国語の問題になるくらいだから文学に詳しい方々なら思い当たるかと思いお聞きします。私が中学生くらいの頃(軽く20年前)に読んで今も忘れられないこのお話の出典を知りたいです。

お話の内容:(うろおぼえですがポイントは合ってると思います)

あるところに病身の父を持つ「私」がいた。
「私」の家では大晦日に鴨のすきやきをする習慣があった。
だから大晦日にはいつものお店にいつものように鴨を受け取りに行くのが当然である。

しかし「私」は夢を見た。仙人が大きな木の前に立っている。
木には、たくさんの鴨がとまっている。
(鴨が木にとまるというのは変ですね。ここらへんが私の記憶力の限界か)

「これはお前が今後の一生のうちに食べる鴨だ。」と仙人は言います。
夢から目覚めた「私」は、考え込みます。
お父さんは鴨を食べるのを楽しみにしているし、毎年のお楽しみなのに今年だけしない、なんて言いだすも変だ。でも、このまま鴨のすきやきをしてしまうと、残り少ないと思われるお父さんの木の鴨を減らしてしまう、ひいては寿命を減らしてしまうことにならないか・・・。

いやだなあ、でもしかたがないなあ、と思いつつ、いつものお店に鴨を取りに行く「私」。すると、お店のご主人がすまなそうに、鴨が仕入れられなかった、こんなことはめったにないのに大変申し訳ない、と詫びます。

「私」は肩の荷がおりたような気がして、「よかった、これでお父さんの鴨を減らさないですむ」と喜んで帰宅します。ところが、お父さんの容態が急変して、結局還らぬ人に・・・。
そこで「私」は悟ります。鴨が手に入らなかったのは、お父さんの木の鴨がもういなくなっていたからだと。

・・・こうして書いていても悲しくなってくる、忘れられないお話です。
けっこう私の知らないところで有名な話だったりします?

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A 回答 (1件)

お探しの話は、幸田文の「鴨」という随筆です。


覚えていらっしゃる内容は大筋としては合っています。

>あるところに病身の父を持つ「私」がいた。

「私」は幸田文、「父」はもちろん幸田露伴です。

>「私」の家では大晦日に鴨のすきやきをする習慣があった。

本文では「お正月の鴨雑煮」のために鴨を探します。

>しかし「私」は夢を見た。仙人が大きな木の前に立っている。

「私」が夢を見たのではなく、かつて「私」が聞いた朱竹だ(土へんに「蛇」のつくりをあわせた字)という人の鴨の話がエピソードとして引用されています。

あとは大体ご記憶のとおりのストーリーです。

>・・・こうして書いていても悲しくなってくる、忘れられないお話です。

おっしゃるとおり、人生の「あわれ」を感じさせて、心に残る随筆です。

なおこの作品は幸田文「ちぎれ雲」(講談社文芸文庫、1993年)に収録されています。
岩波書店版「幸田文全集」にも収録されていると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!もう誰も知らないのかと諦めかけていました。詳しい情報でとても助かりました。

お礼日時:2001/06/14 05:59

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Q神や仏、仙人は死んだ人??

みなさんは死人の世界とはどういうイメージをお持ちですか?
神様や仏様っていわば死んだ人のことですよね・・・?
それでは仙人も死んだ人なんでしょうか・・・?

Aベストアンサー

>神様や仏様っていわば死んだ人のこと

質問者氏の以前の質問も民俗学マターのものがありましたので、推測ですがこの質問もその分野の視点に立ったうえのものではないかと思えます。そうだとすれば、この見方はあながち間違いではありません。

混乱しがちですので簡単に整理します。
柳田國男が『先祖の話』の中で多方面から分析していることですが、古来日本人は死人を「ホトケ」と称して供養を行ってきました。この「ホトケ」はもちろん仏教の「仏」と同じものではありません。
仏教でいう本来の「仏」は、欲望をコントロールする聖人であり人間の到達し得る理想であったのは事実ですが、大乗仏教以降、法身仏などが生み出されたことで「仏」は残念ながら人間の手の届かない存在になってしまいました。

日本人が「ホトケ」と呼ぶものはこの「仏」のどちらの意味にもあてはまらない存在です。敢えて言えば「供養を必要とする存在一般」の総称であると言えるでしょう。
(宗教学や民俗学ではこのような混乱を避けるため、死者たる「ホトケ」と仏教の教学上の「仏」をそれぞれ区別して記載するのが普通です)

「ホトケ」を供養する必要があるのは、罪穢にまみれた存在であると受けとめられたからです。もろもろの罪汚れのために「ホトケ」は荒れすさび、社会に不幸や災厄をもたらすと考えられたため、それを供養によって浄化することは現実的に重要な課題だったのです。

古来の日本人の信仰では、供養による「ホトケ」の浄化は年月を必要とすることでした。柳田國男は三十三年間ないし五十年間の供養を行って初めて「問い切り(弔い切り)」などと呼ばれる供養の終了を迎えられることを指摘しています。またこの問い切り以降、死者が祖霊や氏神として祭られるようになることも柳田の指摘するところです。

つまり、供養の続いている間は死者は「ホトケ」として認識されますが、一定の期間の供養の満了をもって「ホトケ」は「カミ」として扱われる、というのが柳田の分析でした。死霊は浄化によって神霊化し得る、というわけです。

そもそも、霊魂の根本にある本性は穏やかで自然の運行に合致したものであって、それは「ホトケ」も「カミ」も共通しているはずだと考えられたのです。ただ、違いは「カミ」は完全に浄化され罪穢を離れているためにその本性を十分にあらわすことができる、ということにあるのです。

もちろん、ここでいう「カミ」も「神」とは少し違います。「カミ」は創造主でもなければ記紀神話に出てくるような人格神でもありません。人間社会に穏やかな恩寵をもたらす存在とでもいうべき茫洋とした括りで認識されていたのが「カミ」なのであって、むしろ生々しい個性が時間をかけて剥落することによって「ホトケ」は「カミ」たる資格を得たのです。

従って民俗学的に見れば「カミ」も「ホトケ」も同じ地平のうえの存在であるわけで、両者とも死んだ人、という見方は限定的にではありますが、間違っているわけではありません。こういう古来の民間信仰の下地があればこそ、神仏混交が民衆レベルで進行し得たのです。
繰り返しますが、あくまで「神」や「仏」と混濁させないことが重要です。

さて仙人ですが、正確には多少イメージの変遷を経ています。後漢のころまでは「僊人」と表記されており、これは文字通り「僊」つまり(魂が)抜け出た存在ということで、人間とは隔絶した存在でした。むしろ死んだ人に近いニュアンスだったでしょう。
しかし徐々に神仙思想が固まるなかで、不老不死を獲得した超越的な人間という位置付けに固まってきたのです。現在を問題にするのなら、仙人は人間でしょう。

※回答者には質問者のレベル(失礼)を知る術が限られています。より意味のある回答をするために、不明な点があれば補足でより具体的にポイントを絞った質問をするか、さもなければ質問を一旦締め切ったうえで新たな質問を立てて頂くことを希望します。以前回答した質問についても同様です。

>神様や仏様っていわば死んだ人のこと

質問者氏の以前の質問も民俗学マターのものがありましたので、推測ですがこの質問もその分野の視点に立ったうえのものではないかと思えます。そうだとすれば、この見方はあながち間違いではありません。

混乱しがちですので簡単に整理します。
柳田國男が『先祖の話』の中で多方面から分析していることですが、古来日本人は死人を「ホトケ」と称して供養を行ってきました。この「ホトケ」はもちろん仏教の「仏」と同じものではありません。
仏教でいう本来の「仏」...続きを読む

Q「すごいたまだなあ~!」の”たま”とは?

「すごいたまだなあ~!」(いい表現ではないですが)という表現のこの”たま”とはどういう意味でしょうか?女性をさすのでしょうか?男性をさすのでしょうか?ふと気になりましたので教えてください!!

Aベストアンサー

状況や話題によって異なります。

(1)女性(いいに付け悪いに付けその両極端に位置する)を指す場合もありますし、男(同)を指す場合もあります。

吉原などの楼閣で・・「旦那!旦那、いいタマが入りましたから
お座敷に呼んでやってくだせぇ」
「上玉」とも言います。
キャバクラなどで黒服がお客さんに・・・「あの子新人なんですがね、
どうです?上玉でしょう?」

(2)品物(商品)を指す場合もあります。
カメラ中古店などで、店長と販売員が・・「あれはいいタマだから安く売るんじゃないぞ」
買い取りなら内心で・・「お! こりゃすごいタマだなぁ、これを安く手に入れれば儲かるぞ」
などと使います。


つまり、売り物や手に入れる時に高価な(貴重な)モノや人の場合に使います。
モノの場合は単に売り物という事もあります。
リサイクルショップなどで品物が集まらない時に
「タマがねーんだよな、これじゃ商売にならねーよ」

また、ちょっと使いかたが違いますが
いいかげんなヤツ、恥知らずと言う意味で使う場合もあります。
「あんにゃろ、店のカネ持ち逃げしやがって、いいタマだよな~」

さらにそれに加えて「ざまーみろ!」という意味を込める場合もあり
日頃いいかげんなヤツがドジ踏んだ時に・・・
「あいつ、人から金借りて競馬やって大負けして、いまホームレスだってよ、いいタマだ!」
なんていう使い方もします。

状況や話題によって異なります。

(1)女性(いいに付け悪いに付けその両極端に位置する)を指す場合もありますし、男(同)を指す場合もあります。

吉原などの楼閣で・・「旦那!旦那、いいタマが入りましたから
お座敷に呼んでやってくだせぇ」
「上玉」とも言います。
キャバクラなどで黒服がお客さんに・・・「あの子新人なんですがね、
どうです?上玉でしょう?」

(2)品物(商品)を指す場合もあります。
カメラ中古店などで、店長と販売員が・・「あれはいいタマだから安く売るんじゃないぞ」
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Q鴨長明?

「自分は肉を平気で食べていながら、動物を殺し肉に加工する人たちを蔑むのはおかしい」といった内容の文章を、鴨長明が書いていたように思うのですが、なんという書物の一節であったか、どうしても思い出せません。ちなみに、「方丈記」を確認してみましたが、該当箇所はありませんでした。
もしかしたら筆者は鴨長明ではないのかもしれません。しかし少なくとも同じくらい有名な人物であったと思います。高校古文教科書に載っているレベルだと思います。近現代(明治以降)のものではありません。
高校の時受けた古文のテストで使われていて、印象に残っているのです。ぜひあらためて読み返したいと思っています。
心あたりのある方、御教示ください。

Aベストアンサー

おはようございます。

確信はないのですが、鴨長明ならば「発心集」ではないかと思います。著者が違うとすればNO1の方がおっしゃっているように「歎異抄」ではないかと思います。

あまり、当てになりませんが。

Q仙人の寿命

仙人には寿命があるんですか?それとどれくらいの長さでしょうか。
そして寿命の前に死ぬ事はあるんでしょうか。(事故とかで)
ちょっと気になったので!詳しい方宜しくお願いしします!

Aベストアンサー

仙人の定義のうちに「不老不死を得た人」というのがありますので、寿命が来ることはありません。不死ですから事故とかで死ぬこともありません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%BA%BA

Q中国の古い仙人「黄初平」について

日光の美術館の「小杉未醒」の絵にもありますが、
中国の古い仙人「黄初平」に関しての質問です。

初平は15歳の時に 羊飼いをしている時に ある道士に見込まれ、金華山と言うところに連れて行かれます。
40年も消息不明になっていたのを 彼の兄が探し出し
再会しました。
しかし 初平の行方を教えてくれた道士によると
羊飼いをいまだにしているはずの 初平の周囲には羊は1匹もいません。 

そこで兄が問いただすと、
初平は 「羊はいますよ。兄さんには見えないのでしょう」
と、鞭を打って回りの石をことごとく 羊に変えたと言うことです。

この 話で (初平が羊はいますよ。兄さんには見えないのでしょう」
と、鞭を打って回りの石をことごとく 羊に変えた)
と言うことは 何を意味しているのでしょうか?

ただ「凡人には見えない」
とか「心の目をもて」ということではないように思えるのですが・・・。

ご存知の方がいらしたらお教えください。

Aベストアンサー

修行を終えた仙人にとって、石は羊でもあり、羊は石でもあるということです。

仙人は不思議なことができるといいますね。空を飛んだり姿を他のものに変えたり
消えてしまったり。仙人は不老不死ともいわれます。これは、仙人が物質界の束縛
から開放されているからなのです。

私たちがこうして生活している世界は物質をよりどころとしています。
多くの人々が、肉体が滅びればその存在自体が滅びてしまうと考えています。
しかし、実際にはこの物質界は私たちが存在する世界の一例でしかありません。

丁度、internetに接続して、virtual realityを体験しているようなものです。
vrにはその独自の制約があり、我々はその中でできること、歩きまわったり、
買い物をしたり、chatしたりして仮想的な存在を作り出すことができます。
もちろん、netを切断すれば、いつもの、物質界の自分に戻ります。
が、もしも、自分がvrの中で生まれたとしたら・・・。
成長するにつれ、いつともしれぬ「切断の恐怖」に苦しむのでしょう。
「切断」はvr上の自分にとっては「死」にほかならないのですから。
また、vr上の設定や出現アイテムを自在に操るvrのpersonalityがいたとしたら、
あなたは大いに驚くことでしょう。なにしろ、「まるで仙人みたい」ですから。
でも実際にはクリックひとつでvr上の「石」を「羊」に変えているのです。
勿論、vr上のpersonalityにタイミングよく鞭を一振りさせることも忘れては
いません。

金華、崑崙は道士や仙人が修行をするところとして知られています。
そこでかれらは何年もかけて今いるこの世界のからくりを学んでいくのです。
この物質界が、ある一側面からの物の見方によって定義づけられた、制約の多い、特殊な世界であることが理解できると、めでたく卒業というわけです。

どうでしょう。例が飛躍しすぎましたか?

黄初平のような、道士や仙人は案外巷でのんびり暮らしているかもしれませんね。

日光の絵は近いうち観にいこうと思います。楽しみです。

修行を終えた仙人にとって、石は羊でもあり、羊は石でもあるということです。

仙人は不思議なことができるといいますね。空を飛んだり姿を他のものに変えたり
消えてしまったり。仙人は不老不死ともいわれます。これは、仙人が物質界の束縛
から開放されているからなのです。

私たちがこうして生活している世界は物質をよりどころとしています。
多くの人々が、肉体が滅びればその存在自体が滅びてしまうと考えています。
しかし、実際にはこの物質界は私たちが存在する世界の一例でしかありません。

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