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アメリカの奴隷制度の実態はどのようなものだったのか教えて下さい。

僕は歴史に全然詳しくないので、これは素人の質問であることをご了承ください。


アメリカで奴隷制度が廃止される前の黒人の生活実態はどのようなものだったのですか?

例えば奴隷制度といっても、実際には働いた分賃金をやり取りする雇用形態の形をとっていたのですか? それから黒人の労働市場は誰がどんな形で取り仕切っていたのですか?

それからもう1つ疑問なのが、現代日本の感覚で「奴隷」と言うと、完全に人権のない家畜のような扱いを受ける存在という意味で使われたりしますけど、本当にそんな扱いを受けていたのですか?

「風と共に去りぬ」とかを読むと、確かに当時は白人と黒人の身分が違う社会だということは明確に分かりますけど、案外、白人と対等に生活している黒人もいたりして、少なくとも今の日本人がイメージする「奴隷」というのとは大分違うのかなあと疑問を感じました。

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A 回答 (4件)

アメリカの奴隷制度を語るためには、古代からつづく地中海世界の奴隷制度を確認しておく必要があります。



紀元前の時代から「奴隷制度」というのはありふれた制度であったといえます。奴隷の多くは、アテネなどの都市国家から離れたアフリカ大陸や未開なゲルマン民族やスラブ民族であったものの、都市国家間で戦争がおき、負けたほうの市民が奴隷として売られることも多くありました。
また海賊などが船を襲ったときに、人質となった人々のうち金持ちは地元から身代金を持ってきてもらって引き換えに開放されたのですが、身代金を払えない人々は奴隷商人が買い取って、地中海から離れた中近東などに売っていたようです。

これらは1世紀ぐらいには、かなり高度に組織化されており、ローマ帝国の奴隷にはアフリカ出身の肉体労働者から、ギリシャ出身の教師の奴隷や医者の奴隷なども居たようです。また、奴隷には賃金がある程度払われており、それを元手に儲けあるいは宝くじを当てるなどして、主人にお金を払い奴隷身分から開放されたようです。
 
 またプランテーション的な農業が多かった地中海世界では、奴隷は労働力として必要だったものの、積極性は皆無だったため、馬牛などを使った場合の生産性と奴隷を使った場合の生産性について議論した同業経営書などもあったようです。

いずれにしても「奴隷」の地位は、主人の所有物であり、馬や牛などの家畜と変わらない存在でした。3世紀ぐらいの奴隷の価格は30万円前後であり、家畜を飼うほうがいいか奴隷を飼うほうがいいか、というものだったと思います。


時代が下がって中世のヨーロッパにも奴隷性が残っていました。この奴隷性の特徴はほぼ古代と変わらないのですが、供給先がアフリカとスラブ民族に変化していきます。また、当時のヨーロッパは相対的に貧しい地域でしたので、中近東などから宝飾類やスパイスなどの輸入に対して、奴隷を代金代わりに払っていたようです。
アラブ諸国では、白い肌が珍重されるために特に女性は高値で買われていたようですが、これは現代のニュースにも同じ側面が出ています。

わずかな金額で買われる少女予たち:http://japanese.ruvr.ru/2012_11_29/96332677/

アメリカ合衆国が独立すると、ほぼすぐに黒人奴隷が供給されるようなります。このときに供給したのはヨーロッパに存在する奴隷商人だったことでしょう。
アメリカは広大な土地があったため、労働力がいくらでも必要だったからです。

奴隷制度そのものもヨーロッパの制度とほぼ変わらなかったと思います。重要なのは
・奴隷は主人の所有物であること
・奴隷の子供も奴隷であること
・奴隷の生殺与奪権は主人にあること
です。

先ほど書いたように、奴隷の労働力を向上するためには多少の娯楽必要になりますので、小遣い程度の賃金を与え、日常的な楽しみは享受できた、という場合も多いようです。
しかし、アメリカ南部のなにもないプランテーションで働く奴隷には、娯楽もなにもなく掘っ立て小屋で寝起きをする暮らしの人々もいました。
 これらの処遇は、主人の資質によるところが大きく、それは古代から同じでした。

アメリカの奴隷制度を特長つけているのは、黒人法という法律でしょう。アメリカには独立当初からわずかですが自由人としての黒人がおり、また奴隷から解放された黒人もわずかながら増えていきました。
 ヨーロッパでは(実際に差別がなかったとはいえませんが)、肌の色で差別する法律は無かったのですが、アメリカには黒人法(black code)が制定されていました。

この法律が制定されたのは、皮肉なことに奴隷解放を是非とした南北戦争の後のことであり、憲法で奴隷制を廃止したのにも関わらず、黒人法で差別することになっていったのです。

つまり、私たちの知っている奴隷制というは、南北戦争までの「主人が所有する」という奴隷性と、戦後の黒人法による実質的な差別の二つに分かれます。

以後は黒人法による「実質的な奴隷制」の継続の根幹です。
黒人法は多岐にわたる法律の総称なのですが、その内容は
・選挙権の実質的な剥奪 投票税などで黒人の投票権を縛った
・異人種間の通婚の禁止 白人と黒人が結婚することを禁止した
・教育の分離      白人と黒人は教育する場所を厳密に分離された。
・公共施設の隔離    鉄道・バス・レストランなどの場所を分離した。
・武器の所持や夜間外出の禁止
・徒弟法        黒人が労働する際に、お礼奉公を義務つけるなど、実質的な職業の自由を奪った。

これにより、黒人は白人とは違った「2級市民」の扱いをうけ、特に南部の奴隷出身者は、実質的にそのまま主人の元で働くことを余儀なくされました。
また、黒人が自立して働き、個人の権利を確立することはかなり難しかったと思います。特に教育で差別され、賃金や選挙権で差別されているのですから、実質的に奴隷と同じだったといえます。
ただし、元々自由民だった黒人も少数ながらいましたし、北部では(黒人が元々少ないが)かなり自由に生活が出来ていたといえます。

これらの黒人法は1866年(南北戦争終戦の翌年)から数年で公布され、南部11州で常態化していきます。
これが解消されるのは1964年の公民権法が施行されてから、ということになり、この法律が施行されてからまだ50年たっていないことになります。

今でも黒人差別は南部が激しく、北部は比較的穏やかです。しかし、それ以外にも黄色人種差別やヒスパニック差別などもあり、白人優位主義が消えたわけではありません。
 
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございました。解説は大変参考になりました。1964年まで黒人法という差別法が存在していたことに大変驚きました。

僕は歴史に詳しくないので飽くまでも素人の疑問なんですけど、ほんの50年前まで法律で差別されていることに当の黒人達は怒りや疑問を感じなかったのでしょうか?なぜ大々的な抗議や暴動が起きなかったのでしょうか?

僕のように現代日本で生まれ育った者の感覚では差別などあってはならないというのが常識的感覚ですけど、でも当時のアメリカのように、差別をする法律がある社会環境の中で生まれ育つと、やはりそれが常識として国民に受け入れられていたのでしょうか?

お礼日時:2013/05/23 08:01

#3です。

お礼ありがとうございます。以下補足です。

>ほんの50年前まで法律で差別されていることに当の黒人達は怒りや疑問を感じなかったのでしょうか?なぜ大々的な抗議や暴動が起きなかったのでしょうか?

アメリカの黒人たちは当然怒りも疑問も持っていましたし、暴動も数多く起こっています。
怒りについては、たとえばびりー・ホリディの「奇妙な果実」という歌があります。果実というのは木になるものですが、奇妙な果実とは白人にリンチされ木に吊るされた黒人の痛ましさを歌った曲です。

また、アメリカにはソウル・フードというのもありますが、これは黒人が粗末な食料をなんとかおいしく食べようと工夫したものですし、ジャスもアフリカから連れてこられた黒人たちが自分たちの音楽を継承して作り出したものです。

これらにはすべて「虐げられた黒人の怒り」が込められています。

しかし、実際のところ暴動を起こしてもなにもできなかったが実態でしょう。白人は銃を持っているのに対して、黒人奴隷には武器はほとんどありませんでした。また、暴動を起こすにしても、兵器や戦術などの知識を持った黒人奴隷はいませんから、結局、警察隊などに鎮圧されて終わりになるわけです。

しかし、黒人法制定後、散発的に暴動は起こっているはずですし、それが史実に残っているものはほとんどない、といえます。

しかし、1945年に太平洋戦争が終わると、アメリカ国内でも自立という考え方に転換期がきます。日本とアメリカが戦争をした地域が積極的に独立をし始めるからです。
アメリカはソ連とのイデオロギー戦争で民主主義国家を増やしたいために、独立を支援していきました。
そのアメリカ国内で黒人を差別しつづけているのでは、独立したアジア人国家や黒人国家から見て、非常に矛盾に見えたたため、アメリカ国内でも「植民地と同様の搾取が行われているのはおかしい」という考え方が広がりはじめました。
黒人法は、黒人だけでなく有色人種をすべて差別する法律ですから、独立したアジア人がアメリカ国籍を取得すると、また差別されるという矛盾があったからです。

そこに力を得たのが、公民権運動と呼ばれる黒人を中心とした(もちろん白人の知識層も後押ししていきます)運動で、有名なのはルーサー・キング牧師などの運動ですが、さすがに公民権運動を説明すると長すぎてしまうので、そのあたりはwikiなどを参照してください。



>僕のように現代日本で生まれ育った者の感覚では差別などあってはならないというのが常識的感覚ですけど、でも当時のアメリカのように、差別をする法律がある社会環境の中で生まれ育つと、やはりそれが常識として国民に受け入れられていたのでしょうか?


そもそも「人は生まれながらにして平等」という考え方自体が16世紀の啓蒙主義の後のことです。
それ以前は、王族・貴族・庶民と階級が違うのは当たり前、信じる神が違えば「同じ人間」とはいえなかったですし、そもそも民族が違えば「人」として扱うこともありませんでした。
これは異民族同士が争い、様々な宗教が入り乱れている大陸では普通の考え方だったといえます。

ですから、以前書いたように古代から力の弱いものは奴隷だったわけです。奴隷なら実際にはまだいいほうで、戦争があれば「勝者の権利」として、負けた民族を滅ぼすこともできたのが古代の戦争だったからです。

ですから、現代でも世界的には「差別」があるほうが普通です。日本人は島国で、せいぜい在日特権を批難程度の軋轢しかありませんが、どの国でも「すべての人は平等」という概念はあっても、実際には差別が残っています。

在日差別のことを言えば、最近日本でもヘイトクライムの問題が出ていますが、それを罰する法律がなかったほど差別が少なかったといえるわけです。

ちなみに、日本人だって差別されます。アメリカやオーストラリアには、いまだに有色人種を嫌う白人がいます。理屈ではなく感覚で嫌いなのです。
そういう人も、一応「どの人も平等」という概念はありますので、社会で生活する分には、それを隠していますが、アジア人がレストランに入ると席を立って出て行くとか、酔っ払って因縁つける、とかいろいろな人がいます。

外国(白人の国)に住んだ経験があれば、一度ぐらいは誰でも経験しているでしょう。ちなみに私もアメリカ滞在経験がありますので、そういう経験があります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。差別が世界中に存在していて、むしろ歴史的経緯から見れば差別は常態化していた(している)ことが分かりました。

お礼日時:2013/05/24 07:00

    下記の写真などをご覧下さい。


    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1% …
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Qアメリカの南北戦争って結局は黒人奴隷の取り合いだったの?

様々な歴史書で紹介されていますが、アメリカの南北戦争は、黒人奴隷制に対する南北間の主張の対立が原因だったと聞きます。

つまりプランテーション農業に要する奴隷の固定化を主張する南部と、工業化が進み労働力の流動化が求められる北部という対立ですね。

子供の頃に読んだ偉人伝で、リンカーン大統領は黒人奴隷を解放しようとして南部に戦いを挑み、その結果勝利し、黒人開放へと歴史は進んだと教えられました。

でもハッキリ言って、当時小さいながらもアメリカ白人が黒人奴隷を解放するために、なぜ戦ったのか不思議に感じていました。  普通考えるとあり得ないですよね。  あまりにもキレイゴトすぎるというか ・・・ もし自分が北部の白人兵士だったら、黒人奴隷を開放するために戦場に行って南部の白人と戦えますか?

結局は62万人もの犠牲を出して戦争は終結したのですが、朝鮮半島のように同胞どうしが国内で戦う悲惨な歴史をアメリカはもっているわけですよね。

そこでお聞きしたいのですが、有体にいってアメリカの南北戦争とは結局は 「黒人奴隷による安価な労働力」 を南北で取り合ったというのが正しい考え方でしょうか?

もしそうなら、リンカーン大統領はなぜ偉人というか歴史に残る大統領として今でも語り継がれるのでしょうか?

仮に 「たしかに労働力の取り合いだったとしても、結果的に奴隷制の廃止、またその後、黒人奴隷の人権も認められるキッカケになったじゃないか」 という意見があったとしても、実際にアメリカで黒人が白人同様の人権を認められるのに南北戦争後、約100年以上もの時間を要しているわけすよね?

つまり奴隷解放、人権回復というのは南北戦争がなくても20世紀に入ってからの時代の趨勢で実現されていたというか ・・・

それとなぜ英語では南北戦争ではなく、Civil War (市民戦争?) と表現されるのでしょうか?

様々な歴史書で紹介されていますが、アメリカの南北戦争は、黒人奴隷制に対する南北間の主張の対立が原因だったと聞きます。

つまりプランテーション農業に要する奴隷の固定化を主張する南部と、工業化が進み労働力の流動化が求められる北部という対立ですね。

子供の頃に読んだ偉人伝で、リンカーン大統領は黒人奴隷を解放しようとして南部に戦いを挑み、その結果勝利し、黒人開放へと歴史は進んだと教えられました。

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Aベストアンサー

南北戦争の原因は諸説いろいろありますが、非常に単純化すれば、北部の新興工業地域と南部の大規模農業地域の対立ということです。

アメリカの農業は既に工業化が発達しているイギリスへ原料となる綿等の原料農産物供給をすることにより発達しました。
南北戦争以前から南部ではイギリスへの輸出のための綿花栽培のプランテーションが大規模に行われていました。南部の大規模農業は奴隷制に支えられ、非常に生産性が高く、安価な農産物を大量に生産できました。競争力ある南部の農業は自由に輸出したいですから自由貿易を望みます。
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南北戦争とはこのような国内産業のあり方、対外政策のあり方をめぐっての戦争だったわけです。
だから南北戦争では北部は南部に打撃を与えるための戦術として奴隷解放を主張したと思われます。(現に「勝つためなら奴隷のことなんてどうでもいい」というような発言も残っています。)

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Q白人はどうして黒人を差別するのでしょうか?

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どうして白人は黒人を差別するのでしょうか?

日本では、ボビーオロゴンやビリー隊長とか
大人気だし。野球でも黒人が大人気なのに
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私にはどうしても分からないのでよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 まずアメリカは国土が広大で地方分権も進んでいるので地方によって人々の考え方が大きく異なり、アメリカと一口に言っても州や地方によって差別の現状は大きく異なる事と、アメリカにおける人種差別をもって白人全ての人種差別を語る事はできない事を申しあげておきます(北部ヨーロッパやイベリア半島では人種差別差別はまた違う様相を呈しています)。
 それとビリー・ブロンクスは大学教育を経て社会的に成功している黒人で、ボビー・オロゴンはナイジェリアの富裕層の出身です。一般的に差別を受ける黒人系アメリカ人とはその立ち位置は大きく違います。
 アメリカでの黒人差別は様々な要素が複合的に絡まりあって成立しています。差別の原因となっている要素を幾つか列挙してみます。

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かつて白人は黒人をアフリカ大陸から連れ出し(多くの場合、奴隷化したのは現地のアフリカ人達なのですがややこしくなるので割愛します)奴隷として過酷な労働条件で使役してきました。これを根源的な原因として加害者だった自分達白人を黒人は憎悪しているのではないかと考え、それ故に黒人との共存や黒人の社会進出を苦々しく思う白人は常に一定数存在します。

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 これとは違いアメリカでは人種・文化の混合が行われませんでした。原因については不勉強なのでなんともいえませんが(カルバン主義やアングロサクソンの島国根性が関わっているのかもしれません)、一部の白人にとって黒人が“同じアメリカ人”では無く“国内に居住するよそもの”的な存在になってしまった事は否めません。

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Q黒人奴隷と良好な関係の持ち主もいた?

映画を見てると黒人の召使と関係良好な旦那様やその一家なんかが出てきます

実際にそういうのはありえたんでしょうか?

奴隷の悲惨さが伝えられていますが実際はどうだったんでしょうか?

Aベストアンサー

 アメリカ合衆国南部においてご存じのように白人入植者が農園開発をする際の
労働力として黒人を奴隷的に使役しました。

 ここで重要なのは黒人奴隷を購入する白人は2つに大別されるということ。
一つは「アンクルトムの小屋」にみられる大農場主たち。この物語では、
比較的に優しい扱いをする白人農場主一家なのですが、トムはお嬢様の行為に
侮辱を感じました。それは彼女が部屋にトムを呼んで招き入れた時に下着姿で
平気だったこと。つまり彼女はトムに親切で優しくはあったけれど人間扱いは
していなかった。人間扱いしなければ人はいくらでも残酷になれるのは自明。

 片方、貧しい白人農園主も多くいた。彼等にとって一人の黒人奴隷を買うのは
全財産をなげうつほどの行為で黒人奴隷は貴重な存在。衣食住を共にして共に
何十年も働く仲となる。自然人間らしい感情の交流があったでしょう。
 奴隷状態で給与無しの強制労働で人生を終えさせられた黒人は悲惨としか言い
ようがないけれどそれでも黒人同士、優しい白人との交流は温かいものであったはず。



 

Q南北戦争、なぜ北部は奴隷制を嫌がった?

タイトルの通りの質問内容なのですが。。。
Wikipediaで南北戦争を調べてみたところ

それに比べ、北部では米英戦争(1812~14年)による英国工業製品の途絶でかえって急速な工業化が進展しており、新たな流動的労働力を必要とし奴隷制とは相容れられなかった。また、欧州製の工業製品よりも競争力を優位に保つために保護貿易が求められていた

とありました。わからないのが、
・流動的労働力と奴隷制はなぜ相成れないのか?
(というかそもそも流動的労働力の定義は何か?)
・工業産業はその流動的労働力というものを要するのか?
の2点です。
一方で南部の綿花栽培が奴隷制を必要としていたのはなんとなくイメージできます。

さらにもう1つ疑問があるのですが、リンカーンなど北部の政治家が
奴隷制に反対していたのは主に人道的理由からでしょうか?
それとも↑のような、経済的な理由が主なのでしょうか?

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

流動的労働力とは、自由意志で移動できる労働力。南部の黒人奴隷は所有者の農地に固定されていましたので、奴隷制を廃止したら多くの黒人が北部へ移動し、北部の労働力不足が解消されると期待されました。
もちろん、そうなると南部の農場は人手不足になります。

南北戦争継続のため、黒人奴隷を解放して正規軍に入れようとする動きは、南部(連邦)側が先でした。南部で実現できたかは疑問ですが、その情報を得たリンカーンが先手を打ったものです。個人的な心情とは関係なく、軍事的・政治的理由です。

Q黒人奴隷について

18世紀末にアフリカから年間5~8万人の奴隷がカリブ海や南北アメリカに連れて行かれたそうです。

私が疑問に思っていることは、どうして黒人は白人に対して抵抗をして、連れて行かれることを阻止できなかったのか、そして、なぜ多くの黒人を黒人の数よりも少ない人数の白人が支配できたのかということの2点です。

知っている方がいらしたら、どうか教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

黒人が連れて行かれる事を阻止できなかったのかという事については、白人の奴隷商人に黒人の支配者(国王や部族長)が、敵対する国や部族の黒人、自国に不必要な黒人を貿易の商品として引き渡すという奴隷貿易に加担していたという面があり、黒人の全てが奴隷貿易に反対の立場ではなかったという事があります。

当初、白人の奴隷商人はアフリカの黒人の国や、黒人の部族長にところに、交易品として帽子や銃や装飾品や布、食料を持っていき、奴隷が欲しいと要望すると、その国や部族長は社会に不必要な犯罪者を渡したり、他部族に戦争を仕掛けて捕虜を得てそれを渡したり、他部族の子供を誘拐して渡したりしました。その取引する規模が拡大するにつれて白人の奴隷貿易の拠点としての港がアフリカ沿岸に幾つも確保され、そこで黒人奴隷の取引が大々的に行われるようになり、黒人奴隷を供給する黒人の国や黒人の部族がその貿易で潤う事になります。
つまりアフリカの黒人は反奴隷貿易で一つにまとまっていたわけではなく、自国や自分の部族が潤うために、他の黒人を白人に奴隷として売り渡していた国や部族がいるという情勢でした。黒人が連れて行かれるのを阻止するどころか、同じ黒人が奴隷貿易に加担していたのです。だから阻止できませんでした。
ただし、この事に心を痛める黒人の国王もいました。コンゴのムベンバ王は1526年にポルトガル国王に奴隷貿易をやめるよう手紙を送っています。ただしその効果は全くなく奴隷貿易が止まる事はありませんでした。


なぜ多くの黒人を数の少ない白人が支配できたのかという点については、簡単に言えば武力による支配です。

アメリカ南部では1791年~1810年の20年間だけでも40もの黒人奴隷の反乱がありましたが、大きくなる前に鎮圧されています。以後も1831年のターナー暴動事件などが起こりましたが、これも軍が出動して100人以上の黒人を殺害して反乱が大きくなる前に潰されています。
訓練され優れた武器を持つ軍隊の前には、たいした武器を持たず組織化されてもいない奴隷の反乱の成功は難しいという事でしょう。

ただし奴隷の反乱が成功する場合もあります。それが1804年に独立を宣言したハイチです。
ハイチはフランスの植民地でしたがアフリカ黒人奴隷が反乱を起こし白人の支配から脱しました。
「ハイチ革命」とも言われます。

「ハイチ革命」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%81%E9%9D%A9%E5%91%BD
ただハイチ革命の場合はフランスが全力でハイチの反乱を鎮圧できる状況になかったという点もあるかと思います。

ところで、人口についてアメリカの場合一言言うと、黒人の人口が白人の人口を超えた事はありません。
アメリカは1865年に奴隷制を廃止しますが、その5年前の人口では白人は2692万人で黒人は444万人であり、白人にたいして黒人は約6人に1人程度の割合でしかいませんでした。
ですからアメリカの場合は多数の白人が少数の黒人を支配したというのが正しいかと思います。
なお、黒人のアメリカでの反乱は前述したように失敗していますが、白人の支配から抜け出すために逃亡するという手段があります。その逃げた黒人奴隷はかなりの数に上ります。
アメリカでは1830年~1860年までの30年間だけでも6万人もの黒人奴隷が逃亡しました。彼・彼女達は逃亡する事によって自由を獲得しようとしました。
この逃亡という行為こそ黒人奴隷にとって主要な抵抗形態だと言う人もいます。

黒人が連れて行かれる事を阻止できなかったのかという事については、白人の奴隷商人に黒人の支配者(国王や部族長)が、敵対する国や部族の黒人、自国に不必要な黒人を貿易の商品として引き渡すという奴隷貿易に加担していたという面があり、黒人の全てが奴隷貿易に反対の立場ではなかったという事があります。

当初、白人の奴隷商人はアフリカの黒人の国や、黒人の部族長にところに、交易品として帽子や銃や装飾品や布、食料を持っていき、奴隷が欲しいと要望すると、その国や部族長は社会に不必要な犯罪者を渡し...続きを読む

Qユダヤ人はどうして嫌われているのでしょうか?

映画「ホテル・ニュー・ハンプシャー」で、
「このホテルにユダヤ人がいるんじゃあるまいな」という
発言がありました。
シェイクスピアの「ベニスの商人」もユダヤ人です。
チャップリンの初期の映画にもユダヤ人をばかにする人種差別的ギャグがあるそうです。
ヒットラーにも嫌われました。
どうしてユダヤ人は嫌われるのでしょうか?
イエス・キリストがユダヤ人なのですが、白人はそう思ってないのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

いくつかありますが・・・
ユダヤ教の中における考え方に「選民思想」があります。簡単に言えば自分たちが優勢人類だ、という代物なのですが・・・
これをもっている民族はたいがい他の民族と仲良く出来ません。
理由は簡単です。本来同等の立場であるにもかかわらず自分たちのほうが上であるという態度を取っているのですから、嫌われるのはある種当然といえましょう(この選民思想に近い思想を持っている民族はすべからく嫌われています。このごろは減りましたがまだそういったのを持っている日本人も同様です。気をつけたいものです)。

さらには独自コミュニティを形成してそれを崩そうとせず、あくまで頑なにユダヤであるということを固持してきました。
これは、キリスト教という緩やかなつながりでつながっていた西ヨーロッパ圏では、ユダヤという存在は異端という点がその場に存在しているようなものです。
日本でもそうですが・・・自身たちとは違う風貌、習慣を持つ人は少なからず煙たがられる傾向があります。
さらには、銀行業などの当時「卑しい」とされていた職業で設けていました。余所者に自身たちの金を吸い上げられるのですから、決して面白いわけはありません。

もう一つが、政治的要因。
政治で、国民の不満をそらす方法に、悪役をつくる、というのがあります。
簡単に言えば、こじつけでも「~が悪い」というのをつくれば、そこに国民の不満がいきますから、政府とかそういったお上に攻撃がこなくなります。
で、ユダヤはキリストを十字架送りにしたというのがありますから、非常に悪役に仕立てやすいのです。上に書いた民族的な特徴も仕立てやすい理由です。

大体、嫌われる、あるいは嫌われている人、民族には共通項があります。
1.お金にうるさい(理由はともあれお金をためる人全般)
2.異文化的である。または異文化の性質を強く持っている
3.異郷の地でがっぽり稼ぐ人
4.郷に入らば郷に従えを実践しない人
5.自分たちのほうが偉いと少なからず思っている人
などなど・・・
ただ、こうやって見るとわかるように、どこぞの民族も似たようなことをやっています(車をアメリカで売りまくって、ご当地の車会社から白い目で見られたりする国です。まあ、いまはあまりやらないのかな・・・?)。
結局、嫌われる民族か、そうでないかというのは、ある意味紙一重なところがあります。
ユダヤが嫌われているのは、これらを満たしてしまっているせいと、国を持たなかったという地政学的悲劇のためと考えています。

いくつかありますが・・・
ユダヤ教の中における考え方に「選民思想」があります。簡単に言えば自分たちが優勢人類だ、という代物なのですが・・・
これをもっている民族はたいがい他の民族と仲良く出来ません。
理由は簡単です。本来同等の立場であるにもかかわらず自分たちのほうが上であるという態度を取っているのですから、嫌われるのはある種当然といえましょう(この選民思想に近い思想を持っている民族はすべからく嫌われています。このごろは減りましたがまだそういったのを持っている日本人も同様で...続きを読む

Q南北戦争の原因とその後の発展への影響について

アメリカの南北戦争が起こった原因として、北部と南部の産業(商工業と農業)、貿易政策(保護貿易主義と自由貿易主義)、政治体制(連邦主義と州権主義)、奴隷制(反対と賛成)を巡る対立などが一般的に知られていますが、これらの要因は具体的にどのようにして形成されたのでしょうか?
また、実際戦争には北部が勝利しましたが、もしこの戦争で南部が勝利していれば、今でも北部と南部の対立が続き、二度の世界大戦にも参加せず、現在のように全世界にこれほど大きな影響力を持つ大国には成り得なかったという意見が多く聞かれますが、これらの推測を裏付ける証拠としてどのようなことが考えられますでしょうか?
近い内の特別授業での発表内容の参考にしたいと思っていますので、皆さんのご意見よろしくお願いします。

Aベストアンサー

漫談です。

南北戦争はサムター要塞事件で本格化するのですが、まずは南北とも、

「まずいなあ、とりあえず兵隊集めなきゃ」

なんです。両方とも出だしはグダグダなんです。が、ひとつだけ大きな違いがありました。
北部、連邦はハッキリとリンカーンが「南部の軍事的撃滅。連邦再統一」という方針をもっていました。
方や南部は最後まで戦争目的が明確ではなく、最初の内は「南部が所有する資産防衛」という曖昧なまま進みます。南部は戦争初期における将軍の質以外、全ての面で、実は食料生産力でも劣っていたので、このような不明瞭なドクトリンではもう負けるしかないのです。
南部の勝利は、戦争途中の連邦大統領選挙でリンカーンが落選する以外、チャンスすらありません。

南部は漠然と、南部の綿花供給能力で欧州列強に国家として承認してもらい、北部と停戦して独立できたらいいな、が、まあ目的といえば目的なので、万が一、ゲティスバーグでリーの率いるノース・ヴァージニア軍が北部のポトマック軍を破滅的に粉砕していたら、欧州が

「おれたち南部から綿花ほしいから、戦争やめてくれ」

と言ってくれたかもしれません。ここで戦争が止まったら(終わったらに非ず)、なんとなく気まずい間柄の北部と南部が北アメリカ大陸で共存し、ゴタゴタ続きの大陸国家として歩むのではないかと思います。

戦後は、パナマ運河掘削、対スペイン戦争、ハワイ、フィリピン、日本、アラスカ対策などができなくなると思います。
で、結局これらの政策のため、「合衆国」としてある時点でまたまとまるようなオチではないでしょうか。

でも、ゲティスバーグのとき、実は名将リー、お腹くだしているので、これは大分無理があると思ってください。北部は南部を確実に撃滅できる国力があるので、勝つ戦争を捨てることはないでしょう。

漫談です。

南北戦争はサムター要塞事件で本格化するのですが、まずは南北とも、

「まずいなあ、とりあえず兵隊集めなきゃ」

なんです。両方とも出だしはグダグダなんです。が、ひとつだけ大きな違いがありました。
北部、連邦はハッキリとリンカーンが「南部の軍事的撃滅。連邦再統一」という方針をもっていました。
方や南部は最後まで戦争目的が明確ではなく、最初の内は「南部が所有する資産防衛」という曖昧なまま進みます。南部は戦争初期における将軍の質以外、全ての面で、実は食料生産力でも劣ってい...続きを読む

Q夫がネオナチです。

40代の夫は、いわゆるネオナチです。

もちろん結婚するまで、このような強い思想を持っているとは知りませんでした。

ヒトラーを崇拝し、自らもそのような人物になりたい。
自分の子供に、「ハイルヒトラー」と叫ばせたいと。
私もいろいろ勉強しました。
現在でも、賛否両論、喧々囂々、さまざまな解釈がされていますね。

無知なときにはただ、独裁者であることと、大量虐殺を行った人物であることしか知らず、ただ恐れていましたが、少し勉強して、彼の生い立ちや、歴史的背景などがわかりました。

私の結論は言うまでもなく、ヒトラーはコンプレックスを大きく抱えた異常者であるということです。(差別感をあのように現実化する)

どんな言い訳も、通用しないと思います。

また、形式美をたたえる向きもありますが、愚の骨頂です。

もう何年も夫を説得してみましたが、変わりません。
この際個人の思想は尊重します。

子供に悪影響を及ぼすことだけが心配でなりません。
ヒトラー崇拝の方、なぜ?どんなきっかけでそのような思想に?

教えてください。

また、同じ境遇で、子育てされた方、経験談、アドバイスなどいただきたく思います。

40代の夫は、いわゆるネオナチです。

もちろん結婚するまで、このような強い思想を持っているとは知りませんでした。

ヒトラーを崇拝し、自らもそのような人物になりたい。
自分の子供に、「ハイルヒトラー」と叫ばせたいと。
私もいろいろ勉強しました。
現在でも、賛否両論、喧々囂々、さまざまな解釈がされていますね。

無知なときにはただ、独裁者であることと、大量虐殺を行った人物であることしか知らず、ただ恐れていましたが、少し勉強して、彼の生い立ちや、歴史的背景などがわかりました...続きを読む

Aベストアンサー

ネオナチといってもいろいろあります。
いわゆる「あのころは良かった」というナチス残党組と
失業者を中心とした外国人排斥思想組、若者を中心とした白人至上主義組等ですね。

日本の場合は移民自体が少ないために外国人排斥活動は見かけませんが
若者を中心とした弱者排斥思想は日本でも同じです。いじめや浮浪者刈りは
その典型ですよね。こうして現状に対する不満を外国人や弱者にぶつけるのが
最近のネオナチであり、その大義名分がナチスの政策なんです。
なので単にヒットラーが好きという理由のネオナチは少数派なんですね。
アメリカの有名なネオナチ指導者なんて父親が黒人に殺されたからという
理由でネオナチの活動家になっただけですしね。

御主人が立派なネオナチなら華僑が経営する中華レストランや在日朝鮮人が
経営する焼肉屋への破壊活動は当たり前に実践しているはずでしょう。
そういうことをしないで家でヒットラー最高といっているだけであれば
単なる「オタク」です。心配ありません、この手のオタクはたくさんいます。

軍服を見るとワクワクしてくるというかなんというか
細かい政策云々よりもその時代に対する憧れが中心ですからね。
私の中学時代の同級生にも強烈な国粋主義者がいました。彼の部屋は
日章旗はもちろんのこと満州国の地図、軍刀をたずさえた自分の写真も
貼ってありました。

軍事関係の雑誌を見ればナチス関連のグッズを扱う業者はたくさんいます。
それだけナチス好きな日本人がいるということでしょうが、日本では
あまり外国人排斥活動は見当たりませんね。(たまに在日朝鮮人に対する
いやがらせはありますけど、リンチがあるというわけではないし)
みんな、家やサークルの中で「ハイル・ヒットラー」といっているだけの
ナチスごっこにすぎません。たぶん、女性にはこの手のマニアぶりが
理解できないでしょうが、そんなに実害はないでしょう。

子供は親だけと過ごしているわけではありません。少なくとも両親が
違う思想であれば、成長するにしたがって「アホちゃう」と思いますよ。
ただ、御主人が実際に外国人排斥に対して行動をおこしていて
外国人へのリンチをしているようであれば、それは別の問題ですが。

ナチスについて勉強されているようですが、再度、優生学について
勉強してみてください。ナチスの場合は公衆衛生学と言う場合が多いのですが
この法律を題材に御主人に同意できるかどうか、できるのであれば
堂々と選挙に立候補するように勧めてみて下さい。選挙公約には
「ハンセン病訴訟の国家賠償の反対」として。ヒットラーは権力者では
ありますが、それ以前に政治家です。彼がまともと言える点は自分の主張を
選挙で訴えて権力を握ったことです。御主人がヒットラーのようになりたいのであれば
ちゃんと政治家として活動するべきだと思います。それができないようであれば
やはり、オタクとしか言えず、心配する程のことでもないと思いますよ。

繰り返しますが、問題はネオナチとはヒットラーに対する個人的な評価ではなく、
ナチスが提出した法律、政策の問題です。ヒットラーがどいう人物であったかを
議論するのではなく、政策面で話し合った方が有意義だと思いますよ。

ネオナチといってもいろいろあります。
いわゆる「あのころは良かった」というナチス残党組と
失業者を中心とした外国人排斥思想組、若者を中心とした白人至上主義組等ですね。

日本の場合は移民自体が少ないために外国人排斥活動は見かけませんが
若者を中心とした弱者排斥思想は日本でも同じです。いじめや浮浪者刈りは
その典型ですよね。こうして現状に対する不満を外国人や弱者にぶつけるのが
最近のネオナチであり、その大義名分がナチスの政策なんです。
なので単にヒットラーが好きという理由の...続きを読む

QWord 文字を打つと直後の文字が消えていく

いつもお世話になっています。
Word2000を使っているものです。
ある文書を修正しているのですが,文章中に字を打ち込むと後ろの字が消えてしまいます。
分かりにくいですが,
「これを修正します。」
という文章の「これを」と「修正します。」の間に「これから」という単語を入れたときに,その場所にカーソルを合わせて「これから」と打つと,
「これをこれからす。」
となってしまいます。
他の文書では平気です。
何か解決する方法があれば教えて下さい。

Aベストアンサー

入力モードが「挿入」(普通の入力)から、「上書き」になってしまっているのだと思われます。
キーボードに[Insert]というキーがあると思いますので、1度押してみてください。

Q奴隷階級に給料や休暇は

貿易で売買される奴隷階級に給料や休暇が認められるのは何時代からですか?

Aベストアンサー

ローマ時代の奴隷は、財産や家庭を持つこともでき、奴隷が奴隷を売買したり、自分自身を買い戻したりすることもできました。
奴隷解放制度もあり、後期には全住民の大半が解放奴隷とその子孫という状態になっていました。

イスラム圏ではアッバース朝以来、奴隷軍人制度が確立し、マムルーク朝では君主の後継者が奴隷から選ばれています。
オスマン朝では、奴隷が国家の中枢に位置し、コンスタンティノープル陥落後は大宰相以下、官僚の大半は奴隷出身者です
出典
佐藤次高『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』東京大学出版会、1991年。
鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい」専制』講談社現代新書、1992年。

西ヨーロッパや、中東、アフリカ、アジア、北欧、コロンブス以前の南北アメリカにも様々な形で奴隷制度が存在していたので、一律には言えません。


ご質問を、アメリカ南部での奴隷制度としてお答えすれば、
15世紀のアメリカでは、教育と結婚の権利を与えられ財産を持つことも可能で、低賃金の労働者と言えるものでした。
18世紀になると奴隷の子供は奴隷とする、結婚と財産所有の自由を奴隷から剥奪することとなり、
黒人に対する搾取、残虐行為により奴隷の逃亡、抵抗が大きくなりました。
1830年代になると、白人や自由黒人が組織的に黒人奴隷の逃亡を助け、南北戦争で1865年に南部が降服し奴隷制は廃止され、権利と移動の自由を認められました。

奴隷階級に、権利としての給料や休暇が認められなかった期間は、1710年頃(州によって異なる)から1865年の期間ですが、
実質的には、1964年の公民権法が成立するまで、十分認められているとは言えない状態でした。

http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-3.html
http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-92.htm
http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-90.htm

ローマ時代の奴隷は、財産や家庭を持つこともでき、奴隷が奴隷を売買したり、自分自身を買い戻したりすることもできました。
奴隷解放制度もあり、後期には全住民の大半が解放奴隷とその子孫という状態になっていました。

イスラム圏ではアッバース朝以来、奴隷軍人制度が確立し、マムルーク朝では君主の後継者が奴隷から選ばれています。
オスマン朝では、奴隷が国家の中枢に位置し、コンスタンティノープル陥落後は大宰相以下、官僚の大半は奴隷出身者です
出典
佐藤次高『マムルーク 異教の世界からき...続きを読む


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