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この地方の稲作は、いつ頃始まったのですか。
遺跡の名を教えてください。
古代、このあたりは「奈良湖」という湖だったそうですが、弥生時代でも、まだ湖あるいは湿地帯だった、というネットの情報もあり分からなくなりました。
また、山の辺の道は山裾を縫うように通っていますが、それは湿地帯を避けたから、という話も聞きました。
よろしくお願いします。

奈良湖
http://web.joumon.jp.net/blog/2008/09/000591.html

A 回答 (5件)

#1です。


稲作の件を記述しておりませんでしたので、回答いたします。

奈良湖が想定されている地域ではありませんが、
2011年11月、奈良盆地南部の御所市において、
弥生前期の大規模な水田遺構が発見されました。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/ …

弥生時代には、環濠集落を中心とする盆地底湿地帯での稲作が考えられていましたが、
盆地周辺部での稲作も始まっていたようですね。
http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/midori/kanryou …
http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/midori/kanryou …

山地から湧出する水を用い、計画的な灌漑・排水施設を持った水田耕作方法が生き残り、
そこの有力者が豪族として力を蓄えていったのでしょうか。
それとも稲作方法の異なる外来勢力との衝突があり、盆地周縁の勢力が生き残ったのでしょうか。

※奈良盆地全体が湖であったのは、数百万年も昔のことです。
 縄文~古墳時代にかけての海進期に、一時的な湖沼があった可能性は考えられます。
 水深が5m未満の浅い沼沢池程度でしょうが。
 大和川下流の亀の瀬地すべりが活動し、一時的な堰止湖ができた可能性も考えられます。
 いずれも大和川の氾濫に伴い、短期で消滅したと思われます。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
よく解りました。
近畿農政局整備部の「豪族分布図」は、歴史教科書で何度も見たのですが、なぜ豪族の拠点が山際ばかりにあるのか分からなかったのですが、このサイトの説明でよく解りました。
私は、この図を見て盆地には湖または湿地帯が広がっていたのではないかと思っていたのです。
それにしても、弥生時代にまで湿地帯であったとは考えられなく、年代がおかしいとは思っていました。

中西遺跡ってすごいですね。全く知りませんでした。
弥生前期、今から2400年前ごろ、ということは、現在見つかっている水田遺構としては、大和地域で最古、あるいは近畿でも最古かも知れませんね。
こんなに大規模な水田をつくることができたということは、もっと前から水田稲作が行われていたはずだと想像しています。
こんな遺跡を知りたかったので大変参考になりました。感謝します。

お礼日時:2013/05/08 14:15

中西遺跡。

約2400年前の遺跡とされています。つまり、縄文末期、弥生初期、いきなり広大な、大規模な水田稲作。。。あり得ないので、その年代より、ずっと前に、水稲耕作が、大和に伝来していた、と推測されます。

縄文遺跡の存在が、標高60m線で止どまり、それ以下に無いこと。下って弥生期、1800年前の遺跡の多くが、標高50m線でとどまっていること。これらの謎は、それ以下の、低い地域が、人間の居住・生活に適していなかったこと、これを表します。つまり、奈良盆地中央は、その時期、なにも巨大湖ではなくとも、水浸しの土地、広大な湿地が広がっていた、ということだったのでしょう。

それに加え、大和川他、諸河川の氾濫原があったことも、水稲に適した土地だったと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまり、奈良盆地中央は、その時期、なにも巨大湖ではなくとも、水浸しの土地、広大な湿地が広がっていた、ということだったのでしょう。

そうですよね。
“湖”とするから満々と水を湛えた様子を思い浮かべますが、そのあたりは「水浸しの土地、広大な湿地が広がっていた」のでしょう。
水田よりも先ずは「住むに適していたか」ですね。

お礼日時:2013/05/08 20:50

NO1の方の回答を拝見しました。

奈良湖の存在については、奈良湖についての説が出た時から、否定する考え方が存在しました。古墳時代にも存在し、記紀にも記載されている河内湖に比べると、奈良湖は記紀に記述が全くなく、それを想像させる他の史料の記述さえもないというものです。このことは事実であって、さらに奈良湖存在説は考古学的な確証がなく、類推による仮説という面があります。(奈良湖が弥生時代近くまで存在したということについて絞って考えると)
奈良湖の存在についての説は、弥生時代の遺跡の分布状況からの説でしたが、古道の敷設状況を見ても、奈良湖の推定地に大きな空間があります。南北の横大路と、東の下ツ道、西の大津道に挟まれた空間があります。確かに湖があったという確証はありませんが、少なくとも道路を設置するには障害になるような地形があったように思えます。それは湖ではなく湿地帯であったとしてもです。
この数か月海外にいて、その上PCのソフトの関係か、NO1の方の資料を開けることができないので、どのような根拠に基づく説なのかわかりませんが、詳細を見て、何かわかりましたらまた回答します。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C% …
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

「大和政権の成立に、水辺に縁遠い・・・」に対するfumkumさんのご回答#20を読みました。ここでも奈良湖について触れられていますね。
私は、奈良湖の存在そのものよりも、大和の地で最も古い水田遺跡はどこですか、と質問したかったのですが、“最も古い”と限定すれば回答が来ないと思って、この質問にしました。
弥生時代と言っても曖昧ですから、紀元前の水田遺跡はありますか、とすれば良かったかもしれません。

#1の方のURLは長崎大学のサイトですが、下記URLで開くことができると思います。

長崎大学学術研究成果リポジトリ
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/

このサイトの検索欄に「奈良盆地の最上部更新-完新統」と入力すればこの論文が出てきます。

何か解りましたらご教示お願いします。

お礼日時:2013/05/07 21:37

こんにちは。


「大和政権の成立に、水辺に縁遠い・・・」の回答を見られたのではないでしょうか。
奈良盆地の稲作は、弥生時代にすでに始まっています。今、わかっているのは唐子・鍵遺跡には水田遺構を含め、水田耕作の存在を示す遺構が見られることです。
唐子・鍵遺跡は纏向遺跡の北西にありますが、質問の中の奈良湖のURLの地図にも記載されています。奈良盆地の東の山地と、奈良湖の間の地、それも奈良湖の岸辺に近いと思われる地にあります。そのためでもあったでしょうが、洪水で崩壊した(再生される)とされています。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E5%8F%A4% …
http://www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/ya …
http://www.yayoi.sakuraweb.com/cyber-mizuho/isek …

以上、参考まで。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
唐子・鍵遺跡については、質問する前に一応調べました。
「水田遺構」は、見つかっているのでしょうか。
確かに、農耕に必要な道具類は多数出土していますが、だからと言ってこの地で稲作をしていたとは断定できないと、また水田の遺構があるとは書いてないようなので、稲作はどこでしていたのかと疑問に思っていました。
弥生時代と言っても600年間も続いたそうですが、私は、大和では弥生初期には稲作が始まっていたに違いないと思っていますので、確認のため質問しました。
歴博では、紀元前650年ごろ近畿地方で稲作が始まったと発表して話題になりましたね。

>「大和政権の成立に、水辺に縁遠い・・・」の回答を見られたのではないでしょうか。

始めはちょっと読んでいましたが途中で止めました。
今、見てみると(読むのではなく見ただけ)、まだ続いているのですね。
回答#22の奈良湖についてのURLだけは今見ておきました。

お礼日時:2013/05/07 14:51

近年の研究で、古代大和湖(奈良湖?)の存在は否定されているようです。


ご参考に。

参考URL:http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstr …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
論文は大変参考になりました。
古代大和湖は無かったのですか!
それなら私の疑問は一気に解消です。
なぜ山の辺の道は山裾伝いに曲がりくねった道にしたのか疑問ですが、それはまた考えてみます。

お礼日時:2013/05/07 14:47

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