土曜の昼、学校帰りの昼メシの思い出

あるグループにて、人が人に危害を加えてはならない理由について掘り下げています。
広くご意見募りたくよろしくお願いします。
なお現段階では下記の理由については形がついています。

・人が悲しむから
 →悲しむ人がいてもいなくても危害を加えることはしてはならないとされている。

・人間は知的な生物だから
 →動物の間では戦ったり傷つけたり殺しあったり共食いしたりしているが、人はそれを「自然の摂理」と呼んで尊重している。
 ではなぜ人間はだめなのか、それは人間に知性があるからだというが、人間も動物である以上「自然の摂理」があるのであり、なくならない犯罪はそれを証明しているのではないか。つまり危害を加えることも尊重されるべきではないのか。

・人間が減ってしまうから(種の存続にかかわるから)
 →過去沢山の動物が絶滅してきたが自らが原因で絶滅したものは記憶になく、自然の変化、外来種による駆逐、人間による乱獲など、外的要因によっている。
 つまり人間がお互いに自由に危害を加えて良いことになったとしても絶滅まで減ることはないので理由にはならないと思われる。

・文明がそれを許さないように作られてきたから
 →過去振り返れば「目には目を」の法典のみならず、マヤにおいても古代エジプトなどにおいても理由があれば危害を加えても良いとされてきた。現代でも理由があれば殺人すら認められる社会もある(イスラムなど)。
 また逆に言えば人間の本来の姿は動物そのものであり、それを集団としてまとめるために制御する必要があり、それが文明となってルールが出来たともいえる

つまり、「人が人に危害を加えてはならない理由」は、人間が集団生活をする生き物であるから?
集団生活するためには互いに憎しみや恨みが募らないようにしなければならないので、原点となる危害を加える行為を制限しているのではないか?

集団を守る必要性は、人間が単独では生存出来ないためであり、それは今も昔も変わっていない。

今のところこのような意見がまとまっています。
お暇なときにでもぜひご意見お聞かせください。

A 回答 (21件中1~10件)

人に危害を加えてはいけない、という価値観を見い出してしまったからでしょう。

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「人類はもともと一つの家族から出発しており、一つの共同体だから。

」というのはどうですか?あまり論理的ではありませんが…。

前の方も指摘してますが、やはり「危害」とは何か、という問題をハッキリさせない限り、この質問の答えは出ないのではないでしょうか?

肉体的な危害と精神的な危害を分けて考えているようですが、その2つにそれほど明確な違いがあるとは思えません。肉体的な危害のほとんどは、その根を精神的な危害に持つように僕は思います。

だから、「なぜ、人に危害を加えてはならないのか」という質問を突き詰めていくと、結局「なぜ、人は人に危害を加えるのか」、あるいは、「そもそも、危害とは何か」という質問に発展していくのではないでしょうか?
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>集団を守る必要性は、人間が単独では生存出来ないためであり、それは今も昔も変わっていない。



 それは不十分だと思います。なぜって、それならば利害関係を共有していない相手には、何をしてもよいことになる。日本国内で、こういう弱者は結構います。
 ・外国人=裁判がまともにできない(嫌なら国から出て行ってとか言われる)、
 ・子供=証言能力さえ乏しいとされる、
 ・キャリアのない女=離婚すれば貧困に落ちる可能性が高い、
 ・法律知識が皆無の大人=マンガの「カイジ」みたいに人身売買されもどうやって抗議していいのかさえ分かっていない、

まあ、そういうわけで、
 ・外国人の子供、
 ・法律知識のない、キャリアもない女、
 ・法律知識も、学歴もない男、
を鴨に狙った商売はいくらでもあるでしょう。

 一例としてアダルトヴィデオなどを見てみると、どう考えてもおかしい。身体が破壊されるようなら、違法だとして訴訟しておかしくない。仮に橋下徹のようなやかましそうな弁護士が同じ目にあったら、訴訟して会社どころか業界全部を潰してしまうのじゃないか。
 しかしそれができないのはなぜか。被害者が弱いからです。訴訟するにはどうしたらいいのかも分かっていない。しかし児童ポルノだとか、人身売買とかは法的に一切禁止されています。相手を搾取しても報復される可能性は少ないにも関わらず、それを禁止しているのは、やはり別の考えがあるのです。

 ちなみに日本人はその「別の考え」とやらに思い至らないようです。だからフィリピンに行って未成年を買春し、東京で少女買春をし、挙げ句の果てに実質的な人身売買を繰り返しています。なぜか。罰せられる可能性が低いので。
 商売根性がたくましいというか、合理的というか、極めて特殊な民族です。いや、外国人もそれをしているかもしれませんが、罪の意識を感じているでしょう。日本の特殊なところは、例えば広告です。おおっぴらにポルノまがいの広告が電車の車両に貼ってある先進国なんて、そうそうありません。なぜそうしているか。違法ではないから。その先に議論を進めようという気もならない(笑)。想像力が欠如しているんですよ。奇麗な車内になっていたら、どんなに精神衛生がよいかが分からない。子供や女に配慮したら、どんなに社会が豊かになるかが想像もできない。

 私も日本人なので、何とも困ったなとしか言い様がないところです。しかも日本という国を捨てる気にもならない。浮世絵とか、文楽とか、好きですからねえ。人間は悲しい人が多いけれどね。せいぜい、自分がそれと同じことをしないように気をつけないとならないなと日々思っています。「別の考え」とやらは、敢えて言いません。どうぞお考えを。私はあなたみたいに頭でっかちな人が一番まずいなと思いますので、今回はサービス精神を発揮できません。
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やくにたったのボタンと、mmkyさんに一票投じました。



質問者さんがいろいろ掲げている回答とそれに対するコメントを順番に読んで行くと、人間の存在と人間の存在の性格である歴史的社会的存在から造られてきた必要な規範であるという線にそった答えを考えようとします。

もし宗教も、次相が違うが人間の存在と人間の存在の性格である歴史的社会的存在から造られてきたということになれば、そういうことからの説明も、その線での答えとなるでしょう。

多くの人が物理的肉体的危害を内容としておりますが、それはそれで当然なのでしょう。
しかし昔の勘当や藩からの浪人言い渡し。友達の絶交なども危害ではないだろうか。
似たような、申し出の退学ではなく、処分としての退学も。
友人から理由なく絶交を言い渡されたこともあり、55年前あまりにひどい私立高校だったので都立高校の編入試験を受けて受かりました。
担任はどうして転校するのか、この高校としては最大限の要求を受け入れる、そして奨学金も出そう。という申し出をしてきましたが、断りました。そしたらなら処分としての退学にするといわれました。先の絶交友人もその高校の同級生でした。
彼は奨学金を受けました。

こういうのも多分、未成熟な時代では大きく傷になるでしょう。

これはその高校の保全の措置ですね。

だから危害は自己保全や自己合理化のためのものかなとも思います。
そういう必要が全くなければ、誰も誰にも危害は与えないのだと思います。
でも、仏陀ばかりの社会、キリストばかりの社会、孔子ばかりの社会ってありえないですものね。
危害はなくならないと存じます。
自己保全や自己合理化も誤りの行為ですが、そういう誤りの行為、誤解、未熟さが危害行為になると存じます。
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NO・11 です。



ちょっと回答が不徹底でしたので、お礼の疑問に応える形で捕捉します。

>では、仲間でない人ならば良いのか?ということです。

仲間でなければお互いの利害が相反することがあり、これが戦争に発展することがあります。そしてお互いに殺しあうことがこの論理で整合性を持つということです。



>「人間」としてくくった場合、「人に危害を加えてはならない」理由はどこにあるのかなとなってくるのです。
全ての人間が何らかの集団に属していると仮定すれば集団の意志というのが一つの答えですが、別の集団の人に対する考え方は一律ではありません


普段、現代では人間としての利害は何国人もほぼ同じ方向性を持っています。北朝鮮のキム正日だって小泉首相と握手した時は、冷静に考えてほぼ利害が一致したから殴り合いにはならなかったのでしょうね。

戦記などをみたら、兵士達で敵兵を躊躇なく撃ったひとは少数だったようです。
ひどく餓えて、まだ新しい死体が身近にあっても、それを食べるのは相当勇気がいるもののようです。
こうしてみると、他の獣たちがめったに共食いをしないように、人間も遠い祖先が持っている基本的な仲間意識を他民族に対しても持っているのかもしれない、とか思います。性善説ですね。

ご参考になれば。
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 しっぺ返し戦略のため。

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 こんにちは。



 ★ つまり、「人が人に危害を加えてはならない理由」は、人間が集団生活をする生き物であるから?
 ☆ そうでしょうね。

 (あ) ひとりの個人が ほかの人と《カカワリ(関係性)》を持つ

 というところから来ているのだと考えます。
 つまりは

 (い) 《社会性》あるいは《社会的動物であること》。



 なのですが さらに《掘り下げる》なら おそらく究極の理由は
 
 (う) 《無根拠によって》なのだと思います。

 これを
 
 (え) 《本能》

 と言うと まだ理屈っぽいようにわたしは感じます。

 別様に言うならば

 (お) 《存在が存在であること》
 (か) 《自然本性》=すなわち《そのように生まれて来ている》

 あるいは

 (き) 《わたしがわたしであるとき わたしは 生きる》
     しかも ワタシは 社会関係性をそなえているゆえ 
     《わたしが生きる》は 《人とともに生きる》である。

 ぢゃあ何故 ひとは 自分で自分の死をえらんだりあるいは他人(ひと)をころしたりするのか?

 (く) 《生きる。および ともに生きる》の中核は 《意志行為》としてある。
    言いかえると 《自由意志》ゆえにである。

 (け) つまりはこの自由意志が 無根拠によって《存在しハタラキを持つ》とき
    わたしは 生きるし 人とともに生きる。

 (こ) 自由意志は 自由というように人間のおのれの――もっともわたくしなる――意志でもある。
    つまりは《無根拠》なるわが心にさからってその意志をはたらかせうる。

 (さ) このとき ひとは・そしてワタシは 自分をも他人をもころさない。
    傷つけない。 
     と同時に その生きるさまにさからうことができる。

 (し) ゆえに人間は 《ころすなかれ・ぬすむなかれ・むさぼるなかれ》といった倫理規範を持った。

 (す) けれども このように道徳規範を打ち出されることがなかったなら わたしは 殺すことも・盗むことも・貪ることも 知らなかった。と言えるかも知れない。

 (せ) 初めの《無根拠》が 理性にうったえる《根拠》を明らかなかたちで持つこととなった。だけである。とも言えるのではないだろうか。(ほんとうの根拠として 理由を説明してはいないのだけれど)。


 (そ) ゆえに
 ★ 人が人に危害を加えてはならない理由
 ☆ は それとしてあるわけではない。

 (た) この命令法ないし否定命令だから禁止法なる規範を持ったその以前に 《生きることと ともに生きること》が自然本性としてあった。しかもそれは 無根拠による。といった《掘り下げ》において説明されるものが納得の行くことであれば それが 理由と言えば理由なのかなと思われます。
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>>つまり、「人が人に危害を加えてはならない理由」は、人間が集団生活をする生き物であるから?



○「人間が集団生活をする生き物であるから」などは後付けの理由ですね。
本当の理由は、他人も自分も同じ生命体の一部だからなんですよ。つまり、他人を害しているようで本当は自分自身を害しているからなんですね。
まあ、これはわかりづらいから、いろんな後付け理由をつけているだけなんですね。
哲学用語に「絶対矛盾的自己同一」というのがあります、これは高等宗教的でもあるのですが、要はみな同じ生命体の一部と言う意味なのですね。これをわかりやすく説明するには、生命の木を使います。
木は幹があり枝があり、枝には無数の葉がついています。その一枚一枚の葉は個別のように見えて、実は同じ枝の葉なんですね。これが生命の木という意味は枝の一個一個の葉がひとりひとりの人間なんですね。人が人に危害を加えるということは、この葉が自分の枝の木の葉を害するという意味になりますね。葉同士が害すれば枝は死にますね。枝が死ねば枝についた葉、つまり自分自身も死ぬわけですね。他人を害しているようで実は自分自身を害していることになるのですね。共通の枝から個性の違いで個々の存在、葉になっているに過ぎないということですね。
枝も大小たくさんありますが、枝が国ですね。枝どうしが害するということは国のあいだの戦争のことですね。
まあ、虫のついた枝は切り落とさないとダメな場合もありますから、その意味で戦争も肯定される場合があるということなんです。幹の違いが星の違いとなるわけですが、これは本題ではないので削除。
というように理解できないような摩訶不思議な真理なので、一般には方便としていろんな理由を使っているということですね。
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現実を見れば、理由なく人に加害してはならないということであると思います。

争いに発展すれば互いに損益を被るので、そういう損得計算でシビアに動いているのが現実の世の中ではないでしょうか。もし理由なく人に加害するなら、その加害者は一種病的とみなされて、また別のフィールドに持ち込まれるでしょう。
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根本原理と個人に生じた心理的問題は座標が違いますから、同じ枠内で話しを進めるなら


質問内容がすでにぶれていますから、結論は焦点の合わない答えになると思います。


自然の中では生き物が危害を与える場合は、手段として行われます。
目的は捕食であったり縄張りの侵害であったり、つまりは目的としては生きていくという
その種の基本原理にのっとった形で、遂行されます。

捕食であれば、おおよそ生きていくのに必要な分だけであり
自分が生きていくのに必要な量の5倍も10倍も確保するものはいないと思います。

縄張りであれば相手が出て行けば、それ以上に攻撃を加える必要もありません。
同種が縄張りに入ったからといって、捕食対象になりえる話しも基本として無かったと思います。


集団として生息するものは、個の利益と集団の利益が同じ方向であり
かつ集団のほうが目的達成のために優位な場合のみに生じると思います。
ですから同じ種や共同である集団の一部を捕食対象にしません。

集団の中のヒエラルキーは、集団を牽引する役割を持ちますが
その目的は生きることに対しての必要性です。


今の社会で人間として問題になるのは、少数の個人的心理の問題で目的が危害になっていることです。
本来、他者への支配や抑圧が集団の意味ではないのに、道がそれて目的が違ってしまうことです。

集団の充足と個の充足は、どちらも同じように必要なことですから
必要としての尊重と尊厳を守ることを社会的に位置づけられています。

しかし人間本来の根本的な本能としては、この原則を守るようになっています。
集団として生活すると善と悪の判断は、学ぶという外的要因だけでなく
内的にもシステムとして持っているから判断ができます。

外的と内的な要因があることで、集団を作ることができるのです。
脳の疾患など内的要因でシステムが機能しない、もしくは集団として学ぶチャンスがなかったなど
どちらかが欠けた場合、集団組織で自分の役割と違うことをやる場合(人)が出てきます。

人間はそういった組織や集団、そして自分が生きるために「善」「悪」として理解する機能があります。
その自分の中から沸き起こる内部の訴えを無視しないで生きていけば、問題は起きないようにできています。

基本原理や原則は、必ず最後は本能に由来します。
人が人に危害を加えないのは最終的に「自分が生きるため」だと私は思います。

動物としての人間が持つ特殊性としては「どう生きるか」が問題になり
それを追求するところに、人間としての発展や成長がありますが
またそれは、この質問とは別の問題だと思います。
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