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 キリスト教等の一部の宗教では、神は完全なる存在と見做されている場合があるようですが、果たして神は完全な存在と言えるのでしょうか?

 もしも、完全な存在というものが存在するとしますと、それはその存在のみで自己完結した存在でなければならないと思います。
 己のために、何か己以外のものを必要とする様な存在は、完全な存在とは言えないと思います。
 ですから、完全な存在は、己以外のものを必要とする事は無い筈です。
 又、完全な存在である以上、他の存在に影響されるなどという事も無い筈です。
 又、完全な存在が自己完結している以上、己以外の存在に対して敢えて働きかけたり、逆に己以外の存在から何らかの影響を敢えて受けたりする必要はない筈です。
 又、必要性の無い事をする存在は、完全な存在とは言えないと思います。
 ですから、完全な存在は、己以外の存在に対して何かを働きかける事は無いと思います。
 つまり、完全な存在というものが存在したとしますと、それは人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になると思います。

 しかし、キリスト教を始め、多くの宗教においては、神は世界を創造し、人間を始めとする全ての生き物を作り出し、人間を導く存在だとされています。
 又、上記のものとは異なる性格を持つ神を信仰している宗教においても、神は人間との間に、何らかの関わりを持っている場合が殆どです。
 もし神が完全な存在であるとしますと、神にとって、その様な行為は全く行う必要のない事の筈ですから、不要な事を行っている神は不完全な存在だという事になるのではないかと思います。

 この「神は不完全ではないのか?」という命題に、「キリスト教等の『神は完全なる存在』としている宗教」や「その様な宗教から1歩離れた視点から考察している哲学者」は、それぞれ、どの様な考えから、どの様な結論を得ているのでしょうか?

 もし、御分かりになるのでしたら、その考えと結論は、どういった立場の何という人物の考えなのかという事も、併せて御教え頂けたら幸いです。

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A 回答 (35件中21~30件)

あー、これはスピノザの神ぽいやつですね。


神は完全なので自足している。神は世界に満ち足りている→汎神論へ。
スピノザの本を読んでみてはいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

 御回答頂き有難う御座います。

 スピノザという方の著作に、神は完全なのか否かに関する論の1つが書かれているのですね。
 御教え頂き感謝致します。

お礼日時:2013/05/02 10:35

こんばんは。


若い頃、キリスト教会に通っていた時期があります。
いくつか疑問や懐疑を抱えながらでした。

キリスト教の「神」は天地創造主ですね。
「創世記」の記述では、神は天地創造し、神のかたちに似た人間を造り、人間に地を支配させようとした。「善悪の木の実」を食べないように、神は人間に告げた。しかし、蛇に唆され破ってしまい、永遠の生はなくなり、原罪を背負うようになったと。

疑問「何故、人間は木の実を食べたのですか?神が創造したのに・・」

姉妹(クリスチャン)が言われたのは、
「神は人間に、『自由意思』を与えられたからです」

「自由意思」がなければ、神を裏切ることもなく、死もなく、罪を背負うこともなかった。何故、神は、それでも人間に「自由意思」を与えたのか。わからないままです。
懐疑は、信仰によって乗り越えるものですね。懐疑を乗り越える答えがみつからなかった、または、託して、神にゆだねることができませんでした。
もっと深いところに、懐疑の答えがあったのではないかという気もします。

キリスト教に何を求めるかですが、救いや癒しを求める人もいるでしょうし、狭き門を入ろうとするものは、茨の道を歩むことになると思います。
長崎の「二十六聖人殉教」にみられるように、神を冒涜する生き方よりは、死を選ぶ(殉死)という。信仰が死を乗り越えているといえるでしょう。キリスト教は、「信仰」の宗教だと思います。

神が存在するとすれば、神が掟で、人間のご都合どおり(人間的「完全」なるものを求める)にはいかないでしょうね。
No7さんの書かれている法則があるとしたら、法則のなかの砂粒のひとつとして、あらゆるものは在るのではないかと思います。法則は、砂粒の求めるものとして在るのではなく、法則のなかに砂粒があるようなものかと思います。

私的には、リルケの詩「秋」のような「落下を限りなくやさしく 両手に受けとめてくれる者」=神が、存在すればとの願いはあります(←人間的願望です。人間の願望が宗教化(神化)したものはあるかもしれません)・・が、人知に及ぶところを越えていますね。
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この回答へのお礼

 御回答頂き有難う御座います。

 折角御回答頂いた処、申し訳御座いませんが、frwicat様は何か勘違いをされておられる様な気が致します。
 私は信仰的な迷いを抱えていないという訳では御座いませんが、本質問において御教え頂きたかった事は、迷いを解消するための方法や考え方ではなく、「神は不完全な存在である」という立場に立った哲学者の主張や、「『神は完全なる存在である』としている宗教」側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事なのです。

お礼日時:2013/05/02 10:29

 自分は神を信じておりません。

しかし。

>又、必要性の無い事をする存在は、完全な存在とは言えないと思います。

 これは何故ですか?。何か揚げ足取りのようですが、完全な存在だって、自身にとって不必要な事をしても良いのでは?、と思ってしまうからです。もちろんその動機なんかわかりませんが・・・(^^;)。
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この回答へのお礼

 御回答頂き有難う御座います。

 自身にとって不必要な事、即ち、無駄な事や無意味な事を行う様な存在が、「完全なる存在」であるとは思えない、と考えた次第です。

お礼日時:2013/05/02 10:07

こんばんはです。




「神は完全な存在と見做されている」のではなく、
「神は完全(な存在で)ある」は、神の数ある定義の一つです。
完全と自己完結とは同義なのだろうか?
まぁ、いいや、このことは。
自己完結の定義がないけれど、
「何か己れ以外のものを必要としない」ことを自己完結の定義としているようなので、
では。。。


○又、完全な存在が自己完結している以上、己以外の存在に対して敢えて働きかけたり、逆に己以外の存在から何らかの影響を敢えて受けたりする必要はない筈です。
◇「己以外の存在に対して敢えて働きかけたり」しない、というのは、質問者の自己完結の定義に抵触しないはず。
《自分の原理原則にのみしたがい、一方的に、己れ以外の存在に働きかければいい》のですから。《相互(可影響)的、インタラクティブの関係でなければ、矛盾は生じない》と思います。完全な存在に、不完全な存在が呼びかけても、まったく答えてくれないかもしれません。ただ、完全な存在の恣意に、不完全な存在が振り回されているだけかもしれません。


○又、必要性の無い事をする存在は、完全な存在とは言えないと思います。
◇これは、質問者の完全、自己完結の定義を明らかに逸脱しています。


○ですから、完全な存在は、己以外の存在に対して何かを働きかける事は無いと思います。
◇一方的な関係ならば矛盾しない、と考えます。また、関係性があるかどうか、このことも不明です。少なくとも質問者はこのことを明らかにしていない、と思いますが。。。
一方的な関係の例としては、
プラトンの《イデア》のような存在です。
あるいは、太陽と地球上の生き物のような関係です。
ただ、ヒカリを不完全な存在に一方的に送っているだけかもしれません。


○つまり、完全な存在というものが存在したとしますと、それは人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になると思います。
◇太陽のヒカリは役に立ちませんか?
これはあくまで比喩ですけれども。


○ しかし、キリスト教を始め、多くの宗教においては、神は世界を創造し、人間を始めとする全ての生き物を作り出し、人間を導く存在だとされています。
 又、上記のものとは異なる性格を持つ神を信仰している宗教においても、神は人間との間に、何らかの関わりを持っている場合が殆どです。
 もし神が完全な存在であるとしますと、神にとって、その様な行為は全く行う必要のない事の筈ですから、不要な事を行っている神は不完全な存在だという事になるのではないかと思います。
◇不完全な存在の有無に関わらず、完全な存在が、みずからの原理原則にしたがった結果として、一方的に不完全な存在に与えるようにみえるのであれば、問題はないはずです。
それを、キリスト教では、神の愛というのではないでしょうか。
わたしが考えるに、キリスト教の神様は、人間に見返りなどはまったく求めていないと思いますよ。ただ、一方的に与えるだけの存在。


○この「神は不完全ではないのか?」という命題に、「キリスト教等の『神は完全なる存在』としている宗教」や「その様な宗教から1歩離れた視点から考察している哲学者」は、それぞれ、どの様な考えから、どの様な結論を得ているのでしょうか?
◇たとえば、カント。

な~んて、どうでしょう。
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この回答へのお礼

 御回答頂き有難う御座います。

>◇「己以外の存在に対して敢えて働きかけたり」しない、というのは、質問者の自己完結の定義に抵触しないはず。

>◇これは、質問者の完全、自己完結の定義を明らかに逸脱しています。

 「自己完結さえしていれば完全」と言えるのでしたらその様に考える事も出来るのかも知れませんが、別に私は「自己完結している事が完全な存在である事の十分条件」であると主張してはおりません。
 私には、無駄な事や無意味な事を行う様な存在が、「完全なる存在」であるとは思えません。

>◇たとえば、カント。

 出来ますれば、その類の話こそ、もっと詳しく御教え頂きたかったのですが・・・

お礼日時:2013/05/02 10:04

不完全な者が完全な物をみても完全に見ることは出来ません。


私達は不完全だから、完全な神の姿を見てもその一部しか見えないのです。
ある者は完全を柱の様だといい、ある者は壁のようだといい、ある者は長い棒だといいます。
宗教の教理と言うものも所詮は不完全な情報でしかありません。

仏教は創成期においてはお互いに勉学の場でした。釈迦だって涅槃に入る瞬間にほぼ完全になったに過ぎないのです。それが今では経験になり、ある程度道理として語られていますけど、まだまだ迷いの中にあり修行している状況です。
神道では教義もなく、自然を受け入れるところから入ります。神道の基本は「お陰様」ですから。
つまり両者ともに人間自身の不完全を認識し、一方はそれでも完全を追い求め、一方は完全から発生する現象を受け入れるという立場に立っているのです。

コレに対し、キリスト教を初めとする宗教は完全なものを不完全な者が解き明かしたかのように振舞っているに過ぎませんし、新興の宗教ではあたかも自らが完全を理解したかのように振舞っているということです。

まずは自分が不完全であるというところから出発しなければなりません。
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この回答へのお礼

 御回答頂き有難う御座います。

>コレに対し、キリスト教を初めとする宗教は完全なものを不完全な者が解き明かしたかのように振舞っているに過ぎませんし、新興の宗教ではあたかも自らが完全を理解したかのように振舞っているということです。

 つまりmichael-m様は、人間が解き明かしているのか否かには関わらず、キリスト教を始めとする「神は完全なる存在である」としている幾つかの宗教における神は、実際に完全である、という立場で御回答されておられると考えれば宜しいのでしょうか?
 そして、一見すると神が不完全な様に思える事があるとすれば、それは、神御自身が不完全なのではなく、私達が不完全である事に原因があるのだ、という趣旨の事を述べておられるのでしょうか?

お礼日時:2013/05/02 04:12

どの宗教でも、神は人間の心の要請に基づいてつくられるものです。

ですから、人間は「神の似姿」と言うけど、本当はその反対なんですね。神が「人間の似姿」をしているわけです。(それで、時々白ヒゲをたくわえた顔で雲の上などに描かれたりします。) 「もし馬が神をつくったら、馬に似せた顔の神をつくっただろう」と言った人もいますよ。

ですから、人ごとに違う神のイメージがあって当然で、その意味では、kagakusuki 様の言う「不完全な存在」としての神もあるとは言えるでしょうね。

かつてデカルトは、「本体論的方法」(=それより完全なものが決して考えられないものは単に我々の知性にうちに存するのみならず、実在的にも存しなければならない)でもって神の存在を「証明」しましたが、後にカントによってこっぴどく論破されました。人間のつくり出したものの実在を証明するなど、どだいむりな話ですよね。順序が逆なんですから。

それでも、「人間の智恵では捉えきれないもの、人智を越えるもの」ってありますね。例えば、「万物の起源」など。そこで、哲学者たちの中には、この「人智で捕らえ切れないもの」を称して神と呼ぶ者がいます。あるいは、これを「絶対者」と称することもあります。

ドストエフスキーは、「神がなくなれば、何でも許される」(『カラマーゾフの兄弟』)と言っています。つまり、人間は、「すべてを超越し、統括する絶対者を想定しないと、自分自身を神にしてしまう」(=自己神格化)ということを言っているのだと思います。

神を想定することは、より上位の審理を求めようとする心情を抱かせたり、自己の尊大ぶりを内省させたり、人間の思い上がりを抑止したり、「人間帝国」の出現に待ったをかけたり…と、もろもろの「副収入」がある、と言えるかも知れません。

我々は、「人智を越えるもの」を、暫定的に神に仮託するわけです。
そして、人間は弱いです。人間は脆いです。人間は愚かです。

そして、人間はいつも争いをします。
「絶対者がいて初めて、人間世界は秩序を保てる」もののようです。
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この回答へのお礼

 御回答頂き有難う御座います。

 折角御回答頂いた処、申し訳御座いませんが、回答No.3に対するお礼文にて既に述べました様に、本質問で尋ねているのは「神は実在するか否か」ではなく、「神は不完全な存在である」という立場に立った哲学者の主張や、「『神は完全なる存在である』としている宗教」側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事です。

お礼日時:2013/05/02 03:54

たまにではありますが、機関へ行くとき神を見かけます。



話しかけたこともありますが、神としては完璧ですね。
絶対とか完全であるとは限りませんが・・・

憂鬱になったり消失したりします。
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この回答へのお礼

 御回答頂き有難う御座います。

 折角御回答頂いた処、申し訳御座いませんが、何を仰りたいのか良く解りません。
 

お礼日時:2013/05/02 03:31

 こんにちは。



 少し観点がちがう内容の回答になりますが。


  ○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

 これが  そのように想定するというかたちにおける神の定義です。

 いわばこの定義が クリスマスツリーの本体です。樅ノ木です。


 そこから そういう存在なる神は

  ・完全
  ・絶対
  ・全知全能
  ・絶対者
  ・創造主
  ・愛
  ・慈悲
  ・真理
  ・無限
  ・永遠
  ・不可変性
  ・無謬性
  ・・・・

 であるといった飾りが――人間の考えるところとして――つけられて来ます。

 それだけのことです。

 ★ 神は完全ではありえないのでは?
 ☆ もし神の存在を想定するなら 人間の経験合理性にもとづき考えるかぎりでは 神は《完全である》と捉えられます。

 それがただしいかどうかの問題ではなく そのように想定しているという意味です。

 なぜ想定するのか?

 どの言語でも じんるいとしては 《かみ》あるいは《しんじる》という語を持っているからです。

 この語がまだ死語ではないとすれば 神とは何かを哲学として考えておくことになります。




 あるいはまた 神は完全であると言うが 世界はそのように成っていないではないか? と問うことは 別の話です。

 そう考えるひとは では神とは何かを 自分で定義して 人びとに納得の行くように説明すればよいだけです。



 最初の定義による神の場合には 人間が 神よ おまえは存在していないではないか? とか おまえの造った世界は めちゃくちゃぢゃないか? とか文句を言っても 神は痛くも痒くもないということになります。そういう相体性の世界を なにしろ超えている存在なのですから。

 風は気ままに吹く と言われています。
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この回答へのお礼

 御回答頂き有難う御座います。

 頂いた御回答内容に関して、複数の異なる解釈が成り立つ箇所や、不明な点が幾つかありますので、御補足頂けたら幸いに思います。

>○ 神とは ひとり満ち足りている存在である。

とは、「全ての存在の中で、欠けている所が全くない存在は、唯一、神だけである」という意味で、上記の定義を述べられたのでしょうか?
 もし、そうだとしますと、「唯一、神のみが完全な存在である」と言っているのと何ら変わりがない様に思えます。
 又、「唯一の完全なる存在」というのが神の定義そのものであるのにも関わらず、飾りの中に「完全」が含まれているのは何故なのでしょうか?

>それがただしいかどうかの問題ではなく そのように想定しているという意味です。

 この部分は、「『神は完全なのか、それとも不完全なのか?』という事を一切検討する事なしに、『神は完全である』と主張している」という意味なのでしょうか?

>どの言語でも じんるいとしては 《かみ》あるいは《しんじる》という語を持っているからです。

 ここで述べられている《しんじる》とは、どの様な意味での「信じる」の事を仰っておられるのでしょうか?
 「神が実在している事を信じる」、「神が我々人類を愛して下さっている事を信じる」、「神が完全なる存在である事を信じる」、「神は不完全な存在ではあるものの、信頼するに足る存在である事を信じる」、等々、様々な信じ方が考えられると思いますが、どの様な意味での「信じる」なのでしょうか?

お礼日時:2013/05/02 03:28

実力として・・・の部分は私も自分で書いていながら、このニュアンスをどう説明したら良いものかと思いながら書いた箇所です。

わかりにくいですよね。
実力というのは、実際に及ぼす影響力のようなものと言いますか(絶対性と言いますか)、法則であるならそれからは逃れることができないわけで、そういった意味での実力、と捉えてください。作用する、と言った意味に近いでしょうか。完全に作用するということです。
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この回答へのお礼

 御回答頂き有難う御座います。

 「実力として」という箇所を「確実に機能するという点において」に読み替えて考えれば宜しいという事なのでしょうか?

お礼日時:2013/05/02 01:47

アプラハムの神は完全では無いですね。


なぜなら、キリスト教とユダヤ教とイスラム教に分かれてそれぞれが勝手に神を定義しなくちゃならない程に不完全だったからです。

ところが、大和の国の八百万の神々はひょっとしたら完全かもしれません。

八百万の神々は人間の為に世界を創ったりせず、丁度、街の野良猫達が其処此処に居るように、ただ居る。

広島や長崎の子供や老人の上に原子爆弾を落として、それが平気な人達の宗教ですから、彼らの信じるモノ、主張する事ってのは相当なまがい物だと思いますけど。
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この回答へのお礼

 御回答頂き有難う御座います。
 又、私の書き方が悪く、回答者様の誤解を招いてしまい申し訳御座いません。
 私が知りたかったのは、実際に神が完全なのか否かという事ではなく、「神は不完全な存在」とする立場の哲学者の主張や、「神は完全な存在」とする立場の哲学者や宗教側の主張には、それぞれどの様なものがあるのかという事なのです。

お礼日時:2013/05/01 01:49

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