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清正公前の交差点はどうして地面が不要に盛り上がっているのでしょうか?
以前は地獄谷と呼ばれ、処刑者の遺体が放置されたと聞きますが、それに関係があるのでしょうか?

A 回答 (2件)

 不要に盛り上がっている…というよりは、元々、この一帯は古く築城の時代から江戸に多い高台であったということだと思います。



 この高台は山手線の恵比寿駅から目黒駅、品川駅から泉岳寺、白金高輪、そしてふたたび恵比寿、こうした線で結ばれた一帯、もちろん古川橋から六本木、飯倉、赤坂、青山などを結ぶいわゆる山の手と呼ばれる丘陵地の最南端部分と受け止めることも出来そうです。

 言い換えれば、麻布一の橋から二の橋あたりは、西手に三田台と呼ばれるやや小ぶりな高台がありますが、全体的には低地、そして三の橋から古川橋までも同じレベル、しかし、そこから南にかけては緩い坂ながら前述の高台に上ることになります。

 そして清正公前から明治学院大学あたり、このあたりでは右手に白金台、左手には高輪台とさらに高い台地がありますが、それでも、古くは元々こうした高台の一部であったと思います。さらにはこの一帯の道路を拡幅とともに、部分的に1500mmほど盛り土をして、むしろアップダウンを滑らかに改良したと聞いています。 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私が不審に感じているのは、おそらく最後に書かれた部分の「1500mmのほどの盛り土」の部分です。
清正公前の交差点の周辺、大凡数十メートル程度のエリアには、素人目に見ても、盛り土が必要な地形的な条件は全くないように思えるのです。
車で通っても、この辺りの盛り上がりは見通しも悪くなりますし、横断歩道の場所も変です(目黒通りからくると、横断歩道が変なところにしかありません)し、道路幅が広く、見通しが一気に開けるので皆スピードも出しますし(私もついつい…)、何か別な理由があるのではないか、と考えている次第です。
もし、引き続きご回答頂けるようでしたら、大変ありがたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

お礼日時:2013/04/05 10:46

文禄の役に加藤清正が、朝鮮第14代国王の孫を


連れて帰り、それが僧日延となり創建した覚林寺
がすぐ近くにあります。
寺には清正公堂、清正像があります。

古刹ですが近年道路整備で道より低地になり、
2008年 盛り土をして、かさ上げをしたとのこと。
ジャッキで寺を持ちあげてとの大工事との由。
そのせいではないでしょうか。

WIKI の覚林寺をご覧ください。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ございません。勉強になりました、ありがとうございます。

お礼日時:2013/05/06 16:54

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