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何事も大きなことをするには、お金がかかると思うのですが、幕末の長州藩は政治活動や軍事にかかる資金をどうやって得ていたのでしょうか。薩摩藩は琉球を支配して税を取っていたから、それを政治活動に使ったのかもしれないけど、長州藩は何か他藩よりも財政的に有利なことがあったのでしょうか。

A 回答 (4件)

kokutetsu さん、こんにちわ。



長州藩ですが、120万石あった所領が一気に関ヶ原の戦いで30万石まで減封になりましたが、この後、10年後の検地で実高が防長二州でまだ50万石を超えていることが明らかになりました。その後幕府との相談で37万石に落ち着きましたが、逐次新田開発を行い、幕末には100万石以上になっていたということです。
特に宝暦元年(1751年)に襲封した8代藩主重就は歴代藩主のその中でとびぬけています。まず検地を行い、8年後にはさらに4万石になる収入を得ることに成功し、この収入を藩財政には組み込まず、撫育方という一種の公社法人を設立させ、こちらの収入として充てるようにします。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764年)、鶴浜を開作し、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)などの港整備を行います。そしてこれらの港を回船の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、莫大な利益を得ましたが、この撫育方がほぼ全てを担当しました。
また、塩田開発も進め、明和年間には21万石に上がる膨大な収益を得たと言われています。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れていたようです。その反面、過度な年貢取り立てなどの政策は一揆に悩まされることにもなりました。

また、減封により士分より離れ帰農や商人に転じた人たちも元は毛利家の家臣であったという意識があり、それが藩内の共有意識となって階級・身分を越えて結束が強かったようです。
財政に関する詳細なことはURLをご参照ください。


長州藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E% …

毛利 重就
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9% …
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この回答へのお礼

なるほど。港や塩田に恵まれ、新田開発、殖産興業などの企画がうまくいったということですね。しかし、過酷な年貢取り立てというのはすごく残念。これがなければ、歴史ドラマの主役にもなれたかもしれません。撫育方という財テク専門機関を作ったというのも面白いですね。ありがとうございました。

お礼日時:2013/04/02 10:54
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この回答へのお礼

白石正一郎の話は司馬遼太郎の「街道をゆく」にも出てきました。個人の財力がそこまで政治を動かすとは、どんだけすごい豪商なんだろう。しかし、白石は資金援助しても見返りを求めない清廉潔白な人物だったそうです。ありがとうございました。

お礼日時:2013/04/02 10:43

「龍馬伝」で馬関海峡の通行税により藩の財政は潤っていたという話がありました。


もちろん海産資源も豊富だったでしょうし、物流拠点としても重要だったのでしょう。

その金で長州藩はグラバー商会から最新の軍艦10隻とメニエー銃を買ったのでしたね。
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この回答へのお礼

なるほど、通行税というのはありそうですね。ありがとうございました。

お礼日時:2013/04/02 10:38

世の中には不思議な錬金術があるんですよ



五文が百文になる不思議な錬金術

まずビタ銭を6枚用意します
次に天保銭を型取りします
溶かしたビタ銭を流し込みます

あ~ら不思議
一文の価値も無いビタ銭が100文になりました
人件費は四文ほど

会津・長州・薩摩・土佐など大藩の偽金が大量に発見されています

税金取るより簡単な収入源
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この回答へのお礼

偽金つくりを幕末の雄藩がしていたとは、教科書にものっていませんでした。大河ドラマでもみませんでした。うーん、まさかそんなことをしていたとは驚きです。ありがとうございました。

お礼日時:2013/04/02 10:37

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