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たとえばリンゴを見たとします。
ネットなとで調べると
目から入った情報は視神経を通って後頭葉の視覚で捉えられる。その情報は、過去の記憶(新しい記憶は海馬に、古い記憶は大脳皮質の側頭葉などにファイルされている)と照合して大脳の頭頂葉でリンゴと判断される、とありました。(これが正しいかどうかは私は知りません)

ところで、この表現だと頭頂葉に「意識」があるようにも受け取れます。しかし意識に関する他のネットを調べると,「頭頂葉」というわけでもなさそうです。
 ひょっとしたらこれは私の「意識」というものに対する理解が違っているのか、それとも頭頂葉に「意識」があるという説もあるということでしょうか。
もし分かっているなら「リンゴを見る」という意識の場所を含めて教えてください。

A 回答 (4件)

こんにちは。


まず、質問者さんがお読みになったのは意識ではなく、「認知に関する説明」です。概ね一般的な解釈であり、何処も間違ってはいませんが、これは別に側頭葉に意識があると述べてるわけではありません。

後頭葉視覚野で知覚された外部情報は、側頭葉連合野において記憶などの内部情報と照合され、認知されます。このような脳の機能を「ワーキング・メモリー(作業記憶)」と言いますが、この作業を行うためには、連合野内には必ずや複数の情報が一時的に保持されなければならないわけです。ならば、そのために必要なのが「意識の発生」ということになるかも知れません。
ところが同様に、例えば聴覚情報は聴覚連合野、体性感覚は頭頂葉連合野、言語情報は言語野と、我々の脳内には他にも様々なワーキング・メモリーが必要とされます。そして、このような異なる領野で処理された認知結果を秩序を持った思考などとして統合しているのが恐らく前頭連合野です。

このように、脳科学では現在、意識とは脳がこのような処理を行うに伴う「随伴現象」ではないかと捉えられています。たいへんもどかしい話ですが、我々が一番知りたい、意識とはどのようなもので、それはいったい何処にあるのかといったことは、果たして、専門の学者さんでもまだ誰も説明できない状態にあるようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「認知」と「意識」が違うということですか。
この場合でいえば、意識とは認知結果がワーキングメモリーの俎上に乗って何らかの作業をしたときに生じる。逆にもし見ても俎上にのらなければ,意識されない、ということでしょうか。
私(素人)の理解では「認知する」とは「ここに〇〇があると認める」ということで「意識する」と同義だと理解していました。

お礼日時:2013/04/13 15:33

人間の意識は二つ在ります、始めに科学的なデータです。

少し古いデータですがこの研究はこの後進んでいないように見受けられます。ウイキペデアからです。

『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』

この右脳の人格と左脳の人格はにわかには信じる事が出来ないと思いますので、信じる事が出来るようにする為に、脳卒中のために左脳の自分と右脳の自分を交互に代わる代わる味わうと言う貴重な体験をして、生還出来た脳科学者の動画を載せてみます、良く観察して下さい。


URL:

この中で語られている事は、実に意義深いものが含まれています。その内容を説明したいと思います。

この中の内容は『聖書の意味』或いは『仏典の意味』が凝縮されています。

人間の苦しみは『赤子のような心になると』解消する、と言うのが仏教的な考え方です。聖書では天国に一番近い存在は『幼子』と言う表現です。宗教の目的は只一つです、『魂の救済』です、言い換えるなら『苦しんでいる自我意識の苦しみの開放』です。

思春期頃、左右の脳の機能の『分化』はほぼ完成になります、この時点を『人間は知恵が付いて、神に背くようになる』と表現しています。その証拠が『イチジクの葉で裸を隠す』です。

幼子は『見ている自分』だけで生きている事から、裸には抵抗が無いからです。機能分化が進んで来た段階で『もう一つの機能=もう一つの心=見られている自分』と言う人格が誕生するからです。

このもう一人の自分が誕生して、幼子では考える事が無かった『裸ではいられなくなる』と言う現象が始まります。同時に『自分は何者か?或いは人生とは何ぞや?』と言う疑問が湧き始めます。

こう云った疑問や、考えてみたら、人生そのものに対する不安や、生や死に対する不安や疑問が湧き上がる世界に『投げ込まれてしまいます。』こう云った不安や疑問の世界に、入り込む事を『失楽園』と表現しています。

幼子では『自分は何者か?』と言う疑問は持てないからです。

右脳の機能を簡単に説明します。右脳の機能は『生命発生装置兼生命維持装置』と言う機能です。生命が芽生えた瞬間から働き始める機能です。細胞分裂の順番まで『既に知っていて、働き始める機能です。』

その順番に間違いが無かった事を受けて、母親のお腹から出てきますが、誕生した時に全てを知り尽くして生まれています。その知っている内容を大別すると、おもに三つに分ける事が出来ます。


一つは『身体の機能的な維持機能です。』循環器系統でも、消化器系統でも、神経系統でも、ホルモンの分泌系統でも『何も習わずに全て取り仕切る機能として働いています。』


一つは『心=自我意識』に対しての情報交換を通じての生命維持機能です、言い換えるなら『自我意識という心』に、不安や安心や恐怖する、と言う情報を送る機能です。或いは考えを湧き上がらせている機能という言い方も可能です。自我意識という人格に指令さえ出す事が出来る機能です。

暑い時には『涼しい所を探すように、或いは冷たい飲み物を探すように』指示さえ出しています。

感情や考えが湧き上る場合での『感情や考えを湧きあがらせている者』としての生命維持機能です。


一つは『心も身体も一緒くたにして働く、行動面での生命維持機能』です。メンタル面が弱い事を説明する事で理解し易いです。メンタル面が弱いと言う意味は、左脳の自我意識単体で行動しようとしている事(自意識過剰)を意味します。右脳の力を駆り様としていないか、借りる事が出来なくなっている事を意味します。

メンタル面が強いと言う説明でも、理解しやすくなると思います。優勝が掛かった場面などで行動する場合『自我意識が出ないように出来た場合では』当然優勝が近くなると言う意味です。この場合の『自我意識が出ない時』自分の身体と心を支配している意識、が右脳の意識と言う事になります。

思春期頃に二つになった人格は、自我意識は左脳に存在する意識として、顕在意識という形になります。右脳の人格は『無意識の底に、封印された形で隠された形で働くようになります。』

二つの意識は『意識の根底=脳梁の中で』絶えず情報交換しながら、どちらの出番かを決めています。この出番争いが無くて、二つの意識の交替制が順調にスムーズに行く場合を『健常者』と表現しています。この場合には二つの意識の交替制があまりにもうまく言っている事を意味します。

この交替制がギクシャクする場合では『違和感或いは不安感或いは恐怖感』が押し寄せる場合があります。この違和感を感じ易い場合を『不安になり易い性格、或いは神経質な性格』と表現しています。自分の心にもう一つの意識の影を敏感に感じていると言う意味になります。

こう云う場合では、自分自身に不安を感じていると表現する事も可能です、何故ならば『現実の目の前には、不安や恐怖する実態が実際には無いからです。』頭の中に湧き上る考えや感情を恐がっているからです。


自分の『身体に付いての生命維持機能』と仲違いする場合を自律神経失調症や過敏性腸症候群や難治性の心身症と表現します。脳にも身体にもいかなる精密検査をしたところで、健常者と変わるところが無くて、正常という結果になっているからです、只一つの違いが、幼子とは違って『意識地獄の状態』になっているからです。子供のように『意識しないで居る事が出来なくなっている』事を意味します。


湧き上る感情や考えを『湧きあがらせている者』と仲違いする場合に『心を病む』と表現しています。この場合も脳にも身体にも、精密検査をしたところで、健常者と変わるところが見付かりません。全て正常という結果です。只一つの違いが、幼子と違って『意識地獄に入っている事です。』意識しないで居る事が出来なくなっている事です。


自分の行動を『自在に出来る者』と仲違いする場合を『神経症』と表現しています。無意識の自分が出来ている事を、『自意識過剰』になっているために、意識した事のみが出来なくなっている状態です。

動画を参考にするなら、人間の意識のありかが判ると思います。

こう云った意識地獄=失楽園と言う現象の解消方法がキリスト教おいては『内在する神と和解する、そうして、(出番争いをしなくなって)神(命の働き)に従う』と言う意味です。

この出会いの後では『二つの意識の間にはホットラインが開通する事で』もう二度と出番争いをする事がなくなります。心の中が静寂に満ちたものになります。

禅などでは『生死の問題が解決する』と表現しています。生と死を同列にみる見方が出来るために『迫り来る死にも、或いははつらつとした生にも』心が動じなくなります。この静かなる心のあり方を、涅槃と形容しています。

全てを受け入れる容易が出来たという意味です。絶対肯定と言う足場に立った事を意味します。

目の前のりんごを見る時、自我というフェルターを通さないで見る事が出来るという意味になります。
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意識は、車で言うならハンドルにあたります。



どちらに舵を切るか。

「あ、見たいテレビが始まる」
テレビに意識を向けます。

「そろそろ寝ようかな」
今の時間や寝ると言う行為に意識を向けています。

機能的なものですよね。
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ちょっと質問とはズレた回答になるかもしれないけど・・・。



私はたまに意識が切れることがあります(別に珍しい病気じゃないよ)。

でも、目の前にリンゴがあって、傍にいる人から人に「これ何?」と聞かれたら、多分「リンゴ」と答えると思う。
「どうぞ」と言われたら、「うん」くらいは言うと思うし、本当に食べる可能性もありそう。
食べてる最中に意識がきれて、「美味しい?」と聞かれたら、「うん」くらいは言うと思う。
「うん、美味しい」と答えるかもしれない。
時には、「甘い」とか「酸っぱい」とまで言えるかもしれない。

ちゃんと視神経が働いて、リンゴと判断して、味覚も働いて、それを言葉にも出来ると思うよ。
意識が戻った時、食べていたこともそうした会話も、全く覚えてないけどね。

意識がなくても、脳は判断する。
判断しているけど、意識はないってことになるよね?

意識って、もっと別のところで働いているって実感があるけど。
zorozoro2100さんはどう思う?
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この回答へのお礼

う~ん。よくわからないです。ただ意識というのは時間的に連続しているのではないとは思うのです。
これは意識がしっかりしているときでもあるように思うのです。
だから「意識」に興味はあるのですが,調べるほどますますわからなくなっています。

お礼日時:2013/04/13 15:09

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