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私は通信制高校出身者です。偏差値50少しの大学に推薦入試で合格しました。
一年時は古典の講義を選択しなくても進級出来そうなのですが、二年時 ~はそうはいきません。
一年時から古典を一、二教科選択して二年時の負担を軽減しておいたほうが良いでしょうか?
それとも、一年時に独学で古典を勉強してから、二年時から古典の講義を取ったほうがいいでしょうか?

大学を辞めるはめにならないか本当に心配です。助けてください。

A 回答 (11件中1~10件)

本日(4月19日)の読売新聞に、「大学の実力 全員面談で意欲喚起」で次のような記事が掲載されています。


「放っておいたら勉強しない今どきの学生に、大学は手間をかけざるをえない。その第一歩が学力測定。「大学の実力」調査で、入学直後に英語のテストをする大学は74%、数学、国語も30%前後に上る。力を把握し、成績別授業や補習クラスの開設など、その後の指導につなげるためだ◆福岡工業大学は4年前から、テストに加え、学生課などの職員が2週間かけて新入生一人ひとりと面談を行う。テスト成績や事前に書かせた「5年後の私」と題する作文、学習・生活面での不安を記入させた個人カードをもとに現状を探るのだ◆「成績をどう思う?」「将来に向け、今、何をすれば?」。臨床心理士の研修も受けた職員が丹念に聞く。「不安を抱く学生を支援し、意欲を引き出す。まずは気持ちの共有から」とある担当者。「何が足りないかよく分かった」と学生◆面談内容は担当職員に報告され、補習クラス編成やカウンセリング受診など個別対応が決まる。事後にもきめ細かくチェックするせいで、補習クラスの出席率は9割以上、学ぶ姿勢も確実に変わるとか。首尾は上々と言える◆周囲の努力次第で伸びる学生。そのやりようが大学の声価に響く時代だ。」
以上の記事ですが、これは入学後のオリエンテーション期間に学力診断テストを実施した大学の調査で、入学金を納入後(正式の入学前)の事前指導段階でテスト及び補習などを実施している大学を含めると、英語を除いてもほぼ半数以上の大学で、テスト・補習などを何らかの形のプログラム実施しています。
福岡工業大学の例のような大学はまだ少ないと思いますが、多くの大学の現状は上記のようになっているのですが、質問者の方の大学には対応するプログラムは無いのでしょうか?指導者について学習することが古文、特に文法関係には必要なことだと思いますし、最初の段階では、指導者による現状把握と、手段・方向性の提示が重要だと思います。
また、同じ読売新聞の一週間ほど前の阪大名誉教授の山崎正和氏の寄稿記事に、小中高生の教育現状について、NO5、6に書いたことと同様の内容が載っています。小中で落第を提案しているなど対処方法の一部にはどうかと思う点がいくつかありますが、現状認識には同感です。
さて、レポート、論文、ゼミなどの少人数授業などを通じて大学生に感じること(現状認識)について、まず、ネット検索の多さが挙げられます。同じようなレポートが上げられてくることも多いので、直ぐにわかりますし、その部分だけ文体ががらりと変わっていますので、その点でも気が付きます。ネット検索も上手く使えば、それなりにレポートなどはできますが、無批判に用いたり、検討を怠ったりすると、とんでもないと思う趣旨になったりします。逆に言えば、上手くネットを使えば、パスするということも言えます。
次に気になることは、史料(古文・和製漢文・漢文など)を解釈するときに、著しいギャップが出現することです。(活字本で)訳が出ているような史料は非常にきちんと訳されており、それを基にした論の展開も無難にこなします。しかし、訳が無いような史料、自分で訳さなくてはいけないような史料の解釈と、論の展開に学生個々人により大変な差が出ます。基本的に史料を読めない、意味をとれない学生が多いことがわかります。(ネットの訳は驚くような特殊解釈があるので使えません)
日本文学科の友人ともよく話すのですが、漢文関係については基本的に読めないことがネックになっています。書き下し文にできれば、基本的に日本文である古文になるわけですが、漢文を読む基本的な約束事を知らないことが読めない原因です。漢文よりも特殊で、独自の約束事も多い(原史料の誤字脱字を含めて)となるとお手上げ状態です。
古文に関しては、よほどのことが無ければ読めないという学生は少数です。辞書を使えばある程度訳せるのですが、つまずいているのは文法、特に助動詞の理解ができていないことが原因のように思います。かといって多くの古語の意味が、辞書を引かなければわからないことも、文学科の学生としては問題がありますが、より重症なのは文法です。
友人が聞き取りをしてみると、高校で古文関係の授業がほとんどなかった、古文の授業があっても文法事項はほとんど実施しなかった、動詞などの用言で終了した、文法事項は一通り学習したが嫌いだ、重要性を理解していなかった、文法は嫌いだったなどの話が出るそうです。
さて、具体的な対応策ですが、
古典作品や古典研究の背景理解などには、高校でよく使う国語便覧が良いと思います。見るだけでなく、辞書的に活用することもできます。古文・漢文分野だけでなく、現代文関係も記載されていますが、覚えるというよりも、見ることに主眼を置くつもりが良いように思います。日本の歴史などの通史を読むことも理解を助けると思います。
自己学習を前提とした古文そのものの理解には、原文・口語訳・語句の説明・文法事項の説明・背景・解説などのある参考書、高校の教科書ガイド(虎の巻とかアンチョコと呼ばれています)の内、国語総合でも古文編や古典の古文編のように分かれている場合もありますの。教科書ガイドを使う場合は、国語総合の古文編(ガイドによっては分かれていないこともあります)は教科書を含め基本的な内容から入っているので、理解がしやすいのではないかと思います。ガイドでなくてもよいのですが、上記の参考書・ガイドが手に入ったら、ともかく、原文を読んで辞書を使って訳してみましょう。次に口語訳と対応させてみてください。自分の訳がおかしかったら、語句・文法についての説明を見ましょう。語句に問題がある場合、その説明で分かったとしないで、辞書にもう一度戻り、確認と単語帳のようなものを作り、次に備えましょう。PCのエクセルを用いて、ソートさせている学生もいます。文法事項に問題がある場合は、文法の教科書で確認をしましょう。語句・文法事項の説明・解説だけでは理解できないこともあります。その時には原文に品詞分解(品詞名・活用の種類・活用形・助動詞の場合は過去などの意味まで記載されています)を施してあると辞書・文法の教科書を使って、理解することができます。現在の古典辞典(電子辞書も含めて)は助動詞及び間違いやすい基本的単語(活用語)は終止形だけでなく、その他の活用形も記載されている(〇〇の連用形などの表現)ものが多くなっています。
文法に関しては、系統的な理解が欠かせません。教科書を読み進め、章末の問題を解いていくこともよいのですが、解説不足の面もあります。解説がある簡単な問題集を用い、問題を解き、解説を読み、教科書で確認する作業を根気よく続ける事が基本だと思います。ただ、語句は相互関連することは少ないのですが、文法は相互関連するものですから、一語の理解の積み重ねだけでは理解できない部分があります。関連によっては意味・内容が変わってくることもあります。その点には注意してください。そのようなことから古典、特に文法事項については指導者がいた方が良いと思うので、大学に補習などのプログラムが無いかと思うのですが、あるようであれば、参加されることを勧めます。
高校の教員を最初に経験したので思うことなのでしょうが、学生の現状、特にどの点でつまずいているのかを把握し、それを埋めて、基礎的な力を強化し、平均化しないと一斉授業を実施しても教育効果が薄いと感じてしまいます。学ぶ場合も同じで、いやでしょうが、つまずいている、理解していない点を知り、埋めていくことが学習の始まりのように思います。
大学の専門課程でも、上記したようにネットや活字媒体を上手く利用すればある程度こなせます。古典分野に限れば、原文の口語訳を直接求められることは、多くはありません。しかし、言わずもがなではありますが、それで済むものではありません。時間はたっぷりあります。倦まず弛まずに継続してください。
以上、長々と述べましたが、これは一般論に過ぎません。学習に不安を持つ学生・生徒に対する対応として最も効果的なのは個別指導のプロセスです。特に最初の段階では、福岡工業大学の例のようにテスト、面談のように個別対応による問題点の把握と、方向性・手段の明示が有効だと思います。一連の回答・補足及び質問を見ても、質問者の方の現在の力がどの程度であるのかは、当然のことながら把握できません。現状がしっかりと把握されなければ、本当の意味で対策は立てられません。また、どのレベルに目標点を設定するかによっても変動します。あまり良い例でもありませんが、例えば木材による火災であれば、放水による消火が可能です。しかし、油性の火災であれば、放水では逆に火を広げる恐れがあります。電気系の火災では放水による感電も考えられます。どのような種類の火災なのかの現状把握をしっかりして、それに合った手段をとることが求められます。放水による消火が可能でも、火事の大きさなどにより、消化の目的値が変わり、放水量の増減や、放水方法にも変化が求められます。
ともかく、質問者の方の目標値を含め、現状を把握し、方向性・手段について直接相談が可能で、信頼できる人物を探し、相談することだと思います。
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 これまでは辛口でしたが、今回は前向きな提案です。

僕は企業勤務と大学教育二足草鞋を履く者ですので、その立場からお話しします。
 「歴史も好き」ということであれば、中央公論社の『日本の歴史』の奈良時代あたり(巻数番号3)から始めて近代初頭まで(巻数20)にザッと目を通す形で前近代史のアウトラインを掴んでおくことも大切です。
 もっとダイジェスト的なものならば、岩波新書から刊行されている網野善彦氏の『日本社会の歴史 上・中・下』もお勧めできますが、少しクセもあります。
 もし個人的に「古文」を学び直すのであれば、角川文庫から刊行されている『角川ソフィア文庫』には主立った作品群が採り上げられていますので、読み易いかとも存じます。
 僕が高校時代に使っていた参考書で、洛陽社刊の『古文研究法』『漢文研究法』『国文法の基礎』をお勧めします。なぜ「漢文」の参考書を?と思われるかもしれませんが、古典の中には「漢文からの引用」も多々あることで、それに関する周辺知識を蓄えておくことも大切です。
 卒業は今から3年と11ヶ月先の話ですから、じっくりと構えて焦らず弛まずに勉強して下さい。それではこれで失礼致します。
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 コメントありがとうございました。

漱石ならば様々な批評や先行研究もありますので、勉強しやすいでしょう。
今から10年少しばかり以前、ミレニアムや世紀末との言葉がメディアに観られましたが、その当時に比較対象となったのが、漱石とその時代でした。一人の作家が日本の近代を外そして内側からどの様に眺めていたか、などは今でも古くて新しい研究視角です。文学には解釈が伴いますから、多様な理解も「論理的に説明できれば成り立つ」性質を持ちます。是非、問題意識と目的意識を高く持って「対象」を観察し、それと格闘して下さい。

 ついでですが、 
>私も源氏物語好きです。ちなみに、光源氏より藤原業平のほうが好きです
藤原業平ではなく、在原業平です。そして『伊勢物語』に登場する「昔、男ありけり。」の男に擬せられた人物です。

この回答への補足

業平の苗字を間違えて送信しまったことに、すぐに気付きました!間違いを修正するために補足しようと思ったんですが、これ二度目の補足はできないのですね、、、。一瞬でも間違えてしまって歴史好きとして恥ずかしいです。業平に謝りたいです。ご指摘ありがとうございました。

補足日時:2013/04/11 20:23
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 春新年度を迎え、こちらはオリエンテーションだの何だのとで振り回されっぱなしの状態です。


♯4・5そして7の回答者の方はご自身がお求めになる「理想の学校教育論」を展開されていますが、少なくともここはそうした場所ではありません。「学校(学校教育法でり規定されている学校の種類)」と予備校や学習塾ではその位置付けや性格も異なります。それによって「目的自体」も異なります。
 予備校や学習塾の殆どが「進学のための学習力の向上」を目的としますから、テストで良い成績を取るためのノウハウを教えます。これに対し「学校」は学生や生徒児童の知的好奇心を刺激し、如何に伸ばすかとのモチベーションを与えるきっかけを見つけさせる場です。この点に関しては同意もしますが、それをそのまま大学に持ち込むことが適切でしょうか。少なくとも大学は「国民皆教育」の場ではない。学びたい者だけが主体的に学ぶ、そうした場ではありませんか?。
 質問者から寄せられた質問には肝腎の「学ぶ目的と意図」を残念ながら読み取ることも困難です。なぜ大学で学ぶのか、そうした姿勢がなければ、馬を水辺に連れて行くことはできても馬に水を飲ませることはできないことと同じです。
 そして質問者が誤解している点があります。大学には最長で8年間在籍することができます。つまり8年間の間に卒業要件をクリアすれば卒業できるのであって、大学を辞めるのは自主退学と除籍のみです。
 はっきり言って、質問者は甘えているとしか思えません。日本文学を専攻するならば、近代文学を選択しても卒論を書くことは可能です。もちろん「履修すべき単位(卒業要件を満たすための単位)」をクリアすることが前提です。
 今、僕の許には事情により通信制高校で高校課程を終えた学生もおります。けれどもこの方の実力には一般入試を経て入学してきた学生と比べて遜色などみられません。学力が追いつかずかわいそうだから、では反って相手に対し失礼ではありませんか?。
 苦手だからといって避けているだけで卒業できるなら、これほど楽な話もありません。専門領域だから逆に学び甲斐もあるのではありませんか?。チャレンジしていく気持ちがなければ、どんな山でも頂に登ることができない。その山に登る準備作業が一二年次ですから、準備を怠ったままの状態では危険だけが伴います。全ては「あなた次第」です。わからないところがあれば、積極的に自分で調べその上でT・Aなどに尋ねても良いでしょう。研究室を訪ねれば教員もなにがしかのアドバイスをします。もちろん、それにどう反応するかは訪ねた質問者に委ねられますが。
 一二年次では教員も懇切丁寧な指導をしますが、専門課程に進んだなら「今まで何をしてきたの?」と突き放します。基礎課程を修めていなければ以後の専門課程の内容も理解に困難を招きます。
 なぜ質問者様はこれまでの回答に対するコメントを一切お寄せにならず沈黙を保っているのでしょうか、疑問です。

この回答への補足

初めてこのサイトを利用したので、一つ一つの質問に補足できるということを知りませんでした。貴方から回答を頂き、あれ?っと思ってPCでログインしてみたら補足できました。沈黙を保とうとしていたわけではありません。
近代文学や日本語学が好きで入学しました。歴史が好きなので、古典も嫌いではないのです。ただ、読み方を知らないので苦手意識があります。

補足日時:2013/04/11 20:13
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現実から目をそむけて教育はできないのではないでしょうか。

大学は研究の場でもありますが、教育の場でもあります。教育とはなんでしょうか。テストができないと学生の力がないと切り捨てる教員がいます。テストは学生の力を計るものではありますが、一面では教員の力量を計る物差しでもあります。学生の学力の現状把握力、教員の説明力、試験の構成力などに問題がないとは言えません。試験ができないことは教員にも問題があるということでもあります。教員を教育者足らしめているものは、地位でも、立場でもなく、どれほど学生のモチベーションを高め、潜在的な能力を引き出し、いかに学力を高め、教育できるかだと思いますよ。教えられなければ研究者として専念すればよいのであって、講義などはしなければよいのです。分からないものを切り捨てるのは教育の否定でしかないと思います。分からないからこそ教育するのであって、極論すればわかっていれば教育はその面でいらないものだと思います。そのようなことだから、企業は大学の内容など新人研修の1ケ月程度のものと言ってはばからないのです。小中に学習塾が、高校に予備校がなぜ存在するのでしょうか。学力・意欲がある児童・生徒が通っているだけではないのです。学習に遅れがちな児童・生徒も多く通っています。学校教育の中で本来は教育すべき児童・生徒(学習に遅れがちな者だけではなく、逆に理解が充分な者も)を教育できないからこそ、塾・予備校の存在を許しているのではないでしょうか。大学も不況下で少なくなりましたが、ダブルスクールと称して、専門学校との併修があったのは、本当に勉強しようとする学生に大学が応えられていない結果だったのではないでしょうか。秋田に2004年に開校した国際教養大学が、なぜに短期間に東京外国語大学に並ぶようになったのでしょうか。従来の大学教育にないものがあったためではないのでしょうか。
高校も同じで、中学校の内容を中学の教科書を購入させて学習させて、理解させ、その上で高校の内容に入り、学力の大幅UPに成功した実例があります。

一斉授業方式は効率よく、特に日本ではたいへん効果を上げた方法でしたが、現在そのひずみが目立つようになっています。個に対する指導に欠け、一斉授業になじめない学生・生徒、学習に遅れがちな学生・生徒に対応できないうらみがあります。でも、全てとは言いませんが、そのような学生・生徒が学習に資質・能力を持っていないわけではないのです。学習に遅れがちであったり、一斉授業になじめない学生・生徒・児童に対応していくことも、教育の一つではないのでしょうか。推薦・AO入試であっても入学させた学生に対応できない大学に教育機関としての存在意義はあるのでしょうか。
学習に遅れがちであったり、一斉授業になじめない学生・生徒・児童を実質的に切り捨てるようなことをするからこそ、中退者の増加や、学校荒廃の原因の一つとなったのではないのですか。教員にすれば多くの学生・生徒・児童の一人かもしれませんが、学生・生徒・児童はそれぞれの人生を、将来を背負っているのです。
このようなことを書くと、理想だ、自分でできるのかと言われそうですが、私は高校でも大学でもやってきましたよ。意欲を持たせ、学力を上げられた生徒・学生は少数だったかもしれませんが、放課後や講義の時間の合間を見て、努力したつもりです。夜の9時10時まで補習をしたことも今では思い出ですが、できない事ではないのです。わからないことがわかるようになり、学力が伸びていく実感を持つようになった学生・生徒の姿を見られる喜びは、良いものですよ。難しいことを難しく教えることは普通のことですが、難しいことをわかるように教えることは簡単ではありません。自己改革を迫られる面も無きにしも非ずです。そのためには本質的な理解を求められます。書いてあることをそのまま教えるようなわけにはいかないのです。教員自体により深い理解が求められるのです。その中から新たな発見や気付きもあるのです。教員も学生・生徒・児童によって教えられ、鍛えられるのです。
今回の質問者の方は自己の学力の不足に不安を感じ、進級や在籍に思い悩んでいます。この気持ちをモチベーションに繋げることは簡単なことです。そこに必要なことは、教え導く人間です。このような学生を導けないとするならば、大学ってどのような存在なのだろう。大学教育とはいったい何?
大学入学者の割合が50%を超え、大学数が倍以上になったことは、大学教育や経営に多くの問題をもたらしたことは現実です。その反面、教育の裾野を広げ、今まで伸びることができなかった学生にチャンスを与え、光を当てたことでもあります。大学進学者が1,2割の時代とは違った教育観を大学も持たざるを得ないのです。高校や中学・小学校で素質を伸ばせられなかった原石にもチャンスを与え、研磨して、輝く宝石にできるのです。高校の2単位時間の開講時数は凡そ年に50時間です。日にちに直すと2日強の時間にしかすぎません。倍の時間をかけたとしても4日ほど。ヤル気になってできない時間ではないでしょう。
付け加えになりますが、以上のように述べてきて逆のことを言うようですが、今の大学教育をはじめとする学校教育の問題点には、英才教育・エリート養成教育に欠けるといった点にもあると思っています。

質問者の方には申し訳ありません。私が余計なことを書いたせいで話が大幅に横道にそれてしまっています。お詫びします。
さて、前回書き忘れましたが、古文はまず読むことです。読書百遍、意自ずから通ずではないですが、何回も読み返すと見えてくるものもありますし、慣れるということも大切な要素です。短い文、簡単な古文でよいのです。例えば、伊勢物語などの歌物語、枕草子などの随筆、今昔物語集などの説話集など、短い文で構成されているものの中からでも、気が向く物を選んで読んでみてはいかがでしょうか。他にも候補作品はあるでしょうから、上記の作品にこだわる必要はありません。
次に、古文がある程度分かるようになったら、漢文にも手を伸ばしましょう。古文の基礎的な部分には漢文の教養があります。古文のより深い理解には漢文の理解は欠かせません。
最後に、もしわからないことがあったら、OKWaveなどの質問サイトに質問してみることも一つです。あらゆる手段を使って理解に努めてください。カテゴリーとしては文学よりも国語の方が回答は付きやすいと思います。
以上です。古文が理解でき、卒業されることを祈念します。壁にぶつかることも多いと思いますが、本当に継続は力ですので、乗り越え、乗り越え向上してください。あなたの可能性を大事にしてください。可能性を自分でも育ててください。期待します。

この回答への補足

そう考えると講義の時間はとても短いんですね。予習、復習頑張ります。
百人一首から初めて、伊勢物語に挑戦したいと思います。
回答ありがうございました。

補足日時:2013/04/11 20:32
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 少しばかり憮然とさせる回答が寄せられましたので反論します。

大学はお客様を迎える場ではありません。
教えてもらうとの発想ならばカルチャースクールにでも転学して下さい。
 大学の教員はそんなにひまではありません! 。推薦やAOなどというバイパス経由で入ってくる学生の資質には疑問符が多々付くだけです。あなたは一体何を求めて大学に入学してきたのですか、明確な理由もないのであれぱ、あなたが合格したことにより、他の受験者がそれだけ割を食ったとの話になることも理解できませんか?。

この回答への補足

目標ですか。ありますけど。私は目標があるからこそAO入試対策を頑張ることが出来ました。

補足日時:2013/04/11 20:00
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以下は、質問された方への直接的な回答となります。


さて、最初にすべきことは最低限古語辞書と古典文法の教科書は持つべきです(すでに持っていらっしゃったらごめんなさい)。
大学も対策を立てています。その一つが、補習授業の実施です。高校の授業内容、時には中学の内容から補習を実施して、基礎学力を持たそうとしています。入学前から実施している大学と、入学後大学の授業と並行して実施している大学がありますが、質問された方の大学はどうでしょうか。学生課などで実施されていないかどうか、実施しているとすればどのような内容なのかを問い合わせ、是非参加されるようにしてください。対策の二つ目として、クラス制をとる大学が増えています。クラスの担当者が学生の悩みの相談に乗り、中退者の減少に繋げようとの趣旨ですが、悩みの中に基礎学力の不足も当然のようにあります。学生課よりきめ細かく対応してくれることが多く、個別に相談に乗ってくれます。
大学に補習もない場合、予備校の基礎講座の受講という方法があります。大学に合格しているのに予備校でもないと思っていらっしゃるかも知れませんが、予備校でも大学生の現状を知っていますので、対応している予備校もあります。恥ずかしがらずに予備校の担当部局に相談してみてください。自分の現状を素直に話して相談してください。
さらに、通信制高校で国語で直接指導を受けた教師はいませんか。その方に指導してもらえないでしょうか。
大学の補習・予備校・高校の教師と挙げてきましたが、それは独学ということが難しいからです。できないことはないのですが、理解が遅かったり、間違った方向に進みやすく、中途で挫折しやすいからです。教えてくれる人物がいればそれに越したことはないのです。そして、わからないことがあったならばとことん質問してください。教員は学生・生徒がわからないことを教えるために存在しているのですから、喜んで教えてくれるはずです。教員と良い人間関係を築き、補習など以外でも質問に行けるようになると理解は格段に早くなります。
そのような意味では、一年の時に古典の専門科目をとるのも一つの方法ではないかと思います。二年次からの古典の履修科目の軽減だけではなく、担当教員の懐に飛び込み、教えてもらう方法もあります。ただし、事前の調査を忘れずに。対応してくれそうな教員を選びましょう。また、身近に教えてくれる方がいればそれもよいと思います。
高校で国語総合の古典分野をまともに授業展開して、古典の基礎にかける時間は、週に2単位時間(50分)程度。年に凡そ30週の実施が実数ですから、合計2×30×50分=3000分=50時間に過ぎません。たった50時間ですから追い付けないことはありません。ともかく、予習・復習を忘れずに。そこから疑問点が出てき、疑問点を解消することが新たな発展につながります。疑問がでたら質問しまくりましょう。
独学ですが、まず訳すことを勧めます。古文といえども同じ日本語ですから、ほとんどの言葉は現代語と同じか、近い関係にあります。語順は当然同じです。それを忘れないで訳すことです。そうすると、訳文を見ると、わからない言葉(文法を含む)や、自分の訳と違うことが出てきます。言葉の意味であったり、文法事項であったりしますが、古語辞典を引いてみましょう。言葉・語句の意味の問題であれば辞書で解決できることが多くありますが、文法的な問題はなかなか辞書だけでは解決できません。そこで、問題点が解消できる、できないに係らず、言葉・語句の意味・文法について解説して部分を見ることが必要になります。つまり、古文の原文があり、訳文があり、その後の重要語の意味・解説、文法的な解説が懇切に書いてある問題集的な参考書が良いのではないでしょうか。それも、基礎的な文法を系統的に教えるような参考書が良いのではないでしょうか。あまり難しいものは進めません。また、ネットにある古文の解説は、ほぼ訳文と相対的な解説だけで、詳細に語句・文法的な解説をしているものは皆無に近いです。また、玉石混交で、どうしてこのような訳になるのかと疑問を持つものまであります。やはり、書店で求めた方が良いと思います。
さて、言葉の意味・文法について解説して部分を見たら、文法に関しては文法の教科書に、言葉の意味であれば辞典でもう一度確認をし、単語帳・文法ノートのようなものを作り、覚えるように反復しましょう。語句に関しては古語の350語などの本も参考になります。さらに、古典の常識のような本も読んでみることもよいでしょう。文法は突き詰めると助動詞に行きつくように思いますが、ともかくも系統的に学ぶことに心がけてほしいと思います。

さて、今までの文でも書きましたが、ご自分の不安を感じ、それを解消したいとの意欲を持っていらっしゃるようです。この気持が最も大事です。その気持ちを忘れないで努力してください。推薦入試での入学者は原石のようなもので、磨けば宝石として輝く余地をいっぱい持っています。輝ける明日を信じて頑張ってください。

好き勝手に書いてきました。質問された方だけでなく、他の回答者の方に対しても無礼な記述があったと思います。ご寛恕ください。

この回答への補足

実家を離れているので高校の先生に教わりに行くことはできません。つまずいたところは教授や友達に聞こうと思います。予備校は基礎学力の無い大学生にも対応してくださるのですか。初めて知りました。お金が無いので予備校は最後の最後の最後の手段にしようと思います。予備校のことを知ることができて良かったです。ありがとうございました。

補足日時:2013/04/11 19:56
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勉強は、1に意欲、2に継続、3以下に能力だと思います。

特に、知らないということに気づき、危機感を持って勉強に意欲的に取り組むことが、一番学力が伸張することだと思います。頑張ってください。
さて、具体的な対応策の前に、回り道ですが大学と高校の現状について言及しておきたいと思います。他の方の回答を拝見しましたが、大変失礼な物言いで申し訳ないのですが、大学と高校の現状についてほとんどご存じではないようです。ご自身の時代の大学と高校を念頭にして回答をされているようですが、今の大学は想像とはかけ離れた状況にあります。以下を参考にアドバイスをしてあげていただきたいと思います。
田中前文科大臣が、大学新設申請を却下し、その後認可し、大騒動を起こしましたが、その行動の目茶苦茶さはともかく、その認識は現状の大学とその教育の危機を背景にしています。日本では大学進学率が50%を超え、少子化の影響も甚大で、ほぼ半数の大学で定員割れになっています。その反面大学の新設が相次ぎ(短大から四大への変更・専門学校の大学設置も多い)、全大学の募集定員よりも、大学進学希望者数が下回り、大学のランクを気にしなければ、大学進学希望者はどこかの大学に入学できる状況です。多くの大学では入学者の質の確保よりも、いかに定員を確保するかの方が至上命題となっています。大学は質よりも量に重点を置き入試を行っているのが現状です。
入試の中でも、一般入試での入学者はある程度のレベルで入学するのですが、推薦入試での入学者のレベルの低下は極端で、高校はおろか、中学終了の学力もない学生が入学してきます。これは、高校間の学力差を無視して、5段階評価の平均値(評定平均)を一律に見て、進学校の5も5、底辺校の5も5として考え、評定平均を重要な基準として入試を行うといっても過言ではありません。大学によっては高校のレベルによって乗率を掛けて補正しているところもありますが、ほとんどの大学で高校の評定平均を同一のものとして扱っています。大学側が高校間格差について知らない訳ではなく、入学させれば学力の低下、大幅な学力差による教育の困難が予想される、または実感してはいても、入学者の現状、定員割れの危機(突き詰めれば存続の危機)の前には背に腹は代えられないのです。それでも一般(公募)推薦と言われる学力試験を課せる形式の推薦入試ははまだよい方です。それでも、一般推薦入試の倍率が募集定員の2を切る(経営が苦しければもっと高倍率でも)ようですと、試験は形式化し、ほぼ全員合格です。それでも応募者が募集定員を上回ればよい方です。多くの、それもランクの低い大学では募集定員すら満たさないところが多くあります。
さらに、指定校推薦では、大学が高校に指定校枠を与え(全ての高校に与えるわけではありませんが)、高校側が枠内(評定平均の基準あり)の人数を推薦する制度です。試験の多くは実質面接・小論文で、よほどのことが無ければ落とすことはありません。
それ以外にもAO(アドミッションズ・オフィス)入試と呼ばれる制度があります。推薦入試の場合はともかくも評定平均の足切がありますが、AOにはなく、志望理由書を提出し、学業成績だけでなく、部活動やボランティア活動、学校外活動などを評価し、面接や課題(プレゼンテーションを伴う場合もあります)により合否が決まります。
一般入試も私立ですと以前は文系を例にとれば、国・社(地歴・公民)・英の3教科でしたが、現在ではほとんどがその内の2教科受験でOKですし、はては1教科でも受験可能な大学もあります。また、入学後の専門に関する教科、例えば日本文学科に希望する受験者が、国語を受験科目にしなくてもよい大学もあります(意外に多い)。ともかく、今では多くの大学で、一般入試を経ての入学者より推薦・AO入試での入学者の人数が上回っており、学力検査を実質的に受けていない入学者の方が多数派を形成しています。ですから、入学してくる学生の学力のレベルの差が激しくなっており、授業について行けない学生が多くなり、留年・中退者の増加や、質の低下による卒業後の進路未定者の増加に悩まされています。そのようなわけで大学の授業についても、今までのレベルでの講義などは到底無理で、生徒のレベルに合わせて講義内容の変更(実質的にはレベルダウン)を迫られています。10数年前であれば学生が悪いとか、高校の授業内容が、大学生としての学力のレベルとか言って、自己改革を頑なに拒み、従来のレベルと内容と方法を変えようとせず、大学の教員様だとふんぞり返っていた教員も、今や絶滅危惧種となっています。
さて、高校の現状はと言えば、少子化の影響を急激に受け、公立学校の統廃合という名の廃校、私立学校の募集停止が現実化しています。募集定員の削減も当然行われています。さらに、中退率が上昇し、その受け皿としての通信制高校の拡大があり、公立高校の中にも通信制高校に衣替えをするところもあります。少子化の中で高校も生き残りをかけて試行錯誤を繰り返しているのですが、その大きな柱が大学進学率の向上で、その手段が推薦・AO制度を利用した大学進学をはかることです。志望動機書・プレゼンテーションのディテール・課題などの直接指導(多くの部分を教師が書く)、面接・小論文の過去問をもとにした細かい指導など、多くは小手先の対策に終始し、教科の補習などの息の長い指導はお座なりになっています。進路指導も本人の適性や希望よりは、合格しやすい大学・学部・学科が優先される(優先する)傾向が強くなっています。特に不況が長引き、保護者も出費の多い大学浪人(大学生活と同じくらいの費用が掛かる)を嫌い、受かりやすさを優先する傾向を助長する面があります。また、高校側も指定校になることに力を注ぎ、大学側の教師用の進学説明会に参加し、その懇談の場で指定校になれるように働きかけるだけでなく、直接大学の入試担当者と接触することもあります。特に通信制高校は在校者の多い高校は数万人単位で存在する全国展開の高校が数校あり、その他でも数千人単位の在校生を持つ高校はざらで、そのような通信制高校に指定校の枠を与えることは、定員確保に苦労している大学側にも多大なメリット(確実性が高い入学者の受験等)があります。そのようなわけで、大学側も安易に指定校枠を高校にばらまいているといっても過言ではありません。それらの要因から、入れればよい、入れればよいとの風潮が顕著で、生徒の適性などは軽視され、大学に入って初めて、学部・学科の選択のミスマッチに気が付き、意欲を無くし、大学中退の原因の最大の要因となっています。大学入試に関しては極端に言えば、高校はともかく入学させればよいと考え、入学後については大学任せ。大学も入学後の教育の困難はわかりながらも、定員確保に狂奔しているといっても過言ではありません。
その上、高校の教科履修についても必要最低限の履修が進んでいます。これは、高校の実質全入・義務教育課の中で、学習に遅れがちの生徒に対する対策としては一定の評価ができることですが、事大学教育については大きな問題をはらんでいます。例えば、教科国語には必修とされる科目が、「国語表現I」と「国語総合」あり、選択科目としては、「国語表現II」・「現代文」・「古典」・「古典講読」があり、その他に独自科目として「小論文」・「現代文購読」などの科目をつくり、履修させている高校もあります。しかし、多くの高校で国語は必修の「国語総合」だけを履修させて終わり、もしくはそれに加えて「表現」などの科目を履修させて終わりとしています。大学側も受験の要件として「国語総合」が取得されていればOKとなっています。「国語総合」は、現代文・古文・漢文・国語表現がミックスされた科目で、これらの分野を万遍なく学習すれば問題は少ないのですが、多くの高校では授業内容が、現代文や表現の分野に偏り、古典分野はお座なりになる傾向が見られます。特に、通信制高校ではこの傾向が顕著で、質問者の方も、系統的な古典分野の学習はほとんどしないまま、高校の課程を修了しているのではないかと思います。もし古典分野の学習をしたとしても、文学史的な分野に冒頭文程度で、古典文法には入らないような内容ではないでしょうか。それでも、「国語総合」は履修しているので、大学側は(実は内情はわかっていても)現代文・古文・漢文・国語表現お各分野の学習がされているものとして、合格をさせています。
以上が、大学・高校の大学入試に関する現状ですが、そのようなわけで大学の専門に対しても、基礎力を持たない学生がたくさん存在します。理系では一時微分積分がわからない学生が問題になっていましたが、今ではそれは甘い過去の出来事です。四則計算はともかくこなせますが、因数分解わからない学生は多くいます。理工系で物理を履修していない学生も存在します。歴史で、平城京を読めない、知らない学生がいてびっくりしたこともあります。それが、偏差値の低い大学でだけ起こっている現象ではないのです。質問された方が在籍する偏差値50以上の中堅大学でも普通に起こっている事態なのです。特に、推薦・AO入試での入学者に顕著に表れています。だからと言って推薦・AO入試入学者に可能性が無いとは全然思いません。一般入試入学者のように、高校・予備校と学び、多くが学力が伸びきっている学生とは違い、磨かれていない宝石の要素が多分にあります。大学の中で鍛えることが可能なのです。(次に続きます)
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 ♯1ですが、一言忘れていました。


大学で学ぶのは高校の古典と同じではありません、「日本の文学」を学びます。古典の知識などそんなもの屁にもなりません。
 先ずは「文章を読む」。ここから全ては始まります。他の方は丸谷才一をお読みになってのアドバイスを寄せていますが、僕は漱石や竜之介そして大江や三島を勧めます。彼らの作品を読んでから、西行や芭蕉にチャレンジしてみて下さい。言葉の世界が広がりますよ。

この回答への補足

夏目漱石いいですよね。私は、明るい物語を書いていたときの漱石のほうが好きです。知らない漱石の作品もこれから読んでいこうと思います。芭蕉と西行にもチャレンジしてみます。
回答ありがとうございました。

補足日時:2013/04/11 19:48
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私は理系の人間ですが小説や古典に興味があり、ここ何年かはもっぱら英語の小説、スリラー、SF、サイエンを読むのにふけっています。

丸谷才一氏が亡くなったのを契機に彼の本を何冊か読んで、読み残していた古典も読み続けています。

古典を勉強するという状況で何を心配しているのですか。「源氏物語」なんて早い話がポルノ、物語全体が乱交、不倫、レイプに満ち満ちていて、ただただ楽しいではないですか。これを楽しめないようでは何のために生きているのですか。古典なんて難しいことは何も書いてないのです。難しく考えているのは一部の現代人だけです。

古典の勉強法はまず現代訳を読むことです。よくも悪しくもそれで全体がつかめたらおもむろに原文を眺めてみて、なじめなかったらまたしばらくほかの現代役古典を読めばよろしい。

古典で文法的に難しいのは助動詞、助詞ですが、これもまずは口調に慣れることが大事です。最初から品詞分解なんて受験生じゃあるまいし決してしてはなりません。

百人一首を必ず全部空で言えるようにすること、それでたいていの人はアレルギーを払しょくできます。

次に名だたる古典の最初の数ページをすべて暗記すること。そして京都に行ってそれを呟きながら歩き回ること、生活の中にできるだけ多く古典を取り入れて日常の一部にすることです。

この回答への補足

百人一首の丸暗記と現代語訳頑張ります!
私も源氏物語好きです。ちなみに、光源氏より藤原業平のほうが好きです。
回答ありがとうございました。

補足日時:2013/04/11 19:42
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