出産前後の痔にはご注意!

 せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?

 これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。

 A. 神は 精神であるという勘違い。
  ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。

 B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
  ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力
   にかかわっている。
     これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは
   信じるというおかしなことになる。

 C. オシエを信じるという間違い。
  ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的
   な能力とその行為成果であるに過ぎない。
     やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。

 D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。
  ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の
   産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の
   《人間の能力》信仰となる。


 ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。

 偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。

       *


 同じく神は 何でないか? について考えます。

 1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。

 2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。

 3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。

 4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。

 5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。

 6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。
 この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。
 これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。

 7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。

 8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。
 非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。

 9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~
 
   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。

 10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。
 と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。

 11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。

 12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。
 《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。

 13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。
 物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。
 
 14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。
 
 15.エトセトラ。エトセトラ。

 16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。


 さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

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A 回答 (50件中1~10件)

今晩はです。



この点については、
bragelonneさんと眠り猫の神に対する考え方が近いので(最近、あれほど強く否定していた《非経験》もありかなと思い始めています。まぁ、私は、この術語を積極的に使う気にはなりませんが…)、
特にツッコミを入れたくなるところもないのですが、
☆☆☆☆☆☆
 1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。
☆☆☆☆☆☆
には多少の違和感を覚えます。

たとえば、「私は人を信じる」という言葉の意味するところです。
この言葉は、個々人の経験に基づく、「人は私の期待を裏切るようなヒドいことはしないはずだ」という、経験的蓋然性や妥当性、あるいは、それに基づくその当人の心的態度・信条を表明したものではないでしょうか。
決して無条件でこのことを信じているのではない。
まして、この場合、少なくとも表面的には《神》はでてこないと思います。信じているのは、神ではなく、人間の善性や理性といったところでしょうか。
なので、人間の善性や理性は、bragelonneさんがここでいう《かみ》という概念───概念という言葉を使うと、叱られちゃうかな───と合致しないのではないですか。
また、
「信じるという行為には、完全ではないにしろ悟性(経験的な知性といったところ)的な妥当性が必要なんじゃないですか」といういう疑問も。
まったく道理に合わないことを、最初から信じるということはできないのではないでしょうか。


☆☆☆☆☆☆
 5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。
☆☆☆☆☆☆
にある、《精神のハタラキ》という言葉も、少し気にかかります。これは《内なる神(性)のハタラキ》や、スコラでいうところの《恩寵の光》のハタラキとかになるのではないですか。あるいは、使徒行伝にあるペテロなど使徒が与えることのできたという《聖霊》のような存在。




これ、本質問にはまったく関係しないのですが、
仏性は、サンスクリットでは、buddha-dhatuでげすよ。
仏教の本家、インドでは、仏性・buddha-dhatuなる語は、ほとんど使われていないようですね。使われたのは、もっぱら如来蔵や自性清浄心のようです。
なのですが、なぜか、中国では如来蔵よりも仏性という言葉の方がもてはやされた。で、中国から仏教を輸入した日本でも、如来蔵ではなく、仏性という言葉を使うようになった。
で、
このdhatuという言葉が、なかなか曲者らしいですよ。通常、漢訳では、これには《界》という字をあてるらしいのですが(たとえば、法界=dharma-dhatu)、なぜか、《性》(=基体?の意味か)。私が使っている辞書にはのっていないのですが、仏教の百科事典とも言える世親の『倶舎論』には、dhatuには《種族》とかって意味も示されています。なので、buddha-dhatuは、《仏の種姓》とも訳すことができるんでげすよ。こちらの方が、カースト制度のインドにはふさわしいような気もするんですが。。。
いやまあ、細かい議論は抜きして、《ブッダター》はまずいと思いますよ。

そうそう、だいぶ前───といっても二・三カ月ほど前ですが───に教育テレビの地球ドラマティックとかいう番組で見たのですが、
アマゾンの奥地に住む先住民(部族名は忘れました)には、
《かみ》に該当する言葉がないそうです。
確か、この先住民の使用する言語には、テンス・時制(未来・過去のテンス)がない。現在時制しかない、という話も出ていましたよ。その番組では、「この部族は永遠に現在に生きているので、《かみさま》がいらない」みたいな話をしておりました。
で、この部族に訪れたアメリカ人の宣教師、信仰が揺らいで、(キリスト教の)神様を捨てちゃったそうです。
で、現在、言語学者になり、この部族の言語の研究者になったそうです。
この話を聞いて、眠り猫は、
「なんか嘘くせぇ話だな~。ねぇのは、キリスト教でいうところの神・Godという概念だろうが……」
と思いました。
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この回答へのお礼

 ねむりねこにゃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 この間つまりねこさんのご不在のあいだ けっこう感覚的には複雑な思いが生じて来ており いま 微妙な気持ちではあります。

 質疑応答が進展しているようなしていないような 複雑な感覚です。
 同じ質問をつづけているのですが それでも進展が少しづつあるような感じを一方でいだき 他方では こりゃあもうだめだというようなシルシのようなものが見えているようにも感じます。

 まア 愚痴です。気を取り直してまいります。



 ★ ~~~~
 たとえば、「私は人を信じる」という言葉の意味するところです。
 この言葉は、個々人の経験に基づく、「人は私の期待を裏切るようなヒドいことはしないはずだ」という、経験的蓋然性や妥当性、あるいは、それに基づくその当人の心的態度・信条を表明したものではないでしょうか。
 ~~~~~~
 ☆ おっしゃるとおりです。しかも この場合の《信じる》は 神を信じるという用法から派生したものだと見ます。経験的なものごとや人間を対象にした場合も 信じるを使うというのは 強調の用法であるとです。
 あたかも神を無条件に受け容れるという場合に準じているようだということで 人間やものごとを信じるという用法を見つけたのだと。

 だって 信長も自分を神だと言い出したようですし アラヒトガミを言う契機もあったでしょうし これらは 《神》をタトエとして用いる二次的派生的な用法だと見られます。

 八百万の神々の場合は 二次的用法というよりは 《神》の分身だと見ておくと分かりやすいようです。
 
 女将とかうちのカミさんというときには どうなんでしょう。


 次は 別の問題のようです。
 ★ ~~~~
 「信じるという行為には、完全ではないにしろ悟性(経験的な知性といったところ)的な妥当性が必要なんじゃないですか」といういう疑問も。
 まったく道理に合わないことを、最初から信じるということはできないのではないでしょうか。
 ~~~~~~
 ☆ これについての答えは かんたんです。
 《非思考ないし非経験》ゆえ 《道理に合うか合わないか》は人間にはついぞ分からないということになりますから。
 神は 無根拠だということになるようです。
 経験合理性に合うか合わないかの思考を超えています。



 ★ ~~~~
 《精神のハタラキ》という言葉も、少し気にかかります。これは《内なる神(性)のハタラキ》や、スコラでいうところの《恩寵の光》のハタラキとかになるのではないですか。あるいは、使徒行伝にあるペテロなど使徒が与えることのできたという《聖霊》のような存在。
 ~~~~~~
 ☆ これはつまりこういうふうにすでに神ないし聖霊にかかわって《精神のハタラキ》があるというときには すでに非思考の庭がわが心に成って信仰という動態がはたらきはじめたあとのことだと見ます。

 たしかに
 ☆☆(趣旨説明欄) 6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。
 ☆ というように《聖霊がやどる》のを――無根拠に――自覚したあとでは 《精神のハタラキ》は(そして 同時に身における知覚やヒラメキなるハタラキも同じくだと見られるのですが) そのやどった聖霊(ないし自性清浄心)が作用していると捉えてもマチガイではないでしょうね。
 少なくとも主観の内では そのように認識しうると考えられます。自分の思考や感性を超えた内容がふと得られたというときには・つまりヒラメキにおいては そう認識されうると思います。

 恩寵の光と自性清浄心とをひとしいと見てよろしいでしょうか?




 ★ 仏性は、サンスクリットでは、buddha-dhatuでげすよ。
 ☆ ええ。いつだったか それを見て あれーっと思ったのです。ですが ブッダターもあるみたいです。こちらのほうが 分かりやすいので使っています。どうしても使い分けしなければならないようでしたら おしえてください。

 ★ 使われたのは、もっぱら如来蔵や自性清浄心のようです。
 ☆ ええ。駒沢大の何とかいう先生の『如来蔵思想の何たら』という著書を読んだことがあります。タターガタ・ガルバのほうが 何というか正式なんでしょうか?

 でも

  一切衆生 悉有仏性

 なる文句は よく引き合いに出されるようですよね。
 と言いつつ 岩波の仏教辞典を見てみたら ブッダターは出ていないですね。どこでわたしは見たのだろう?

 たしかにヱブ上でも検索してもなかなか出て来ないようですね。
 ローマ字の buddhata でようやく次が出て来ました。

 http://www.drjenniferhoward.com/terminology/Budd …

 《 buddha nature うんぬん》とあります。
 ふうーう。ぜんぜん無いってことはないようです。

 つまりたぶん もし無いようでしたら わたしが勝手に シューナター(空)から類推して ブッダターをつくってしまったかも知れません。

 次のサイトでは 《 Derived from ’buddhadatu’ (Sanskrit), which means ’essence of the Buddha,’ referring to the Buddha Nature or seed. 》と説明しています。

 http://www.experiencefestival.com/buddhata

 ブッダダートゥの簡約なかたちなんでしょうか?

 いちおうどうしてもダメだというのでなければ 使うことにしたいと思いますが?





 ★ ~~~
 アマゾンの奥地に住む先住民(部族名は忘れました)には、
 《かみ》に該当する言葉がないそうです。
 ~~~~~
 ☆ こういう話は 初めて聞きました。

 ただし 日頃思っていることは そう言えば日本語に《かみ》はあっても 《信じる》はなかったのかなアです。
 《まこと。まことに思う》といった表わし方なんでしょうか?

 そうすると 《かみ》の語がない場合もひょっとしてあるのかなアとも思いますが ねむりねこさんは 《アニミズムとしてのかみがみ》はあって ただひとつの神としてのカミがないのだろうという見立てなんですね。

 これは どう捉えればよいでしょう?
 ★ ~~~~
 その番組では、「この部族は永遠に現在に生きているので、《かみさま》がいらない」みたいな話をしておりました。
 ~~~~~~
 ☆ そう説明されると そうかなぁとも思ってしまいましたが よく分かりませんね。


 あぁ ありました。
 ▲ (ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観) ~~~
  http://www.amazon.co.jp/%E3%83%94%E3%83%80%E3%83 …

 § 内容紹介

 とにかく驚きは言語だけではないのだ。
 ピダハンの文化には右/左の概念や、数の概念、色の名前さえも存在しない。
 神も、創世神話もない。
 この文化が何百年にもわたって文明の影響に抵抗できた理由、そして
 ピダハンの生活と言語の特徴すべての源でもある、彼らの堅固な哲学とは……?
 
 ● (同上:カスタマーレビュー / 「宗教」なんかいらない民族)~~~
  ・・・彼らは、直接経験からしかものを語らない。よって、彼らが実際に「見た」自然界の精霊などの若干の信仰的対象を除いては、いかなる抽象的な宗教も起源の神話も持たない。・・・
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ アニミズムはあるみたいです。

 《宗教がない》という報告があるとしたらそれは 自覚ないし自省しないかたちにおける無神論なんでしょうか?

お礼日時:2013/04/15 22:01

こんばんはです。



だから、
kazamidoriさんに、以前、
密教は、生(命)の絶対肯定の思想だ、
と言ったじゃん。
───たぶん、この言葉を一番最初に使い出したのは、哲学者の梅原猛。この人の出発点は、実存主義哲学───

だ・か・ら、
ニーチェのルサンチマン(嫉妬)さえも、愛しちゃいま~す。

《大我》って密教の概念を使いますか。
あんま、この言葉を使いたくねぇんだよな~、わたし。
───たぶん、どっかでこの言葉を、何回か使った記憶があるような気がするけれど───
大我=maha-atoman=マハトマ
じゃん。
「マハトマ・ガンジー(偉大な魂の、ガンジー」の、マ・ハ・ト・マ!!

「おい、仏教は、《無我・an-atoman》説じゃねぇのか」の批判に対して、あれこれ理屈をこねなければ、ならないんで(ポリポリ)。
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この回答へのお礼

 つづいてです。


 わたしの立ち場からの発言ですが:

 ★★(回答No.49) ~~~
 《一切○○自性清浄》だから。
 すべては、これに収斂していきます。
 この時点で、すでに善悪の彼岸に達しているんじゃないですか。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《この時点》つまり 《〔わたしの持論から行けば 信じるの成ったところの〕原点》において すべては決まる。と思っています。
 
 ですから 
 ★ 密教は、生(命)の絶対肯定の思想だ
 ☆ という命題は いまの原点に先行しないと捉えます。後づけであると見ます。

 ★ ニーチェのルサンチマン(嫉妬)さえも、愛しちゃいま~す。
 ☆ という命題についても 同じくです。言わば《思考のあゆみや心理のうごき さらにあるいは感性のみづみづしさ》は 原点たる信仰の関数であると。

お礼日時:2013/04/28 00:48

こんばんはです。




☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 ☆ しょうじき これは どうですかねぇ。
 《本願誇り》になりませんか?
 つまり 薬があるからと言って 毒を食らうということは 戒められてしかるべきだと思うのですが。・・・
~~~~~~
《一切○○自性清浄》だから。
すべては、これに収斂していきます。
この時点で、すでに善悪の彼岸に達しているんじゃないですか。
例の仏教修行論的《善・悪論》を含めてです。

実際、真言宗のお葬式などで、
お坊さんが時間のない───つまり、この後、いくつか、他の家のお葬式が待ち受けている───とき、
あるいは、「ありがたいところだけ」とリクエストしますと、
「○○清浄句是菩薩位」と書いてある初段を読んだ後、
例の理趣経の百字の偈あたりまで、なかをすっ飛ばし───いわゆる、《中抜き》───ちゃうんで。



☆☆☆☆☆☆
No47で、
3 デーヴァダッタという仏教最大の極悪人も成仏できるのだから、悪人成仏への道が開けた→阿弥陀さん信仰への足がかりができた。
と書いてから、
「なるほど、天台法華一乗の信仰は、法然や親鸞の阿弥陀さん信仰に収斂される運命にあったのだ。これは必然であったのだ。その密教的部分も含めて。。。」
な~んてね。
思いつきですよ、これについては突っ込まないでください。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 出発点と言いますか原点と言いますかが はっきりしているのなら よいのでしょうけれど。




 やっぱひとこと。
 法然と親鸞とは 微妙にではなく明らかに――正反対であるかのごとく――違っていると思いますよ。

 だって親鸞は 念仏は 非行非善だと明言しますから。
 善行ではない。また念仏はそれによって浄土に往生することができる修行のようなものでもない。

 アミターバの名を心に受け容れる――この《信じる》という行為のみです。自然法爾。

 親鸞のすごさを知らないんですよ みなさん。
 義無きを義とす。ですよ。

お礼日時:2013/04/28 00:40

空海の思想について


http://www.katch.ne.jp/~hkenji/new_page_39.htm

仏教の宗派は、多く、我に対して否定的である。固定的我れを否定し、否定の中に、世界の真相を見ようとする。しかし、いつまでも否定の中にとどまらないのが、密教の思想である。

 

日常的世界は遮情、絶言によって否定され、人間は絶対的なものと直接対面することができるのである。人間は、沈黙において、神と触れ合うのである。

ところが、この沈黙の世界が再び言葉を発するのである。世界は、否定の深淵から、再び肯定の頂上に達するのである。
この否定と沈黙のかなたに回復された、肯定の世界、言葉の世界が、密教の世界、大日如来の世界である。


密教では無我をいわない。無我のかわりに大我をいう。無欲を説かず、無欲のかわりに大欲を説く。ここが、密教と禅と違っているところである。禅では否定の契機が強いのに対し、密教では肯定の契機が強い。一切の存在するもの、誰が、我がなく、欲がないことがあろうか。人間は無我無欲になれるか。無我になれ、無欲になれとは、人間に死を命じることでないとしたら、いたずらに、人間のエネルギーを枯渇せしめることになりはしないか。(欲望を否定することは生そのものを否定することではないか。欲望を否定することではなく、清浄にすることが必要である。長い間、死を見つづけた仏教の眼が、死の目を離れて、生に対する大いなる肯定の言葉を発したのである。それが密教の思想である。そしてその思想は、仏教のもっとも後の発生段階に生じる。


密教はニーチェ哲学に似ている。
ニーチェは生の本質を戦いに見た。闘争が生の原理である。密教は和合をその思想の原理にしている。この点がヨーロッパ哲学との最大の違いである。曼荼羅の世界は、和合の原理によって構成された世界である。人間中心の哲学と自然中心の哲学。


密教は、自然の中にわれわれの中と同じ仏を見る思想である。釈迦から大日への仏の移動、そこに、実は人間崇拝から自然崇拝への思想の変化があったのである。そして密教が、わが国において、最初に、普遍的に受け入れられた仏教であることは、この自然崇拝が、わが国の固有信仰と一致したためではないかと思われる。密教は、はじめて神仏統合を可能にした宗教であった。密教の和合性と同時に、密教が自然崇拝という点において、神道と共通であったことによるものであろう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

善悪の彼岸やルサンチマンとか、そういう用語が出てきたので
なんとなく検索。

生の肯定という意味では、ニーチェと密教は似ているんですかねえ。

今まで、仏教と密教の比較をしていたことになるのだろうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 自然の反応として持ったところを述べてまいります。
 ▼ 日常的世界は遮情、絶言によって否定され、人間は絶対的なものと直接対面することができるのである。人間は、沈黙において、神と触れ合うのである。
 ☆ これは ちょっと安易でしょうね。
 (あ) 《絶対的なものと直接対面する》あるいは《神と触れ合う》――こういう表現は それだけでは 文学的修辞に過ぎないと考えます。

 (い) いちばん問題なのは 《人間が 自由にみづからの能力によって思うように 神と出会う》と言っているとするなら そこだと考えます。

 (う) ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~~~

   自己を運びて万法を修証するを迷とす。
   万法進みて自己を修証するは悟りなり。

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうだと考えます。ヒラメキにおいてこそ 神はわれにおとづれる。と 論証や説明抜きで思います。
 《沈黙》しているかどうかは 関係ないと見ています。

 (え) 《密教》と言おうが顕教においてあろうが ヒラメキは ふつうの生活日常におけるひとこまです。




 ★ 密教では無我をいわない。無我のかわりに大我をいう。無欲を説かず、無欲のかわりに大欲を説く。ここが、密教と禅と違っているところである。
 ☆ (お) 何と言おうと 欲があろうがなかろうが 肯定否定どう思っていようと ヒラメキはやって来る。夜の盗人のごとく。という立ち場もあるはずです。
 空海の即身成仏として。親鸞の即得往生として。




 ★ 密教は、自然の中にわれわれの中と同じ仏を見る思想である。
 ☆ (か) いかにヒラメキと言っても そこで《神を・ブッダ(法身)を見る》わけではないと考えます。
 《神を見る予感を得た》というような程度です。
 ゆえに 思考に非ずとして《信じる》を非思考と言います。

 (き) つまり 信じているもの――神――をもし やがて顔と顔を合わせて見るようになるとすれば もうそのときには《信じる》必要はありません。すでに目の前に見ているのですから。(真理がすべてにおいてすべてである状態におかれるといった場合を 予感し想定しています)。

 (く) つまり 《信仰》は 消えてなくなります。ただしそれまでは 《神ないし法身のブッダを見るという予感を得る》だけです。

 揚げ足取りの批判でしかないかも知れませんが いちどげんみつな議論をしておきたいと思いました。



 
 
 

お礼日時:2013/04/28 00:32

こんばんはです。


あちらの質問は、そろそろ収束の気配があるので、ちょいとこちらに割り込みます。

法華経に信仰が集まったのは、わたくし眠り猫が考えますに、
1 お経がわかりやすい。これを読むにさいして、仏教の専門的な知識はあまり必要でない
2 従来、成仏できないとされていた女性も成仏できる
3 デーヴァダッタという仏教最大の極悪人も成仏できるのだから、悪人成仏への道が開けた→阿弥陀さん信仰への足がかりができた
4 功徳がすごい
こんなところでしょうかね~。

しかも、
法華経や法華経の行者をいじめたり、その悪口を言ったりすると、地獄に落ちたり、この世に生まれ変わったとき、ひどい目に合うという、強い脅迫もある。
この脅しは、仏教を信ずる人々にとって、最大の武器、脅し文句ですよ。これ以上の強拍の文句はない!!一度でも悪口を言うと、地獄に墜ちちゃうかもしれないんですから。
そして、法華経の布教にあたる人は、たいがい、このことを口にして、脅迫紛いに、法華経への信仰を説いた。

でも、功徳のすごさを言えば、理趣経が第一番でしょう。ちょいと、不空訳の理趣経から引用。
─────────
理趣受持。 読誦設害三界。 一切有情。 不墜悪趣。 為調伏故。
疾證無上正等菩提。
─────────
空海を初めに、現代もなお、日本の密教者を悩ませ続ける「理趣受持。 読誦設害三界。 一切有情。 不墜悪趣」の一句。
ここでは、悪人正機説さえ否定されている。
善(人)・悪(人)の区別は消滅している。。。。。。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ▼ (理趣経) ~~~~
   http://singetu.ddo.jp/kuukai_meiku/21.htm

 若有聞此理趣受持読誦  若し此の理趣を聞きて受持し読誦すること有らば
 設害三界一切有情    たとい三界の一切有情を害すれども
 不墜悪趣。         悪趣に堕ちず
 為調伏故。         調伏を為すの故
 疾證無上正等菩提。   疾く無上正等菩提を証す
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ しょうじき これは どうですかねぇ。
 《本願誇り》になりませんか?
 つまり 薬があるからと言って 毒を食らうということは 戒められてしかるべきだと思うのですが。・・・

 それよりは 即身成仏もしくは即得往生のほうが すごいではないですか。


 それより エレミヤ書のほうが すごいのでは?

 ▼ (ヘブル 書8:7-13) ~~~~~
   ・・・
   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。

    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。

    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 善悪の彼岸にすでに到っている。と思われます。





 ★ ~~~~
 法華経や法華経の行者をいじめたり、その悪口を言ったりすると、地獄に落ちたり、この世に生まれ変わったとき、ひどい目に合うという、強い脅迫もある。
 この脅しは、仏教を信ずる人々にとって、最大の武器、脅し文句ですよ。・・・
 ~~~~~~~
 ☆ ですから かつての創価学会の勧誘は まさにこれでした。捨て台詞を言い置くというやり方です。
 これは 飼い犬や飼い猫の論理です。よ。
 無効ですよ。

お礼日時:2013/04/27 22:45

梵漢和対照・現代語訳 法華経 下



植木雅俊 訳

普賢菩薩勧発品第二十八

第26章:“普く祝福されている人”による鼓舞

このような経の極致の受持者であり、説法者である男性出家者たちに困惑を及ぼすところのものたち、それらの衆生たちは、[来世に]生まれつきの盲目となるであろう。また、このような経の極致の受持者である男性出家者たちに、非難[の言葉]を聞かせるところのものたち、それらのものたちの身体は、実に現実において斑点が生ずるであろう。

このような経の極致を書写する人に嘲笑をなし、軽蔑するであろうところのものたち、それらのものたちは、隙間のある歯を持ち、歯がまばらとなり、醜い唇を持ち、扁平になった鼻を持ち、手足が逆につき、目が逆につき、悪臭を放つ身体を持ち、腫れ物や、水泡、疥癬、発疹、かゆみが全身に拡がるであろう。

このような経の極致を書写する人たちや、経の極致を読誦する人たち、経の極致を受持する人たち、経の極致を説き示す人たちに対して、真実であれ、不真実であれ、不快な言葉を聞かせるところのものたち、それらのものたちにとって、このことは甚だ重い悪業であると知られるべきである。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

眠りネコさんの質問に投稿しようかと思いましたが、
内容がひどいので、こちらにひっそりと投稿します。

はっきりいって、こんな酷い内容が書かれているので
法華経が嫌いです。読んでいてうんざりしました。

天台宗のチギとか最澄とか日蓮とか、最近は実在しないと話題の聖徳太子とか
その他、多くの法華経に言及した人たちは、一体何を考えてこんな経典を崇拝してきたのか。

こんな経典が大乗仏教や日本の仏教で重要な地位を占めているのはなんなのか。

よくこれで、慈悲とかいえるものだと思う。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 それこそ 畜群でしょうね。

 ルサンチマンのかたまりであり 意識をやたら排泄しているに過ぎない。

 わたしもこう見ます。

お礼日時:2013/04/26 23:24

あっ、No44、すこし間違っている。


涅槃経を根本経典にしているのは、
「幸福の科学」ではなく、
《真如苑》だ。

似たような新興宗教がいろいろとあるもので、
混同していました(ポリポリ)。

真如苑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A6%82% …

Wikipediaの記事を少し読んだのですが、
真言小野琉の流れも汲んでいるんですね~。
易やスピリチュアルも教えの中に含むというから、いったい、どんな宗教団体なのだろう。
興味、全然、ないけれど。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 たとえば天理教。
 明治維新前後だったでしょうか。そのころに現われた神のお告げは 内容をあまり問わずに言うのですが 歴史的な推移として一理あると思います。

 出てもおかしくないと考えます。つまり庶民が 国家という社会形態としては お上に抑えつけられ続けてきたのですし 宗教としては仏教がわるく言えばのさばって来ていた。そのとき 神道の系譜としてあらたな動きを見せたというのは 歴史的出来事として納得が行くように思われます。


 戦後の新興宗教は 単純に言って群れたがりやあるいは下積みの生活を余儀なくされている人びとを――お金儲けとともに――呼び集めたという程度ではないでしょうか。


 真如苑って いくらかの信徒数はあるのですね。

お礼日時:2013/04/25 21:41

こんばんはです。






ところでところで、
天台チギの教えの分類にしたがう日蓮さん系の宗教で問題になるのが、
法華経と(大乗の)涅槃経の優劣で~す。

天台チギさんによると、法華経と涅槃経は、同じランクに位置する教え。
ではあるのですが、
涅槃経では有名な「一切衆生・悉有仏性」という言葉がある。法華経には、少なくとも、表面的には、このことが書かれていない。ならば、涅槃経は、法華経よりも教えとしては深いのではないか。

このことを突きつけられると、日蓮さん系のヒトたちは、「う~ん」と黙り込んでしまいます。天台チギの説を否定することは、他の経典に対する法華経優位性の根拠がなくなってしまうことになるからです。困る。
で、
「涅槃経は、法華経で救われなかった人々を救うためのオシエである。いわば、落ち穂拾いのオシエ。釈尊の真意は、法華経にあるのだ」
みたいなことをおっしゃる。
しかし、この主張も妙なもの。
現に、今現在、法華経で人々は救われていないからです。
ならば、釈尊の真説は涅槃経だ!!

そうすると、大川隆法の「幸福の科学」になります(わらい)。
オシエの中身で勝負しようとしないから、こんなことになるんだわさ(わらい)。
形式主義の弊害!!


ところで、ところで、
kazamidoriさん、『梵漢和対照・現代語訳 法華経 下』をもっていらっしゃるのですか。
買うと、結構、高いでしょう!!
お小遣いがすくない眠り猫、とても、こんな高い本を買えないです(涙)。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ そうすると、大川隆法の「幸福の科学」になります(わらい)。
 ☆ これについても なあーんも知りません。ひとつかふたつのパンフレットを――初期の初期におやぢが もらってきたり ポストに入っていたりしました――読んだ記憶がありますが 宇宙戦争か何かのイラストやらがあったと思います。

 あるいはテレビで主張を語っていたことがありましたね。これも聞きましたが 中身は覚えていません。

 ちょっと話題の中に入れなくて こまったことになったかしらん。







 ★ 〔日蓮ないしその系譜もしくは創価学会は〕オシエの中身で勝負しようとしないから、こんなことになるんだわさ(わらい)。
 ☆ これが結論だと思います。





 ★ 法華経と(大乗の)涅槃経の優劣
 ☆ 冗談めかして言うとすれば ねずみを取る猫がよい猫なのではないでしょうか? 
 だとすれば おそらく人による。となるでしょう。

 もしそうだとすれば劣等なものごとに接して ヒラメキが得られるかも知れません。

 「一切衆生・悉有仏性」や涅槃経や法華経をまったく知らなかった人が ゴータマの成道はいったい何ぢゃいなと思っていたところ ふとブッダターに目覚めるかも知れません。
 あるいは 涅槃経も法華経も知らなかったブラフマニズムの人たちが ブッダターのいわば前身としてのアートマンを導き出して来た。

 だって ブッダターないし神の霊は 遍在してるってことぢゃん。

 だって これからすくわれるのではなく すでにすくわれていると知らなきゃ。
 たも(網)で魚が掬われているように。
 

お礼日時:2013/04/25 18:25

梵漢和対照・現代語訳 法華経 下 



植木雅俊 訳

岩波書店

<解説>『法華経』原典と翻訳の歴史と思想

『法華経』信奉者たちの人間像

619ページ

四衆たちは、彼らに土塊や、棒などで危害を加えたり、悪口罵詈を浴びせたりすることもあったようだ(法師品)。また、「ああ、情けないことに、これらの男性出家者たちは、外道(仏教以外の教え)を信ずるものたちで、利養を得ることと、称讃されることに執着し、自分たちの詩的才能を誇示している。自分で経典を作って、集会の真ん中でそれを説いている」と非難された。「こいつらは、ブッダになるんだってよ」という皮肉も言われた(勧持品)。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いろいろあったようですね。
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この回答へのお礼

 どうもありがとうございます。

 まづはご回答をありがとうございます。

 忘れていたと言いますか まるっきり覚えていませんでした。

 ▼ 自分たちの詩的才能を誇示している
 ☆ と言って批判を受けるのは おもしろいですね。つまりそこからなら 互いに話し合いを持って 互いにもっと高いところに上がって行けるのではないかと思います。


 つまり次のわたしの疑問に答えてもらったかたちです。

 ☆☆(No.42お礼欄) ~~~~
  かの地インドで 法華経を編んだ人びとは 《ののしり》までには到らなかったのでしょうか?
 《法難》を受けたのでしょうか?
 それを受ける前に 社会の中で悲惨な情況に置かれていたのでしょうか?

 どうも日蓮論については そういう社会生活ないし社会政策の問題であるようにも思われます。
 ~~~~~~~~~

 ☆ (あ) 《法難》は受けた。
 
 (い) その前に 自分たちのブディズム理論が 批判された。ただしその批判がふつうの対話としての相互批判には到らなかった。らしい。

 (う) 法華経を著わすようになった人たちは 社会にあってどちらかと言うと 逆境の中にいた。らしい。

 (え) かれらは・つまりインド人は 《法難》を受けたあと その相手に向かって自分たちも《ののしり》の声を挙げたのだろうか?
 日蓮とその徒は 相手と同じようになって《ののしり》組と成ってしまった。らしい。

 (お) ▼ 利養を得ることと、称讃されることに執着し――☆ これはあんがいいまの日蓮の宗徒に当てはまるように見えます。感じです。

 (か) ▼ 「こいつらは、ブッダになるんだってよ」という皮肉も言われた(勧持品)。――☆ この皮肉は いまでは ブディズムの真骨頂となっている。誰もが《われは ブッダなり》と宣言することから始めるという姿勢。
 
 (き) ぎゃくに このブッダ宣言について むしろ現在の日蓮派のほうが そうは問屋が卸しはしないと言って 反対している。つまりは 自分たちの宗派に入って信じなければ すくわれないのだと狭く片寄った話をしている。らしい。



 うううむ。ありがとうございました。

お礼日時:2013/04/25 11:13

こんばんはです。




日蓮さんの論理は、
1 仏教がひろく信じられているのに、地震や旱魃、洪水などの天変地異が頻発するんのはなぜか?
2 仏教を守護する護法の善神が、日本をたちさり、悪い神さまがやってきたからだ。
3 なんで、護法の神が日本を見捨てたのか?
4 正しくない仏法が信じられているからだ。───経典から、言葉を引っ張り出す。いわゆる教証という奴───
5 正しい仏法とは何か?
6 天台チギによれば、それは法華経だ!! ───天台チギの経判を引っ張り出す───
7 悪法をすて、法華経(のみ)を信じれば、護法の神が戻ってきて、国家は安穏になるはずだ。

まぁ、こんな感じです。

○○宗の△△というオシエが間違っているというところから、他宗への批判が始まっているわけではないです。───こうした他宗批判の仕方は、たぶん、日蓮さんがはじめてだ、と思います───
ハッキリ言って、日蓮さんは、他宗の教義をほとんど知りません。
いろいろな経典を調べたとおっしゃっていますが、それは、自分の疑問の答えを見つけるためであり、自分の考えの証を経典に見いだそうとしたからでしょう。

で、自分の考えを、人々に説いた。だが、法華経に書いてあるようなイジメや、弾圧を受けた。それで、自分こそ第一の法華経行者であるという確信を得た。法華経への自身の信仰をますます強めた。
これの繰り返しです。
そして、法華経への信仰を強固なものにしていった。
───初期のキリスト教の広まり方にすこし似ているかもしれませんね。キリスト教では、殉教とされますが、日蓮系の人々は、これを法難と呼ぶ───

身も蓋もない話をすれば、こんな感じです。


余段ですが、
今昔物語の本朝仏法付には、法華経の功徳がいろいろと書かれています。
ホラーやオカルト小説、映画を彷彿させる奇跡の話が多いですよ~。
遺体を焼いたら、舌だけが残った。で、死後もなお、法華経を唱えつづけた。
死後、法華行者のドクロが、喋ったとか。
───記憶違いなければ、こんな話があったはずです───
このことからも、当時、
法華行者と呼ばれる、一種変わった法華経への信仰をもっていた人たちの存在をうかがい知ることができると思います。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

 これらの情報やご見解は あちらのスレッドに添えられるとよいと思いますので とりあえずわたしもひとつの投稿をおこないました。




 《境智冥合》ということを 日蓮関係では 言っているように思いますが これは 仏仏一如なる類型におさまるのではないか。
 こういう見方も 《法難》を乗り越える心に立ち帰り 《四箇格言》としてののしるまでの状態になった心をいやすようにはたらくのではないかと。
 つまり 宗派には関係なく 梵我一如の類型におさまるのではないかと。



 かの地インドで 法華経を編んだ人びとは 《ののしり》までには到らなかったのでしょうか?
 《法難》を受けたのでしょうか?
 それを受ける前に 社会の中で悲惨な情況に置かれていたのでしょうか?

 どうも日蓮論については そういう社会生活ないし社会政策の問題であるようにも思われます。


 あちらのご自身の質問のほうで お答えいただければさいわいであり  よろしいかと思います。

お礼日時:2013/04/25 08:38
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