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中国の「改革・解放政策」についてなのですが、
どうもいまひとつ深く理解できません。
細かく解説していただけないでしょうか。
お願いします。

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A 回答 (2件)

まず、「解放」ではなく「開放」ですね。

全然意味が違います。

毛沢東亡き後、華国鋒が主席になりましたが、毛沢東夫人江青ら文革派4人組が追放されました。その後、華国鋒も実権を失い、鄧小平が最高権力者となりました。70年代後半のことです。彼は毛沢東時代から、毛沢東の「大躍進政策」の失敗の後の経済政策などで力を発揮していました。有名な「黒い猫でも白い猫でも鼠を捕る猫がいい猫だ」というプラグマティックな思想の持ち主で、農民に資本主義的な刺激を与えて生産性を向上させようとしたのです。

最高権力者となった鄧小平は、「改革・開放」を掲げ、
1)外国の資本や技術を導入する。先ず、香港に隣接した深センに経済特別区を建設して実験場とする。
2)小規模な私営企業を認める。
3)人民公社の解体
などを実行に移しました。胡燿邦と趙紫陽が両腕でしたが、結局両名とも失脚させられました。

2)はその後、大規模な私企業も認められ、株式市場やら、億万長者まで生まれました。

1)も、天安門事件直後の「南方講話」で、中国最大の都市上海でも、大規模な投資、近代化、外資導入が行なわれました。上海の変化の凄まじさは驚天動地モノです。

政治的には、天安門事件で分かるとおり、共産党一党独裁が続いています。これを崩そうとする民主勢力も存在しますが、経済的にうまく行っているので、大多数の人は「政治よりゼニ」と言った感じです。

寧ろ、地方や、民族問題の方が問題でしょう。地方政府は中央政府の言うことを聞かなくなってきてるし、少数民族、特にチベット族や、回族は漢族支配に敵対意識を持っています。中国政府か舵取りを誤ると、いつ旧ソ連のようになるとも限りません。
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この回答へのお礼

「解放」じゃなくて、「開放」ですよね。
解説ありがとうございました。
これで、納得ができました。

お礼日時:2001/05/26 01:07

 まず、字は「改革・開放政策」であると思われます。

この政策を理解するためには、中国の建国から説明する必要があります。
 1949年、毛沢東率いる中国共産党が国民党との内戦に勝利し、中華人民共和国が建国されました。共産党は農民の支持を得るため、地主から土地を没収し、小作人に分け与えました。一方、共産党内には商工業の専門家がほとんどおらず中小の商店や工場については従来の経営者を支配人に任命して従来通りの経営を維持させました。
 内戦の終結によって中国の混乱はおさまり、人心は安定しましたが、毛沢東はゆるやかな経済の復興にごうを煮やし、経済を急激に拡大するため、農地を個人所有から共同の所有とし(人民公社)、農民に対して粗末な溶鉱炉を作ってそこで鉄を生産し、鉄鋼生産量を高めるよう命令しました。しかし、農地が共同所有となったため、農民はやる気をなくし、粗末な溶鉱炉での鉄の生産で農作業はおろそかになり、資源は無駄に消費され、出来た鉄鋼は使い物になりませんでした。そのため、飢饉が発生し、農村は荒廃しました。毛沢東のこのような政策は大躍進政策といいます。
 大躍進政策の失敗によって共産党内で毛沢東に対する批判が高まり、毛沢東は国政の指導権を劉少奇・鄧小平らに譲りました。彼らは「黒い猫でも白い猫でもねずみをとるのが良い猫だ」という言葉をスローガンに、イデオロギーよりも生産性を優先させ、財産の個人所有を一部認め、個人の才覚によってよく働いた者にはその分余分に利益が残るようにしました。
 しかし、劉少奇や鄧小平の政策は貧富の格差を一切認めない共産主義の原則からは逸脱するものでした。そこで、権力回復の機会を狙っていた毛沢東は妻の紅青らと共に純粋な若者を「劉少奇や鄧小平は資本主義の復活を画策している」とたきつけ、劉少奇や鄧小平や彼らに連なる人々を襲撃させました。そして、劉少奇や鄧小平に対する反感を十分高めた後で、彼らを追放し、毛沢東は復権を果たしました。しかし、国内では人々が劉少奇や鄧小平に連なる政府高官に対するリンチに熱中し、リンチの対象は次々に広がり、普通の教師や学者、芸術家、商店主、工場主などにまで拡大しました。中にはデモに参加しなかったという理由でリンチをうけた労働者までいます。その結果、国内経済は混乱し、中国国内は収拾がつかない状況になりました。1970年代に毛沢東が死去すると、毛沢東の権威に隠れて私服を肥やしていた紅青ら4人組と呼ばれる毛沢東の側近が逮捕され、国内の混乱に終止符が打たれました。このような国内の混乱を文化大革命といいます。
 このころ、劉少奇は既に死亡していましたが、鄧小平は生き残っていたため、鄧小平を中心として国内経済の立て直しが図られました。こうして始まったのが「改革・開放政策」です。鄧小平は人民公社を廃止して、農地を各農民のものとし、一定以上の農産物を政府に納めれば残りは自分のものにしても良いと定めました。(生産責任制)また、沿岸部を経済特区とし、そこでは外国の企業と資本を出し合う形で会社を設立してもよいと定めました。これは海外企業の進出を容認したものでした。また、国営とされていた工場や商店を徐々に私有とし、経営は各工場や商店の持ち主に任せ、利益が上がれば、各工場・商店が自分達のものとしても良いが、倒産しても政府は責任をとらないことにしました。これらの政策は事実上、資本主義を復活したものですが、鄧小平は社会主義市場経済と名づけ、共産主義の理念に反しないとしました。政治的には共産党の一党独裁を否定しなかったため、民主化を求める学生の不満が高まり、1989年の天安門事件などが起こりましたが、経済は急成長し、国民生活は上向いたため、国民は基本的に「改革・開放政策」を受け入れました。鄧小平が死亡した後も、その後継者の江沢民国家主席も「改革・開放政策」を踏襲しており、中国が共産主義に戻ることはないでしょう。
ただ、問題は海外企業が進出した沿岸部と開発から取り残された内陸部との間で貧富の格差が拡大し、対立に発展しないかどうか心配です。
 なお、「改革・開放政策」の言葉の由来は改革は国有から私有へと経済の有り方を変えるという意味・開放はアメリカ・日本といった海外の資本主義国の企業でも進出できるよう経済を開放するという意味であると思われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
歴史性から細かく教えてもらえたので
大変興味深く理解できました。

お礼日時:2001/05/26 00:59

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