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 たたき台です。

 ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~
 
   一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ

   神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 
  *1 神: 

  次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。

  *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。

  *1-2 たとえば 次のごとく:

   類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人
   __________________________
  ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン
              (梵我一如)
  ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)
              (無無一如)
  ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)
              (仏仏一如)
  ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)
              (霊霊一如)
  ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)
              (霊霊一如)

  ・・・・・・・・・


  *2 
  
  非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。

  *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。

  *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。

  *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。

  *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。

  *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。

  *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。


  *3 

  対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。

  *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。


  *4 

  神の名: 前項の(1-2)などを参照。

  *5

  シルシ: (2-6)などを参照。


  *6 

  心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?

  *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。

  *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。

  *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。

  *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。

  *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。



           *


  --参考--
  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~
  (――または ロゴスの階層――) 
  (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――) 
  ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )



  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神

  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ       

  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に
        もとづこうとする論理



   * ~~~~~~~~~~~

   ・ロゴス:ことば
   ・スピリトゥス:霊。聖霊
   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)
   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば
   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。
    〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕
   ・ラチオ( ratio ):理性
    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕

   ~~~~~~~~~~~~~~

 ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~
 
   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。

 【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

A 回答 (27件中1~10件)

No.5です。



無限・・・・・たしかにこのように人間の言葉で語っているぶんには 経験域の中にありますが 果たしてその無限の正体は 経験世界に属していましょうか?
==>無限は経験域の中と思います。無限の正体ですが定義から理解するしかありません。数学では無限とか虚数とか 非ユークリッド幾何とか 日常では馴染みのない言葉がでますが 定義はされており全て経験域とおもいます。物理現象の無限については 観測不可というだけです。だから非経験とするのは狭義の理解であって言葉と捉えると経験域となると思います。

【信じる】の議論 ありがとうございました。平行線議論と思い ここで休憩とさせて頂きます。また言いたくなったときは投稿しますのでよろしくお願い致します。

この回答への補足

 ここからさらに前へすすみたい。という意味で BAと思いました。

補足日時:2013/05/29 09:37
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 言葉と捉えると経験域となると思います。
 ☆ こんなことは尋ねていません。

 ★ 無限の正体ですが
 ☆ を尋ねています。

 けれども
 ★ 定義から理解するしかありません。
 ☆ というような《理解》の問題を尋ねているのでもありません。


 定義した内容としてのそのモノゴトないしコトガラが 経験現象として人間に観察され得ますか? という問いです。

 ★ 物理現象の無限については 観測不可というだけです。
 ☆ だから どうなんでしょう。《観測不可》は 経験現象なのですか? どうしてそう言えますか?

 あるいはつまり 無限についての定義内容に対応する経験現象は 《観測可能》だとも《不可能》だとも どちらとも言えない。言えるか言えないかが分からない。――こういうことではないのですか?




 おつかれさまでした。
 

お礼日時:2013/05/11 12:10

文字化けするかもしれませんが


コピペするために違うサイトから。
どうやら番号が違います。

http://awake.kiev.ua/dhamma/tipitaka/2Sutta-Pita …

841. Idaṃ vadāmiti na tassa hoti (māgandiyāti bhagavā)
Dhammesu niccheyya samuggahitaṃ
Passañca diṭṭhisu anuggahāya
Ajjhattasantiṃ pavinaṃ adassaṃ.


スッタニパータ 837

Ajjhattasantiṃ

ajjhatta 内心の

santi 安らぎ

です。

パーリ語のオンラインの辞書です。

http://palidictionary.appspot.com/

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


937. Etañca dhammamaññāya
Vicinaṃ bhikkhu sadā sato sikkhe,
Santiti nibbutiṃ ñatvā
Sāsane gotamassa nappamajjeyya.

http://awake.kiev.ua/dhamma/tipitaka/2Sutta-Pita …

上のサイトだと937


933 修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気をつけて学べ。諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッタ)の教えにおいて怠ってはならない。

なんだ

nibbutiがsanti

だと書いてあったのか。


涅槃が安らぎ。

地道にパーリ語の勉強をしないとなあ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 なんだ

 nibbuti が santi

 だと書いてあったのか。


 涅槃が安らぎ。
 ~~~~~~~


 ▲ Nibbuti  ~~~~~~~
  http://dictionary.buddhistdoor.com/en/word/98331 …

 (f.) [Sk. nirvṛti, abstr. to nibbuta]
  allayment, refreshment, cooling, peace, happiness

 ▲ santi ~~~~~~
 शान्ति zAnti f. peace [ of mind ]
 शान्ति zAnti m. calmness of mind
 शान्ति zAnti m. rest
 शान्ति zAnti m. alleviation
 ~~~~~~~~~~~~


 ★ ajjhatta 内心の
 ▲ adhi ~~~~~~~~~
 अधि adhi ind. as a prefix to verbs and nouns
 अधि adhi ind. concerning
 अधि adhi ind. from above
 अधि adhi ind. instead of
 अधि adhi ind. expresses above
 अधि adhi ind. from

 ▲ ajjhatta < Skt. adhyaatman ~~~~
 अध्यात्मम् adhyAtmam ind[eclinable](不変化詞).
 concerning self or individual personality
 ▲ aatman ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 आत्मन् Atman m. spirit
 आत्मन् Atman m. soul
 आत्मन् Atman m. individual soul
 आत्मन् Atman m. peculiarity
 आत्मन् Atman m. essence
 आत्मन् Atman m. self
 आत्मन् Atman m. nature
 आत्मन् Atman m. breath
 आत्मन् Atman m. character
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ▲ 933 諸々の煩悩の消滅した状態
 ☆ このような発想は 現実を扱う姿勢であるとは思えないと思います。どうかしていると思います。
 (一方的で断定していますが)。

お礼日時:2013/05/25 12:58

Suttanipata


(Pali Text)
PTS Version (Andersen/Smith)
https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/su …



9、マーガンディヤ
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/su …

840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

>それはばかばしい教えである

スッタニパータのパーリ語テキストを見つけたので
スッタニパータを読んでいたのですけれども、

仏典の中でも最古と言われるスッタニパータのさらに、第四章と第五章のうち、
第四章に、マーガンディヤの話があって、

そこで、ゴータマの教えを、ばかばかしい教えといっているのは
なんだか凄いなと思いました。

仏教徒もゴータマの神格化をする一方で、どうしてこの箇所をひたすら残してきたのか?

それから、

837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

この、

内心の安らぎ

これは、ニルヴァーナではないんですね。

ニルヴァーナはパーリ語だとニッバーナ。
だけど、ニッバーナでもない。

今まで、安らぎ=ニルヴァーナだとずっと考えてきましたが、
837のパーリ語テキストに、ニルヴァーナもニッバーナも出てこない。

内心の安らぎが、やがて、ニルヴァーナに変化していったのも気になりました。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 《内心のやすらぎ》を意味する語は どういう語でどんな特徴を持ちましょうか。

 

 ★ ~~~~
 そこで、ゴータマの教えを、ばかばかしい教えといっているのは
 なんだか凄いなと思いました。
 ~~~~~
 ☆ 相手に《ばかばかしい教え》だと言わせてあとでひっくり返すという手が用いられたと考えられる余地はないでしょうか。



 というよりも 言っていることが 分かりづらいようです。



 ▼ 837 『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
 ☆ これは 分かりにくいと思います。
 これから説くぞというわけのものではなく つまりそういう姿勢でいるのではなく そうではなく 自分の普段のあり方や態度をそのまま表現し 相手に伝えていると言っているかに思えますが それにしても分かりにくいようです。

 ▼ 837 諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
 ☆ 《おれは このコトに執着しているなと知ってこれを自覚し そのぶん執着から離れ では何故そのコトに自分はこだわるのかと省察しつつ》までは それとして分かります。
 そのあとすぐ続けて 《内心のやすらぎをわたくしは見た》と言います。
 《見た》だけなのだから 何らかの理念のようなまたイメージのような直感を得たというのであろうか。つまり ただそれだけのことを言おうとしているのであろうか。

 もしくは 直感を得たゆえ そのことの自覚において中身の説明しうる直観としても持ち得たというのであるか。
 
 けれども もしこの後者だとすると その《中身の説明》については まづ 無いということではないでしょうか。外郭のことで説明しようとすることはあっても 中身を明らかにしたことは 一度も ないのではないだろうか。





 いやあ だからこそ 《信仰》なんですよと 言い返して来たなら どうか。
 信仰とは何ぞいや? とさらに問い返すでしょうね。

 これについても一切明らかにしていないはずです。
 神通力が得られるといった要素で指し示されるのかも知れません。
 では 神通力とは何ぞや? という問い返しがなされます。
 ・・・・・
 つまり 外郭についての説明はあっても 中身を明らかにすることは一切なかった。のではないでしょうか。

お礼日時:2013/05/24 21:33

>なんでこの話になったのかな。



しるか・・



>この事件のあと へたなことは出来なくなった・・

あ~
それは きっと
直観 っていう闇の主(あるじ)が
ゴジラは暴れちゃいけません って
言ってくれたんだろう



ってな感じで
まあ
打ち合って 両者ともにヘトヘト 
ダウン寸前だ
いや 
もうダウンしちゃってるみたいだ

リングの外から

ジョー 立て!
立つんだ ジョー!
打つんだ ジョー!
って聞こえてくる

かすかに・・ (耳が遠いんで )

そろそろ
最後のカウンターパンチを操りだそう
これ一発で 天国に送ってあげよう
安らかに眠れ・・

(おれも そろそろ眠るから・・ )









持つことに感謝できる信心が 本当の信心なんでしょうね・・
一生持ちつづけられる信心 というものは
そんな気がしてならない

神でも仏でも おんなじ じゃないかな

得た というよりも 授かった という思いがなければ続かない
いただいたものは そう簡単には捨てられない から

信心の重み ってそんなところに きっとあるんでしょうね・・






まあ
そんなところで いいかな ・・先生
えっ
まだ やるの・・
もう 勘弁してよ
う うでが上がんないよ・・

えっ
何っ
今度はキック・・だって

よせやい

年寄にキックなんて できるわけないだろ・・


(ヒック )
(あ~ )
(キックじゃなくて シャックリがでちゃった・・ )


お粗末
ごめん・・

もう書かないよ。
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~
 持つことに感謝できる信心が 本当の信心なんでしょうね・・
 一生持ちつづけられる信心 というものは
 そんな気がしてならない
 ~~~~~~
 ☆ そんなこと しるかぁ。

 信仰は ナゾの何ものかがあたえたというだけのこと。
 おれさまは しるもんか。

 ただただ いまのおれさまのそのときその場で相手を相手として考えるところを生きるのみ。
 《感謝》だって?

 感謝することそのことも あたえられるんだから。

 ★ 一生持ちつづけられる信心
 ☆ 何言ってんだい。あるのは いまのみ。いま・ここなるわれのみ。ぢゃわい。

 一生がどうのとのんきなことを言ってらぁ。




 お礼を書かないから つづきはいいよ。

お礼日時:2013/05/16 21:21

どうやら先生は


直観を ヒラメキ限定版というふうに思っているらしい
あ~ ちがうでっしゃろ ろ ろ ろ

目には目の直観があり
耳には耳の直観があり
指には指の直観があり
鼻には鼻の直観があり あり あり

感覚というやつは直観だらけだ
切り離せない
感性というやつは 感覚器官だけじゃない
感覚と同時にはたらいている直観と それを認める意志も含めた全体だ って

急な暗闇の中でも 意志と直観ははたらいている
明瞭な意志と直観の深まりは 突きぬけてゆく・・・
なんだよね
フルスピードだ
何をやっているのかというと
脳みその隅から隅まで探しまくっている
一二分は長い・・

直観は 感覚に付随しながらも それ自体単独でもはたらいている
フリーな直観が捉えたものがヒラメキだ



あ~
何べん いわせるんだろ・・
やだ
しつこい




(古い冗談をリクエスト・・ )


ゴジラの直観
なんか切ない 
泣ける

ガオーッ!

おおっ
こわ・・
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~
 急な暗闇の中でも 意志と直観ははたらいている
 明瞭な意志と直観の深まりは 突きぬけてゆく・・・
 なんだよね
 ~~~~~~
 ☆ これだとすると これはなかった。《意志》はまだ ポカンとしていた。
 《直観》は もし《遥か彼方まで突き抜けていたと感じた》その感覚のことだとすれば あった。


 ★ ~~~~
 フルスピードだ
 何をやっているのかというと
 脳みその隅から隅まで探しまくっている
 一二分は長い・・
 ~~~~~~
 ☆ いや。このような動きはなかった。
 《一二分》というのは まぁ 感じとしてですね。測ったわけではなく そしてそれほど短い時間でもなかったから。



 ★ ~~~~~
 直観は 感覚に付随しながらも それ自体単独でもはたらいている
 フリーな直観が捉えたものがヒラメキだ
 ~~~~~~~
 ☆ そのとおりだとしても そのヒラメキが起きたとは思わない。そういう事態ではなかったのではないか。
 ただし では何かと問えば 一般にヒラメキのたぐいだとは思う。ほかに呼び名はないと思う。

 あぁ だから ヒラメキからそのとき得られる何かを除けば それが起きたことです。




 もんだいは この事件のあと へたなことは出来なくなったなと思ったこと。ビフォーとアフターの違いはと言えば さしづめそれが 顕著な出来事だったのではないか。


 なんでこの話になったのかな。

お礼日時:2013/05/15 22:57

>或る日 (或る夜) 寝る前に・・


>或る日 (或る夜) 寝る前に・・



い~ ですね
なんともいえない
調べというか 
風情というか
唱えたくなる・・

神様が いらっしゃった

つづけたくなる



(まあ 感覚の遮断による直観の解放が起きたんだろう)
(おそらく それまでにも度々あったのかもしれない)
(ただ その時だけはちょっと違っていた んでしょう)
(・という 岡目八目)

(だとすると )
(自分は何を信じているのだろう? という疑いがあったはずだ )
(直観に聞いてみたのかな )
(どこまでも突き抜けていったものとは直観だったはずだ )
(これでいい というものが見つかったのかな・・ )
(無師独悟の了解とは 自らの意志との契りみたいなもんだ )
(と   おれも口が悪くなった な・・ )



(先生が悪いんだ 先生が・・ )
(いつまでも )
(引き止めて )
(しゃべらせて・・ )







さら さら さら

さら さら さら

さら さら さら



風が吹く



Bさん
どこへ行ったんだい
あれほど
理屈屋だった Bさんは どこへ


さら さら さら

さら さら さら

さら さら さら



風が吹く


お~い Bさん
どこへ行ったんだい
ゴジラの ぬいぐるみ を持っていこうか
聞こえるか~


さ -

じゃ -

さ -

ピシャ

ピシャ ッ

雨が降る



なんだ
いたのか~
こんなところで 雨宿り

放っておけよと
一人で 雨宿り

濡れた おいずる 背にかけて
口をつぐんで 雨宿り
杖でたたくは 土の音

ふう~

足止めも ほとけの道
さっさと行くも ほとけの道


じゃ
行くよ・・
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。(さらにあらたな質問へもすすみます)。

 ★ (まあ 感覚の遮断による直観の解放が起きたんだろう)
 ☆ この《感覚の遮断》というのは 分からない。たぶん違うと思う。感覚は 遥か彼方まで突き抜けていたというような感じでしたから。

 ★ (おそらく それまでにも度々あったのかもしれない)
 ☆ いえ。あとにも先にも そのとき一回きりです。

 ★ ~~~~~
 (だとすると )
 (自分は何を信じているのだろう? という疑いがあったはずだ )
 ~~~~~~~
 ☆ いや。意味のある言葉は そのとき――もしくは 感覚的に言ってしばしのあいだ――思い浮かばなかった。
 感覚がするどくなっていながら きょとんとしていたかも知れない。
 そうですね。ふと 《真理》という言葉は浮かんだかも知れない。

 そして この体験を《信じる》の事例だと捉えて行ったのは もっとあとです。(ただし いまおこなっているような理論化はまだしていなかった)。



 ★ (どこまでも突き抜けていったものとは直観だったはずだ )
 ☆ いや。感覚。
 夏の夜で 窓から夜空が見えたのだけど その感じとしては 《宇宙》というようなイメージの広がりも浮かんだかも知れない。でも おぼろ。
 いづれにせよ 《直観》というような何かのヒラメキではなかった。





 風と雨か。

お礼日時:2013/05/14 23:21

こんばんは、Ano.11です。




>「けれども《信じる》という人間の行為とは どういうことか? 
 この問いは 別です。

 よくお考えくださいな。」

母乳ですね。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 母乳ですね。
 ☆ 《聖なる甘え》とわたしは呼んでいます。

お礼日時:2013/05/14 05:56

あんま


か・・
肩はこっていないんだけど・・


あ~~
終わんないじゃないか
先生・・

かっこよく終わそうと思っていたのに
また・・




>その後一二分

このへんの描写は 珍しく感覚的だ
意志の裏側へと駆けていったもの とは何だろう
一二分は長い
気の早いBさんにしては長い印象を受けてしまう
その内面時間の一二分は たぶん 実時間ではいくらもなかったはずだ
意志の集中の一二分感覚ではなかったか
意志の了解に必要な時間だったんじゃないかと
意志の全てに照らして間違ってはいない という了解を求めた時間だったんだろう

はっきりいうと
それは 始めはヒラメキではなかったと思うし
意志がヒラメキを待つ時間だったのかもしれない
それほど集中していたんだと思う
その集中をもたらしたものとは何だったんだろう
指が動くね・・
言葉だけでそこへ行ったんだろうか
仮に言葉だったとしても 書物の言葉のみだったんだろうか
それとも 人の口からでた生きた言葉だったんだろうか
珍しく Bさんにしては 意味深な発言のような気がする
まあ
そんなところで・・いいんだろうけどね


まあ
自分なんかも いい加減なところがあって
ホトケの方なのに 十字架なんて言ったりしてる
でも 信じることにおいての本質は変わらないんじゃないかと思う
自分の場合の確定は 生きた言葉だった
そのへんも まあ やっぱり言いずらい 本音だ

黙という契りの意
分かっているなら何も言うことはない
信心の誕生という契りの体験は語ることではないんだから・・




あまり 疲れさせないでくれ
年なんだから・・
たのむ
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 いや。或る日(或る夜)寝る前に 電気を消したあと そのことが起きた。


 そのときまでに 《信じるとは何か》を考えて二三週間ほど経っていた。

 夜中消灯してまだ横になる前に 起きた。

 意識がなくなったのではなく しかも感覚としての見通し(?)がどこまでも突き抜けているようだったから ふと思いも考えも立ち止まっていた。

 そしてそのあと―― 一二分してからという感じで―― あぁ いままで《信じる》とは何かを考えていたんだっけと思い直し これについて確認した。

 《ことば》はない。お告げも 何らかの説明も。

お礼日時:2013/05/14 05:53

追伸





神の愛は いくら言葉を聞いても分からない
手の掌の十字架を握りしめる時 それは与えられる
不完全という形で与えられる



信心は感性の了解なしには成立しない
感性による不完全な了解が 信心の誕生である
意志が自らを託すものを認めた瞬間が 信心の誕生である
信じるとは 意志が感性を信じることである
一つの意志が 一つの感性を信じることである
我が身の感性が それをおいた他には意志の拠り所がないと知ることである



信心とは 手に小さな十字架を持つことである
小さな みしるし を手離さないことである
飾ることなく 手離さないことである
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ううん。別に間違いっていうのぢゃないであろうけれど
 ★ 手の掌の十字架
 ☆ は あんまし。・・・




 ★ 意志が自らを託すものを認めた瞬間が 信心の誕生である
 ☆ これはですね。どこまで一般的であるか分からないただのわたしの体験ですが:

   ○ ナゾを受け留め受け容れたと思った瞬間 
    そのナゾに意志がみづからをゆだねているのを見届けた。

 そして 感覚としては それこそ遥かかなたにまでその感覚が突き抜けて行っているというようなものだった。

 これが 《信じる》ということかと見止めたのは その後一二分してからだった。

お礼日時:2013/05/13 22:17

>隣の鐘を撞いていますよと言っているのです。



 ほう、なるほど。鐘が小さくて、よほど狙い澄まさなきゃ、あたりもしないってわけですか。これはつまり、ぶらじゅろんぬ流の定義は狭い範囲にしか適応できないもので、応用性がないし、将来的に応用性を持たなくても良い、と認めたのと同じことですね。明確なお答え、どうもありがとうございました。最初からそう書いてくれれば、わざわざ訪問しないのですが、応用性のある、つまりは普遍的な定義を求めているのではないかと勘違いしたもので、顔を出してしまいました。私はお遊びの邪魔はもうしませんよ。では。
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この回答へのお礼

 ほんとうのことを明らかにするのは ばつがわるいでしょうから このまま

 まけてあげましょう。


 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/05/13 19:57

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