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日蓮大聖人の『四箇格言』には
「真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊」
という言葉があるそうですが、
真言(宗)と律(宗)のどちらが、国やその国民にとって有害だ、
といっているのでしょう。

無知なわたくし・眠り猫に、
ご存知の方、御教授をよろしくお願いします。

また、
『立正案国論』では、どのように書かれているのか、をあわせて教えていただければ、さいわいです。

A 回答 (20件中1~10件)

>真言(宗)と律(宗)のどちらが、国やその国民にとって有害だ、といっているのでしょう。




どちらもです。

というよりも、四社同等の悪法と捉えるべきです。


さらに、当世の天台宗は真言に属します。もちろん、今の世も変わりはありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

日蓮さんの主張は、
「末法のこの世においては、法華経こそが世の人々を救済できるオシエだ」
というわけですね。
真言、禅、念仏、律などの仏法は、ひとしく間違っていると。

お礼日時:2013/04/24 14:40

 そういいきる、日蓮が一番悪い! 今の状況を見ればわかるでしょう。

創価学会を始め日蓮宗系はとにかく金、金、金ですもん。
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この回答へのお礼

なるほど、なるほど。

仏教学者の渡部昭宏氏が、自身の著作の中で
「日蓮は、仏教の基本的な知識を欠いている」
という趣旨の内容を記されていたと思いますけれど。

ありがとうございます。

お礼日時:2013/04/24 14:50

 それは日蓮が一番悪い。

自らとは異なる相手を全て誹謗し行動するならば、それは短絡的な原理主義者に過ぎない。もっともあの人物しその教団は板曼荼羅と称する紙片に神仏の名を合わせて書くなど「神と仏の区別すらつかない」ことから仏教徒としての資質すら疑われても仕方のないところであろう。
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この回答へのお礼

わたしも大学生のころ、
ご本尊さまとされるものを何度か拝見したことがあるのですけれども、
《八幡大菩薩》や天照大神の名を記されたものを拝見し
───だいぶ前のことなので、記憶違いがあるかもしれません───、
奇異な念をいだきました。

そして、その理由を信者さんに質問したのですけれど、そのワケを教えていただけませんでした。
部外者には、秘すべき、何か大切な秘密でもあるのでしょうか。

回答、ありがとうございます。

お礼日時:2013/04/24 15:02

「宗論はどちら負けても釈迦の恥」という言葉もありますよ。

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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

わたしは、各宗派の教えの優劣ではなく、
日蓮さんは、
真言、禅、念仏、律(宗)のどれが天下・国家、そして国民を惑わす天下第一の悪法と考えたのか、
ということを質問しているんですけれど。。。

禅は天魔の諸業であり、念仏は無間地獄への罪業を作るワザ。禅、念仏の教えは、あくまで、個人の悪業に関する記述です。
ところが、
真言は亡国の悪法、律は国賊の悪法なので、禅や念仏とは、悪の度合いが違います。
また、同時に、
国家・国民的な視点からして、真言と律は、悪法だと言っているわけで、
真言・律と、禅・念仏の悪法とは、視点・観点が異なっています。
で、真言と律のどちらが天下、国家、国民にとってより邪悪なのか。。。。。。

なかなか。。。。。。

日蓮さんや、日蓮さんの教えにもとづく各種の宗教団体を批判するつもり、全くないんですけれども。。。。。。
ただ、日蓮さんがどのように考えたのかを知りたいだけなのですが。。。。。。

いやいや、
 《創価学会》なんか大嫌いだ、
 日蓮は大馬鹿もので大嘘つきだ!!
 日蓮大聖人こそ、久遠の本仏・釈迦牟尼仏の生まれ変わりだ!!
 立正佼成会や、日顕率いる日蓮正宗こそが、現在における邪法だ!!
etc
この質問に関係する回答であれば、大歓迎します。

お礼日時:2013/04/24 16:04

No.1です。



>『立正案国論』では、どのように書かれているのか、をあわせて教えていただければ、さいわいです。

立正安国論においては、冒頭に

然る間或は利剣即是の文を専にして【西土教主の名を唱え】或は衆病悉除の願を持ちて東方如来の経を誦し、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え有るは【秘密真言の教に因て】五瓶の水を灑ぎ有るは【坐禅入定の儀】を全して空観の月を澄し、若くは七鬼神の号を書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸に懸け若くは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て若くは万民百姓を哀んで国主・国宰の徳政を行う、

とあり、念仏、真言、禅の祈祷を簡潔に表しています。

立正安国論は、書かれている方式が、主人と客人との対話形式で表されているのが特徴で、前文は客人の言葉の中にあるものです。その後、次のように続き、上記の様に祈っても、災いが治まらない原因は何かと客人が問いかけます。

然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼られ乞客目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍を観と為し並べる尸を橋と作す、観れば夫れ二離璧を合せ五緯珠を連ぬ三宝も世に在し百王未だ窮まらざるに此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是れ何なる禍に依り是れ何なる誤に由るや。

これに対して、主人が誤った法を用いて祈っても、効果は無いばかりか、返って災いを広げるという回答をし、正法を誹謗する事で今後起こる難を表わし、速やかに正法に帰すべきであると結ばれています。
立正安国論では、冒頭の様々な法、祈祷に対し邪法・悪法という言葉で取りまとめています。また、立正安国論では、多くの部分で法然の説いた“念仏”についての破折が大半になっています。これは、当時の鎌倉において、急速に称名念仏・西方極楽浄土がはやっていた為です。ちなみに、立正安国論を提出した、最明寺:北条時頼は禅宗です。また、律宗(極楽寺良観)は禅宗の流れですが、流行の念仏を取り入れていたと思われます。


■その他の補足

>板曼荼羅と称する紙片に神仏の名を合わせて書くなど「神と仏の区別すらつかない」ことから仏教徒としての資質すら疑われても仕方のないところであろう。

完全な馬鹿ですね。仏教というものを、全く理解していない。

そもそも、仏教上の神の位置づけですが、神という存在は正法を行じる者を守護する存在で、釈尊が法華経を立てた時にその誓いを行なっているのです。もともと、御本尊というものは、文永8年、『竜の口の法難』以降に書き現されたもので、主題として中央に成仏の種である『南無妙法蓮華経』があり、脇士として、釈尊、多宝仏が座し、地涌の菩薩が囲み、その誓願において、各々諸天の神々が善神となり法華経の行者を護るというものです。ここで、一般的な神道と違うのは、神が第一(本尊)ではなくて、あくまでも主題である法華経の題目『南無妙法蓮華経』が中心に座るということです。これこそが、法華経第一とするもので、法然が馬鹿だから見落として捨ててしまったものなのです。南無阿弥陀仏自体は、迹仏であり、本仏をないがしろにして成仏は有り得ないのです。

そして、この『南無妙法蓮華経』を目に見える形、御本尊として現したのが日蓮大聖人であり、法華経に照らして末法において法華経を流布し、数々の法難に遭い、末法万年の為に御本尊を現した事は、御本仏でなければ成しえることはできないことなのです。

この回答への補足

「弥陀の名号は煩悩を断ち切る利剣である」とありますが、
この《利剣》は文殊菩薩の利剣を意味するのでしょうか。
であるとするならば、
「弥陀の名号は煩悩を断ち切る《文殊の利剣》である」という意味になります。
文殊菩薩の利剣とは、空の教えであり、同時に、空・無想・無願の三解脱門の教え。
つまり、天台や三論のオシエということになりそうです。
であるとするならば、
日蓮の主張は、
法然は法華一乗である伝教大師の教えを念仏にすり替えた。だから、法然はけしからん、
となりそうです。

と同時に、御紹介をしていただいた文章は、
念仏や密教に染まっている天台宗への批判である、
ということにもなりそうです。

この文章は、天台宗の現状を憂え、天台宗は原点である法華一乗に戻れ、という意味なのでしょうか?

補足日時:2013/04/25 00:47
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。



☆☆☆☆☆☆
浅学非才のわたくしには、日蓮さんの原文は難しい
───というよりは、どこで文が切れているのか、分かりづらい───
ので、学会さんのサイト(?)から関係箇所を引用します。

─────────
そこで、あるいは浄土宗では
「弥陀の名号は煩悩を断ち切る利剣である」との文を、ただひとすじに信じて、
西方十万億土の教主である阿弥陀仏の名を称え、
あるいは天台宗では
「すべての病がことごとく治る」という薬師経の文を信じて、
東方浄瑠璃世界の教主である薬師如来の経を口ずさみ、
あるいは
「病がたちまちのうちに消滅して不老不死の境界をうる」という詞を信じて、
法華経の経文を尊び、
あるいは
「七難がたちまちのうちに滅して七福を生ずる」という仁王経の句を信じて、
百人の法師が百箇所において王経を講ずる百座百講の儀式ととのえ、
またあるいは真言宗では秘密真言の教えによって、
五つの瓶に水を入れて祈祷をおこない、
あるいは禅宗では坐禅を組み、禅定の形式をととのえて、
宇宙に存在する一切のものは全て空であると勧じ、
さらにある者は、
……。
─────────
http://www46.atwiki.jp/gendaigoyaku/pages/16.html

しかし、この現代語訳は、間違っているようです。
少なくとも、
「或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え有るは【秘密真言の教に因て】五瓶の水を灑ぎ有るは【坐禅入定の儀】を全して空観の月を澄し、若くは七鬼神の号を書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸に懸け」
までは、真言宗、もしくは密教の加持祈祷(法)についての記述のようです。
でなければ、「五大力の形を図して万戸に掛け」の意味がとれなくなってしまいます。
そもそも、日本語として、日蓮の原文をこのように訳すことはできないでしょう。
わたしは、はっきりいって、誤訳だと思います。
これは、「最勝仁王経」などにしるされた鎮護国家の修法、《仁王経法》についての記述だと思います。五大力とは、五大明王のことだと思います。

ということで、
『立正安国論』では、《禅宗》に対する批判は行われていない、ということになるのでしょうか。


☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
律宗(極楽寺良観)は禅宗の流れですが、流行の念仏を取り入れていたと思われます。
~~~~~~
日蓮系の宗派で極悪人とされている《良観忍性》は、真言宗のお坊さんですよ。
たとえば、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E6%80%A7



☆☆☆☆☆☆
わたし、「真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊」ということばの出典を『四箇格言』としましたけれど───ここでは「禅天魔 念仏無間 真言亡国 律国賊」の順───、
これは『諫暁八幡抄』にある言葉で、
 「大難の来たれるは、真言は国をほろぼす、念仏は無間地獄、禅は天魔の所為、律僧は国賊との給ふゆへなり」
と、そこで述べられているのだそうです。

それで、改めて質問しますが、
この順序の変更には、何か意味があるのでしょうか?

『四箇格言』では、悪さの点で第三位であった真言宗が、
『諫暁八幡抄』では、トップになったとか?

お礼日時:2013/04/24 20:38

 何も知らないようだと言っているたわけ(恐らくは日蓮教の信者でしょう)がいるようですので一言。


>■その他の補足

>板曼荼羅と称する紙片に神仏の名を合わせて書くなど「神と仏の区別すらつかない」ことから仏教徒としての資質すら疑われても仕方のないところであろう。

完全な馬鹿ですね。仏教というものを、全く理解していない。

そもそも、仏教上の神の位置づけですが、神という存在は正法を行じる者を守護する存在で、釈尊が法華経を立てた時にその誓いを行なっているのです。もともと、御本尊というものは、文永8年、『竜の口の法難』以降に書き現されたもので、主題として中央に成仏の種である『南無妙法蓮華経』があり、脇士として、釈尊、多宝仏が座し、地涌の菩薩が囲み、その誓願において、各々諸天の神々が善神となり法華経の行者を護るというものです。ここで、一般的な神道と違うのは、神が第一(本尊)ではなくて、あくまでも主題である法華経の題目『南無妙法蓮華経』が中心に座るということです。これこそが、法華経第一とするもので、法然が馬鹿だから見落として捨ててしまったものなのです。南無阿弥陀仏自体は、迹仏であり、本仏をないがしろにして成仏は有り得ないのです。

 歴史的に見ますと、こうした神仏習合に基づく信仰様式は日本でのみ見られる現象です。中国にはありません。仏教での最高位に位置するのは大日如来であり、空海が日本にもたらした理趣教およびそれに基づく不動明王も「大日如来」に至る過程にある修行者の姿とされています。
 唐から帰国した空海に嵯峨天皇が命じたのは、衆生の救済を求めるための祈りの「対象となる仏の姿」であり、空海はそれに基づきあの「不動明王」を仏師に命じて刻ませました。それ以前の日本仏教には不動はなかった。
 空海が他の宗教家と一線を画するのは、信仰を「他者との関係」において思索した点であり、それは他ならない密教の世界観に裏付けられているともいえます。
 日本で「神と仏」がほぼ同列に扱われ始めるのは奈良中期から末期つまり8世紀の話であり、正法などの末法思想が登場するのはその後の平安末期の話です。それも歴史学からすれば胡散臭い話です。天変地異や兵乱が続く世の中のどこに仏教それもごく一部の教典を狂信的に信仰する宗祖の言説が正当であるとの証拠があるのでしょう。こうした部分で日蓮教団の異常性も際立っています。
 鎌倉幕府が旧仏教から距離を置き、禅との関係を縮めたのも日宋および高麗との関係を念頭に置く必要もあります。また鎌倉幕府を支える財政基盤の一つである平氏没官領を含めた荘園公領にも目を向けねばなりません。
 日蓮教団がそこから排除された背景には「封建的主従関係」を否定しかねない側面があったからであり、法然や親鸞が馬鹿だったなどの姿勢は以前として唯我独尊的な自己陶酔もしくはマインドコントロール以外のなにものでもありません。自らの意見と対立する者を「仏教を知らないばか」と貶めるだけで、その人物のお里が知れるというものです。
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この回答へのお礼

神仏習合の考え方は、空海以前の奈良時代には、すでにその原型が出来上がっていたみたいですよ。

~~~~~~
鎌倉幕府が旧仏教から距離を置き、禅との関係を縮めたのも日宋および高麗との関係を念頭に置く必要もあります。
~~~~~~
日元両国の外交に、鎌倉五山の禅僧がタッチしていたそうですね。

回答、ありがとうございます。

お礼日時:2013/04/24 21:03

 追記。


>そもそも、仏教上の神の位置づけですが、神という存在は正法を行じる者を守護する存在で、釈尊が法華経を立てた時にその誓いを行なっているのです。もともと、御本尊というものは、文永8年、『竜の口の法難』以降に書き現されたもので、主題として中央に成仏の種である『南無妙法蓮華経』があり、脇士として、釈尊、多宝仏が座し、地涌の菩薩が囲み、その誓願において、各々諸天の神々が善神となり法華経の行者を護るというものです。ここで、一般的な神道と違うのは、神が第一(本尊)ではなくて、あくまでも主題である法華経の題目『南無妙法蓮華経』が中心に座るということです。これこそが、法華経第一とするもので、法然が馬鹿だから見落として捨ててしまったものなのです。南無阿弥陀仏自体は、迹仏であり、本仏をないがしろにして成仏は有り得ないのです。

 これもこの日蓮による規定であり、一般に使われる「神・仏」の概念とは隔たりがあります。我田引水的であるから、自身の考え方のみが正しいと勝手に思い込んでしまっている、またその様にさせられてしまっていることにすら気付かない。題目の文言と神仏が同列であることの証明はどこにもありません。
 少なくとも日蓮教の一部の方々は、社会科学の思索すら否定していることも事実です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

~~~~~~
一般的な神道と違うのは、神が第一(本尊)ではなくて、あくまでも主題である法華経の題目『南無妙法蓮華経』が中心に座るということです。これこそが、法華経第一とするもので、法然が馬鹿だから見落として捨ててしまったものなのです。
~~~~~~
これは、わたしの素朴な疑問なのですが、
「法華経第一主義」であるとすれば、
『南無妙法蓮華経』のお題目を中心にして、諸仏、諸善神がそのまわりを取り囲むのは、おかしいのではないでしょうか。
諸仏の本体は法華経であるはずなので、
『妙法蓮華経』とするべきなのではないでしょうか?

お礼日時:2013/04/24 21:17

 こんにちは。



 日蓮について何がしかの見方を投稿します。

 わたしはあんがい日蓮の文章を読んでいて 例の S 学会のことをもいくらかの体験とともに知っています。(ただし ほかの日蓮宗派の知識はとぼしいです)。

 ですが 《四箇格言》がどういう内容なのか これは すっぽり知識が抜けていました。
 他宗派の ののしりのような批判は 天に向けて唾をしていると見て 放っておいてありました。

 《日蓮論》としましては ちょうどここでの回答者のお一人と ねむりねこさんも参加されている別の質問にて いくらかやり取りをしました。今から一年弱前のようです。

 【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7526932.html

 その回答No.12 16 25 32 40 48 49 54 60 




 そのやり取りの中から この『四箇格言』についての回答としてはかなり不案内のものになりますが 次のわたしの反応をここにも寄せたいと思います。

 ☆☆(No.60お礼欄) ~~~~~
  なぜ けいえすさん(=この『四箇格言』のご質問の回答者No.1の方)は 悲観的になられるのですか?

   ■(けいえすさん)  ~~~~~~~
 論から言えば、いくら森羅万象に法が遍満しているからと言って、それを悟り、自らの仏性と境智冥合させる高徳の衆生は極稀であると言えるでしょう。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ だいじゅぶですよ。ときが満ちて そのときになれば 地涌の菩薩が躍り出て来ます。
 かれらが まだ迷いの中にある人びとに声をかけて 元気になるようはたらきかけます。

 それに ひとまづは 〔世の中の〕三分の一の人びとが 成道すればよいのではないですか? ほかに三分の一の法華誹謗の徒がいるのかも知れません。真ん中の三分の一の人びとは おおむね 初めの光の勢力としての人びとについて来ましょう。

 ということは もう今では上行菩薩も旧いのかも知れません。あらたな地涌の菩薩の時代です。特に指導者は要らないでしょう。
 境智冥合は 自由自在に出来るでしょう 初めの約三割の人びとにとっては。


 ところで なんで 南無妙法蓮華経と言って インド語と漢語とで称えるのですか?
 奇妙ですよね? 久遠仏であるのなら。

 
 おそらく 《われは ブッダなり》が 南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経などに取って代わりましょう。
 そのあとは いちいちこのような宣言は要らなくなりましょう。
 ~~~~~~~~~~~~~


 すなわち 日蓮論としましては極端に言えば

  ○ 『四箇格言』は要らない。意味がない。

 これでおしまいになると考えます。《われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか――堂々と宣言して行こう》の立ち場に立つのならば そうなると思います。

  ○ 日蓮よ こころ いやされたまえ。

 これで おしまい。あとは 水に流しましょうと。
 ただし 張本人のゴータマ・ブッダ閣下が インチキでペテンだとなると 話は違って来ます。それでも 仏仏一如が――ゴータマ理論を超えて――人びとにいだかれているなら やはり問題はないと考えます。




 いくらか――かなり――不案内な文章にてですが。

 

 * ここの質問への訪問者のみなさんにとって不案内のままにしておかないために 添えます。

 『四箇格言』をなぜ日蓮はとなえたか? その事情と経緯については 質問者の方はわたしの問いに答えてくれています。

  【Q:神について何故ひとは哲学しないのか?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8037616.html

 そのご回答No.40 41 42です。
 「真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊」のそれぞれのののしりが なぜそういう内容になるのかは さらに問い求めることになるか。または そこにはこれといった理由はないか。だと思われるようです。
    
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

内緒の楽屋話を漏らしちゃうんだから、困ったもんだ(わ・ら・い)。
ですが、わたしは、日蓮の著作をまったく読んだことがないので、本などで紹介されている説をいくつか紹介しただけです。
わたしが知っている知識が正しいのか、間違っているのか、そのことを確認したい。
日蓮さんの教えを詳しく知っている人から、おしえていただきたい、というのが、
この質問の意図です。
各宗派の教えの優劣、正邪はまったく問題にしていません。


☆☆☆☆☆☆
ところでところで、S学会さんの公式ホームページに
─────────
破折の主眼が「立正安国論」では念仏宗であり「守護国家論」が真言宗であるように、立宗者の当然の道理として、最高の宗教が出現した瞬間から、一切の宗教は邪教と化し、正法に反すればその反作用として不幸の原因に直結するとのご覚悟は宗教改革を根底とした民衆救済断行の決意のあらわれであり、ドグマや排斥主義から他宗を邪宗と見下すものではない。
─────────
http://sokagakkai.g.hatena.ne.jp/k-esu/20070325

最高の宗教───日蓮の教え───がでたから、他の一切の宗教は邪教と化した。。。
これが、創価学会さんの、現在における正式な見解というわけですよね~。


そして、
─────────
因に池田先生は1968年当時、今日における「大悪」とは、核兵器に他ならないと言われた。

改めて説明するまでもなく、現在の極邪宗は阿部日顕を領袖とする宗門一派であり、大悪である。
─────────
と結ばれています。
阿部日顕に創価学会が破門されたことを、いまだに、根をもっているのかな、創価学会さん。
骨肉の争い!!
超~弱小勢力だから、無視すればいいものを。。。。。。
大人げない。
法華経のもつ悪い面での一面、排他的精神のあ・ら・わ・れ。
それだけ、法華経への信仰が深いということで(わらい)。

この説にしたがえば、
立正安国論の書かれた時点では、念仏が一番悪かった。
しかし、
それから少し時代が降ると、真言が一番悪い仏法だということになるんでしょうか。

しかし、宗教は、国法や国家の指導原理になりうるのだろうか?


☆☆☆☆☆☆
このやりとりを通じて、
ご本尊さまに、なぜ、《妙法蓮華経》ではなく、《南無妙法蓮華経》と書かれているのか、
少し分かった気がします。
ここに書かれている《南無妙法蓮華経》とは、お題目を唱える人を表わしているんですね。
つまり、
(お題目を唱える)ヒトは、諸仏や仏法を守る護法の善神から守られている、
と表現しているんですね、きっと。

お礼日時:2013/04/25 16:37

真言(宗)と律(宗)のどちらが、国やその国民にとって有害だ、


といっているのでしょう。

○真言・亡国ですから、真言の方が悪いと言ってるんですね。国を失えば国民も宗教もありませんね。
「禅天魔 念仏無間 律国賊」は亡国に比べれば大した悪さじゃないですね。
時の鎌倉幕府の知恵袋は禅宗の僧侶ですが、元の侵略には断固戦えと教えてますね。一方、天皇家はどうかということですね。天皇家の知恵袋は真言の僧侶ですから、例えれば、現在の創価学会や左翼のように中国に甘い考えだったのでしょうね。日蓮は侵略による国難を訴えた僧侶ですから、有害の第一に真言をあげたのは当時としては正解ですね。日蓮は鎌倉幕府に弾圧されてますから、2番目に禅宗をおいたのでしょうね。
同じ天台宗の人気のあった念仏を、嫉妬をこめて3番目におき、奈良仏教を最後においたのでしょうね。
日蓮の心は単純でわかりやすいですね。でも日本人としての気概はかんじられますね。
日蓮が現代にいれば、中国の侵略に対して、「創価亡国、真言無間、禅天魔」といったかもしれませんね。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。


~~~~~~
天皇家の知恵袋は真言の僧侶ですから、……
~~~~~~
「天皇家の知恵袋は真言の僧侶」というのは、はじめて聞きました。
この主張に根拠がありましたならば、お教えください。
なお、当時の朝廷の最高権力者・後嵯峨天皇は、出家して、大覚寺(真言宗)に移っています。


~~~~~~
時の鎌倉幕府の知恵袋は禅宗の僧侶ですが、元の侵略には断固戦えと教えてますね。
~~~~~~
元寇のことの発端は、南宋を倒して、中国統一を目指すクビライが、日本政府である鎌倉幕府に南宋との断交、そして、通商を求めたことです。
鎌倉幕府は、その要請を拒否します。
これがことの発端。

諸説ありますが、クビライが北条時宗にあてた書簡は、驚くほど丁重ですよ。
───「だれが武力を使うことを望むでしょうか」と恫喝めいた言葉がありますが───

当時、建長寺には、難を逃れて南宋から日本に逃れてきた多くの禅僧がいました。
元朝憎しの、彼らの思いが、戦争を引き起こしたとも言えますよ。
そもそも、この時代、世俗の権力としては、天皇家は無力に等しかったから、日蓮は鎌倉に出向いたわけでしょう。



☆☆☆☆☆☆
No5の回答のお礼の欄の末尾に書いたのですけれども、
『四箇格言』では、禅天魔 念仏無間 真言亡国 律国賊
『諫暁八幡抄』では、 真言亡国 念仏無間 禅天魔 律国賊
と順番が入れ替わっています。

『四箇格言』の時点では、国家・天下にとって、禅宗が一番有害であったけれども、
のちに書かれた『諫暁八幡抄』では、真言が一番有害になったというわけでしょうか。

あるいはそうではなく、
この順序は昇順───後ろにゆくほど有害の程度が大きい───であって、
 1律(国賊) 2真言(亡国) 3念仏(無間) 4禅(天魔)
だったものが、
 1律(国賊) 2禅(天魔) 3念仏(無間) 4真言(亡国)
と順序がかわったということでしょうか。

この列挙されている、順番は、何らかの意味を有していると思うのですが。。。
《天魔》が強大な力を為政者に入り込むと、恐ろしいですよ~。
国は、間違いなく、破滅しますよ~。

お礼日時:2013/04/25 16:05

 ♯3・6・7です。

7の追記に寄せられた「お礼」ですが、質問者様に誤解があるようですので、再回答します。
>~~~~~~
一般的な神道と違うのは、神が第一(本尊)ではなくて、あくまでも主題である法華経の題目『南無妙法蓮華経』が中心に座るということです。これこそが、法華経第一とするもので、法然が馬鹿だから見落として捨ててしまったものなのです。
~~~~~~
これは、わたしの素朴な疑問なのですが、
「法華経第一主義」であるとすれば、『南無妙法蓮華経』のお題目を中心にして、諸仏、諸善神がそのまわりを取り囲むのは、おかしいのではないでしょうか。
諸仏の本体は法華経であるはずなので、『妙法蓮華経』とするべきなのではないでしょうか?

 この「~~~~~~」で囲まれた部分は件の回答者の回答を引用した部分であり、私の発言ではございません。件の回答者の回答にある「本尊=題目」が中心にありそれを神仏が囲む、との形はオカシイとして、矛盾点を指摘させていただいてるだけの話です。
 板曼荼羅の中心にある題目の意味が「経文を唱えること」であるなら、「それによって何がもたらされるのか」が示されていなければ意味をなさないはずです。
 空海が創造した「曼荼羅」は「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」では運動のベクトルが逆になります。前者では中心に大日如来が坐してその周囲を様々な仏が囲む形で、大日如来から全ての者に対し慈悲が及ぶとの放射線的な動きであり、後者は9分割されたブロックそれぞれに中心がある形で、周辺から中心に向かう形をとっています。そして両者の関係ですが、そこに記されている仏の姿や顔の表情をつぶさに見てみますと、そこには様々な違いがあることもわかります。首を傾けて「何悩んでいるの?よければ聞かせて?」と悩み相談室のカウンセラーにも似た表情もあれば、「そんな悩みなんてつまんないから、くよくよしないで今を精一杯生きましょうよ」と元気印の天女もいます。つまり「見る者の視線の移動」と同時に「見ることによる意識の変化」や「どう生きるかを問うことの意味」を表しているともいえます。
 さて鎌倉幕府と仏教の関係ですが、東大寺の再建との事象をどの様に考えるでしょう。この事業に携わったことで知られる俊乗房重源がいますが、彼は元々醍醐寺に入山し真言の僧として出家しています。その後法然と出会い浄土宗の教義にも接します。その人物がなぜ「東大寺の再興」に寄与することとなったのでしょうか。日蓮の主張だけを聞くならばこの問題に答えることができないはずです。
 東大寺の性格を端的に示す言葉に「八宗兼学」があります。元々国立戒壇院として「僧の養成」を目的とする施設でしたから、教典研究の場でもあり南都六宗に天台・真言を加え「鎮護国家を目的とする考究所」でもあったことは確かで、もし日蓮が「国家存亡の危機」を訴えるなら、東大寺再興にも寄与したはずです。にも関わらずそうした行為を一切しなかったことは、似非愛国者と同じでしょう。
 他宗を排撃することの意味など彼は考えもしなかった、それだけ浅薄な人物ともいえます。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

ご指摘のとおり、わたしの勘違いです。お礼の送信後、すぐに過ちに気がつきました。

ところで、真言の金・胎両部の曼荼羅の説明があります。四種曼荼羅の一つ、大曼荼羅ですね。
しかし、真言宗には、より本質的な《法曼荼羅》というものがあります。これは、種字という仏や菩薩などをあらわすサンスクリット文字の一文字で仏・菩薩を表現し、それで曼荼羅が構成されています。
この種字は、ほとんど無意味です。シンボル・象徴なのですから、当然のことです。(とってつけたような説明がなされている場合もありますが……)。
であるとするならば、板曼荼羅は、この《法曼荼羅》の一種と考えることもできるのではないでしょうか。
と、すこし思ったりもしています。

お礼日時:2013/04/25 22:42

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