友人の友人のそのまた知人くらいの人の言を又聞きなのですが、
初期の吉原遊郭は生計を立てる術のない女性を集めて、一通りの教育を受けさせて世に送り出す(嫁に行かせる)ための施設だった。
禿などがいい例で、先輩遊女たちから教育を受けていた。
買春行為は行われていたが、現代ほど貞操観念にはうるさくなく、問題にならなかった。
遊女たちが稼いだ金銭は、巡り巡って最終的には遊女たちを養うために使われた。身請けの際に動く大金も同様。(いったん楼主の懐に入っても、その金を使って楼主が遊女に衣食住と教育を保障したから)
嫁に行く当てを見つけられなかった女性は、遊郭内でお針子や後裔の面倒を見る遣手婆などになって再就職した。
死亡率は約2割ほどで(8割は無事に年季を開けて自由の身になった)、これは当時の衛生管理や食糧事情、医療技術を考えると驚異的な低さで、いかに彼女たちが保護されていたのかがうかがえる。
後期になるとこういった面は廃れ、単なる買春屈になった。死亡率も約8割と激増した。
というような説を聞きました。
非常に興味深くって調べてみたのですが、なかなか初期の吉原遊郭について学べる資料が見つかりません。
吉原遊郭の創設者庄司甚右衛門の人柄や、初期吉原遊郭について知ることのできる資料をご存知の方、教えていただけないでしょうか。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
お読みいただきありがとうございます。
>>最近の研究で初期の吉原遊郭がそこまで人権無視の地獄ではなかった(のではないか)という説が一般的になりつつある……というのを又聞きしたのです。
URLのサイトにも書きましたが、吉原の当初は、大名や江戸藩邸に詰める武士、大店の主人などだけでしたので、衛生状態は、ある意味では、非常に良かった。性病などもほとんど蔓延すること無く、病で死ぬとすれば「結核」くらいでした。
従って、生存率は高かったのです。
しかし、浅草堤(新吉原)へ移転させられてからは、辺鄙なところでの営業でしたので、客足も減りました。
そこで、幕府に願い出て庶民にも開放されました。およそ、元禄年間頃から・・・。
それ以来、性病などが蔓延するようになり、死亡率が急激に増加し始めたのです。
>>『死んだ遊女は投込み寺に「~売女」という戒名で、文字通り投込まれたという説もある。しかし、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「売女」の戒名は吉原の掟を破った者に限られていることが最近の研究で明らかになっている。[要出典]』
裏付ける史料は乏しいですが、現実として回向院などには「遊女の墓」(総墓)は残っていますよ。
サイトに書きましたが、銭200文を付けて投げ込み寺へ投げ込むと、寺では「総墓」と呼ばれる穴に埋めて、戒名なども付けず簡単な供養で済ませました。
また、吉原の女たちは幕府公認ということもあって、「遊女」と呼ばせて私娼(売女・ばいた)と区別されていましたから、「~売女」などの戒名を付けたとは考えられません。
>>創設者・庄司甚右衛門も人格者で、治水工事などに尽力した。当時の金持ちはみなそういった事業に手を貸したが、その中でも特に熱心だった……という説も聞きました。本当のところはどうなんでしょう?
庄司甚右衛門については、経歴などがまだ何も解ってはいません。
なぜ庄司甚右衛門という名が解ったかと言うと、徳川美術館に収蔵されている古文書の中から「裁可状」(写)が発見され、「庄司甚右衛門」という名前だけが解ったのです。
展示もされていませんし、一般人も見ることはできません。かく言う私も見てはいません。
まあ、高名な学者や大学教授あたりなら・・・かもしれません。
まあ、昔も今も「風俗営業の実態」などという本などは、幕府は吉原と四宿の飯盛り女しか許可していませんので、発禁処分されていて、ある意味では「本当の実態」は大奥と同じように、まだまだ研究段階と言っても過言ではありません。
ありがとうございます。どうやら私の興味を惹かれた説はほとんど根拠のないものだったようですね……残念です。
教えていただくばかりで申し訳ないのですが、徳川美術館所蔵の写しには、庄司甚右衛門について名前以外にはどれくらいのことが書かれているのでしょうか?
またしてもWikipediaからなんですが、『庄司甚右衛門は元は駿府の娼家の主人』という記述があります。
これも根拠なしなんでしょうか……。
自分で見に行きたいくらいですが、専門家でも見られるかどうか分からないとのこと。私ではまず無理そうです……。教えていただけると助かります。
No.3
- 回答日時:
こんにちは。
>>、『庄司甚右衛門は元は駿府の娼家の主人』という記述があります。
正直に申し上げて、私は「デッチアゲ」のような気がします。
なぜかと言うと、
(1)家康が駿府にいたことに引っかけたのではないか・・・?
(2)駿府にいた庄司甚右衛門が、なぜわざわざ鈴ケ森八幡(現:品川区)まで遊女を連れて行き茶店を開くことができたのか。距離的な問題が不明。江戸近辺に住んでいたのではないだろうか?
(3)家康軍は東海道を通って関ヶ原の戦いに行っていますが、当然、駿府近くを通るはず。庄司甚右衛門が駿府にいたのであれば、駿府の近くの東海道の道沿いに茶屋を造ってもてなしても良かったのではないか?
鈴ケ森八幡に茶店を造り家康をもてなした・・・
この記載は、「徳川実記」(だったかな??)に家康が大層喜んだという記載があるらしく、これは、定説となっているようです。
>>徳川美術館所蔵の写しには、庄司甚右衛門について名前以外にはどれくらいのことが書かれているのでしょうか?
正確には私もわかりませんが、各種の歴史史料を読んだりすると、
「娼婦を以て商いを許す者なり」
のような記載がされていたようです。
従って、娼婦を抱えていてそこの主人だったことは間違いがなさそうです。
これは、娼家を許されて、慌てて娼婦をかき集めることができるはずもなく、元々、娼婦を何人か抱えていたからすぐに営業ができたのでしょう。
これは前回の回答のコーナーに、あなたが書かれたものですが、
>>創設者・庄司甚右衛門も人格者で、治水工事などに尽力した。当時の金持ちはみなそういった事業に手を貸したが、その中でも特に熱心だった
まあ、庄司甚右衛門が江戸府内で営業を許されたのは一面葦(よし)の茂った原野。
そこを開発し、街を作り上げたのですから、金持ちであったことは確かでしょう。
ただ、村の庄屋が身銭を切って治水、灌漑事業を為した話が各地に残っていますが、庄司も金持ちだった、そして、葦野原を街に整備したので、そのような慈善事業をした・・・と、美化したように思われます。
No.1
- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
どこからその話を聞かれたのでしょうか??
初期の吉原もその後の吉原も、そんなナマッチョロイ世界ではありませんでした。
遊女も禿も全て借金のカタに娘を無理やり遊女屋に売られたり、好いた男に騙されて遊女屋に売られたり、貧しい農家の娘が女衒(ぜげん=人買い)に身売りをされ遊女屋に売られたりして成り立ったものです。
ただし、幕府は人身売買を禁止していましたので、
借金のカタに売られた場合は、その家族が、
好いた男に騙された場合は、その男が、
女衒に買い取られた娘は女衒が、
「親」となり、あくまでも「奉公」という名目ではたらかせました。
また、吉原は幕府公認の買春宿でしたので、必ず「遊女」と呼ばせました。
私娼では、ご存じかとは思いますが、「夜鷹」や「蹴転」(けころ)等々がいました。
そして、遊女は蒲団から座布団1枚、タバコ盆などなど、1日幾らというような、全て楼主からの貸し出しでした。
いわゆる、ボッタクリ商法だったのです。
禿は12~13歳位までを言いますが、これも身売りされたり、遊女の子どもだったりでした。
14~16歳位になると「新造」とよばれました。
そして、日常は高級遊女(太夫とか格子)の雑用掛りをしながら、暇を見ては遊女から三味線や唄、芸などを仕込まれました。
まあ、以下のサイトをお読みになり、疑問点がありましたら、何なりとお答えいたします。
http://bungetsu.obunko.com/
左の「大江戸編」をクリック。「遊女編」をクリックして進んでください。
この回答への補足
サイトも拝見させていただきました。大変興味深いです。特に絵で見る遊女屋の様子がいいですね。
こういう解説付きで分かりやすいサイトはあまりないので、大変勉強になりました。ありがとうございます。
素早い回答ありがとうございます! 大変助かります!
どこから聞いたかと言いますと、友人の友人のそのまた知人が大学かどこか、そういった専門機関で勉強していて、最近の研究で初期の吉原遊郭がそこまで人権無視の地獄ではなかった(のではないか)という説が一般的になりつつある……というのを又聞きしたのです。
確かなことは一切分からず、自分自身でも今調べているところです。
本人に直接聞ければそれが一番いいのでしょうが、何せ関係が遠いものでそうもいかず……。
Wikipediaの吉原遊郭を見ますと、『新吉原成立から天保年間までは年季を明ける率は常に8割を超えた。遊女としての仕事が難しくなった者は「やり手」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。そのシステムが、吉原を単なる売春窟に堕さず、世界で例を見ない、独特の文化を生んだ。[要出典]』『死んだ遊女は投込み寺に「~売女」という戒名で、文字通り投込まれたという説もある。しかし、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「売女」の戒名は吉原の掟を破った者に限られていることが最近の研究で明らかになっている。[要出典]』という記述があり(文章が長いので一部省略してあります)、この「要出典」の部分を詳しく知りたいと思っているのですが、なかなか「これは!」と思う資料が見つけられずにいるところです。
創設者・庄司甚右衛門も人格者で、治水工事などに尽力した。当時の金持ちはみなそういった事業に手を貸したが、その中でも特に熱心だった……という説も聞きました。本当のところはどうなんでしょう?
400年も前のこと、なかなか「たぶんこれは本当のことだろう」というのが見つけられずに困っています。
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