アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

日本が本格的な統一国家になって、大和政権が、平地でない奈良“盆地”に成立しました。
その後、都は、同じような地形の京都盆地に移りました。
そして、都は、海岸近くの鎌倉・大坂・東京に移りました。
規模がまるで違いますが、4大文明は、黄河やナイル河などの大河沿いに発生しました。
質問は、大和政権の成立に、水辺に縁遠い奈良“盆地”という地形が、関与していますか?

A 回答 (15件中1~10件)

文明は文明で政権とは違いますからね。


盆地は攻められにくい土地だそうです。
攻められにくいということはその分侵攻に回す兵力が増えるということなので、他地方を侵略・征服しやすかったのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
<盆地は攻められにくい土地>
ですね。
後に続く京都も鎌倉も、守りには適している地形のように思われますね。

お礼日時:2013/04/19 12:35

水の無い所に人は住めません。


奈良盆地は太古湖でした。湖の水が退いたのは,二上山火山活動の影響で,大和川の流れが出来,排水が始まった為と,何かで読みました。
集落跡などが次第に低地へと移った痕跡も発掘されています。
全ての遺跡が,水と深く関わっています。
直ぐお隣の近江盆地も,滋賀県のほぼ全域の水を琵琶湖が集め,排水口は宇治川だけです。
人の暮らしの痕跡で言えば,大和も近江も大差ありません。
水辺の暮らしは,陸行よりも水行の方が余程便利でした。
盆地地形は,外部からの攻撃に対する防御にも優れています。
京都盆地は北山に守られて豊かな湧水に恵まれ,かつ,鴨川と桂川に囲まれた優れた防御地形で,「君主は南面す」の陰陽法に適い,実り豊かな平野を持っていました。東山も西山も天然の防御壁。
桂川,鴨川,宇治川の合流地には広大な巨椋池が有りましたが,干拓で消滅しました。「巨椋」は古代の歌集にも頻繁に登場します。
建都当時には,現在の今宮通りは,都から見て北山の北側に当たります。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
大和川や宇治川や湧水があり、大和も近江も水は充分あったのですね。
そして、水は直接の生活水ばかりではなく、移動や運搬に役に立っていたのですね。
そして、地形的には、大和も近江も防御に優れていたわけですね。

お礼日時:2013/04/19 19:25

 文明の意味がわかってらっしゃいませんね。

南米のインカやマヤ文明を見れば必ずしも大河のそばでなくとも統一権力が生まれます。
 また中国文明の拠点となった都、殷、それからや秦の咸陽、それから後の長安なども大河のそばではありません。

>日本が本格的な統一国家になって、大和政権が、平地でない奈良“盆地”に成立しました
 これも認識の誤りです。当時の権力連合体の領域はは畿内から西(九州南部を除く)、東は今の岐阜あたりです。これを「日本が本格的な統一国家になった」というのは間違っています。南西諸島、北海道を除いた地域に中央の権力が届くようになったのは平安時代中期以降です。
 

 あとは#1の方の回答に準じます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
旧大陸の4大文明は大河の付近に形成されたのに、新大陸の文明は、大河には恵まれていないにも関わらず.形成されたことは、以前から疑問に思っていました。
本格的な統一国家・・・の件は、勇み足だったようです。
奈良盆地については、防御に優れていた、といことですね。

お礼日時:2013/04/19 19:35

水辺に縁遠いというのがそもそも間違いで、当時は大和川による水運が発達していました。

記録として残るのはだいぶ後世のものになりますが、桜井の海柘榴市は河港として栄えたことがよく知られています。「日の出づる処の天子、云々」の国書で有名な遣隋使にたいする使者として隋から派遣された裴世清は難波津から海柘榴市に着いています。大和政権が成立する3世紀ごろも似たような状況であったろうと出土品から推察できます。

海柘榴市跡
http://bell.jp/pancho/travel/yamanobe/tubaiti.htm

瀬戸内方面の物品のみならず東海地方由来の物品も非常に多く出土していることから、3世紀ごろヤマトは東西交易の流通の拠点であったであろうことも推察でき、少なくとも東海地方(拡大すれば関東まで視野に入る)から瀬戸内、九州まで広がる広域国家の首都としては非常によい立地であったと思われます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。
海柘榴市については、初めて知りました。(歴史の初心者ですから、当然ですが) 国際的にも機能していたのですね。
大和川の水運が発達していて、
<ヤマトは東西交易の流通の拠点であった>
のですね。
<広域国家の首都としては非常によい立地であった>
わけですね。

お礼日時:2013/04/19 19:54

 休憩時間を利用しての回答ですので、推敲が十分に至らない部分がありましたら御寛恕いただければと存じます。


 >日本が本格的な統一国家になって、大和政権が、平地でない奈良“盆地”に成立しました
この前提には一つの誤解があります。本格的な統一国家(日本列島および沖縄および島嶼部を含む現在の国土全域とは等位にはならないが)が誕生したのは8世紀、律令に基づく中央集権的な社会統治システムの登場を待つしかありません。
 これに対し「ヤマト王権」の誕生と想定されているのはそれよりも以前の段階で、これは地域の首長連合組織であり、田舎の寄り合いもしくは町内会的な組織です。それぞれが「土地にいる王」ですから、その支配下にあるものは王に隷属する形で、この部分が「一つの権力によって統一された国家」との意味にはなりません。「政権」は「何らかの法的裏付けに基づく組織に基づく統治権力」を意味します。7世紀段階まではこうした形態はありません。
 「ヤマト政権」の所在ですが、地理的には現在の大和平野南部から飛鳥・桜井・三輪あたりとされています。
 この地域は大和川の水運を利用して大阪湾からさほどの距離でもありません。この地域には蘇我・物部・葛城・平群・大伴・巨勢などの豪族がそれぞれの勢力範囲を持っていた痕跡もあります。
 ですから、この質問は根本的に成り立たない話となります。奈良盆地から北に目を向けますと、平城山を越えた手近なところに木津川の流れもあります。一概に「水辺から遠い」との結論には至りません。
 日本国内では他にも現在の群馬県から栃木県を勢力下に治めていたとされている毛野氏などもいますが、この地域は「海無し県」です。にもかかわらず、そうした勢力があったという事実を「水」と関連づけるだけでは説得力にかけるとの疑問が生じますが如何でしょう。
 因みに四大文明殊に中国のそれに関して、現在では華中の淮河一帯に発生した文明が先駆的であるとの見解が定着しつつあって、それは四川盆地周辺の三星堆を始めとする内陸部の遺跡とそこから発掘された遺物によって裏付けられてもいます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
ヤマト王権は、
<地域の首長連合組織>
であるのですね。
<大和川の水運を利用して大阪湾からさほどの距離でもありません>
ですね。水辺から遠い、わけではないのですね。
そして、日本では、群馬・栃木の毛野氏の例もあり、中国では、
<四川盆地周辺の三星堆を始めとする内陸部>
の例もあるように、水辺から遠い・・・は必ずしも正しくはないのですね。

お礼日時:2013/04/19 20:20

童話「桃太郎」で、「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯へ行きました。

」といった文があります。平地である必要はなくて、そういう風に山へも川へも近い方が便利だってことです。京都盆地も奈良盆地もその要件を満たしています。山に芝刈りに行く訳でもないでしょうけど、今だって人口が集中しています。山の保水機能で豪雨があっても洪水になりにくい事と地下水が豊富で井戸を掘ったら簡単に綺麗な水が出たとかそんな理由だと思います。北朝鮮はハゲ山ばかりだからあれほど洪水に苦しめられている訳です。徳川家康は関東平野を拓いたけれども、利根川東遷事業や神田上水や玉川上水などの土木事業が必要でした。その全てを徳川家康が為したわけではないが、徳川家康は江戸を水害から守り、その一方で飲料水をどう確保するか頭を悩ませたことは明らかです。古代においては、土木技術も無いし、土木作業員を大量動員する力もないし、水に関する問題はより切実であり、それが適地を選択する決め手であったのに違いないのです。今だって公共事業といえば、やれ無駄遣いだといった批判がつきものですが、古代はそもそも公共事業をする技術も労働力も無い。何にせよ古代から現代に至るまで治水・利水が国家の最大の課題であったのが日本という国です。

質問者さんがいわれるように都かどうかは別として、鎌倉・大阪・東京と政権が移動しましたが、それには土木技術の進歩、動員力の向上といった背景もあった筈です。時代と共に政権課題の重心も移動します。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
<古代から現代に至るまで治水・利水が国家の最大の課題>
ですね。
平地ばかりが良いのでないのですね。関東平野の江戸は、河川や上水に苦労したのですね。
奈良盆地は、古代というその時代なりに、山と川とが共に存在することにより、好都合だったのですね。

お礼日時:2013/04/19 22:27

今から説明する事は、一時、大坂書籍の中学教科書の裏表紙に載るような「定説」のはずなのだが、以外と知られていないんです。



雨の多い日本では、取水よりも排水が困難なのです。日本は通常、水余り。それ故に、江戸時代以前の日本人の多くは、水はけの良い丘陵地や盆地・平野の周辺部に住んでいました。江戸時代になって、大規模な土木工事が可能になって、盆地の中央部や平野の下流域の低湿地が開発されて、人口の多くが移り住みました。戦後の高度成長期と似た事が江戸時代にも起こり、都市が形成されたのです。教科書はここまで。

堺の大仙古墳は丘の上、飛鳥の石舞台は山麓にあり、奈良の東大寺も丘の上。通常、平城に分類されている大阪城も台地の上にあります。江戸時代以前の日本人の多くは、今よりも小高い所に住んでいました。これらの遺跡や城、戦国の山城さえ、今よりは、高度的には一般の居住区に近かったのです。

織田軍対一向一揆は、平野の下流域の低湿地帯の争奪戦という色合いが強いそうです。どちらも、土地の高低から言えば、低いところから伸びる新興勢力だったのでしょう。

なお、奈良県の大和盆地には、もうひとつ長所があります。小中学生のいる家族が和歌山から奈良に引っ越しすると、天気予報に驚きます。滅多に警報で学校が休みにならないのです。ゼロの年もあります。安定した農業生産も大きかったでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早急な回答ありがとうございました。
実は、shirouuda様の以前の回答に触発され、この質問を投稿しました。
私は3月7日このカテに、”日本と西洋や中国との、城や城郭への収容について”というタイトルの質問しました。これに対して、shirouuda様からNo18で、
<昔は、盆地や平野の周辺部の緩斜面に住んでいた。関西の遺跡も丘陵地に多い。>
という回答を頂きました。それ以来、奈良盆地の大和政権のことを考えていて、質問したわけです。
時代により、土木工事などにより、地形の優劣を単純に判定することができない、ということですね。奈良盆地は、当時では、適していたわけですね。

お礼日時:2013/04/20 16:27

 一つ補足します。

京都は同時に「水の都」でもあったことです。
現在の京都市南部にある伏見区は酒造元であることも有名な話ですが、酒造りには水と米そして麹が必要です。中世都市京都はその全ての要件を満たしてもいます。「座」の一つに「酒麹座」があり、酒造りに従事する商人による事業者別組合組織のような性質を持つ集団です。
 その伏見に注ぐ川筋は琵琶湖に水源を持つ淀川水系として平安京の地下深くを経て鴨川から宇治川へと流れ注ぎ、やがて淀川に至ります。
 水は大地を潤し農耕の営みをもたらす恵みとなると同時に、水上を利用しての運送手段ともなります。陸路を行くよりも大規模な形そして速度で物資の運搬が可能となり、商業圏経済圏の拡大につながります。
 現在でも京都から伊丹空港を結ぶ高速バス路線は桂川そして淀川に並行して走る高速道路を経由していますから、これが陸路としては最短距離であることもわかります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

補足の回答ありがとうございます。
京都は水の都であったのですか。
TANUHACHI様のご説明により、京都の地下を流れる川のようなものについて、テレビ番組で放送していたことを思い出しました。京都に都が置かれたのには、それ相応の条件をクリアしていたのですね。

お礼日時:2013/04/20 16:38

4大文明は、黄河やナイル河などの大河沿い



現代の治水の技術が上がっている時代から見ると 四大河文明なんて言われると川岸にあるように思えてしまう。(そもそも 最近はそういう言い方もあまりしないようだし)

大きな河に注ぎ込む小さな(人間が古代に管理しやすい大きさの)河川にそって都市国家ができました。大きな川にはたくさんの小さな川が流れ込むので、都市国家がたくさん出来ます。
※ 川はなくても天水で農業OKという文明もある。
大河って結構人間が管理するのは大変。

○ 黄河
殷墟から黄河まで
今の黄河で100キロくらい
洛陽から黄河まで 30キロくらい
※ 黄河で渡河可能領域はこのへんくらいなのだそうだ

○ インダス川
ハラッパーからインダス川まで
100キロくらい
モヘンジョダロ
川岸

○ チグリス・ユーフラテス
ウル
河口部

○ ナイル
メンフィス
ナイル川、カイロの南


※ 水辺に近いかどうかなんてのは関係ない。
※ 農業生産センターのその他の地区との交易の結線となるような地域に首都機能が置かれると言ったほうが外れていないように思う。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
文明が成立するには、
<大きな河に注ぎ込む小さな(人間が古代に管理しやすい大きさの)河川にそって都市国家ができました。>なのですね。
また、
<交易の結線となるような地域に首都機能が置かれる>
ということですね。この結線が、川の場合もあるのですね。

お礼日時:2013/04/20 17:46

https://www.jstage.jst.go.jp/article/arp/27/1/27 …

水田生物多様性の成因に関する総合的考察と自然再生ストラテジ 

P22 表1

古墳時代までは「山麓緩斜面」が稲作の中心です。

大和政権といえば、古墳時代であり、飛鳥地方のような傾斜面が農業生産の中心と言えます。

古代(7世紀から12世紀)に「沖積平野,盆地など平野全般」の開発が「ため池など灌漑施設の造成と区画化」によって進んだ。

No9の繰り返しになりますが、「生産可能な対象域は時代によって変わるから、当時の技術で一番いい場所はどこよ?」としないと、現代の高度な農業土木技術を前提にすると誤解になってしまいます。

交易の結線という意味では、中国史において洛陽あたりがどうして先進的?(夏王朝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8C% … このへん

http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/point47.html

http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H25/kyouyou/B/nin …

黄河流域の農業生産物
淮河流域の農業生産物
長江流域の農業生産物

これらの農業生産物が混在して遺跡から発見されているそうです。
理由は、気候の大変動時代で、基本的に農業生産が不安定。多種多様な農産物を生産するやり方が生き残るためには重要で、上記の遺跡からは多種多様な農産物の跡がわかるそうだ。
洛陽平原は、単に商業という意味での交易だけでなく、農業の情報のセンターでもあったのだそうだ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございました。
<古墳時代までは「山麓緩斜面」が稲作の中心です。>
ですね。
<当時の技術>
が大切なのですね。この質問に限らず、歴史では、現在の視点から眺めるのは、正しくはないですね。
あくまでも、当時の視点から、が必要ですね。しかし、初心者にはつらい。
そして、洛陽も面白い地形に位置しているのですね。

お礼日時:2013/04/21 08:50

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!