ違いかな?

初めて飛行機で、結婚式に向かいます。

スーツを運ぶにはスーツバッグ、と思いましたが
手荷物が増えると、追加料金が必要なのかな?と危惧しています。

最近の飛行機利用者は、キャリーバッグのみの方が多く
少々大き目の手荷物規格のキャリーバッグの中にスーツを入れているのでしょうか?
(クールビズもあるでしょうが、昨冬もこんな感じ)

結婚式・披露宴なので、仕事の書類は無く、バッグの中身はスーツのみです。
(ラフな格好で行って、会場でスーツに着替え、ラフな格好で帰る)

キャリーバッグなら、引き出物(昨今はカタログギフトが多いですが?)も
詰め込めて一石二鳥かと思いましたが
このような使い方をされている方、いらっしゃいますか?

Aベストアンサー

>手荷物が増えると、追加料金が必要なのかな?と危惧しています。
http://www.ana.co.jp/dom/checkin/rules/baggage.html
このサイト↑を見る限りでは、預託手荷物に関しては大きさと重さの制限が有るだけで、個数についてはその制限内であれば構わないように読み取れます。
また、これとは別に機内持ち込み手荷物もあるので、その制限内であれば追加料金は発生しません。
>・・・・・仕事の書類は無く、バッグの中身はスーツのみです。
この状況で追加料金が必要になるとは、ちょっと想像できないと思いますが・・・・・???

Q邪馬台国、卑弥呼についての入門書

初めて本質問掲示板を使わせて頂きます。

関東で理系大学に通ってる私ですが
ここ最近ふと邪馬台国、卑弥呼に
興味を持ち学んでみたいと思いました。
とは言うものの
高校時代も世界史も日本史も教科選択しておらず
ほとんど無知、0の状態です・・。

そこで是非ご教授をお願いしたいのが

邪馬台国について。
当時の文化とはどういったものだったのか。
卑弥呼とはどんな人間だったのか。

この辺りについて記してあって
私のような初心者に向いていると皆様が思われる
入門書を紹介していただければ、と思っています。
よろしくおねがいします。

Aベストアンサー

私が読んだ本を1冊、たいへん良かったと思います。

題名 : 邪馬台国 ( 朝日文庫 )
著者 : 朝日新聞学芸部
発行 : 朝日新聞社

通称「魏志倭人伝」の 二千余字からなる原文と、新しい読み下し文が載っています。

この新読み下し文は、中国語学・中国文学の専門家である 京大人文科学研究所教授 尾崎雄二郎 および 神戸大学教養学部教授 一海知義 の両氏によるものだそうです。

Qはじめ人間ギャートルズ

はじめ人間ギャートルズで3つの質問があります

(1)ゴンの彼女の名前
(2)NHKでやっていた「はじめ人間ゴン」ってこれのパクリ?
(3)ギャートルズの最終回はどうなった?

以上についてお願いします

ああ、再放送しないかなあ・・・

Aベストアンサー

「はじめ人間ギャートルズ」ですか、懐かしいですね。
私は、これは現在も単行本としてあるのだろうかと思いますが、「はじめ人間ギャートルズ」と言う名で青年誌に連載していたものが原作だったと思いますが。
原作が青年誌ですから「とうちゃん」が主役でかなり助平なお話だったと感じます。
確か、古本屋で時々見かけますね。
その後、「はじめ人間ゴン」が始まると言うので、青年誌向きだったので、その設定を大幅に変えて、新しい話を原作として書いたのだとか。
で、最終回ですが、これは「文明」と言う男がある日彼らの集落(はじめ人間ギャートルズ)にやってきて、「マンモスなんて取っていたのでは、何日も飢えがあり大変だ。私が来たからには、もうそんな心配なんてしなくて済む。さあ、文明開化だ。米を作ろうではないか。」とか言いながら、はじめ人間ギャートルズ太刀の住む平地に水田を作り始め、それにみんなも何時の間にか参加していた・・・。やがて時はたち、もうそろそろ収穫と言うとき、あの男(「文化」)は「さあ、収穫のときは来た。みんなで、収穫だ!」と叫んだ!!。
途端にとつぜんマンモーがやってきた。
それを見た村人が「マンモーだ!収穫だ。収穫の季節がきたぞ!!」と言い放ち、みんな収穫前の米畑にマンモーを追い込み米畑を荒らしながら、マンモーとの格闘に我を忘れて狩をする。
その光景に男はただ、がっくりとなるだけ・・・。
その後彼がどうなったのかはよく分からない。(私が忘れてるだけ?もしかして、この辺の描写なかったかもしれませんが・・・・。)
で、その夜はマンモーの肉にかぶりつく彼らがあった。
・・・
で、エンディングで終了したと言うのがちょっとうろ覚えだけど、私の最低3回は見た最終回でした。
本放送で1回。
再放送で2回。
の計3回。
かなり時間的には離れてますけど、かなり衝撃的なラストだったので、よく覚えています。
私にしてみてば本当に最高の最終回でした。
最終回のベスト5に入る傑作だったと思います。
そういえば最終回のタイトルは確か・・・「文明開化」だったような。
では。
失礼します。

「はじめ人間ギャートルズ」ですか、懐かしいですね。
私は、これは現在も単行本としてあるのだろうかと思いますが、「はじめ人間ギャートルズ」と言う名で青年誌に連載していたものが原作だったと思いますが。
原作が青年誌ですから「とうちゃん」が主役でかなり助平なお話だったと感じます。
確か、古本屋で時々見かけますね。
その後、「はじめ人間ゴン」が始まると言うので、青年誌向きだったので、その設定を大幅に変えて、新しい話を原作として書いたのだとか。
で、最終回ですが、これは「文明」と言...続きを読む

Q卑弥呼の墓はどこですか?

卑弥呼の墓はどこですか?

Aベストアンサー

奈良の箸墓古墳とする説があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3
http://inoues.net/club/hashibaka.html

邪馬台国が九州であった説をとると
宇佐説と
http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper21.html
平原遺跡と言われています。
http://www.systemicssystem.com/ja/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1


人気Q&Aランキング

おすすめ情報