女性の人権に関する資料をまとめています。そこで、教えていただきたいことがあります。フランス革命の2年後に、ある女性が、この人権宣言に対して立ち上がり、のちに、革命戦争にとっては、反革命的なことだということで、最後にギロチンにかけられた女性の名前がわかりません。オランプ・ド・グージェというような名前の方って、いらっしゃるでしょうか。また、フランス革命の影響を及ぼしたアメリカの独立宣言に対して、ニューヨークのある場所に、女性や男性が集まったらしいのですが、そのある場所の名前が知りたいのです。この場所の名前は○○運動ともいわれていると思うのですが、何でしょうか。おしえてください。

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A 回答 (1件)

オランプ・ド・グージェという女性はいました。


人権宣言が不充分で、男(オム)の権利しかいっていないということで
1971年に「女性と女性市民の権利」を女(フェム)の権利宣言として
王妃に献納しています。その後は色々とあって断頭台で処刑されてます。
彼女の宣言がフェミニズム(女権拡張論)の元になっています。
彼女の生涯については、岩波書店から「女の人権宣言、フランス革命と
オランプ・ド・グージェの生涯」(ブラン)という本が出てます。
詳しくはそちらをどうぞ。
ニューヨークでの運動は、少しあやふやですが、セネカフォールズ会議の
ことではないかと思います。アメリカで女性の人権をみとめようとはじめて
決議された会議です。
ご参考まで。
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    • 0
この回答へのお礼

本当に助かりました。ありがとうございました。名前も場所の名前もまったくわからなかったので、困っていました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2001/05/24 08:40

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Q(再掲)朝鮮半島の歴史上の人物

現在、韓国の歴史人物について調べているのですが、詳細な資料が見つかりません。
皆さんの知ってる韓国の歴史人物の知識を教えて下さい。
織田信長・徳川家康・源頼朝など、歴史を次の時代に進めた歴史上の人物をお願いします。

私の知っている朝鮮半島の歴史上の人物は安重根・李舜臣ですが、

安重根は、ケネディ大統領を暗殺した犯人・ファイサル国王を暗殺したオマル師・朴正煕大統領を暗殺した金載圭、
などのテロリストの領域を出ない人物だと思います。

李舜臣は日本史上の人物で例えると、九鬼義隆や源義経など現場指揮官クラスの人物です。
源頼朝や織田信長など明確なビジョンを持って歴史を動かした人物ではないと思います。


1)朝鮮半島の歴史上の人物で織田信長・徳川家康・源頼朝など、歴史を次の時代に進めた歴史上の人物。
2)その人物が成し遂げたこと。
3)その人物が出現した後、どう変わったか。
をご教授下さい。

ご協力おねがいします。

Aベストアンサー

朝鮮の歴史を簡単に述べると、古代において君主制の中央集権の統一国家が
出現し、それが近代に至るまでずっと続いたということです。
日本やヨーロッパのように、封建制が間に入らないので、織田信長級の変革者
となると、数は限定されます。


今までに名の挙がってない人物で重要なのは、新羅の金春秋かと思います。
最近、少しずつ韓国の歴史を調べているのですが、今に至る韓国の歴史の
流れを決めたという点で、金春秋の存在は非常に大きいと思います。

こういうと語弊があるかもしれませんが、事大主義の先覚者ですね。
彼が活躍しなければ、新羅が勝者となることはなかったかと思います。
高句麗などは隋や唐の遠征軍を何度も退けて、自主独立の気概を示していた
のですが唐と同盟を結んだ新羅が韓半島を統一することで、その後の韓半島
の歴史が決まりました。

他にも、中国文化を積極的に導入し、名前までも中国風に改めたことなどは
やはり金春秋の影響が大きいと思います。


もう一人名前を挙げるとすれば、他の方の回答にあるように朴正煕大統領
ですね。朝鮮半島が最終的に赤化されなかったため(近い将来、あるかも
しれませんが。;^^)、日本にかかる共産圏の軍事的圧力が減り、日本は
その分経済発展することができました。

開発独裁の担い手として批判も多い朴正煕大統領ですが、客観的にみて日本の
恩人とも言えるかと思います。

朝鮮の歴史を簡単に述べると、古代において君主制の中央集権の統一国家が
出現し、それが近代に至るまでずっと続いたということです。
日本やヨーロッパのように、封建制が間に入らないので、織田信長級の変革者
となると、数は限定されます。


今までに名の挙がってない人物で重要なのは、新羅の金春秋かと思います。
最近、少しずつ韓国の歴史を調べているのですが、今に至る韓国の歴史の
流れを決めたという点で、金春秋の存在は非常に大きいと思います。

こういうと語弊があるかもしれませんが、...続きを読む

Qフランス人権宣言の邦訳はなぜ「人(間)および市民の権利宣言」ですか。

現在の日本人の感覚なら「人」という概念に「市民」も含まれます。僕の予想では、当時のフランス人は「人」と「市民」が違うものとして認識していたと思うのですが、この予想は正しいでしょうか。正しいとすれば、二つの概念はどのように異なるのでしょうか。

調べても回答となるものが見つかりませんでした。基本的な質問で恐縮なのですが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

lwshoshinnshaさん、こんにちは。(^-^)

今、「市民」という単語を、広辞苑で調べたのですが、
「国政に参与する地位にある国民。公民。広く、公共性の形成に自立的・自発的に参加する人々。」と書いてありました。

私は、原文を読んだ事はありませんが、多分、原文に、「国政に参与する地位にある国民」を意味する言葉が、書いてあるから、
「人(間)および市民の権利宣言」という訳になったのではないか?と思います。どうでしょうか?

Q朝鮮半島の歴史上の人物

現在、韓国の歴史人物について調べているのですが、詳細な資料が見つかりません。
皆さんの知ってる韓国の歴史人物の知識を教えて下さい。
織田信長・徳川家康・源頼朝など、歴史を次の時代に進めた歴史上の人物をお願いします。

私の知っている朝鮮半島の歴史上の人物は安重根・李舜臣ですが、

安重根は、ケネディ大統領を暗殺した犯人・ファイサル国王を暗殺したオマル師・朴正煕大統領を暗殺した金載圭、
などのテロリストの領域を出ない人物だと思います。

李舜臣は日本史上の人物で例えると、九鬼義隆や源義経など現場指揮官クラスの人物です。
源頼朝や織田信長など明確なビジョンを持って歴史を動かした人物ではないと思います。


1)朝鮮半島の歴史上の人物で織田信長・徳川家康・源頼朝など、歴史を次の時代に進めた歴史上の人物。
2)その人物が成し遂げたこと。
3)その人物が出現した後、どう変わったか。
をご教授下さい。

ご協力おねがいします

Aベストアンサー

ここを見て頂ければよいかと思います。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E5%AE%97_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B)

Qフランス革命の時、ナポレオンが総裁政府を打倒したことによってフランスが平和になったため、フランス革命

フランス革命の時、ナポレオンが総裁政府を打倒したことによってフランスが平和になったため、フランス革命の終結となっていますが、なぜ、総裁政府を倒すと平和になるのですか?

Aベストアンサー

他国とに戦争状態であるにもかかわらず、過激な政策や権力争いで内政は混乱、
ナポレオンとシエイエスはクーデターでそれにとどめを刺して、以後、統領政府を経て第一帝政になりました(内政は安定しました)という意味です。

Q好きな歴史人物を教えてください。

好きな歴史人物を教えてください。

自分が好きな歴史人物は坂本龍馬です。
今大河ドラマ龍馬伝でやってる通り生き様が羨ましいです。

他には徳川家康とか暴れん坊将軍吉宗、それに織田信長です。

是非皆さんの好きな歴史人物を教えてください!

Aベストアンサー

『坂本龍馬』=ただの一志士でありながら他の人間とは違った己が信じる平和の道を模索する姿が素敵です。

『高杉晋作』=「おもしろき こともなき世に おもしろく」彼の辞世の句ですが、本当に高杉晋作の人となりを良く表した一句だと思います。

『織田信長』=戦国時代で圧倒的な存在感の信長は本当に男惚れする人物ですね。ただ社会人になった今となっては、もし上司が信長だったら?と考えるととても生きた心地がしませんが・・・。

『豊臣秀吉』=農民から天下人まで駆け上った言わずと知れた、日本史上最大のサクセスストーリーの持ち主。当時としては奇想天外な柔軟なアイディア(墨俣一夜城建設、高松城の水攻めなどなど)はかなり個人的にはワクワクします。また、人心を読み、動かす事にも長け、こう言った部分でも社会人としては見習いたくあります。しかし晩年の朝鮮出兵は秀吉好きの私としても受け入れられませんね。


ちなみに、暴れん坊将軍吉宗はドラマのキャラクターは史実の人物像からはかなりかけ離れてますよ???
史実の人物像はかなりの倹約家で財政難の幕府を立て直すのに必死だったそうです。
とか言いながらも私もドラマの暴れん坊将軍は大好きですけどね

『坂本龍馬』=ただの一志士でありながら他の人間とは違った己が信じる平和の道を模索する姿が素敵です。

『高杉晋作』=「おもしろき こともなき世に おもしろく」彼の辞世の句ですが、本当に高杉晋作の人となりを良く表した一句だと思います。

『織田信長』=戦国時代で圧倒的な存在感の信長は本当に男惚れする人物ですね。ただ社会人になった今となっては、もし上司が信長だったら?と考えるととても生きた心地がしませんが・・・。

『豊臣秀吉』=農民から天下人まで駆け上った言わずと知れた、日本史上...続きを読む

Qフランス革命は共産主義革命?

フランス革命は共産主義革命だったのではないでしょうか?
1793年~94年の恐怖政治はジャコバン派独裁政権で旧ソ連や中国の共産党と被るのですが…。
また、民主党はフランス革命を再現しようとしたんでしょうか?
フランス革命の精神は自由、平等、博愛ですが、博愛を友愛に変えればフランス革命の精神と被りますし…。

Aベストアンサー

そのような分析をする学者もいるようです。

フランス革命で唱えられた自由、平等、友愛の言葉は、近市民社会や民主主義の根本思想になりました。しかし恐怖政治が行った反革命分子の粛清は、日を追うごとに残忍になっていき、遂には正当な裁判をせずに即刻処刑されるようになりました。

共産主義が取り入れたのは「革命」の理念いうより、自分の主張を成し遂げるためには殺戮を厭わない恐怖政治の「手法」だったようです。スターリンや毛沢東が学んだのは「血の粛清」という合法的に同胞を殺戮する方法です。

因みに「恐怖政治 (Reign of Terror)」は「テロリズム」「テロリスト」の語源になっています。

Q歴史上の人物とは?

歴史上の人物、という言い方がありますが、明治の後期の偉大な人でも、生きていると歴史上の人物とは言いませんか?

Aベストアンサー

故人 =歴史上の人物
生存者=立志伝中の人物・傑物・歴史に名を残す人物

と言うと思います。
したがって、生存されている人は「歴史上の人物」
とは言わないと思います。

では。

Qフランス革命以前のフランスの国旗はどんなデザイン?

先日、テレビでアニメの「ベルサイユのばら」を観ていました。

フランス革命の頃のパリが舞台のお話で、ちょうどロペスピエールだか誰だかが
「自由・平等・博愛」でおなじみの青白赤の三色旗を背に演説しているシーンです。
なにやら、ルイ16世の批判をしているようでした。

さて、フランス革命で件のトリコロールが制定されたのは判りました。
じゃあ、その前..フランス革命以前のフランスの国旗ってどんなだったのでしょう?

いくら王国だったとはいえ、近所のイングランドやロシア、スウェーデンの国旗は有名だし
きっと、ナニガシカの旗があったと思うのですが?どうでしょう?

Aベストアンサー

下記のURLはどうでしょうか?

参考URL:http://www.j-flags-java.org/merumagafrance.htm

Q調べやすい歴史上の人物

中学生です。夏休みに、歴史新聞という課題を出されました。
条件は、『死んだ人』なら、誰でもいいらしいです。
でも、私は歴史上の人物の誰かにしたいのですが、どれもピンとこず・・・・。
死んでいて、中学生で習う歴史上の人物で、調べやすい人物はいませんか??

Aベストアンサー

歴史新聞の作り方
http://event.kids.yahoo.co.jp/summer2006/study2/society04/index.html

>中学生で習う歴史上の人物で、調べやすい人物はいませんか??

・聖徳太子
・天智天皇
・天武天皇
・源頼朝・義経
・足利尊氏
・織田信長
・豊臣秀吉
・徳川家康
・西郷隆盛

あたりは、エピソードがたくさん残っているので、やりやすいでしょう。

Qフランス革命時のフランス軍の強さについて

 フランス革命後、(1793年に)オーストリア・プロシア連合軍がフランスに宣戦布告してヴァミールの戦いまでフランス軍は連戦連敗だったにもかかわらず、ヴァミールの戦い以降は連戦連勝で1813年にナポレオンがロシアで敗れるまでは負け知らずでした。
 一体、何がフランス軍をかえたのか、おしえてください。

 

Aベストアンサー

まずヴァミールではなくヴァルミー(Valmy)です。
ちなみにこのヴァルミー会戦は砲撃戦と合唱があっただけで
たいした戦闘はなくて、もともと戦争に消極的だったプロシア軍が
一応前進を阻止されたの口実に退却を始めただけです。
それでこの会戦はフランス軍が勝利したとは言い難い戦いでしたが、
最後まで戦場に残ったほうが勝者という慣例に従ったまでです。
ま、たしかに共和国軍最初の勝利ではあるのですが、
両国の政治的背景が影響したものだといえますから
ゲーテはフランス兵の士気の高さに驚いただけで、勘違いだったのです。

さて、ところで連合軍がフランスに宣戦布告したのではなくて、
フランスが各国に宣戦布告したのです。
革命戦争はすべてフランス側から宣戦布告となるというのは
必ずチェックされる要注意ポイント。
そして自ら宣戦布告したにもかかわらず、フランスには戦争の準備が
まったくなく、軍の指導者たちは最初から開戦に反対していたのですが、
さらに彼らはすべて大貴族出身だったので、
ロシャンボーやリュクネル、ディロンら軍司令官は
平民で革命派が多い兵士に信用されておらず、相互不信から軍隊は敵と戦う以前に
味方同士で足の引っ張り合いをしていました。
さらに兵士の大半も連盟兵など興奮して革命に参加しただけのド素人が主で
秩序も訓練もされてない部隊が多かったことから、
兵士は銃の使い方も知らず、そもそも銃も不足してたのですが、
何かあると大混乱し、貴族士官の命令に反抗したり、
勝手に隊を離れたり、家族を連れてきていたり、
気に入らない味方の司令官を銃撃したりしたので、
フランス軍は戦うたびに負けるという状況になったわけです。
これは当然です。戦う状態になかったわけですから。

つまりは何が変えたのかではなく、あなたが知るべきは
まず1792年および各年の状況はどうだったか、どういう展開であったかということです。
それを知らないで、大雑把に考えすぎてますから、
何かでガラッとかわったかのような誤解してますね。
実際には積み重ね、変遷があるわけで、状況にも依存します。

”ヴァルミー以後は連戦連勝”といことはありません。
革命戦争初期だけを見ても、勝ったり負けたりです。
詳しく語るのは面倒なので、非常に大雑把(それでも長いが)にいうと、
革命戦争は1792年の最初の二週間はフランス軍の大混乱で負け続け、
ラファイエットは対外戦争よりも革命鎮圧のために軍を使おうとして失脚します。
ちなみにルイ16世ら王党派と立憲派の一部は戦争にわざと負けて
外国軍を呼び寄せようと画策もしてました。
ブランシュバイク公のプロシア軍を主体とする干渉軍がパリへ進撃を始めて、
ヴェルダン要塞を攻略したのでパリ市民はパニックに陥って
監獄に収監されていた不幸な人々を、王党派だと誤解して大虐殺をするという九月の虐殺事件が起きます。
それから外相のデュムーリエが将軍として戦場の建て直しを始めて
ヴァルミー会戦で一応、プロシア軍の前進を阻止します。
ちなみになんでプロシア軍が干渉軍の主体になったかというと、
オーストリアはトルコとの戦争にも晒されていて、
フランスに介入したくなかったので、少し進んだ後はとまって
プロシア軍と亡命貴族軍だけをすすませたという外交的策略をつかいました。
そしてプロシア王は、何の利益にもならないこの干渉戦争で
自分の武名を高めようと考えていて、老臣たちの反対を押し切って
介入していたわけで、ヴァルミーで前進をやめたのはまさに
国王を説得できるだけの努力はしたので、もう帰ろうということだったのです。
ヴァルミーの後、デュムーリエはプロシア軍と交渉し後に講和します。

デュムーリエ将軍は(帝国領)ラインラントと、オーストリア領ネーデルランドに照準を定めます。
これは自然国境というフランスの古くからの戦略に沿ったもので、
ラインの西側を占領してフランスの安定的国境をライン川に定めるというものです。
そしてこれによって戦争を勝利しようというのが彼の計画でした。
プロシア軍が勝手に帰ったので兵力が少なくなった連合軍に対して、
ジェマップ会戦で勝利しますが、この年の冬から1793年の春にかけて補給物資が欠乏し、
フランス軍では契約を終えた兵士が大量に帰郷したこともあわせて
兵員の数が激減します。またルイ16世の処刑が1月に行われたこともあって、
ヨーロッパの君主国家は危機感を強めます。
フランスが(当初は革命を支持していた)イギリスに宣戦布告したので、
イギリスの資金援助を得たオーストリア・神聖ローマ帝国加盟国が本格的な干渉を始めます。
それでフランス軍は占領した地域を次々に失い、後退を強いられます。
デュムーリエはベルギーから軍を引き返してきますが、ネールウィンデンで敗北します。
この後、デュムーリエは裏切ってしまうので、
この混乱の後でフランス軍は何度も敗北してダンピエール将軍などは戦死してしまうほど。
この危機に国民公会は、カルノーを公安委員に迎えて軍の再建を任せます。
この人物がフランス軍に徴兵制度などをもたらし、軍事戦略を一本化するなど
数々の改革を行ったリフォーマーです。
しかし徴兵制は、各地での反乱を引き起こしたので、
ヴァンデと南フランスで王党派の蜂起があり、内戦となってフランスが最も苦しんだ時期に来ます。
しかし主戦場ではカルノーの主導でオンドショットで勝利して、ワッチニー会戦で辛くも勝利して
オーストリア軍のパリへの進撃の希望を打ち砕き、ヴァンデもナント市を防衛し、
この年の終わりにはツーロンを奪回するなど一定のめどをたてます。
これを期に、戦争は防衛的性格から、侵略的性格に変わっていきます。


さて、ここからさきも一進一退あるのですが、これ以上語ってられないので
ここまでにしますが、もう一点、いっておくと、
もともとフランスという国は、当時の最大最強の陸軍国家であって、
強い軍隊の下地があったということは忘れてはなりません。
特に7年戦争後の軍事理論の革新(ブールセ、ギベール、マーユボワら)が
フランス(ロシアでも同様の進展があった)では広く採用され、理解されていたことで、
オーストリアやプロシアといった旧態依然とした軍隊との差を生みました。
ナポレオンも彼らの学説を学生時代から学んで、それを活かしいったわけで
軍制というのは、一夜にしてかわるものではないのです。
しかも実験と実例が必要とされるというのも、詳しくは説明しませんが、付け加えておきましょう。


だからすでに革命前にフランス軍を強くする理論は確立されていたというのが回答です。
カルノーやナポレオンなど、これらに精通する人々が、実務家になったことで
それが理論が実現段階にいたったというだけの話なんです。

まずヴァミールではなくヴァルミー(Valmy)です。
ちなみにこのヴァルミー会戦は砲撃戦と合唱があっただけで
たいした戦闘はなくて、もともと戦争に消極的だったプロシア軍が
一応前進を阻止されたの口実に退却を始めただけです。
それでこの会戦はフランス軍が勝利したとは言い難い戦いでしたが、
最後まで戦場に残ったほうが勝者という慣例に従ったまでです。
ま、たしかに共和国軍最初の勝利ではあるのですが、
両国の政治的背景が影響したものだといえますから
ゲーテはフランス兵の士気の高さに驚いた...続きを読む


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