最近のこのカテでは、釈尊の覚りなどなかったという風潮があるようですが、それは何故ですか?
何か根拠でもあるのだろうか。
大昔のこと、現代に生きる我々としては、釈尊に出会ったわけでもないだろうに。
どうやら、無というものがひっかかっているようですが、
無とは本来、何かが無いという意味であり、全部が無いとか、あれは無いとか、これは無いとか、主語に対して使う言葉であって、どうも無の覚りが云々という言説が舞い上がっている意味がよくわからない。
自分も十年ほど前は、無というものが何処か自由を保証するような気がして、それにかぶれた記憶もありますが、それから延長して釈尊は覚ってないとか、そんなことは言ったことがない。破門で始まる仏道があるとかのたまって、自己に酔いしれた経験はあるが、それでも今振り返れば、若かったな、何もわかってなかったなということに終始します。
このカテで、釈尊の覚りを否定する方は、何を根拠に言うのでしょう。
釈尊や仏教の肩を持つわけではないが、このカテのその風潮のうき具合が少し心配に思えます。
どちらかと言うと、徳とか、そういう話がもっと出ても良いと思うのですが。
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
面白いことが始まったなあと思って見物させていただいております。
なるほど仏教に縁が深い方なのですね。となると腹が立つのも当然でしょうか。>最近のこのカテでは、釈尊の覚りなどなかったという風潮があるようですが、それは何故ですか?
私のリサーチによると、次の理由でした。
(1)宗教とは信仰を行うものである。例えば仏教以外では、ヤハウェ、アラー、イエスなどの信仰対象がいる。神道にも神がいる。
(2)しかるに仏教は信じるものがない。悟るのである。悟りは信仰と違う。信じるものがないと、信仰ができない。
(3)信仰できないとは大変な問題である。キリスト教を支持する立場からすれば、仏教は宗教として認められない。
(4)こうした不出来な宗教は解体され、自身の構想する新たなる宗教(神道をベースにしたもの)に吸収されるであろう。
私個人は、(1)と(2)はあながち間違いとは思いません。しかし(3)については異論があります。私は、違うものは違うものとして、面白いと思うんですがねえ。私は仏教とは「哲学の成りそこない」と表現しましたが、他の宗教より哲学に近いとは素晴らしいことだと思うのですよ。(4)については、……まあ、新興宗教の勧誘の類いかもしれません。それは今後、時間がある時に聞いてみようと思いますが、あまり気が乗りません。 No1の方がおっしゃるのも、わからないでもありません。しかしキ印だとしても、それはそれで面白いこともありはします。何というか、この話狂っているなあと思っても、それを面白がれるのが、人の度量とも思います。大体、世にある大抵のものは、狂っているんですからねえ。一杯のコーヒーにも狂気が潜んでいます。
ところでこのカテの批判には、適度な距離を置いて接することをお勧めします。 住人になってしまった方もいるが、その理由の大半は、住人になりたくてなったというより、煽られて、ムキになって反論しているうちに、ネット中毒になってしまったというものです。
煽られてムカつくのは分かりますが、他のカテでは、煽られて自殺した青年の父親が怒りの投稿をしているものまでありました。程々でやめないと、取り返しがつかないことになります。破門から始まるとおっしゃるように、のめり込み易い性格であるのかもしれないと思ったので、よけいな一言を言わせていただきました。
面白いと思うなら議論すればよく、くだならいと思えば放っておけば良い。くだらない話なら、誰も相手にせず、滅んでいくだろう。それくらいに達観しておけばいいと思いますよ。
そういう経緯がありましたか。端的にご説明くださってありがとうございます。
また、事件のお話などがあったと聞いて、ただならぬ話と察しましたし、社会的に見て、サイト運営の責任など、看過されるべき事柄ではないなと思ったのが正直なところです。
ご心配どうもありがとうございました。
No.11
- 回答日時:
”釈尊の覚りなどなかったという風潮があるようですが、それは何故ですか?
何か根拠でもあるのだろうか。
大昔のこと、現代に生きる我々としては、釈尊に出会ったわけでもないだろうに。”
↑
出会ったことも無いのに、どうして悟ったと
判るのでしょうか。
悟りとは何か判らないのに、どうして彼が悟ったと
判るのでしょうか。
そもそも超人など存在するのですか?
王貞治と同じ才能を持った人間は、同世代に少なくとも
200人はいるといいます。
釈迦さんだって、ちょっと優れたユニークな人、
それだけでしょう?
そういう人の言ったことを、どうして無条件に信じ
られるのか、理解できません。
人類の歴史において、超人など存在したことは
いまだかつてないではありませんか。
この回答への補足
この欄をお借りして、ご回答いただいた皆様に御礼を申し上げます。短い間に十一件ものご回答をよせてくださりありがとうございました。
ベストアンサーは、もっとも回答として相応しい回答をいただけた方に進呈したいと思います。
問:最近のこのカテでは、釈尊の覚りなどなかったという風潮があるようですが、それは何故ですか?
に答えていただけたということで、NO.8の方をベストアンサーとしたいと思います。
ありがとうございました。
私は、釈尊が覚ったとか、覚っていないとかは言っておらず、仏伝に、釈尊は覚ったとあるという事です。
ところが、釈尊は覚っていないとか、釈尊は覚っていると、自分の言葉として言う方もおられます。
それぞれの方々は自己の発言に責任を持つべきであろうと私は考えるのですが、あまりにもむやみな論調に、心配になったという話でした。
No.10
- 回答日時:
仏教でいう「無」とは、有の反対を意味する言葉ではなく、有も無も無い「未生の絶対無」を意味しています。
早い話「本当は何も無い」という事なのですが、この真理に目覚めて「有るという思い込み」即ち、迷いが無くなる事を「悟り」といっているだけの話で、実際には悟りなんてものは無いんですよ。そういう意味では、釈尊は悟ってない、彼はただ迷いが晴れただけだ、とも言えるのですけどね。仏教が誤解されているのは、別にこのカテに限った事ではありません。ってか、キチンと仏教を理解している人なんか滅多に居なくて、僧侶も学者もほぼ全滅に近い状態です。ですから、自分がどう仏教を理解しているのか、そしてそれは本当に正しいのかという事だけを問題にするべきだと思います。
身も蓋もない言い方になりますが、解らない人には一生解らないのが、真理というものです。叡智というものは、誰にでも会得出来るものじゃないのだから、これはもう仕方ない。下手に宗教に触れたばかりに、妄言ばかり垂れている迷惑な人も居るけど、そういう可哀想な人は、そっとしておいてあげましょう。まあ、一度くらいは真剣に相手しても良いかもですけど、徒労に終わる事は確実ですよ。
ちなみに、徳性と悟りは、無関係です。因果の道理に基づく最低限の知性を持つ人間なら、アングリマーラの様な悪党でも悟れます。徳性というのは、飽くまでも幸福な人生を送る為に必要なものであって、悟る為に必要なものではないのです。
確かに疲弊しそうですのでそこそこにしておこうと思います。
私の聞いた話では、徳は陽に積めば福徳に、陰に積めば功徳になり、功徳の方は覚りと深く関係するという話でしたが、ここで深く話すことでもないでしょうか。
ご心配ありがとうございます。
No.9
- 回答日時:
結論は文末において、まず寄り道から
言葉や論理が詳細に述べられていても、自身の内面に響くものがないと真の理解にはいたりません。
例えば、学術書等を読んで、後から理解して初めて意味がわかるという奇妙な感覚はそういうことです。
極論を言えば、思考や議論に何時間を費やそうが真の理解とは比例しないということです。
むしろ、簡単なことを徹底的にやる。ゆっくりやる。それによって理解力は深まります。
しかし、それはもうこの上なく無慈悲なんです。
限りある時間の中で、急がないわけですから、世間的に観ればどうかしています。
それとは別に、悟りの実体を把握して労力を投入しようという意識も世間的常識にかなうのですが、とりあえず一歩進むほうが結局はやい場合が多いのです。
これらの世間的常識に反する逆説的現象の原因は人間的なものと思われます。
急いだり議論にあけくれることで焦りをごまかす、
実体を把握しているつもりが、実は行動しない言い訳になっているなど。
悟りをわからないで済まさず、否定する方々は言葉や論理を過信し、人間的要素を無視しているのではと思います。
No.7
- 回答日時:
No.2&6です。
いくらか説明がありました。
ちょっと視点を変えて 次のように問うてみます。
長いですが 次の解説では ゴータマ以前にさとりは探究されていたことを知ります。
▲ (ヰキぺ:悟り) ~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E3%82%8A
§ 1-4 ヒンドゥー教(バラモン教)
ヒンドゥー教は非常に雑多な宗教であるが、そこにはヴェーダの時代から続く悟りの探求の長い歴史がある。
仏教に対峙するヴェーダの宗教系で使われる悟りは意識の状態で、人が到達することの出来る最高の状態のいくつかを言う。サンスクリットのニルヴァーナ(涅槃)に相当する。光明または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。
インドではヴェーダの時代から、「悟りを得るための科学」というものが求められた。それらは特に哲学的な表現でウパニシャッドなどに記述されている。古代の時代の悟りを得た存在は特にリシと呼ばれている。
ニルヴァーナには3つの段階が存在するといわれ、マハパリ・ニルヴァーナが最高のものとされる。悟りと呼ぶ場合はこのどれも指すようである。どの段階のニルヴァーナに到達しても、その意識状態は失われることはないとされる。また、マハパリ・ニルヴァーナは肉体を持ったまま得るのは難しいとされ、悟りを得た存在が肉体を離れる場合にマハパリ・ニルヴァーナに入ると言われる。
悟りを得た存在が肉体を離れるときには、「死んだ」とは言われず、「肉体を離れる」、「入滅する」、「涅槃に入る」などと言われる。
悟りという場合、ニルヴァーナの世界をかいま見る神秘体験を指す場合がある。この場合はニルヴァーナには含まれないとされ、偽のニルヴァーナと呼ばれる。偽のニルヴァーナであっても、人生が変わる体験となるので、偽のニルヴァーナを含めて、ニルヴァーナには4つあるとする場合もある。
現在でも、ゴータマ・ブッダの時代と同じように山野で修行を行う行者が多い。どんな時代にでも多くの場所に沢山の数の悟りを得た(と自称している)存在に事欠かない。
通常、悟りを得たとする存在もヒンドゥー教、またはその前段階のバラモン教の伝統の内にとどまっていた。しかし、特にゴータマ・ブッダの時代はバラモン教が司祭の血統であるブラフミン(バラモン)を特別な存在と主張した時で、それに反対してバラモン教の範囲から飛び出している。同時代にはジャイナ教のマハヴィーラも悟りを得た存在としており、やはり階級制であるカーストに反対してこれを認めず、バラモン教から独立している。
~~~~~~~~~~~~
☆ ここでの《最高の状態》に 《やすらぎ》も《苦悩からの解放》も入るでしょう。
けれどもそれ以上のそれ以外の説明は ありません。
その《伝統》を ゴータマも踏襲しています。定義はありません。
ゴータマとブラフマニズムの違いは 後者が 支配階級である自分たち・ブラフミン(バラモン僧)の身分を既得権益としてのように保守しようとして 身分制を強化し固めようとするそのおこないが無いか有るかです。ゴータマは 身分制に反対しました。
あとは さとりについて外形的な説明があるのみです。
▲(同上:§ 1.1 仏教 ) ~~~~~~
1. 迷妄を去った真理やその取得を言う
2. 真理(法)に目覚めること。
3. 仏教の悟りは智慧を体としており、凡夫(ぼんぶ)が煩悩(ぼんのう)に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻(りんね)を続けているのは、それは何事にも分別(ふんべつ)の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱(げだつ)しなければならない、その方法は事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現する。これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここにはいくつか ツッコミを入れたくなる事柄が書かれています。
(あ) 《智慧》が基本だが 《分別を用いて思考することは 智慧に反する》と言っているらしい。
(い) さとりは 《事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現する》と言う。――これが《外形的な説明》でないと言えましょうか?
(う) 《智慧》とは何か? という問いに代わっただけであり 堂々巡りである。
(え) 最初の(1)や(2)のほうの《真理》とは何か? 《法》とは何か?――どこまで行っても 問いはそのまままったく同じかたちで続きます。
▲(同上:同箇所) ~~~~~
4. 釈迦は・・・ピッパラ樹の下で坐禅をして禅定に入った。その禅定がしだいに深化し、三昧の中で「三明」が顕れ、真理を悟ることができた。これによって釈迦は悟った者(覚者)、すなわち「ブッダ(仏陀)」になったのである。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ このとき
(お) 《禅定》とは 何か? 《三明》とは? 《真理》とは?
▲(承前) 5. 煩悩が制御されているので、とらわれのない心の静けさがあるということである。
☆ ということは
(か) 《とらわれのないこと》や《心の静けさがあること》は それとして人びとの同感を得ると思われますが それは ブディズムのさとりであるか無いかにはかかわらず 一般的なことがらであるはずではありませんか? どうして専売特許になるのかが分かりません。
(き) 《煩悩が制御されている》は これも一般的だと言えましょうが 《煩悩》とは何か? については ブディズム独自のオシエなのかも知れません。けれども おそらく次のような定義にしかならないでしょう。
(く) すなわち 《さとり》とは さとりを得ることを妨げている煩悩から自由になる智慧を得てその智慧を発揮することだと。――これを 外形的な定義と言います。作文です。生煮えと言いますか 残尿感を感じさせる《定義》です。
▲(承前) ~~~~~
6. 大乗仏教では自分の悟りは他人のさとりを前提に成立するという立場から、六波羅蜜(ろくはらみつ)という利他行を実践する菩薩行(ぼさつぎょう)を強調する。
悟りは固定した状態ではなく、悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続けることであり、自らの悟りに安住することなく、悟りを求める人々に実践を指導するために活動し続けた釈迦の姿が想定されており、活動していくことに悟りの意味を求めているのが、大乗以降の仏教における菩薩の特徴である。
そして菩薩の悟りは声聞や縁覚と違い、究極最高のものであるとして「阿耨多羅三藐三菩提」「無上正等正覚」、あるいは単に正覚と呼ばれる。
~~~~~~~~~~~~
☆ さてどうでしょう?
(け) ▲ 自らの悟りに安住することなく――☆ というのは すでにさとりを得たと言っています。そういうことがゆるされましょうか?
(こ) 何ら定義をしないまま《おれが さとりを成就したぞ。この上ない智慧を得たんだ》と宣言したまま 《その実践を指導し活動しつづけた》ということに人びとも倣うということでしょうか?
(さ) ただし確かにその説明には 一理あるかも知れません。無住処涅槃という考え方があるからです。
あるいは 《自未得度 先度他》というように――そして人間どうしの《関係の絶対性》にもとづくかのように―― さとりは実際には分からないが或る種の仕方で生まれつきそのイメージはあると知っているのでそれにもとづき ともかく実践してみる。といった立ち場のことです。
(し) ならば そう説明すればよいのです。これは ゴータマがです。問題は ゴータマです。後世の人びとにおぎなってもらったということではないでしょうか?
(す) すなわち そのときには ゴータマの《成道》はウソっぱちだったと知られます。そのことを明らかにして おのれの真実をのべる義務がブディストにはありましょう。
(せ) つまりは最初の《真理》にもどりますが 要するに《変わらざる真実――すなわち真理――を人間の主観が得ることが出来るか》という問題になります。《ひとり満ち足りている存在で ひとはありうるか》という意味です。《ひとは神になりうるか》です。
(そ) ゴータマの神格化は そろそろやめにしましょうという意味です。ゴータマのさとりは ただのまやかしです。そこ(つまりその確認)から出発するのではないでしょうか 人がいやしくもブディストであるというときには。
またブディズムを多少とも擁護しようとするときには。
別にゴータマを神格化したのは私ではないのでそれを追求されても困りますが、仏教には法(ダルマ)という言葉があり、それを信じるというのは、語義的に正しい言葉なのです。神とは違いますが、信じるものもあるということをご了承していただければと思います。
ちなみに私は宗教はありません。しかも、どの宗教を否定するという立場をとることも基本的にはないです。
長文のご回答ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
No.2です。
★(No.2お礼欄) ~~~
覚れば、不滅の安らぎ=ニルヴァーナに至ると言われていますが、それだと(中身としては)ダメなのでしょうか?
或いは苦悩がなくなると言われていますが、それらは実に明快な説明のように思えるのですが。
~~~~~~~~~~~
☆ 《やすらぎ》《苦悩がなくなる》は ふつうの言葉であり概念です。どうして それがもっぱらブディズムのさとりにとっての説明になるのでしょう?
あるいは やすらぎを得ることやまた苦悩から解放されることは 別にブディズムのやはり専売特許でも何でもないはずです。
ただし
★ 不滅の安らぎ=ニルワーナ
☆ とは書いてあります。では どうして
○ さとりにおいては やすらぎが不滅であるのか?
を説明しなければなりません。諸行無常の・つまり移ろい行かざるを得ず朽ちざるを得ない身の人間が どのようにして《不滅のやすらぎ》を得ることが出来るのか? この問いに答えねばなりません。
この上なくとうとい智慧のさとり とは何ですか? という問いです。
中身のないものを 勝手に作文してもダメです。
インチキ・ペテン・詐欺また自己欺瞞です。
この回答への補足
私は、回答者さんが何をわからないのかが伝わってこないので、困っているのです。平易な表現の何処がダメなのか、専売特許などとは私は一つも言っていない。別にいいではないですか、オリジナリティを競っているわけではないのです。
補足日時:2013/04/14 08:52ようするに、余計な名色が脱落するので、苦悩が集滅すると説かれます。名色とは、名称と形態のことです。煩悩とは本能に基づく心の動揺であり、余計な名称と形態の作用がなくなるゆえに煩悩も消えるということです。
しかしこのような専門的な用語をつかっても理解できないでしょう?そのために平易な表現で語るのです。中身が無いと言われても、あなたにとってそうなだけで、あなたがそういう受け取りをしているに過ぎないでしょう。ただの我侭ですよ。
No.5
- 回答日時:
このカテで『科学が発達したら、体得しないでも悟れる?』と質問投稿した者です。
ベストアンサーのお礼に「悟るのは、ブッダの偽りを証明していくことでもありそうだと思いました。」と書いていたのでどきっとしました。
いろいろ悩んでいます。心理学や哲学や社会学に救いを求めたりします。
前に禅を勧めていただいたことがあって、宗教によって救われるのではないかと考えるようになりました。
本心ではブッダの言説に惹かれたり仏教の言説に惹かれたりしています。
それなのになぜブッダについて否定的なことを書いてしまったか回答します。
悟るのはブッダの悟りを証明することでもあるという本の内容を真似ました。
悟りが何なのかわからないので憶測しました。
うろ覚えの内容から、あまのじゃくっぽく「悟るのは、ブッダの偽りを証明していくことでもありそうだと」と書きました。
そうは書いたものの、やはりブッダの悟りを信じています。ブッダの語ったアミダブツも信じています。
でも、もし生まれ変わったとして次の生でも信じていられるかと聞かれると自信がないです。
ブッダを信じるときブッダを好き嫌いするのと同じくらいの信じ方をしているからだと思います。
悟りが言葉の方便で示されていて最も重要な体験については直接伝わらないので、言説は偽りだと思います。
またブッダの悟りを偽りと証明できたなら救われているような気がします。悟ることでブッダの悟りを頼らなくていいと証明する、という解釈です。
頼らなくてもいい他を頼っていたのなら頼っていた他は偽りだったということで少し詭弁な気もします。
結果「悟るのはブッダの偽りを証明することでもありそうだと思いました」になりました。
伝統的な仏教集派によってブッダの悟りは現在まで継がれているらしいと聞きました。
それが科学の発展(脳チップ義務化など)によって途絶えてしまうか不安になって『科学が発達したら、体得しないでも悟れる?』と質問しました。
自分の持ってた考えがスタンダードだと勘違いしていたので、悟りとはなんなのか問題になろうとは思ってもみませんでした。
匿名なのでついつい自分のことを書いてしまうのですが、これでは悟りから離れてしまうんだろうかと思ったりします。
覚りの道は二歩で通じる道だと言われています。
一つは発心すること、一つは(苦悩から)解脱することです。
私はブッダにこだわりはありません。ただ、あまりにも行き過ぎた言論があったので、それはどうかと思っただけです。
ようするに、しあわせになれたらそれでいいのであって、知り得た某に執着するべきではないと私は考えます。わたしが仏教に興味を持ったのは、徳について具体的に書かれていたからであり、仏教以外にはソクラテスの、ただ生きるのではなく善く生きるといった話にも興味がありました。もちろん新約聖書なども読みました。
回答者さんの文章を読んで、少し思考のふらつきがあるのかなと思いますが、あまり現実離れを起こさないほうが良いと思います。ただできることを為して、その中に平安とか、安穏とかいうものが存在すると考えたほうが良いと思います。無理をなさらず、まずは落ち着いてください。
No.2
- 回答日時:
こんばんは。
ひとつの流れは ゴータマ・ブッダのさとりを否定するのではなく そうではなくその《さとり》とは何か? にかんして 定義も説明もないではないかという物言いですよ。
定義を示せば 話は済むのではないでしょうか?
ただし妥当性があればのことですが。
中身が何であるかが分からないものを 否定するも肯定するもないぢゃないですか。
覚れば、不滅の安らぎ=ニルヴァーナに至ると言われていますが、それだと(中身としては)ダメなのでしょうか?
或いは苦悩がなくなると言われていますが、それらは実に明快な説明のように思えるのですが。
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