プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

私は学校で講師をしている者です。
この春に大学を卒業し,講師をはじめて2か月目です。
そんなわけで,先輩教諭の授業を拝見したり,逆に見てもらう機会も多いです。

その中で,よく絡んでもらう先輩から頂く助言について悩んでいることがあります。
その先輩は,教師のためのセミナーに参加されているらしく,そういった場で得た教育技法を信奉されている方のようです。
しかし,ご自身のそんな指導法を「絶対的」あるいは「正解」だと思われている節があり,私の授業の展開方法を見て「このやり方は間違い,ここではこうすべき」と言われることがあります。

そこで,教員としての仕事のコアである「授業」の展開法に,他者がここまで干渉するのはどうなのか?ということについてご意見いただきたいです。

私は,授業での指導法は教員個々人で異なっていて当然だし,ましてやそれに正誤なんてない。よって,一教員の指導法を他の教員に押し付けるようなことは,たとえ新人相手にでもすべきではないと思うのですが。

A 回答 (7件)

 「教育」殊に「学校教育での公教育」に関する理解が欠落しているもしくは敢えてやぶにらみ的な姿勢で語る方がお出でになりましたので一言いわせていただきます。


 >ムシすりゃいいんじゃないですか。ハイハーイみたいに。

教育方法に正解なんてないでしょ。正解がひとつというところが、教師らしいと言えば、教師らしい。

すっかり日本の教育方針に洗脳されていますね。セミナーの内容がすべて正解なんて、あり得ません。

とはいっても、その人に言っても変わらんでしょう。ムシが一番です。

もちろん嫌われてもいいやって思うなら、「あなたの考えがすべて正しいとは限りません。正解はひとつではありません。そんなこともわかんないんですか」とハッキリ言ってやりましょう。

 このご指摘、一見筋が通っているかのようにみえますが、足元に落とし穴があることも確かです。たとえばアメリカでは州毎に法律が異なることにより、場合によっては「天地創造説」を生物の発生として教えても可能となっています。そして親は信仰上の理由から進化論を教える学校に子どもを通わせず天地創造説に基づく教育を行っても良いと許諾される場合もあります。
 一方、ドイツでは過去の問題に付随してナチスやヒトラーを礼賛する内容を授業で扱うことは一切禁止されてもいます。
 良く言えば前者は自由度が高いともいえ、後者はガチガチに枠を嵌めているともいえます。けれども「なぜタガを嵌める必要があるのか」も同時に考えねばなりません。必ず根拠があるはずです。日本の教育課程編成は科目毎そして学校課程毎に目標が設定されてもいます。何年生ではこの項目をとりあげ、その前提を同時に確認もする必要があります。他の回答者様が仰る「子どもの発達段階に即して」組み立てられています。
 もし基礎の部分で躓いていたなら、そこから改めて復習することも必要です。中学生にいきなり封建制に基づく支配構造の展開とそれによる時代区分論」などを話しても理解できないことなど明らかです。ひょっとしたら大学生ですらも危うい可能性も多分にあります。むしろその可能性の方が強い。
 「正解は一つしかない」「教育方法に正解などない」、とても耳障りが良くて格好の良い言葉です。教育現場に携わる者ならば、一度や二度は必ずや耳にしている言葉です。けれども、だからといって「何でもあり」となってしまった場合はどうでしょう。
 野球で考えてみましょう。質問者のインストラクターがピッチャーだったとします。ピッチャーが最初に学ぶのは「アウトコース低め」のコントロールです。ピンチになった時でも「この部分」に投げておけば、失点を最少に抑える可能性も高い。なぜなら、その部分はバッターにとって「最も打ちづらい場所」だからであり、同時にその対曲線であるインハイを使うことも可能性として高いことも習得していきます。如何に球速の速いボールを投げることができるからといって、ボールをど真ん中に投げ続けては打たれもします。それによって失点してしまえばチームは敗北を喫します。その球速が速いとの特性を最大限に活かすなら、それを際立たせるための比較材料も必要です。
 現在の質問者様にはその「比較すべき材料が未だない」状態です。たとえ耳障りの良い回答が寄せられていたとしても、その方の言葉を額面どおりに受け取るよりむしろ反面教師として理解されることの方がメリットはあると考えられます。
 僕も学部卒業時に民間企業に入社しました。世間では名前も知られる一流企業と呼ばれる企業です。しかしながら、そうした企業には必ず「ヘンな人枠」が採用枠に設けられています。企業は表だってそうした部分を明らかにはしませんが、スキルが同レベルであっても思考様式や物の見方が少し違う人間がいることで他の社員そして企業全体に刺激と活性化を与える可能性があるとして採用します。言ってみれば変人を一人チーム内におくことで、煮詰まった時などに冷静な判断ができるともいえます。全員が目標に対して同じアプローチ方法を選択してしまった時に、何らかの打開策を設けるには刺激も必要です。そのための担保であるとお考え下さい。この場合でも「他者との比較」が前提になります。他者なくしては彼が変人であるかどうかもわかりません。
 今の質問者様は、ただ単に自分の教育観とは異なる教育観を材料として与えられ、それに対して反発しているだけでしょう。学校秀才にはありがちなタイプです。けれども現在のそのスタイルも、傍から見ればアドバイザーのスタイルと全く変わりません。「これが正解だ」と自身の教育方法がベストであると相手に同意を求める部分は共通です。そして更に始末の悪いことはご自身を正当化しそれに同調する意見を求める姿勢です。客観的に判断するとの基本的な部分がどこかに飛んでしまっています。自己対象化は非常に困難な作業ですが、教員の仕事はそれができて初めて幾らとの世界でもある。それが解っていないなら、質問者は洟垂れ小僧と変わりません。スノービッシュな自惚れです。今は「引き出しの数」を増やす絶好のチャンスです。その機会をみすみす逃す手もないでしょう。他の方曰く「馬には乗ってみよ。人には添うてみよ」、僕ならば「馬を水辺に連れて行くことは簡単にできても馬に水を飲ませることは簡単にはできない」とお話しします。今の質問者様はその「馬」であり、同時に生徒の前では彼らが「馬」です。あなたに付いているインストラクターは、今後あなたが教員として責任を果たしていけるかどうか、そしてどこをアドバイスすれば良いかとの責務を負わされてもいます。その苦労が並大抵の物ではないことも、あなたがインストラクターになった時に初めて解るはずです。あなたも試され、相手も試されている。互いのスキルを磨き高め合うことでより質の高い授業を行うこともできます。そのためには全てが材料であり、しばしば立ち止まって自己検証をすることも必要です。
 ヘンな人枠で企業に入り、尚且つ自分のやりたい学問領域にも踏み込んで学士編入しその後、別の大学院で博士まで終え、現在は企業勤務と大学教育に携わる二股草鞋のヘンなおっさんからの一言でした。
 学部に新入生が入学してきた時、僕らが真っ先にやるのは学校秀才の鼻をへし折ることです。それまでの教育課程とは全く異質な領域であり、自らが目的意識と問題意識を持って課題を組み立て検証していくことを中心に据えますから、高校までの「知識教育」とは明らかに質的相違があることを彼らに知らしめる目的です。学校秀才で通ってきた方々ほど、その無意味さと無力感に苛まれる。そうした時に彼らがドアを叩くのが「よろず悩み相談室のおっさん」の部屋です 爆!
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この回答へのお礼

お返事が遅れてしまい申し訳ありません。

>けれども現在のそのスタイルも、傍から見ればアドバイザーのスタイルと全く変わりません。「これが正解だ」と自身の教育方法がベストであると相手に同意を求める部分は共通です

おっしゃるとおりです。そしてそれは,私自身を含め,この質問に対する各回答者様の全員に言えることでもあります。
それぞれの立場から,それぞれの経験に基いて,各人の主張を(おそらくは)今後も譲らない。
(それが悪いわけではありません。いつまで経っても,揺るがない自己の立ち位置が確立されていないことも問題だと思います)

ですから,私と他者(当該先輩や回答者様)の間の主張の根拠となる経験値の差こそあれ,
>ご自身を正当化しそれに同調する意見を求める姿勢
これは,まさにこの場の我々の間で,平生の人間関係の中で往々にして生じていることでもあり,人間の性でもあるのでしょう。
(そういった意味では,No.6の方のように要領よくスルーするほうがより現実的な振る舞いなのかもしれません)

だったらここで質問するな!(笑)と言われそうですが,様々な含蓄ある回答に感謝しています。
この質問にBAなどは存在しません。
しかし,区切りとしてこれで回答を締め切らせて頂きたいと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/22 16:12

ムシすりゃいいんじゃないですか。



ハイハーイみたいに。

教育方法に正解なんてないでしょ。
正解がひとつというところが、教師らしいと言えば、教師らしい。

すっかり日本の教育方針に洗脳されていますね。

セミナーの内容がすべて正解なんて、あり得ません。

とはいっても、その人に言っても変わらんでしょう。
ムシが一番です。

もちろん嫌われてもいいやって思うなら、
「あなたの考えがすべて正しいとは限りません。正解はひとつではありません。
そんなこともわかんないんですか」とハッキリ言ってやりましょう。
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 こんばんは夜分に失礼します。


確かに「方法論」は幾らあっても然るべきとは考えられますが、それが殊「義務教育課程」および「高校教育課程」であるならば、一定の制限が加えられていることも確かです。文科省による学習指導要領です。これは教科目毎の学習目標および到達目標が設定されているとの点で拘束力をも有するといえますが、具体的な展開事例に関する限りでは雛形モデルは示されているものの、ある程度の裁量幅が許容されていることも確かです。
 仮にその先輩をA氏としましょう。A氏のモデルは典型的な「文科省の推奨事例」に合致したものと一致します。つまり基本的な部分を先ずはマスターして、オリジナルを出すにはそれからですよ、とのアドバイスに基づいているといえます。
 歌舞伎には「型破り」との言葉がありますが、これは「歌舞伎の歴史の中で作られてきた形式やスタイル」を習得した後でない限り、これが自分のスタイルだと自慢しても、それが実際には百パーセントのオリジナルであるなどと自信を持って言えない。だから自信を持ってお客様に見せる程の芸ではないとの誡めの言葉です。
 今年初めて教壇に立つのであれば、それはまだインターンと同じ状態ともいえます。民間企業ならば研修期間も始まったばかりの状態と同じです。
 もし今、自信満々にあなたのオリジナルで授業を行った結果、生徒児童に誤解を与えてしまいかねない授業内容だったならば、生徒や児童はあなたをどう見るでしょう。あの先生が教えてくれた内容と学習塾では聴いた内容が180度逆だった。などの場合にあなたはどの様に説明しますか?
 またあなたが教員に適しているかどうかとの評価にも厳しい眼差しが向けられる危惧もあります。「教師のためのセミナーに参加されているらしく,そういった場で得た教育技法を信奉されている方のようです」これもどうかなと思われます。少なくとも教員歴5年以上ならば、様々な授業運営法に関するだけの引き出しをも持っているはずです。仮に文科省が推奨するスタイルを信奉するように見えても、文科省ベッタリとはいえないでしょう。むしろ自分のオリジナルを批判的に検証する目的でセミナーを活用している可能性もあります。
 大学もしくは大学院で学んできた教育の形と実践の中で培われてきたノウハウの間では相当な開きもあります。机上で学んだ教育理論をそのまま実際の教育現場に適用するためには、実態と理論モデルの間に乖離など微塵もないことが要件の一つともなります。テキストに書かれていた形だけが教育現場の実情を示しているとは限りません。むしろテキストが現実に追いついていない部分の方が多い。
 もし質問者様が、「授業での指導法を押しつけられている」とお感じになるのでしたら、早々に学校教育の現場から離れた方が良いかとも存じます。恐らくは民間企業でも同じ質問を繰り返すでしょう。
 基本を押さえない限り応用問題に対応することが困難であることは、何よりも質問者様ご自身がお分かりの筈です。お気持ちは察しますが、拙速な判断はまだいささか性急かと存じます。焦らずに足元をしっかりと固めて下さい。「基礎の基礎が一番コワイ」そして基礎を固めるのは「今でしょ!」 爆
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教員です。



失礼な書き方になったらごめんなさい。

その先輩、とっても「お節介」なんですよ。でも、それを「いいお節介」にするのも「悪いお節介」にするのもあなた次第ではないでしょうか?

普通は、同僚の授業に「首をつ込んだり」「茶々入れをしたり」はしません。だからこそ、「教師のためのセミナー」と言うものがあるし、わざわざお金を払って受ける人がいる。

私の若いころでも、講師の頃しか「頼まなくても、色々と教えてくれる」先輩はいませんでした。それも大抵が「恩師」でしたが。

教員になったら「自分から尋ねれば、教えてくれる」先輩はいました。皆さん、基本「教えるのが好き」で教師になっているので。^^

>私の授業の展開方法を見て「このやり方は間違い,ここではこうすべき」と言われることがあります。

実際、あなたはその助言を実行されているのですか?

先輩の「物言い」は確かに失礼な部類でしょうが、あなたが「育ってほしい」と思っているのも事実では?

>授業での指導法は教員個々人で異なっていて当然だし,ましてやそれに正誤なんてない。よって,一教員の指導法を他の教員に押し付けるようなことは,たとえ新人相手にでもすべきではない

正論ですが、それならば大学で習う「教授法」は意味のないことを教えている事になりませんか?

あれは長年の経験や、試行錯誤の結果や、心理実験でのデータをもとに組み上げられています。

また、誰もが「自分なりの授業」をしますが、そこへ「他者の視点」を入れるか入れないかで、授業の魅力は変わってくるとは、個人的には思います。

「馬には乗ってみよ。人には添うてみよ」では?

老婆心ながら。
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この回答へのお礼

>あなたが「育ってほしい」と思っているのも事実では?
そのとおりだと思います。そのようなお気持ちをもって接していただける事自体は嬉しく思っています。
しかし,数多ある指導法の中でご自身の指導法が絶対的なものとしてプッシュされることについては解せないです。

>実際、あなたはその助言を実行されているのですか?
見聞きして,共感した他の先輩の指導法は積極的に取り入れさせていただいております。
ただ,その「他の指導法」を実践している私に対し,当該の先輩が「それは違う」と言うのも至極当然の話しでありまして,
自分が良いと思った方法を選択する自由も許されないのかと悩んでいるところです。
すべての先輩方の指導法を取り入れるなんてことは現実的に不可能ですし。

>また、誰もが「自分なりの授業」をしますが、そこへ「他者の視点」を入れるか入れないかで、授業の魅力は変わってくるとは、個人的には思います。
おっしゃるとおりだと思います。自身のやり方が絶対だという錯覚に陥らないためにも。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/19 23:35

 他に誰も来ないので。


 例えばね、教科の教え方ってのは、それぞれのスタンスがあってしかるべきで、教授すればいい。だけど、これは予備校や塾ではそれでいいんだけど、学校はその先生への上っ面の好き嫌い=実はかもし出す信頼度に左右されるんだよね。特にHR指導などではね。
 じゃあ何にかもし出されるかと言えば、そのヒトなり=そのヒトの人生なんだな。勉強ばかりで友達が居なかった者が教える授業は、利用はされても信頼はされない。離婚した先生や、いつまでも結婚しない先生も、生徒も親もどこかで「正しいこと言ってても、なぜか聞けない」。子供がいないときは、正論だけでやっちゃうんだよね。でも、子供は正論だけで育たないことは、自分が子育てしてはじめてわかる。だから、待てる。何を待つかと言えば、失敗や逃げをも待てるんだ。
 先輩は、すべてが正しいことを言っているとは俺も思わない。君が全く理解していないからだ。だけど、その理論はすべてが無駄な話ではない。これは、俺も先輩に言われて、抗おうとして、少しはできたが、ほとんどがそうだと思った経験かな。
 今、それを言う年齢になって、思うんだよ。俺を育てようとイヤなことも言ってくれた先輩は偉いと。なぜなら、俺はあのヒトほど、誰でも教えない。金にならないからこそ勝ちのある人にしかしないと決めているからだ。
 何であろうと先輩のことは黙って聞く方がいい。そして抗えばいい。すべてはできない=先輩が正しいことの方が多いことは絶対に思い知る。
 生徒はよく見ているよ。先輩を大事にしない人は、上っ面でいいカッコをしたいだけだと。
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この回答へのお礼

>先輩は、すべてが正しいことを言っているとは俺も思わない。君が全く理解していないからだ。だけど、その理論はすべてが無駄な話ではない。
理解を拒んでいるわけではありません。しかし,実際にその実践を見聞きした上で共感できないのは事実です。
それだからこそ,結果としてそれぞれのスタンスを有する教員が居て然るべきだと思います。
それではなぜ共感できないか。それは回答者様がおっしゃるように,私もひとつの人格(ヒトなり)を持った人間であり,「押し付け」られずとも,教員として自分の指導法を選ぶ自由があるからです。

>すべてはできない=先輩が正しいことの方が多いことは絶対に思い知る。
ですから,それでは絶対的な指導法(教育の正解)がさも存在するかのような印象を受けてしまいますが。
当該の先輩の方法以外ですばらしいと思える授業をされる方はたくさんおられます。

また,回答者様のお言葉からは「先輩全員」で一括りにされている印象を受けますが,そうではありません。
当該の先輩の方法(A法)に限らず,他の先輩の指導法(B法,C法・・・)もあるわけです。
私が,そのB法,C法・・・に共感し,学び,実践させてもらっているものは実際にあります。
したがって,
>先輩を大事にしない人は、・・・
は断じて違います。

お礼日時:2013/05/19 23:01

教育に正誤はある。

君が先輩から学ばないなら、君は生徒に学ばせられない。矛盾を自分で言っていることにお気づきかね?方法はいろいろあるんだけどね。まだ方法も知らない者が正誤を言うのは、学ぼうとしない者の表れで、俺が先輩なら辞めていただきたい部類決定だな。
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この回答へのお礼

>教育に正誤はある。
とのことですが,これの根拠は何でしょうか。
教育は様々な価値観を持った”人間同士”が対面して行われるものです。
モノ相手の場合のように科学的に,つまり客観的に数値化できる(つまり絶対化できる)評価方法などはありません。
これは,教員評価制度にまつわる議論をご覧になれば明白なことだとは思います。

>方法はいろいろあるんだけどね。まだ方法も知らない者が正誤を言うのは、学ぼうとしない者の表れで、
やり方には色々あり,各人のやり方は尊重されるべきだと思います。(それは前に書いたとおりです)
ただ,自身のやり方を絶対視し,他者に「押し付け」られるのは,それはそれで「学ぼうとしない者」の姿勢とは言えないでしょうか。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/19 21:00

 教えなくてどうする?授業中そいつがずっと監視するわけでもあるまい?その先輩のやり方をコピーするのはもってのほかだが、「一教員の指導法を他の教員に押し付ける」としか受け取れないのは、ヒトを教える仕事以前にヒトとしてダメだと思うよ。

コピー授業なんて現実できないからね。
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この回答へのお礼

教育という正誤のない営みに対して,色々なスタンスがある事自体は然るべきことだと思いますし,尊重したいと思います。
ただし,正誤がないからこそ,他者のやり方を否定し,自身のやり方を絶対視されているような物言いには疑問を感じます。
そして,この場合の「他者のやり方を否定し,自身のやり方を絶対視されているような物言い」は「押し付け」にほかならないとも思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/05/19 19:42

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