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明治時代の小説や、明治時代を背景にした映画の中で、政治家や金持ちが妾をかこっている話がよく出て来ます。

これは当時としては一般的な風潮で、政治家や名士として特に恥ずべきことではなかったのでしょうか?それとも一応は恥ずべきことだったんでしょうか?

森鴎外や漱石は妾を持ってなかったように思いますが・・・
清廉潔白のイメージの強い乃木希典などはどうですか?
金や権力を持った人たちの何割くらいが妾をかこったんですか?

その他の偉人たちについても知りたいです。

この質問に女性の人権を傷つける意図はありません。
そうではなく、我々の先達が余りにも女性の人権を踏みにじっている事実を知りたいのです。

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A 回答 (9件)

妾を持つというのは、


「政治家・高級官僚(戦前は、高級官僚がそのまま政治家に横滑りする例が多く、選挙を経ない政治家が普通にいました)」
「財界人と言われるようなクラスの経済人」
「大地主」
のような、庶民からはかけ離れた所得や資産を持つ人たちなら、「まあ、許される」行為だったように思います。

当時、「妾を持つこと」が、社会からどのように見られていたかというと、明治時代に、黒岩涙香というジャーナリストが「万朝報」という、今の普通の新聞と週刊誌と夕刊紙を合わせたような新聞を発行しており、その新聞の目玉連載が「名士の妾について報道する」というものでした。

この記事を喜んで読む人がいて新聞の部数が伸び、自分の妾について報道された名士からは反発があったようです。「まあ、許される」行為だった、と書いたのは、明治時代でも、
「**氏は妾A子、B子、C子の三人がいる」
などと報道されると、それなりにダメージがあったらしいからです。

明治時代の前半くらい、藩閥全盛の時代は、高級官僚や高級軍人(明治維新の功績でその地位に就いたような人)は、堂々と妾を持っていました。

例えば、明治初期に熊本市で起きた「神風連の乱」で、政府軍司令官の少将は、妾と寝ている所を襲われて死にましたが、妾は負傷しましたが命に別状なく、東京に「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」という電報を打ったことで歴史に知られています。他にも、妾がいたことが明らかな高級官僚を知っています。

官僚と言うより政治家である伊藤博文や山県有朋は、当たり前のように妾を持っていました。

こういう風潮は、「大学を卒業して、高等文官試験に受かって官僚になる」「陸軍士官学校や海軍兵学校を卒業して将校になる」というルートを辿った人が官庁や軍の幹部になる大正くらいには薄れたようで、そういった官僚や軍人で、「妾を持っていたことが現代まで知られている」という例はちょっと知りません。

その代わり、「お金を持っている人」や「偉い人」は、結婚していても、今よりずっと軽い気持ちで妻でない人とセックスしていました。

現在では、芸者というのは「伝統芸能の継承者」のような感じになっておりますが、戦前は、貧しい親が娘を「芸妓・酌婦・娼妓」に売る(正確には、前借り金と引き替えに、芸妓・酌婦・娼妓の仕事を雇い主が指せることを了解する)ことは合法でした。

「芸妓・酌婦・娼妓」という3つの仕事は、実体としては大きく違うものではなく、芸者であっても、借金を返すためには売春をしなければならず、契約書には「借金返済のため、雇い主からの指示があれば、醜業(売春のこと)を嫌がらずにします」という条項がありました。

戦前の芸者という職業の実体については、実際に芸者として辛酸をなめた女性が戦後に書いた本

芸者―苦闘の半生涯 (平凡社ライブラリー)
増田 小夜 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4582761224/

本を読むと、戦前の社会的地位のある人について「馴染みの芸者がいる」という記述をよく見ます。これは「馴染みの芸者と、定期的にセックスをしていた」ことを指します。

この「馴染みの芸者」の借金を肩代わりしてやって(身請けする、落籍する、と言いました)、どこかに住まわせて生活費を与えたり、小料理屋を開かせたりして「自分専用の芸者」にすることが「妾を持つ」ということになりました。

「銀座のクラブのホステスを、マンションに住まわせる」とか「馴染みのホステスがクラブを辞めて自分の店を持つ時にパトロンになる」ということは現在でも存在すると思いますが、同じことです

===

今で言うと、ソフトバンクの孫社長、ユニクロの柳井社長、逮捕される前の堀江貴文氏のような人は、戦前の常識であれば「妾を持っても、まあ、許される」でしょう。

「ヒルズ族」などと呼ばれる人が、著名な芸能人と結婚したり、真偽は知りませんが「モデルのタマゴとしょっちゅう合コンをしている」などと伝えられるのは、同じような話です。それほど批判的に報道されることはないと思います。

一方、戦前は、日本経済の規模が今より小さかったのと、「創業者=経営者=社長」である場合が今より多かったので、「一流大学を出て一流企業に入り、出世競争を勝ち抜いて60くらいで社長に上り詰める」という事例は今より少なかったと思いますが、上場企業の社長で、「銀座のクラブのホステスを愛人にしている」ような事例はそれなりに存在すると思いますよ。

ですが、「ヒルズ族」のような富豪の女性関係には寛容な(報道価値を見出さない)マスコミも、

「有名企業の経営者」
「高級官僚」
「国会議員、知事、市長」
のような人の女性関係についてなら、報道価値を見出すでしょう。

昭和が平成に変わる頃ですが、首相だった宇野宗佑氏は、「月30万円で愛人を囲っている」と報道されたのがきっかけで辞職に追い込まれました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
興味深く読ませていただきました。

芸者―苦闘の半生涯 (平凡社ライブラリー)
増田 小夜 (著)
是非読んでみたいです。

お礼日時:2013/06/20 14:13

平成でも皇位継承権のある某親王は愛人がいるということです。

(噂です)
ただしこれはいろいろ事情があり、いわゆる『愛人』ではなく、事実婚に近いが結婚できない事情があり、またご身分から(実質的な)妻と紹介できないので、好きな女性が女官として近くにいるということで、やむ得ないことです。
暗黙の了解として周囲は事実婚と認識されているということかな?
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この回答へのお礼

再度の情報ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/20 14:37

明治どころか、昭和時代の田中角栄首相(当時)でさえ、神楽坂に愛人がいることは首相在任中も周知の事実であり、誰も問題にしていません。


神楽坂の逆転一方通行は角栄氏が永田町から愛人宅に『帰宅』するための便宜という都市伝説すらあるくらいです。
過去を紐解くと女性でも権力者になると愛人を囲っている例は洋の東西を問わずで、わが国では孝謙天皇、外国ではイギリスのエリザベス1世、ロシアのエカテリーナ2世等々、女性の場合は大ぴらにしないので、噂の域を出ませんが、状況証拠からそうではないかと推察される方々は多々います。
武田信玄や上杉謙信が『男性』を愛人にして囲った(武田信玄は他の男性と浮気したことを詫びる男の愛人宛の手紙まであります)事例すらあり、要は何でもありが性の世界の真実です。

人間は性に興味があり、洋の東西、男女を問わず、権力者はその道に進む。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
参考になりました。

お礼日時:2013/06/20 14:36

質問者さんの、最後の行の「あまりにも女性の人権を踏みにじっている」という


観点と言うか、解釈論では、妾は恥ずべき物、持つ男は女性の敵になってしまいます。

それは歴史の流れと、ある観点からみれば非常に正しいことなのですが、もの事の側面は
決めつけることよりも、多面的に考えてみることも、必要なこともあります。

廃れて行ったのは、女性の自立と意識の向上の賜物ですが、近代という社会は合理性を
追求する物なので、合理性に叶わなかったことも、一面でしょう。しかしそれは
あくまで「教育」などが請け負いました。

形而下と形而上の面から言えば、お金と力のある男は、色を好まなくても女の方から
寄って行く。これは現代でもひとつの現実真理です。

まあこのスケベ男が、と腹立たしいことは形而下の世界ですが、側面的に昔は家というものを
非常に重んじていました。
跡継ぎが出来ないと、養子や養女を貰ったり、嫡子の出来が悪いと、わざわざ養子をもらい
跡を継がせるようなこともありました。
子供を育てることは女性の仕事でしたし、なぜそんなに家にこだわったのだろうと言うことは、
現在の社会問題の解決方法が、反対から見たら、あるのかもしれません。

例えば核家族化による孤立は、無縁死や生活保護の問題を招きました。老後の年金も、
昔は隠居して、暮らして行ける生計が在ればひっそりと暮らし、それが無い人は娘や孫
たちと遠慮がちに生き延びたと思います。

で、妾の問題なのですが、これは変則的扶養の状態です。
女性が社会に出ていきにくかった時代には、美貌と遊びごとのセンスが在れば、大金持ちの
男性から目を掛けてもらい(だから「めかけ」といいます)こうやって暮らして行ける方法
もあり、貧しい父母は「色の白いのは七難隠す」とかいって、器量良しの娘が出来ると喜んだのです。

今は、女性は自分で勉強したり、働く社会に進むことは当たり前になりました。
資格を取り医者や弁護士にもなれます。
反対に器量の良い女性は、テレビの女子アナウンサーや航空会社のキャビンアテンダントを
めざしたりはしませんか。あれあれ、今でも女性を武器にして高収入な仕事に就こうと
するのは肯定していいのだろうか。

お話が明治のお妾さんから離れてしまいましたが、電波芸者なんて陰口もあるのは、本質は
どんなに世の中が変わろうと、昔から変わっていないと見るむきもあるのです。

森鴎外は古い家の人ですが、ドイツ留学中に現地の女性と恋愛になり、日本にまで
女性が追い掛けて来たという過去を捨てて、軍医と言うエリートの道を歩みます。
夏目漱石は、近代とは何かと言うテーマに向かい合い、それでも女性のことで悩む主人公を
描いた作風などにも彼なりの女性観が出て来ます。
乃木希典は、日清戦争の武勲とは反対に多くの将兵を失ったことに、自分の命と生きる道を
考え明治天皇崩御と共に殉死します。
彼は学習院の総監だった後年、東京市電(路面電車)で通勤し、いつも着席せずに、
にこにことした表情で電車の一番後ろに直立して、子供たちを見守っていたそうです。

そうやって近代の坂道を150年ほどで走り切った日本という国が、いま深い悩みを抱えています。
維新の元勲や英雄たちが、確立しようとした近代。その近代のあゆみの中で妾腹制度は
廃されて行きました。

今、彼らが生きていたとするならば、大きく変わった日本に驚嘆するのか嘆息するのか。
表面上は女性が強くなった社会に、自分たちが活躍する時代でないと、嗤って後に
するのかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私が女性なら、こういう質問は非常に不愉快に感じるはずです。この質問を女性が読むことも想定しましたので、断りました。結果は男性ばかりの回答のようでした。

お礼日時:2013/06/20 14:34

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

皆さん博識でいらっしやるようで、私の出番ではないかも知れませんが、簡単にお話しいたしましょう。

まず、江戸時代には将軍は側室を持つことが当たり前だったことはご存じと思います。

これには、幕府と朝廷をつなぎ留めるために、将軍の正妻は公卿の出身がおおかったのですが、

(1)いわゆる、政略結婚ですので、必ずしも正妻を好きになれない。
例えば、5代将軍の綱吉の正妻は鷹司信子ですが、綱吉はほとんど夜を共にしていない。

(2)公卿は幕府から宛がい扶持しかもらえないため、非常に貧乏でしたので、そこで育った姫君も栄養状態が悪く妊娠する確率が非常に少ない。屋敷が雨漏りをしても直す財力さえなかった。

(3)従って、将軍家で正妻から生まれた将軍は一人もいない。

(4)そこで、将軍の後継者作りのために大奥ができ、堂々と側室を宛がい子孫を残そうとした。

さて、一般の武士(旗本や御家人など)の場合ですが、江戸時代では妾(側室)を持つことは武士のステータス・アップであり、同僚からは羨ましがられるほどでした。そして、正妻がそれを咎めることは、かえって、「鬼嫁だ」などと非難されました。

これらの風習(習慣)が明治時代では、明治の高級官僚は、言ってみれば武士の成り上がりですから、妾(側室)を持つのも当たり前という風潮だったのです。

また、江戸時代から明治時代にかけては、いわゆる、恋愛結婚などは珍しく、全て親が相手の身分や財力を基に決めた「許嫁制度」でしたので、やはり、結婚しても正妻を好きになれない人も多かったと思います。そこで妾に走るケースも多々あったと思います。さらに、妾を持つことがステータスと言う風習も色濃く残っていたと思います。

そして、この時代には、娘は12歳になると、もう大人と見られ、娘も大人だと自覚をし、良縁があれば結婚をさせられました。
当然、12歳位では、まだまだ発育段階ですので、妊娠をして、いざ、出産となると大変な苦痛と体力を要し、出産の際に母子共に死亡することも多かったのです。従って、家名を残すための実子を得るために妾を持つケースもあったと思います。

この流れは、現代でも言えることで、18歳未満の女性との買春行為は禁じられていますが、一方では、民法で女性は16歳から結婚が認められていますよね。

まあ、偉人の妾については、すでに何人かの方が答えられていますので、それはそちらにお任せします。

大正天皇は「柳原愛子」という明治天皇の側室から生まれています。

大正天皇は生まれてからすぐに帝王学のために、母から隔離をされて一切会うことができませんでした。そして、47歳で病の床に付きましたが、死の直前に母親との面会が許され、大正天皇は涙を流しながら母の手を握ったまま息を引き取った・・・と言う逸話は有名ですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
<<大正天皇は生まれてからすぐに帝王学のために、母から隔離をされて>>---大正天皇の人権が踏みにじられたんですね。同情します。しかし、母親の方も辛かったと思いますね。人間は辛いことをするために生まれて来てないんですけどね。

お礼日時:2013/06/20 14:26

そもそも人間は動物です。


動物のもっとも大事な仕事は子孫繁栄です。
その観点から言うと
女性はどうがんばっても年に一人だけしか子供を作れません。
(双子や三つ子は一般的でないので細かいことは抜きにして)
ところが男は
365日、365人の女性と交われば365人の子供を作れる可能性だって
あります。19・20のころなら1日2回くらいどうってことないですから
極端を言えば700人くらいの子供を1年間で作れます。

というわけで、男は現代日本の社会通念上悪いといわれる、あるいは社会規範にそぐわない、あるいは
統治機構に支障をきたすかもしれない浮気や不倫、さらには妾を持つということをしたがります。

これは動物の本能がそうさせているとしか言いようがありません。

この論法で言うと、神様が動物を作ったとすれば
文明国の現代日本の人間社会においては認められないことですが神様は拍手しているかもしれません。

さーそこで、昔の妾。
徳川将軍は側室を何人も置いていました。これはお家大事ですから
どうしても跡継ぎを作らなければなりません。
正室に子供ができない、あるいは昔のことで今のように医療が発達してませんから
生育率はかなり低く生まれても成人になるまでに死んでしまうことも多かったので
何人も子供を作って生き残りさらにその中でも優秀な子供を跡継ぎにしたかった
ようです。したがって大奥などという側室を養っておくシステムがありました。

それは当時の日本人として当たり前の話でした。
また明治時代にもその慣習は継承され村や町の名士、有力者は妾が当たり前でした。
なぜかというと当時は行政も細部には行き届かず、町の名士がポケットマネーで
橋を作ったり、道路を作ったり、逆に仕事がない人に橋の工事をさせたりして
生計を立てさせていました。
町や村全体がその一軒の名士のおかげで食べていたわけです。
すると、その名士の家が絶えてしまっては食えなくなります。
また名士のほうも町民のため村民のためにこの家のあとを継ぐものが
どうしても必要だと考え、正妻のほかに妾を作り正妻の子ができなかったり
その子が万が一のと気は妾の子を跡継ぎとして家を告がせました。

したがって、名士の妾は人から見てもむしろ喜ばしいことで
本人も子供がいなくて俺が死んだらこの町や村はどうなる!
と責任感を持っていましたので恥ずべきことでは全くありませんでした。

軍人なども階級が上の人はいまのように能力や実績だけで上がれるものではなく
それももちろん大事ですがプラス家柄というのがなければ
将官クラスにはなれません。
その家柄というのは貴族やそれに準じるモノでしたから
やはりお家大事で跡取りがどうしても必要だったわけです。

今上天皇、皇太子に側室を、という議論さえされているくらいです。
正子様に男系ができないのなら側室の腹を借りてでも
後世の天皇を作るべきだという荒っぽいことをいう識者もいるようです。

というわけで、乃木さんはじめ明治の歴史に登場する軍人や政治家には
だいたい妾がいたようです。
また妾の一人もいないと信用されなかったという話もあります。
つまり後世に責任を持ってことに当たっているという意味だったのでしょう。
妾も子供もいなければ、どーせ俺は一人だ、好き勝手なことをして
死んでしまえ!とあとに責任を持たないとう危惧があったようです。

決して女性の人権を踏みにじるものではなく、
子供を生めるのは女性だけ、またそれを育てられるのも女性だけなのです。

>我々の先達が余りにも女性の人権を踏みにじっている事実を知りたいのです。

男が死をも覚悟の上で働くなら、女はその特性で将来のため、町や村のため仕事をするのですから
決して人権を踏みにじるものではないと思います。

現代人の現代の社会通念を当時の状況も知らずこれに当てはめるのは
いささか謙虚さがないような気がします。

慰安婦問題のように英語に意訳するとセックススレイブ(性の奴隷)という
意味とは全く違った意味の妾です。

当時の女性はその意味を理解し名士の家に跡取りがいないということが
どれだけ世間に影響を与えるか、町や村の人たちがどれだけ困るかを知っていたので
旦那に妾がいても怒るわけでもなく嫉妬するわけでもなく
当たり前に感じていたようです。
いわゆる現代のイロボケで妾を囲うのとはワケが違っていました。

デビ婦人だってインドネシア大統領の第三婦人だったか第4夫人だったかです。
これを日本の芸能記者が所詮妾じゃねーか!といったら
烈火のごとく怒り、インドネシアの文化、インドネシアのリーダーの事情を
何も知らずに日本の物差しでモノをいったこの記者は二度と仕事ができなくなりました。
何番目であろうがれっきとした大統領夫人だったからです。

その時代、その国、その地域には独自の文化があり
現代社会のものさしですべてを測るのは傲慢すぎると私は思います。
したがって、
当時、妾だからといって女性の人権を踏みにじっていたという事実には当たらないのです。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
<<その時代、その国、その地域には独自の文化があり
現代社会のものさしですべてを測るのは傲慢すぎると私は思います>>とのことですが、これは間違っていると思うので補足させて戴きます。
<<旦那に妾がいても怒るわけでもなく嫉妬するわけでもなく
当たり前に感じていたようです>>---当時の風潮に従って森鴎外も妾を持ったようですが、彼の著作「雁」でしたか「青年」でしたか失念しましたがその中で、妾をつくった男に妻が「私はどうすればいいんですか!」となじる描写が出て来ます。女性は男に別の女をつくられて決して納得していたわけではないと思います。

モーパッサンの「脂肪の塊」を下地にして、溝口健二が映画
「マリアのお雪」(1935)を製作しました。製作は昭和10年ですが舞台は幕末維新です。その中で、司令官に村人の娘を差し出すところがあります。村人は勿論、両親さえも「皆のためだから」と娘を説得します。娘は最初は泣きながら固辞していましたが最後には説得に負けてしまいます。
貴方の考えは上の村人と同じで一人の女性の犠牲の上に成り立つ考えです。全ての女性が納得していたわけではなく、戦時中の赤紙のように、仕方なく従っていたというのが実情だと思います。一人の女性の人権も犠牲にしてはいけない、たとえ100人の人が利益を得ることがあっても、というのが人類が到達した結論で、人権と言うのはそういうものなんです。

<<その時代、その国、その地域には独自の文化があり
現代社会のものさしですべてを測るのは傲慢すぎると私は思います>>---昔は人類も随分残酷でしたよね。例えば南米を征服したスペイン、原住民を動物と同列視して平気で首を切り落としたりしました。あの時代はあれが普通で正しかったんだですね。橋下氏の「当時は慰安婦は必要だったんだ」と同じ論法です。当時は人殺しが普通で正しかったんだというわけです。この論法の危険なところは、将来また「人殺し」が普通になれば人を自由に殺してよいというニュアンスを含んでいることです。

しかし、さすがに今の日本でも「あの時は人殺しが必要で正しかったんだ」とは言えないでしょう。しかし、妾は必要だった、慰安婦は必要だったとは日本では言えます。しかし、人権感覚の非常に強い欧米ではこれも言えません。「人殺し」は必要だったと言うのと同じくらいとんでもない発言なんです。橋本氏が「国際感覚がなかった」と反省しているのはそういうことなんです。
<<その時代、その国、その地域には独自の文化があり>>と人権を文化の中に含められていますが、人権と言うものは全ての価値観の一番上に立つものです。人権を蹂躙する文化は許されないのです。たまたま今の時代において人権が大切にされているというのではなく、人権と言うのは数千年かかって人類が到達した価値観なんです。そこを貴方は完全に勘違いされているようです。だから、将来時代が変わろうと、ところが変わろうと、逆戻りさせてはいけないのです。時代時代の文化の違いという捉え方をすると、また将来人権を蹂躙する時代が来ることを容認することになります。

折角、フランス革命の「人権宣言」、独立戦争の「独立宣言」そして日本の憲法の基本的人権と、人間は全て平等である、何人も基本的人権は犯されないという価値観に到達したのですからね。女性と男性が完全に平等な世の中であれば、女性が男性の回りに妾として群がる必要はないでしょう。妾制度が存在したのは、社会が女性にとって不平等だったからでしょう。
女性の人権という立場に立てば、妾制度は間違っていた。慰安婦制度も間違っていた。人権と言う立場に立てば過去の戦争は間違っていた。人類は間違った歴史をもったけれど起こってしまった過去は消せません。犠牲になった人たちにいくら謝っても済むものではありません。

以上ですが・・・

補足日時:2013/06/20 13:53
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 明治31年の戸籍法改正までは、戸籍にも妾という身分がありました。



 明治天皇には正室(皇后)のほか5人の側室がありました。大正天皇の母は側室です。皇室が一夫一妻制になったのは大正天皇以後です。

 森鴎外には妾がいました。また、先妻の子と後妻の子どもたちの不和は広く知られています。

 江戸時代、嫡子がいない武家はお家断絶、俸禄召上げとなったので、男子を設けるのは必須の条件でした。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。
森鴎外が提示するテーマは俗っぽく、底が浅いと思っていましたが、やはりそうでしたか。彼の言動を観ると、「エゴは満足させるべきもの」としているようです。

人間のエゴを追及した漱石との差ですね。

お礼日時:2013/06/20 12:31

正妻のみが許されるというのであれば、明治天皇は許されないことになる。


個別に個人がどうだと言う前に、制度として無法ではなかった。

一般に西欧文化への傾倒が強い人は一夫一婦であったように感じられる。
※ 天皇家で言えば昭和天皇はイギリス王室をあるべき姿と考え、一夫一婦制を堅持した。

愛人の話ですと、三木武吉のエピソードが有名ですが、それは戦後の話でもあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8% …
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。
明治時代はまだ徳川時代の伝統を引きずっていたということですね。

お礼日時:2013/06/20 12:18

 伊藤博文など女遊びがひどく、明治天皇直々におまえいい加減にしろとたしなめられたとか。

その妾だったという女性は、後に孫娘に「つまらぬ男と結婚するより一流の男の妾におなり」とアドバイスしたのだとか。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。
最近彼の若い時分の写真を見る機会がありました。
ヤンキーみたいな顔してますね。
こんな男がよく、日本人全部が尊敬する人物として千円札になったもんですね!

お礼日時:2013/06/20 11:50

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結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性(父親ないし、それに準ずる立場の年長男子)の考えのみで決定されるのが普通だったので。やはり当人の正確な年齢とかどうでも良かったのです。

確か明治30年頃に富国強兵(=徴兵制)と言う事で、特に平民男子の正確な肉体的年齢を国家として管理する必要が初めて出て来たので。慌てて日本でも全国的に「子供が生まれたら正確な誕生日を役所に届けるべし」とのお達しが出され、それ以降から日本人に「誕生日」という考え方が一般的になったのです。

昔から日本人がむしろ記録に残して拘ったのは、生まれた日ではなくて、むしろ「死んだ日」です。お墓とかにも誕生日では無く、何年何月に死んだと書く習慣が昔からありました。昔は乳幼児死亡率が以上に高かったので、いちいち子供の誕生日を記録しても無駄になる事が多かったからかもしれません?一応、身分の高い貴族や皇室の方々、大名クラスの武家だと誕生日を記録に残し現代風に祝う習慣がある地域もあった様です。

また非常に重要な事ですが。江戸時代までは仮に本人が正確な誕生日を記憶していたとしても、今の現代人が言う年齢とは違います。何故なら昔の日本では「歳が増えるのは誕生日の時では無く、生まれて何回目の正月かで計算した」からです。さらにややこしい事に、昔は“生まれた瞬間が1歳”と計算するのが通例なので。冬場、例えば12月31日に生まれた赤ん坊は、翌日の元旦には2歳になる計算でした。

…と言う訳なので、そのご婦人の御祖母様が13歳と言うのなら、それ以上の意味はありません。まあ明治20年代以前に生まれたのなら十中八九、実際の年齢よりは1つ~2つは若い可能性があります(つまり小学6年生で嫁に行った!?)。


>読み書き
江戸時代は「読み書きソロバン」と言うくらいに子弟教育に熱心だったのですが。明治時代になって重工業化は進んだのですが、それまではその地域自治体に当たる藩主大名たちが行っていた子弟教育システムが維新によって崩壊してしまったので。東京などの一部を除けば、逆に教育はほぼ壊滅状態でした。

また個人家庭で勉強させていた場合でも、それまでの学問の筆頭であった朱子学などの儒教の教典を暗記する勉強が。明治になって一転、時代遅れのアジア学問という扱いになったため。富裕層でも子弟教育のあり方に混乱が生じていました。

で、教育に関するお触れは割と早い時期に出されるのですが。それは国民皆教育ではなく、あくまでも国家エリートを養成するための教育令だったので。長らく「義務教育」に関して放って置かれました。その後、やはり前述の徴兵制に関連して、戦場で使い捨てる兵卒候補としての幼年学校が必要と考えられ。え~っと確か明治22年?に「小学校令」というのが発布されます。ここから日本に於ける近代義務教育が始まる訳です。

一応、発足当時から男女共学だったのですが。特に農村部では女子に教育は必要無いという考え方が支配的だったので、例文の御祖母様の様に学校に通わせて貰えなかった女子児童も当時は多く居ました。またいわゆる戦後になるまでは、日本の近代女子教育には高等教育が無かったため(大学とかは男子校だった)。将来性が無い女子教育に金を掛けるのは無駄という考え方も一般的でした(そんな暇があったら針仕事の一つでも覚えさせろ!~的な)。

後、これも非常に重要な点ですが。明治33年(1900年)までは日本では、義務教育と言いつつ“有料サービス”だったので、授業料を払えないorケチな親だった場合は当然ながら男女を問わず学校には通わせて貰えませんでした。当時は毎月25銭~50銭を徴収すべしと法令にありました。昔の貨幣価値を現代に換算するのは非常に難しいですが。大体、月々5000円~1万円程度って感覚でしょうか?

逆に1900年以降は小学校が全国無料になったので、当時の資料でも就学率が90%に達した喜ばしい~と書かれています。

あともう1つ、これまた現代人には理解し難い点がありまして。当時の義務教育制度では修学年齢というモノが決めてなかった!つまり今みたいに満6歳になったら小学校へ~的な制度では無くて。あくまでもそれぞれの御家庭の事情に合わせて、好きな年齢の時に入学すれば良かったのです(一応、6歳~14歳の範囲で)。

なのでピカピカの1年生でも、同じクラスの同級生には6歳の子もいれば、妙にガタイの良い10歳の子も居るのが普通でした。後、今と違って義務教育中でも“落第”がありましたので。もう今年で3回目の1年生だよ!~みたいな落ちこぼれも居ました。

で、落第があると言う事はその逆、つまり“飛び級”もある訳でして。優秀な生徒は小学校を最短で4年で卒業する事が可能で(つまり10歳で中学へ進学可能)。逆に落第ばかりの劣等生だと、単位を取れなくても14歳になった時点で強制的に義務教育は終了させられました。

P.S.
いわゆる「ゆとり教育」という言葉が囁かれて久しいですが。明治時代にも言葉こそ無けれど、同じ様に教育の中身に関しては現代以上に行ったり来たりの試行錯誤だった様で。日露戦争当時には「最近の兵士はちゃんとした教育を内地で受けていないのか!?簡単な足し算引き算さえ出来ない馬鹿が多くて困っている!」と言う様な主旨の報告書が、現場の指揮官から送られています(笑)。

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性...続きを読む

Q昔の資産家は妾(=愛人?)の1、2人は当たり前?

なのでしょうか。

昔の金持ちや資産家には当然の様に数人の妾(=愛人?)がいるのが

当たり前だったと聞くのですが本当でしょうか。

確かに歴史等を見てもその傾向は強いような気がしますし

腹違いの子が出てきて財産を~というようなドラマも多いようながします。

少し昔の時代は・・

奥さんも自分の旦那は金持ちだから妾、愛人の1、2人はある意味

当たり前、織り込み済で特に腹を立てる事でも無い。

ちょっと違う家族の形・・と言った様な風習・文化だったのでしょうか。

ご教示お願い致します。

Aベストアンサー

こんにちは。
そうですね、昔は愛人である妾は当たり前でしたね。

これは、文化や風習はもちろんのことですが、その時代は経済的なものが多いからです。

当時は、サラリーマンや会社員というよりも丁稚という時代でした。女性は女中。

それで給料というよりも泊りがけで「白い飯がありがたい」という文化で一般人は芋しか食べれませんでした。休みは主に、盆と正月だけ。

殆どの家庭が貧しいので、娘を売りに出すのも当たり前の時代でした。

そこで「妾になれば、自分も家族も安泰」という感じです。

今じゃ考えられないことですが経済的に今みたいに豊かではなかったので、そうなるのも自然の流れですね。

現在でもアラブ諸国では一夫多妻制は当たり前でして、一人の長者に数十人の嫁。みたいな感じで今でも現実昔の日本みたいなことが行われている国もあります。

アラブ諸国は一般の人たちは、とても貧しい(本当に明日食べる物も無い)ので自然とそうなるのです。

Q天皇の側室について

平成天皇、昭和天皇、大正天皇、明治天皇、、、、の中にも側室(二号さん)の子どもであった人が複数いると某雑誌に書かれていましたが、それは誰でしょうか。

 その場合、その側室である女性はどういう人だったのでしょうか。側室の人も公表されて系統図に残るのでしょうか。

Aベストアンサー

今上天皇
皇后・正田美智子…父:日清製粉社長 正田英三郎
側室なし

昭和天皇
皇后・良子女王(香淳皇后)【今上天皇の生母】…父:久邇宮 邦彦王
側室なし

大正天皇
皇后・九条節子(貞明皇后)【昭和天皇の生母】…父:従一位大勲位公爵 九条道孝
側室なし

明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
側室 権典侍・葉室光子…父:権大納言 葉室長順
    典侍・橋本夏子…父:橋本實麗
    権典侍・柳原愛子【大正天皇の生母】…父:権大納言 柳原愛光
    権典侍?・園祥子…父:園基祥

孝明天皇
女御・九条夙子(英照皇太后)…父:従一位関白 九条尚忠
側室 典侍・中山慶子【明治天皇の生母】…父:従一位権大納言 中山忠能
    典侍・坊城伸子
    典侍・藤原(堀川)紀子

仁孝天皇
贈皇后・新皇嘉門院 藤原繁子…父:関白 鷹司政熙
女御・新朔平門院 藤原祺子…父:関白 鷹司政熙、義父:関白太政大臣従一位 鷹司政通
女院・新待賢門院 藤原雅子【孝明天皇の生母】…父:正親町実光
側室 権典侍・観行院 藤原経子《和宮 親子内親王の生母》…父:橋本実久
    典侍・藤原研子…父:甘露寺国長

光格天皇
中宮・新清和院 欣子内親王…父:後桃園天皇
女院・東京極院 藤原婧子【仁孝天皇の生母】…父:勧修寺経逸
側室 内侍:菅原(東坊城)和子
    藤中納言局 藤原(葉室)頼子
    菖蒲小路局 藤原(姉小路)聡子
    小侍従局 藤原(富小路)明子

とりあえずちょっと遡って、正妃(皇后およびそれに準じた立場の人)と子供を生んだ側室を列挙してみました。

明治天皇の側室は、典侍、権典侍という身分のある「女官」です。
御所や皇居内に局や部屋をもらい、天皇の身の回りの世話(という仕事)をしていたと思われます。
天皇の子を妊娠した女性は、実家に帰って出産することが多かったようですが(お産は「穢れ」とされていたので、宮中で出産することはできなかったようです)、その後は、また「女官」として生涯宮仕えであり、天皇の子は、実際に自分が産んでも自分の子ではない-ということで、自分の子供にも「仕える」という形だったようです。

私も蛇足ながら…。
#2さんがお答えのように、今の天皇陛下(時々、名前を使って明仁天皇-という表記をされることもありますが)のことは、「今上天皇」、「今上陛下」というのが正しいですね。
明治以降の慣習からすれば、将来、「平成天皇」と言われるのでしょうか、51代の「平城天皇(へいぜいてんのう)」と紛らわしいような気がするので、本当に「平成天皇」になるのかなぁ-と思っています。

今上天皇
皇后・正田美智子…父:日清製粉社長 正田英三郎
側室なし

昭和天皇
皇后・良子女王(香淳皇后)【今上天皇の生母】…父:久邇宮 邦彦王
側室なし

大正天皇
皇后・九条節子(貞明皇后)【昭和天皇の生母】…父:従一位大勲位公爵 九条道孝
側室なし

明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
側室 権典侍・葉室光子…父:権大納言 葉室長順
    典侍・橋本夏子…父:橋本實麗
    権典侍・柳原愛子【大正天皇の生母】…父:権大納言 柳原愛光
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Q昔の性交の実態

現代社会では、モラル的な圧力で、第2次性徴が来てもまだ性交適齢期でないとか社会的に未成熟とか言う理由で抑圧しますが、昔はもっと自然に、子供が生める体になったら交わり始める、と言う感じだったのですよね?
でも、女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

まず、回答から先に述べますと、
結婚や出産の年齢の「上限」はありましたが、「下限」はありませんでした。
まあ、12歳前後になると、現代で考えると確かに未成熟ではありますが、その時代の風潮として、それ位の歳になれば、もう、周囲からは立派な大人扱いをされましたので、女性も、もう、そうした心づもりで嫁に行ったりしました。
まあ、お産については、大変な苦労があったと思います。出産の最中に死亡したり、産後の日だちが悪くて死亡したり、また、生まれて来る子どもも未熟児ですぐに死亡したり、と、苦労?も多かったのが実際でしょうね。

(よもやま話)
(1)ある大名家(判ってはいますが、ここではあえて伏せます)の嫡男15歳に政略結婚で7歳の少女が嫁ぎました。初夜の時に、乳母や女中連中が少女の股を無理やり、押さえつけて、開かせ、姦通させた、という話が残っています。(明らかに「幼女姦」)。
(2)また、男女が共に7~8歳前後で結婚した場合は、夫婦とは名ばかりで、10歳位になるまでは、遊び友だちでした。
(3)江戸の商家の娘になると、自由恋愛は全くと言って良いほどできませんでした。また、商家の娘は「箱入り娘」と呼ばれたように、自由に街中を歩くことさえできませんでした。
(4)現代のようにウインドショッピングを楽しむ場所もありませんでしたから、たまに、小物が欲しいと、街へ出ても、乳母や女中がお供をして出歩きましたので、自由にどこでも行くことは許されませんでした。
(5)では、着物や櫛(くし)、簪(かんざし)などが欲しいというと、大店の丁稚がそうした店へ使いに走り、店からの出張販売でした。
(6)江戸時代を例にとると、儒教の精神が上は将軍家から、下は町人まで、
「男女7歳にして席を同じゅうせず」
でしたので、武家はもちろん商家でも、双方の家柄や財産などを基に、親同士が決めた「許婚(いいなずけ)制度」で、特に、父親の権限が強く、父親の許可なしには結婚できませんでした。
(6)江戸の街には「分一(ぶいち)」と呼ばれる「仲人専門」の職業の人がいました。これは、結納金の十分の一が謝礼として貰えることから、そう呼ばれました。
(7)適齢期の男女を物色し、商家へ縁談を持ち込む。ただし、男は40歳前後まで、女は20歳まででした。となると裏をかえせば、10歳前後の結婚もあった、と言うことでしょう。
(8)「十分一(じゅうぶいち)取るにおろかな舌はなし」
と、狂歌にもよまれたように、「口先三寸」のやり手でした。
(9)また、逆に、将軍家や大名家の大奥では30歳になると「おしとね御免」と言って、夜の相手ができなくなる話はご存じだと思いますが、30歳位で妊娠すると、今度は、医療技術がお粗末だったため、高齢出産となり、母体の安全から子どもを作ることはできませんでした。ただし、町人などは、側室などいませんから、子どもを生むこともありました。
現代でも40歳以上になると、やはり、高齢出産と位置づけられますよね。江戸時代から400年余り過ぎても、医療技術が進歩したとはいえ10歳しか「上限」が上がっていない。
(10)ここには、主に、江戸時代で江戸の街を中心に述べていますが、地方(田舎)も似たり寄ったりでしょう。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

まず、回答から先に述べますと、
結婚や出産の年齢の「上限」はありましたが、「下限」はありませんでした。
まあ、12歳前後になると、現代で考えると確かに未成熟ではありますが、その時代の風潮として、それ位の歳になれば、もう、周囲からは立派な大人扱いをされましたので、女性も、もう、そうした心づもりで嫁に行ったりしました。
まあ...続きを読む

Q一夫多妻や一妻多夫が日本で認められてない理由ってなんですか?

一夫多妻や一妻多夫が日本で認められてない理由ってなんですか?


歴史的にみると昔は一夫多妻の制度はありましたが、今は普通にそのようなことを望む人はいないからですか?

Aベストアンサー

まずは一夫多妻の合理性を述べましょう。

一夫多妻は原始的な女性に対する福祉制度なのです。
女性に対する差別や従属的なものをまず初めに浮かべる方が多いのですがそうではありません。寧ろ逆なのです。
それが文化だから!と頭ごなししに言われても納得が行かない人はおおはず。それなりの現実性と合理性があります。

・一夫多妻を行う理由の一つとして「戦争」があります。
原始から、部族間の戦争で男達が死にました。
さらに狩での事故や獣に殺される危険もあります。

・二つ目は寿命が短かったこと
昔の平均年齢は二十歳を超えていません。多く生まれ多く死んでいくわけです。そして何時、病気にかかり夫が死んでもおかしくは無いわけです。
そんな世界では一生を共に添い遂げる可能性など寧ろ低いのです。


一人残された女性はどうなるでしょうか?差別や現金収入を得にくい環境で晒されながら子供を育て、働いていく人もいるかもしれませんが、飢え死にしたりする者も多かったのです。

一夫多妻制では、一人の有力な男に性関係と家事という労働と引き換えに養ってもらうことができます。

さらに女性にとって家事を分担できるため非常に楽です。
とても家事の巧い女性がいた時、第一夫人からの推薦で第ニ夫人、第三夫人を招き入れることもあるようです。



本題に入りましょうか。

日本のように明日の飯に困ることもなく、病原菌にあふれてもいない国で、
砂漠国家のように驚異的自然に囲まれており炎天下に放り出されれば間違いなく死ぬという事もない国
明日、獣に襲われたり、隣町との抗争に巻き込まれて死ぬ可能性のないよう文明が進んできた国々

そのような国では女性が一人でも生きていけるので男性に無理に付き従うことがなく、自然に権利も大きくなっていき一夫一妻になって行くわけです。

つまり現代日本では一夫多妻は
社会的に必要とされていないし合理性も無い。


一夫一妻の国々では未亡人を「キズモノ」とか「純潔が既に無い」とかそういう扱いになってしまいますね。残念なことに。


ちなみに日本は大昔は自然に恵まれ人口が500万人程度であれば田畑など耕さなくても野山に行き芋や山菜や果実をとって生きていけたわけです。

そのような国々では女が定住地として家を持ち男は蝶のように自由に飛び回っているという母系国家が形成され、子供は女性が養うもの、財産も女性に付くものでした。結婚と言う取り決めは無く。
彼氏、彼女位の恋愛関係ですね。しかし今のように町にデートに行くような関係ではありません。

女性は多くの男性と関係を持ち、男は種を付けに夜這いに来るわけです。
短歌や笛などを吹いて女の家に入ってもよいか確認をとる時に読まれるような句が今でも教科書に載ってますね。あれは短歌集というと堅苦しいですが、口説き文句集といっても過言ではないもので昔の人々はセックスをするために一生懸命短歌を勉強したわけです。

日本では廃れましたが国によっては現代でもそういう文化は残っています。


一夫一妻は現代の貞操観念を強調した宗教感によるものでもあります。
それを気にしすぎて逆に心を痛めてしまうこともありますし、一長一短ですね。
南米のある部族ではセックスは特定の相手を決めるものではなくスポーツ感覚で楽しむものであり。子供は村全体で養うものという考え方があったようですがキリスト教が入りこみ貞操観念が付いてからはなくなってしまったようです


セックスと結婚の形態はその国々の事情にあっているという事です。
脱線が過ぎましたね。そういう事です。

まずは一夫多妻の合理性を述べましょう。

一夫多妻は原始的な女性に対する福祉制度なのです。
女性に対する差別や従属的なものをまず初めに浮かべる方が多いのですがそうではありません。寧ろ逆なのです。
それが文化だから!と頭ごなししに言われても納得が行かない人はおおはず。それなりの現実性と合理性があります。

・一夫多妻を行う理由の一つとして「戦争」があります。
原始から、部族間の戦争で男達が死にました。
さらに狩での事故や獣に殺される危険もあります。

・二つ目は寿命が短かっ...続きを読む

Q末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。 

末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。 
末期癌の母は現在ホスピスケアを受けています。
これから母の面倒を見るのは私の役目なのでこれからどうなるのか不安です。

母がすいぞう癌だと宣告されたのはおよそ1年前です。
肝臓にも転移しており既に手遅れでした。
今年の3月頃までは癌だと思えないほど元気な母でしたが
4月頃から急に階段を転げ落ちる様に容態が悪くなってしまいました。
あらゆる箇所の骨に転移し、強い痛みも出てきました。
肺へも転移し、咳がひどいです。
今ではほんの少し動いただけでも息切れがひどく、時々咳き込んで嘔吐してしまいます。
急に食欲もなくなりました。
一日、一日ごとにどんどん体力がなくなり弱くなっていきます。
母はこれからどうなっていくのでしょうか。
苦しみが増しますか? 
意識は最後まであるものですか?
自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか?
この状態で、あとどのくらいと考えていればいいでしょうか。。。

文章がうまくまとまっていなくてすみません。
少しでも心の準備ができればと思います。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「人はがんでは死なない」という言葉があります。
がんが特別な毒素を出すわけではありません。
では、なぜ、人はがんで死ぬのか?
それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、
その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。

様々な症状の一つには、疼痛もあります。
これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。

気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。
肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化学作用
が止ることになり、肝性昏睡などの様々な症状を起こします。
大きな血管にがんができて、血管が破れるということも起きます。
腎臓の機能が低下すれば……
脳の機能が低下すれば……

つまり、がんがどこにあり、その臓器は、どんな仕事をしているのか、
ということです。
何が起きても不思議ではない、ということです。

「苦しみが増しますか?」
軽くなるということはないでしょう。
出てきた苦しみを押さえるということになります。

「意識は最後まであるものですか?」
わかりません。
先に昏睡状態になる場合もありますし、最後まで、意識がはっきりしている
場合もあります。

「自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか?」
状況によりますが、オムツということも考えてください。
尿はカテーテルを留置することになります。

残酷な言い方ですが、何らかの理由で昏睡状態になった場合、
「それを治療して、昏睡から醒めさせて、延命をする」ということを
しないという選択肢もあります。

末期症状は、医師や看護師がよく知っています。
まずは、医師や看護師と相談してください。

「人はがんでは死なない」という言葉があります。
がんが特別な毒素を出すわけではありません。
では、なぜ、人はがんで死ぬのか?
それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、
その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。

様々な症状の一つには、疼痛もあります。
これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。

気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。
肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化...続きを読む

Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む

Qいわゆる江戸時代の娼婦はどうやって避妊してたんでしょうか

コンドームのない時代にどうやってたのかな?
とよく思うんです。

事のあとで洗浄するとか、外出しですか?
(あの時代にはピンと来ない方法ですが…)
それとも妊娠の都度、堕胎したんでしょうか?

ご存知の方いらっしゃったら、教えてください。

Aベストアンサー

吉原細見というHP(http://yosiwarasaiken.net/)に「遊女と避妊(http://yosiwarasaiken.net/moyou/hinin.html)」というサイトページがあります。それによりますと…

遊女(吉原の花魁などの幕府公認遊興場の売春婦=女郎;深川・辰巳などの岡場所の売春婦は売女と言った)の世界では妊娠は恥とされていた。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。
避妊の方法は「洗浄」「薬」「灸」それに「道具」。道具は男性用として大人のおもちゃのようなものと、女性用として御簾紙という薄い髪を丸めたタンポンのようなものとがあったそうです。いずれも紙製の頼りないもので避妊率は極めて低い、ほんの気持ち程度のものでしかなかったようです。
それでも妊娠すると堕胎する場合がほとんどだったそうで、場合によっては遣り手(遊女を取り仕切る年寄り女…「遣り手ババア」は吉原のこの役職の女性が語源)に強引に堕胎させられていたとか。当然ダメージを負った女性の中には性病や容姿の悪さなどで追いやられた遊女達と一緒に羅生門河岸という最下級の場所に送られたとか。

…というと江戸時代=昔=封建社会という背景も助長して「女性がとても虐げられている」というイメージが強いですが、実は江戸市中でも最も女性が強かった地域でもあるのです。特に花魁ともなると容姿はもちろん最高級の教育を受けた教養の高い女性であり、「源氏物語は、全部読んでありんす」というスーパーウーマンであり、それぞれの廓屋の看板であり、身分の高い武家階級や大金持ちの大店の主人を相手にするにふさわしい女性であったのです。
廓屋が大枚を叩いて徹底的な教育を仕込む所なんざ映画「プリティ・ウーマン」を思い起こさせますが、あの程度の金の掛け方では花魁の簪ひとつ分くらいじゃない?というくらい破格のものでした。今風に言えば伊東美咲に叶姉妹やマリエやデヴィ夫人や西川先生の持っているそれぞれ10倍くらいのものを与えちゃった、って感じです。
おまけにこれだけのスーパーウーマンだから、誰でも床入りできるような「安い女じゃない」のです。なんと花魁が気に入らなかったら床入りを拒否出来ちゃったんです。「いっくら金積んだって、あちきはあんたみたいな下衆とは、お断りでありんす」だったんですな。それだけに花魁目的で廓屋に通う男達は身だしなみに気を使いセンス良く知的におしゃれして花魁に気に入られようと必死だったのです。事実一生処女のまま生涯を閉じた花魁もいたのです。

それなりに格のある身分の遊女はおいそれと抱く事はできなかった、というわけですが…今の時代もそうですね。銀座の高級クラブはもちろん六本木の超有名キャバクラ嬢だって、気に入らなきゃ「おめえとなんか寝ないよ、バーカ」です。故杉浦日向子さんは「江戸時代の江戸市中は女性主導の社会だった」と指摘している通り、実は花のお江戸は女性によって成り立っていたようです。それが男尊女卑に一変したのは明治維新以後…長州と薩摩の習慣が入ってきたせいかなぁ、と個人的には考えています。
もちろん廓屋という特異な世界では劇になるような悲惨な面もありますが、実は現代とさほど変わらない面もたくさんあるんですね。

吉原細見というHP(http://yosiwarasaiken.net/)に「遊女と避妊(http://yosiwarasaiken.net/moyou/hinin.html)」というサイトページがあります。それによりますと…

遊女(吉原の花魁などの幕府公認遊興場の売春婦=女郎;深川・辰巳などの岡場所の売春婦は売女と言った)の世界では妊娠は恥とされていた。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。
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Q大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について

大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について。
お聞きします。
娼妓・芸妓に旦那がつき、ひいきする間柄になり、関係を結ばされ、子供を産まされたとします。
そして娼妓・芸妓は借金返済のため休みももらえず過酷な労働をし、病気にかかり30代で死んでしまったとします。
父親は認知するわけもなく、逃げて行方をくらまします。関係者に正体は一切あかしてはならないと、娼妓・芸妓には当時は厳しい掟もあります。
その孤児となった子供は、身売りをされた貧しい母の実家からも食べさせられず(もともと食べれないから売ったので、その子の面倒をみる余裕があるはずがない。)、旦那となっていた父からも縁を切られています(行方をくらますため)。
児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。賃座敷業者が食べさせたのでしょうか。
女中をあてがったのでしょうか(その場合誰がお金をだしたのでしょうか)。
それとも稼げないからお金が無いため、面倒を見る者が無いため、野たれ死んでいく児童が大半だったのでしょうか。飢餓状態で死んでしまい、遺棄されていたのでしょうか。(私の祖母が実際見てきた近所にあった遊郭で生まれた子供の場合は、乞食となって、ドブに落ちたものを食べ、赤痢等になり、ばたばた死んでそこらへんに沢山倒れていたとのことです。)

大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について。
お聞きします。
娼妓・芸妓に旦那がつき、ひいきする間柄になり、関係を結ばされ、子供を産まされたとします。
そして娼妓・芸妓は借金返済のため休みももらえず過酷な労働をし、病気にかかり30代で死んでしまったとします。
父親は認知するわけもなく、逃げて行方をくらまします。関係者に正体は一切あかしてはならないと、娼妓・芸妓には当時は厳しい掟もあります。
その孤児となった子供は、身売りをされた貧しい母の実家からも食...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。

基本的に(建前上)は、娼妓や芸妓のいた「置屋」で育てられました。
しかし、食事などはロクに与えられず、常に腹をすかした状態でした。

娼妓や芸妓にしても、置屋の食事は粗末で、常に腹をすかせた状態で、付いたお客にねだって酒食をおごらせるかを競わせ、揚げ代の他に、酒食のバックマージンがもらえるかを競わせていました。

従って、私生児などは、置屋でも「余分な者」「厄介者」以外の何者でもなく、姉女郎(母親の元同僚)などからの「おすそ分け」をもらったりして、かろうじて生きていくことができました。

>>(私の祖母が実際見てきた近所にあった遊郭で生まれた子供の場合は、乞食となって、ドブに落ちたものを食べ、赤痢等になり、ばたばた死んでそこらへんに沢山倒れていたとのことです。)

その通りです。昨今の「ホームレス」と同じ状況です。
ただ、第二次世界大戦以後は、衛生状態も管理されるようになりましたので、疫病の爆発的な流行はありませんが、昔は、コレラ、赤痢などは、日常茶飯事でした。こうした病を「流行病」(はやりやまい)と呼んでいました。

それでも、子どもが7~8歳位になると、
男子は、置屋の「若衆」の見習いとしてコキ使われました。
女子は、禿(かむろ)となり、姉女郎(姉娼妓や姉芸妓)に仕え、娼妓や芸妓の見習いとなり、ゆくゆくは娼妓、芸妓にさせられました。
そして、ロクに育てられてもいないのに、「お前を育ててやったのだ」と、置屋からは言われ、多額の借金を背負わされました。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。

基本的に(建前上)は、娼妓や芸妓のいた「置屋」で育てられました。
しかし、食事などはロクに与えられず、常に腹をすかした状態でした。

娼妓や芸妓にしても、置屋の食事は粗末で、常に腹をすかせた状態で、付いたお客にねだって酒食をおごらせるかを競わせ、揚げ代の他に、酒食のバックマージンがもらえるかを競わせていました。

従って、私生児などは、置屋でも「余分な者」「厄介者」以外の何者...続きを読む


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