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ヨーロッパにおいて東西教会の分裂後、ローマカトリック教会はどのようにして、権威を高めていったのでしょうか。
調べてみてもよくわからないので質問する事にしました。
回答よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

キリスト教会が西と東で繰り広げていたのは,「ローマはペテロが没した地であり,ローマ司教こそペテロの後継者だ。

故に全ての教会はローマ教会の元に統一されるべきだ」という考えを巡ってでした。
最初は,東方教会の方が勢いがありました。
というのも,東方教会の主教座を占めるコンスタンティノープル教会(以下、主教座と略)には政治的利点があったからです。
ローマ帝国が分裂して,西ヨーロッパは大混乱に陥ったのに比べて,東ローマ(ビザンティン帝国)は,一応安泰だったからです。
そして,元々ローマ帝国は1つであったのだから,もう一度その夢を見たいというのが人の心情でしょう。
となれば,西ヨーロッパを蛮族どもから取り返して領土を復興する必要がある。
そうなれば,当時皇帝権力に深く食いこんでいた主教座が主導権を握れると思われました。

それに慌てたのが,ローマ(カトリック)教会(以下カトリック教会と略)でした。
自分たちの権力を守るためには,ビザンティン帝国軍に勝る軍事力が必要です。
しかし,質素・清貧・貞潔を旨とする坊さんをいくら集めても勝てるわけがありません。
そこで,当時最も勢いのあったフランク王国に目をつけます。
また,フランク国王ピピン3世(小ピピン)も西ヨーロッパの雄になるにははキリスト教会を手懐けるのが一番だと考えます。
そこで,755年に当時イタリア半島を勢力下に置いていたランゴバルド王国を破り,奪い取った土地からラヴェンナの地を教皇に寄進します(ピピンの寄進)

そして,世代は代わりフランク国王カルロス大帝の時,時の教皇レオ3世は異教徒(イスラム教徒)の侵入から救ってくれた代わりに,ローマ皇帝として王冠を授けました。(カールの戴冠)
これには,双方にとって重要な意味がありました。
カルロス大帝の側にとっては,自分こそがローマ皇帝であるという正統性を得たことになります。
ローマ教皇の側には,自分こそが神の代理人であると周りに知らしめる事になります。
ここで,西ヨーロッパは2つの権力に分かれ,その間で大きく揺れ動きながら歴史を刻んでいくことになります。(カルロス大帝の死後,王国は3つに分裂し弱体化,その後オットー1世が神聖ローマ帝国皇帝として即位します)

二つの権力というのは,

1、物質面での支配。(世俗権力)
つまりは、政府です。
それを代表していたのが、神聖ローマ帝国皇帝であったハインリヒ4世です。

2、精神面での支配。(宗教権力)
言い換えれば、宗教です。
当然,ローマ教皇を頂点とするカトリック派の事です。
西ヨーロッパでは「ローマ教皇」はすべての教会の頂点に立つ人物となりました。


で、この2者の間である政治闘争がありました。
それが、「叙任権闘争」といわれるものです。
カトリック教圏では、各地区を教区に分けました。
そして,その教区の頂点に立つのが司祭といわれる人々です。
この「司祭」を任命する権利が皇帝側にあるのか教皇側にあるのかを争ったのが「叙任権闘争」です。
で、この「叙任権闘争」のもう一つの側面が「イタリア半島支配」を巡る争いでもありました。
当時のイタリア半島はいくつもの都市国家に分かれて争ったりくっついたりとバラバラでした。
しかし、「ローマ帝国」発祥の地であるローマがあることから、政治的に重要な土地でもありました。(神聖ローマ帝国皇帝は名目上ローマ帝国の皇帝)。
そのため、歴代皇帝と教皇はなんども衝突を繰り返していました。
その争いの頂点ともいえる時期になるのが「ハインリヒ4世」の時代でした。

もう一つ,精神権力と世俗権力の衝突を顕しているのが,「王権神授説」と「レーエン制を基にした論理(封建制と訳されます)」でした。
「王権神授説」を取ると,精神権力を体現しているローマ教皇の方が勝る。
つまり,権力は神→教皇→皇帝(国王)となります。
逆に,レーエン制では諸侯の合意の基に権力が存在するのでローマ教皇の意向は無視される。
つまり,権力は諸侯→皇帝(国王)であり教皇は蚊帳の外。教会にでも篭ってなって感じです。
ただ,この論理にはそれぞれデメリットがあります。
その辺りは,手前味噌ですが以前,他の方の回答に投稿したものがありますのでそちらを参照してみて下さい。
http://okwave.jp/qa/q7740998.html

簡単に纏めると,東ローマ帝国に支配されることで危うくなると思った教皇と,できて新しい国なので足元を固めたいフランク王が結託。
一応,東ローマ帝国の進出という最悪の事態を回避することに成功。
しかしその過程で,叙任権闘争やら王権神授説とレーエン制の政治力学,十字軍の無茶ぶりやら,まァ色々な事を繰り広げることに。
ただ,その過程で変わらなかったのが「キリスト教」という1つの宗教しか認めてこなかったこと。
まぁ,16世紀には教皇の堕落ぶりに愛想を尽かした人たちがプロテスタントとして独立しますが。
それでも,やはり「キリスト教」という宗教を捨てはしなかった。

・・・と、こんな感じでしょうか。
思わぬ長文となってしまい,申し訳ありません。
ではでは、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!参考にします!

お礼日時:2013/05/17 23:16

象徴的なのは、レコンキスタでしょう。

元々西ローマ帝国が滅亡してゲルマン諸王国が分裂・抗争状態になったことがイスラム勢力がイベリア半島に進出できた背景です。その後、ゲルマン諸王国は相次いでローマカトリックに改宗していったが、なかなかイスラム勢力の攻勢に対して統一戦線が組めませんでした。それでは個別撃破されてイスラム勢力には勝てない。そこでローマ教皇インノケンティウス3世はキリスト教諸国に対して、キリスト教諸国同士で争うのは止めて、対イスラム統一戦線を結成せよ激をとばした訳です。ちょうど十字軍と同じ頃の1198年のことです。レコンキスタも十字軍もどちらもキリスト教世界vsイスラム教世界という構図は同じです。それまで小競り合い、足の引っ張り合いばかりしていたキリスト教諸国が一致団結して、イスラム教世界に対峙した。「ローマ教皇がああおっしゃっていることだし、喧嘩は止めてここは手を結ぼう」「うむ、そうだな。仲直りしようや。」といった話でローマ教皇が介入してくれたお陰で、それぞれの国王、諸侯は矛を収める大義名分が成立して、顔を立てることもできたんです。

このようにローマ教皇は世俗権力の対立を調停して、それが領土奪回といった成果につながって、ローマ教皇が国境を越える超権威者として権威を高めていったのです。今なら国際連合安全保障理事会が休戦を勧告するといった流れになりますが、当時はそんな国際的機関など何も無いわけです。

ローマ教皇にすればイスラム勢力を利用して自らの権威を高めたといったこともいえるでしょう。
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この回答へのお礼

わかりやすい上に内容も濃いです。ありがとうございました!

お礼日時:2013/05/16 01:21

ローマ教皇と枢軸卿制度(司教)による格付けです。


西方協会は、寺で云う所の本部ですね。
ギリシャ正教と二分してますが、西方教会は植民地での布教活動で、世界的に信者が多いので、そういう意味でいろんな派閥も多いです。
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この回答へのお礼

わかりやすい回答、ありがとうございました!

お礼日時:2013/05/16 00:08

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