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江戸時代後期、200石の馬上の旗本は、外出の際に、四つ供+くつわ取りで計5人の家来をつれていましたが、350石の馬上の旗本では、外出の際に、何人の家来をつれていたのでしょうか?

A 回答 (1件)

軍役と同じ正式外出では50石につき1人の供が必要です。


200石では供4人と(馬の)口取り1人、
350石では供7人と口取り1人。
どちらも供の1人は槍持ちです。
槍一筋、馬一匹の武士です。

石高が多いと供の役割が多くなり複雑になります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/06 14:59

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Q旗本

一千石・三千石・五千石の旗本の場合、家臣の人数・構成、屋敷の数・坪数はそれぞれどの程度の陣容だったのでしょうか?

Aベストアンサー

 ●家臣の数・構成(慶安2年(1649)の軍役規定)
1000石 21人(侍5、槍持等16)
3000石 56人(騎士2、侍8、槍持等46)
5000石 103人(騎士5、侍9、槍持等89)

 ●旗本の人数(元和9年(1623年))
1000石 24人
3000石 45人
5000石 75人

 ●拝領屋敷地(元和6年(1620年))
1000石~1900石 700坪
3000石~4000石 1500坪
5000石~7000石 1800坪

Q大身旗本の出世

五千石とか三千石クラスの大身旗本が、役高千石の遠国奉行など家格より遥かに役高の低い役職に就く事はよくあったのでしょうか?
例えば御小姓として初出仕した後はどの様な役職を経て番頭などの家格に相応しい役職に就いたのでしょうか?

Aベストアンサー

三千石以上であれば寄合関ですが、このクラスだとなかなか石高に応じた職がありませんからほとんどが持高つとめとでした。
三千石クラスで遠国奉行などの職に就いている例はめずらしくありませんし、はなはだしいのは家禄五千石の旗本が5百石高の小納戸についている例さえもあります。
このクラスは初出仕は御側の役が多く、中奥小姓という例は多くあり、また御側衆という例もあります。
このあとは小姓頭取や小普請支配、寄合肝煎を経て大番頭や両番の番頭、あるいは先手頭などという番方の役が多かったようです。
役方のコースに乗れば遠国奉行から勘定奉行、町奉行などになることもありました。

Q旗本の暮らし

一千石の旗本は、だいたい何坪程度の拝領屋敷に暮らしていたのでしょうか?

武家奉公人(侍・中間・女中)は軍役ではなく実際にはそれぞれ何人くらいいたでしょうか?

五千石くらいの大旗本の家老だと、百石前後はあった様ですが、千石の家の用人はどれくらいの家禄を貰っていたのでしょうか?

千石の屋敷の門は長屋門だったのでしょうか?

質問が多くてすみませんが、お考えを伺えると幸いです。

Aベストアンサー

千石以上の旗本は、全部で800家ほどしかありませんでした。
千石の旗本であれば長屋門でした。
屋敷の規模は人や場所によっても違いますので一概には言えませんが、二百坪くらいはありました。
家臣の数もその家の考え方や裕福さにもより、また役についているか無役か、どういう役職かなどによっても異なりますが、役についていれば千石クラスだと登城時にも4~5人の供は必要でしたから、男が用人、若党、中間、小者をあわせて6~7人くらい、女が2~4人くらいではないでしょうか。
このクラスだと用人でもせいぜい10石くらい、他は何両何人扶持といった程度で、譜代の家臣はいても用人くらい、あとは口入屋からの年季奉公人といったところでしょうか。

Q徒目付

徒目付・小人目付はどのような業務を担当していたのでしょうか?

Aベストアンサー

徒目付、小人目付はいずれも目付の配下です。
徒目付は50人ほどおり、目付の命令によって文書の起案、先例の調査などをしたり、探偵、江戸城内の宿直、大名登城時の玄関の取締り、評定所、紅葉山、牢獄などへの出役などを担当し、4名の組頭が統括しました。
小人目付は100人ほどおり、徒目付に従属し、目付以下を観察・糾弾する約で、町奉行所、牢屋敷見回り、勘定所、養生所、講武所、異変の立会い、諸大名の城郭営繕の調査、諸大名・旗本などの素行調査、将軍お成り先の警備などを担当しました。

Q8石2人扶持の身分は足軽ですか?

江戸期に徳川親藩17万石の大名の家来で8石2人扶持の身分は足軽でしょうか?
飛地にある陣屋で勘定奉行を務めたらしいのですが仮に足軽でも勘定奉行に成れるのですか?
飛地の規模は約6万石、藩士は200人程で250石の支配役が2名で残りは全て10石前後です。

Aベストアンサー

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

例えば,黒田52万石で最下級の「士」の扶持では,6石2人扶持などという例がある一方で,「卒」身分でも陸士などは13石3人扶持をもらっています。また,逆に1万2千石の益田家では,「上士」でも12石程度の家があります。つまり,この辺りになってくると,扶持と身分の相関関係が曖昧になっているのです。現に旗本よりも家禄の多い,御家人だっていましたから。

江戸時代でも,算用方は,かなり能力人事の部分があったそうですから,仮に「卒」の身分でも取り立てられる事はあったはずです。ただ,勘定奉行というのは,「卒」のままでは難しいでしょう。その場合,「卒」から加増されて「士」として,勘定方の役職を歴任し,最終的に奉行になるというルートです。もともとが「士」の身分なら,そのまま出世をしていったという話です。

奉行をやっている間は,役料という形で扶持が増えているはずです。ただし,これは家禄ではありませんから,役を辞めればもらえません。ここで,認められれば加増という形で,家禄自体が増えるわけです。

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

例えば,黒田52万石で最下級の「士」の扶持では,6石2人扶持などという例がある一方で,「卒」身分でも陸士などは13石3人扶持をもらっています。また,逆に1万2千石の益田家では,「上士」でも12石程度の家があります。つまり,この辺りになってくると,扶持と身分の相関関係が曖昧になっているのです。現に旗本よりも家禄の多い,御家人だっていましたから。

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Q年収850万円のサラリーマンは江戸時代なら何者?

40代主婦。

地方の貧しい家に生まれ、親の愛にも恵まれず不遇な幼少、青年期を送りました。

トレンディー(死語)ドラマを見ても、主人公の周りの華やかな世界に共感できず、違和感を持ちました。

時代劇を見ても、将軍様とその周りの人ではなく、私なら画面には映らない水のみ百姓もしくはそれ以下の身分。
飢饉になって飢え死に。
流行病に感染。

どうしても自分を卑下してしまいます。
(一方で、飢饉や流行病、戦争をかいくぐり現代まで命をつないでくれたご先祖様に感謝し、今ここにいられる自分は強運なのだと思うこともあります)

そんな私も、今では首都圏に住み、主人の年収は850万円、二人の子どもにも恵まれました。

世間の平均年収は上回っておりますが、首都圏では家族4人がつつましく暮らすのにせいいっぱい。しかし、幸せな家庭だと思います。

卑下するばかりの自分をもっと肯定したい。

現代の年収850万円サラリーマン家庭(専業主婦)は江戸時代ではどのような身分だったのか、ちょっと知りたくなりました。

Aベストアンサー

まずは下記をご覧下さい
年収階層分布図2013-年収ラボ
nensyu-labo.com/heikin_kaisou.htm
国税庁の民間給与実態統計調査結果(階層ごとの年収データ)をまとめたサイトです
これによりますと
800万円以上が約12%
800万円台が3.8%
ということになります。
現在の境遇を中流などと言ったら日本中のサラリーマンから叱られます。
立派に上流です。

さてお江戸の時代での想定ということですが、
サラリーマンというのは民間企業に勤めている、ということになります。
お江戸のお侍というのは現在で言えば公務員です。
江戸町奉行所というのは、機能から言えば現在の東京都庁です。
TVの時代劇に出てくる捕り物を担当しているのは、ほんの僅かな人達で町奉行所の端っこの仕事です。
与力とか同心というのは単なる役職名で今で言えば部長とか課長という呼称に相当します。
警察業務に当たっている人達だけではありませんでした。
つまり与力、同心という肩書きで呼ばれる人は勘定奉行など他の役所にもいました。
質問者のご主人は公務員でありませんから、お侍さんと比べても余り意味がありません。
所謂お店の皆さんと比べることになります。
上位の一割前後相当の収入ということは立派に番頭さんということになります。
しかも相当な大店の番頭さんということになります。
大店になればなるほど、主人よりも番頭さんがすべてを差配していました。
そのおかみさんと言うことになりますと、まずは誰も頭が上がりません。

念の為に申し上げておきますと、お江戸のお侍というのは貧乏を絵にかいたような生活をしていました。
何分にも給料はお江戸の時代が始まって以来、親御子代々変わりません。
その上もらうのはお米です。
このお米をその時その時の相場で、蔵前の札差に買い取ってもらって現金を手に入れていました。
下っ端侍は千代田のお城でもらうのではなく、蔵前へ直接出かけて、いきなりハイあなたは〇両ですネと現金を貰いました。

何せ、お侍というのは親子代々もらう米=金額が決まっていて、物価はどんどん上がります。
時代小説のような出世物語など宝くじに当たるようなものです。
生活はどんどん豊かというか贅沢になっていきます。
侍は何よりも体面が大切です。
冠婚葬祭、年末年始、お盆お節句等々のお付き合いの贈答は欠かせません。
娘がいれば嫁入りのためには御稽古事が欠かせません。
結局、前借りという形の借金に頼ることになります。
返せるあてもない先祖代々からの借金の山です。
それを承知でなにがしかの現金を札差から出してもらいます。
この札差の番頭さんのおかみさんとなったら、そんじょそこらのお侍は頭があがりません。
下っ端侍はセッセと内職に精を出していました。
傘貼りは浪人の仕事ではなく、御家人の仕事でした。
四季折々の草花の苗も御家人が栽培して町人が売りさばいていました。
お侍の借金は個人だけではありません、大名すなわち藩ごと借金漬けでした。
薩摩藩などは500万両という借金に埋もれていました。
大阪の米問屋もお金を貸さなくなってしまいました。

買い物は当時は全て年末清算のつけでした。
お侍もつけで買います。
借金を山のように抱えた上でつけを認めてもらいます。
どこまで認めるかは番頭さんの胸一つです。
その番頭さんのおかみさんですから、如何に二本差しているからと言ってうっかりした対応はできません。
丁寧な対応をします。

まぁ~TVの時代劇もお城で大きな顔していた役人が街でへいこら頭を下げている光景は演出しないでしょう。

要は江戸時代というのは、武士には権力があっても財力が全くなく、一方町人には財力はあっても権力がなかった時代です。
江戸時代に一番生活を楽しんでいたのは、裕福な町人の女性陣です。
江戸名所絵図などでも繁華街は女性陣でごったがえしています。

余談
三行半という離縁状を出す際には、嫁入りで持ってきた持参金から道具類全て耳を揃えて返す必要がありました。
うっかり書いて返す持参金がなければ、訴えられました。
町役人も金の用意なしでは認めませんでした
こんな川柳も残っています
去る時は 九十両では すまぬ也
去状(さりじょう)を書くうち質を受けにやり(質入れしていた嫁入り道具をあわてて請け出す)
先ぐりに 去状のくる まつがおか(まつがおか=鎌倉東慶寺=駆け込み寺)
残されている三行半の大半は女性側から無理やり書かせたものばかりです。
身分だの制度だの政治参加だのという観点から女性の地位は低かったとされますが、実態は相当に違っていました。

まずは下記をご覧下さい
年収階層分布図2013-年収ラボ
nensyu-labo.com/heikin_kaisou.htm
国税庁の民間給与実態統計調査結果(階層ごとの年収データ)をまとめたサイトです
これによりますと
800万円以上が約12%
800万円台が3.8%
ということになります。
現在の境遇を中流などと言ったら日本中のサラリーマンから叱られます。
立派に上流です。

さてお江戸の時代での想定ということですが、
サラリーマンというのは民間企業に勤めている、ということになります。
お江戸のお侍というのは現在で言...続きを読む

Q一万石 大名には家来は何人ぐらいいたのでしょうか

一万石 大名には家来は何人ぐらいいたのでしょうか
また 家来は毎日どのような生活をしていたのでしょうか

Aベストアンサー

諸大名の所領・石高で準備しておく、一定の兵員と武器は「軍役」という制度で最低の線が決められています。
備える義務のある兵員は石高50石につき一人で、1万石では最低200名が必要とされ、軍役・武器は馬上(侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されています。
慶安2年(1649)の軍役規定を見ますと、1万石の大名は馬上(侍)10騎・徒歩侍16名・弓・鉄砲・鑓持ちなどの足軽や中間等が209名の計235名とされています。
この人員が軍役として必要とされる人数ですので、基本的にはこの人数が大名家の抱える家臣ですが、「中間」は武士階級でないので、この人数を引いた数が武士としての家臣です。
中間などを約100名として、1万石の大名家の抱える武士は120名~150名ではないでしょうか。
また1万石の大名の参勤交代の行列は馬上3騎・足軽20名・中間人足30名となっています。
江戸における幕府からの拝領屋敷地は2500坪。
なお幕末時点で城持ちの城主大名家が158家あり、無城大名家(陣屋敷のみ)が100家あります。この無城大名家の総石数が151万石なので1家平均1・5万石となります。
この様に1万5千石以下の大名は陣屋敷のみの大名が多く、1万石大名で城持ち大名家は松前城の松前家、美濃苗木城の遠山家の2家のみです。
(以上、コピペ)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010085595



家来は毎日どのような生活をしていたのでしょうか
  ↑
藩にもよりますが、無役、つまり何もしないで
遊んでいる武士が多かったとされています。
つまり、仕事が無いのです。

仕事がある人も、ほとんどが三日に一日
出勤とかする程度が多く、釣り三昧、という
家来も多くいました。

仕事は、藩という地方自治体の官僚と同じ
ような仕事です。
一部の幹部は忙しかったようです。

仕事に就かないと出世も出来ませんので
仕事を得る為の猟官活動が盛んでした。

諸大名の所領・石高で準備しておく、一定の兵員と武器は「軍役」という制度で最低の線が決められています。
備える義務のある兵員は石高50石につき一人で、1万石では最低200名が必要とされ、軍役・武器は馬上(侍)10騎・鑓30本・旗30本・弓10張・銃20丁が規定として課されています。
慶安2年(1649)の軍役規定を見ますと、1万石の大名は馬上(侍)10騎・徒歩侍16名・弓・鉄砲・鑓持ちなどの足軽や中間等が209名の計235名とされています。
この人員が軍役として必要とされる人...続きを読む